【人生讃歌】“風の画家”と呼ばれて 中島潔氏(21)阪神大震災の痛みをいやす
[1999年03月02日 東京夕刊]

 平成七年一月十七日午前五時四十六分、兵庫が揺れた。震度7の激震。寝起きのぼんやりした頭でテレビをつけた私は、横倒しになった高速道路に目をうたぐった。

 神戸では二年に一度、個展を開いている。私にとってなじみ深い愛すべき街なのだ。その日は一日中、佐賀のアトリエで仕事もそっちのけでテレビにかじりついた。いつも絵を見に来てくれる人々を思い心が震える。

 阪神大震災の六年前、私は米シアトル(ワシントン州)にいた。神戸とシアトルは姉妹都市。ワシントン州百年祭に兵庫県が出展し、その中に私の絵のコーナーを設けてくれたのだ。貝原兵庫県知事とともに式典に出席し、一週間ほど滞在した。その時、兵庫県がワシントン州に寄贈した私の百号の作品「かのひと、はるか」は州知事会館の迎賓室に展示されている。

 このように神戸には大変お世話になってきた。今こそ何かお手伝いがしたいと、個展のたびに何十枚も色紙を売り、義援金として寄付したが、心の痛みはとれない。どうしても神戸で個展を開き、人々の気持ちをなごませたい。それは震災の翌年、やっと実現した。

 会場には、これまでにないほど多くの人が来てくださったが、皆どこかショックからさめやらぬ表情。土の中から掘り出してもらい助かったという人もいれば、大切な家族を亡くした人もいた。私の顔を見るなりボロボロと涙をこぼす人もいた。いつも来てくれる人の姿がないと、たまらなく不安だった。

 私は神戸のために心を込めて「春ふたたび」を描いた。桜の散る六甲のバス停で、数人の子供たちが何かを待っている。彼らが待っているのは“希望”。その作品は三宮そごうの入り口に掛かっている。

【写真説明】

平成元年、ワシントン州100年祭に絵を出品した

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