若美町の偉人



佐藤弥惣右ェ門

(?〜1694)

暴風雨にあった御用船が、芦崎村の天山(今の釜谷地あたりか)の浜に漂着しました。付近の人々は積み荷(畳表、綿など)を争って奪いました。やがてそのことは役人の耳に入り、天山の松林に隠していた積み荷は見つかってしまいました。芦崎村の肝煎(庄屋)は罪を恐れ、そのことを隠すために、荷のあるところは隣の野石村の領地で、罪人は野石の住人であると申し出ました。そのため野石の肝煎・弥惣右ェ門が呼び出されて厳しい追及を受けることになったのです。このあたりの土地はかねてから芦崎、野石両方の境界地として争いの絶えなかったところでした。弥惣右ェ門はその罪を負うことで争いの根を絶ち、またこの土地が永く野石領になるならば本望と、進んで捕らえられたのでした。元禄七年二月二十六日、弥惣右ェ門ら村の責任者六人(または十一人)は天山で処刑されました。「芦崎側の申し出はいつわりである。野石側の罪を許す」との早馬が駆けつけましたがときすでに遅く、弥惣右ェ門以下、村の責任者は天山の露と消えたのでした。以来、天山を中心にした土地は野石領となり、その広さは約百三十ヘクタールにも及んだと言われています。



渡部斧松

(1793〜1856)

渡部斧松は山本郡桧山に生まれましたが、文政三年、二十七歳のとき、伯父・惣治とともに払戸村鳥井長根の開墾に着手しました。水源を男鹿市五里合の滝の頭に求めて、水路の掘削にあたりましたが多くの困難がつきまといました。資金面では家財の全てをお金にかえ、伯父・惣治の出費もあわせて八十両あまりを調達しました。藩の家老・向右近に工事を妨害されて苦境にたったこともありました。家老・蓮沼仲の協力を得て工事をなんとか進めることができましたが、トンネル工事では、土砂に埋められ九死に一生を得たこともありました。六百両もかけて水路が完成したのは六年後でした。すぐに付近の村々から入植者を集め、新しい村づくりに取りかかりましたが、耕作のこと、休日のこと、田や畑の売り買い、貸し借りの禁止、祭礼など五カ条を基本にした「村法」をつくりました。この村法に基づいて新しい村づくりを進めたことはあまりにも有名です。



中田五平

(1837〜1921)

明治二十二年、町村制施行と同時に、払戸村長に就任してから三十一年間にわたって新しい村づくりに尽くしました。村づくりはまず教育によらなければいけないと、私財を寄付して学校を建てたり、学校図書館を村民に開放したりしました。また、農業の改良にも力を注ぎ、毎年、立毛品評会を開催し、青年農友会を組織して馬耕法を伝授したり、薬草の栽培を奨励したりしました。道路、堤防の改修や八郎潟の漁業振興などにも多くの助成をしました。村に基本財産が少なかったため、台地には植林を奨励。伝染病予防のため、済生会、赤十字社、病院の建設への助成のほか、男鹿感恩講、能代感恩講などにも多額の私財を寄付しました。払戸小学校の沿革誌には貧困家庭の児童十二人に私費で給食を始めたという記録が残っています。翁の功績をたたえて建立した公徳碑の序幕式が終わり、五平が永眠したのはそれから二ヶ月後のことでした。



ふるさとまんが人物伝 ふるさとまんが人物伝
郷土につくした先人の生涯
原作 大渕宣一
作画 小松 進
この三偉人の生涯をまんが化したもので、
平成九年の春に若美町教育委員会から出版されました。


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