【人生讃歌】“風の画家”と呼ばれて 中島潔氏(5) 伊集院静氏とデザイナー
[1999年01月14日 東京夕刊]

 若い頃はとにかくお金がなかった。住まいは豊島園の四畳半一間の安アパート。二階にはエレベーターボーイをしながら東京理科大に通う広島出身の苦学生が住んでいて、彼は夕方になると飯を炊く。その頃を狙って部屋を訪ね、夕飯をごちそうになった。

 一年ほど勤めた広告代理店が希望退職者を募ったので、私は退職金を目当てに会社を辞め、二十三歳でフリーになった。私がCMの絵コンテを描くと企画が通ると評判になり、広告業界で活躍していた大林宣彦氏(映画監督)からよく依頼を受けたものだ。

 二十五歳の時、当時(昭和四十三年)は注目されていた広告代理店「シマ・クリエイティブ・ハウス」から声がかかり、チーフ・ディレクターとして働くことになった。社員四十人ほどの会社で、たいへんな才能の集まりだった。社長をはじめデザイナー、作曲家、作詞家、コピーライターとそれぞれ個性豊かだったが、今は作家になった伊集院静君が入社してきた時のことはよく覚えている。

 会社の下の喫茶店でお茶を飲んでいると、大学を卒業したての伊集院君が入社あいさつにやって来たのだが、ピカピカの坊主頭がとても印象的だった。彼はコピーライターとしてめきめき頭角を現した。当時、伊集院君とコンビを組んでいたデザイナーがいた。優秀な男だったが、突然、筋肉が動かなくなる難病にかかり会社を辞めていった。

 七年前、彼がとうとう車いすの生活になったと聞いた。その直後のことだ。私はアトリエで個展のための絵を描いていた。「このヘタクソッ」と描きかけの絵を破り捨て、ふてくされてテレビをつけると「伊集院静氏、直木賞受賞」のニュース。なんだか人生の光と影を見た気がした。(日本画家)

 

【写真説明】

「シマ・クリエイティブ・ハウス」は才能の集まりだった

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