生徒の中に少し心の問題を抱えている人がいます。彼女とはメールを活用して 様々な会話をしますが、画面に向かうと自然に自分の意見が打てるようです。 学校教育のなかでもっと活用されるようになると、教師と生徒の距離が少し縮まる かもしれません。でも忙しい日本人、面倒な説明書を嫌がる人も多く、特に中高年 にとっては受け入れが難しそうです。
本格的にインターネットをやるなら、英語を勉強したほうがいいんでしょう ね。
異文化の人と、それから自分と考えの違う人とどうやったら、快適に共に生 きていけるのか、すごく興味があります。日本の子供のいじめ、違う人を嫌う ところに原因のひとつがあります。
しかし、一ヶ所だけ気になるところがあったので、こうしてメールを出させていた だきました。それは「情報化社会においてこれは役に立たない。英語は完ぺきでなくても通じるものだ。」という箇所です。
これは情報化社会というものは、英語が基調であるという暗黙の了解の上に成り 立っている発言だと思われます。
たしかにコンピュータはエニアックをはじめアメリカで発達したものであり、ネッ トワークというものも米ソ冷戦時代のアメリカの戦略構想上に生れたものです。コン ピュータ言語も基本的には英語ですし、ネットワークに接続している多くのユーザが アメリカ人であり、そこで使用される言語は英語が大多数であるといっていいでしょ う。
しかし、それはあくまでもコンピュータがアメリカで発達したという歴史的事実に 過ぎません。それをもって「情報化社会においてこれは役に立たない」と断定する必要はないと 思われます。特にあなたのように日本語(かつて宣教師には悪魔の言語と呼ばれたほ ど習得がむずかしいといわれる)を習い、日本で研究をつづけていらっしゃるかた が、そのような発言をなさることを、わたしはむしろ悲しいと思います。
情報化社会ということをぬきにしても、英語はおそらくもっとも汎用性の高い言語 のひとつだと思われます。アメリカで二億人、イギリスで6000万、最近の英会話学校 のコマーシャルによれば、使用できる人たちの人口は10億を越えるようです。倍と仮 定して20億。
しかし、地球の人口は60億人です。そして言語の数は6000以上といわれています。 残り4、50億の人間(5999以上の言語をあやつる人々)に対し、あなたは英語を使わ ないことは「情報化社会においてこれは役に立たない。英語は完ぺきでなくても通じ るものだ」といえるでしょうか。
たとえばコンピュータがスペインあるいは中南米で発達し、情報化社会の基調がス ペイン語であったとき、「情報化社会においてこれは役に立たない。スペイン語は完 ぺきでなくても通じるものだ」といわれたら、あなたはどう感じるでしょうか。
なぜ、たった1行のためにわたしがこれほど声高に反論しているのかというと、も ちろん、自分の中に英語コンプレックスがあることは否定しません。と同時にいまの ままでは情報化社会というものが、文化の均一化をもたらすのではないかと憂えてい るからです。すでに情報化社会においてはあなたの主張されるように「英語」が基調 になっています。その結果、コンピュータ関係の言葉には英語が多数入りこんでいま す(クリック、インストール、etc)。コンピュータ関係の雑誌で使用されている のはピジンイングリッシュである、といっても説得力があるでしょう。
それだけではありません。紙の版形にA版とB版というのがあります。A版は羊皮 紙を元にした大きさで、B版は美濃紙(和紙の一種)を元にした大きさだと聞いたこ とがあります。しかし、コンピュータの発達にともない、仕事で使う紙は以前は半々 であったのに対し、いまではほとんどA版が主流です。このように、すでに文化の均一化ははじまっているのです。
いずれ日常会話もピジンイングリッシュ化(すでにその傾向はあります。特に広告 代理店関係の人々の会話など、はたで聞いていてもさっぱりわかりません)し、日本 特有の文化もなくなってしまうかもしれません。
いや、それでいいのだ。高度情報化社会においては、文化というものはひとつに融 合し、国固有の文化ではなく、グローバルな地球文化になるべきである。というのも ひとつの考えでしょう。しかし、そうなったあげく、外的あるいは内的要因によって 文化の崩壊がはじまったとしたら、それを止めるすべは残されいないのです。
