特に印象的だったのがカメさん。五十歳を過ぎた小柄な独身男で、小指を立てて藤娘を踊りながら活字を組む。このカメさん、着替えるしぐさが女性よりなまめかしい。青白くて細面、百五十センチの背をやや丸め、なで肩を下げ、そろりそろりとしなやかな手付きで仕事着を脱ぐのだ。
二階の三畳間が私の仕事場で寝ぐらだった。私に与えられた仕事は画工といって、主に商店のチラシの絵や字を書く。私の部屋は驚くほど朝早くから従業員の更衣室に変わり、昼は手持ちの弁当を開く食堂へ、夜はまた更衣室へと変わった。灯がともる頃、やっと私一人の部屋となり、絵の勉強にかかる。といっても、漫画や草木のスケッチを描(か)いていただけだが。
だが、安心はできない。そこへ私の名を呼ぶ声がする。そう、あのカメさんが果物やキャラメルを持って部屋を訪ねてくるのだ。私を気遣ってくれたのかもしれないが、当時はその訪問が不気味で、私は内側から力いっぱい戸を押さえ、息を殺す。カメさんはあきらめ笑顔を残して去ってゆく。こんな日々が続いた。
カメさんが怖かったわけじゃない。仕事がつらかったわけでもない。もっと絵が描きたいという思いが膨らみ抑えきれず、二十一歳のある日、私は上京を決心した。(日本画家)
【写真説明】
印刷所の画工時代はよく好きな漫画を描いた