例をあげるならば、麦です。かつて緑の革命と呼ばれた品種がインドなどに普及 し、それまではつねに飢餓にさらされていたインドをついには麦輸出国にまで育てあ げました。それはそれでとてもいいことです。しかし、その品種は大量の水を使うの でインドの地下水資源は枯渇しかかり、またインド固有の植物の病気に大変弱く、1 株が発病するとアッというまに病気が広がってしまいます。では、インド固有の麦か らその病気にかかりにくい遺伝子をとりだそうにも、すでにインド固有の麦は駆逐さ れてしまい、インドの植物学者は世界各地の博物館に保存されているインド麦の株を 分けてもらって対応に追われているのが現状です。
インドの地下水資源がほんとうに枯渇してしまったり、あるいは1地方からはじ まった麦の病気がインド全体に広がったとしたら……。これと同じことが文化について起こりえないと、だれがいえるでしょう。しかも遺伝子と違い、博物館に保存されているものは、すでに文化とは呼べないものでしかないのです。
はじめての方に長々とメールを書いてしまい、大変失礼いたしました。ご立腹の箇 所もあるでしょうが、わたしはあなたのご意見全般を批判しているのではありませ ん。
実際、これまでの主張と反すると思われるかもしれませんが、わたしは、早く翻訳 ソフトが充実し、どんな人でも気軽に他言語の人とネットワークを介して会話できる 時代がくることを望んでいます。コミュニケーションこそが、固有の文化の尊重とい うことにつながるのではないかと思っています。一方的な文化の浸透ではなく、相互 的な文化交流というものが重要だと思っています。
文化は多様性を持たねばなりません。しかし、現状では政治的経済的理由によっ て、特定の文化が別の文化を駆逐するという現象が起きてしまっています。ネット ワークにはそれを打破する力があるのではないかと予想しています。政治的経済的理 由から離れネットワークという共通の土台の上で、多様な文化が多様なまま併存する ことができるのではないかと思っています。ただ、いまのネットワークのままではそ れは無理でしょう。もっと膨大な情報処理が可能になり、ネットワークにつながれた ユーザがもっと増えねば。
例えば、日本人は、外国人に対して、あまりfriendlyではないと、言われま すが、それは、外国人には、信用がないと考えがちだからだと思います。 もちろん、外国人だって、その国に帰れば、家族も、地位も、財産も、 あるだろうと思います。 しかし、日本には、それがないことが多い。 人間って、自分だけのことなら、どうなってもいいと思うことがあるでしょう? でも、家族のことを考えたら、悪いことができないと思う。 失いたく無い物を持っている人は、悪いことをしない。 これが、信用です。 外国人であっても、ちゃんと信頼関係が出来上がれば、きっと、日本人は、 日本人に接するのと同じように、接すると思いますよ。 でも、その信用は、個人と、そのグループが、長い年月をかけて、 築き上げるものです。 アメリカ人は、比較的、良い扱いを受けるのではないですか? それは、今まで日本を訪れたアメリカ人が作ってきた、信用によるものなのです。
computerの世界は、匿名性があります。 例えば、私はあなたを知りませんが、私はあなたに、私の本名や、 住所や、電話番号を教える必要はありません。 nicknameと、mail addressを教えるだけです。 これは、日本人にとっても、知らない人とcomunicationするchanc eだと思います。 それほど、信用にこだわらなくても、安全に話ができるからです。 気があって、相手が信用できるようになってから、名前や電話番号を 教えればいいわけです。
ところで、アメリカ人は、確かに社交的です。しかし、オープンかというと、私は 決してそうではないと思います。「公」と「私」がはっきりしているのです。日本人の 感覚で、アメリカ人の「社交」を、「親しみ」と誤解してしまい、過大な期待をしてし まう人も多い。日本人は、「個人」というものがはっきりしていない。これは、島国 である日本人の歴史の中から形成されたものだと思いますが、やはり、世界の中で は、この日本人の「自我の不確立」は問題であり、理解されないと思う。話を戻すと 、アメリカ人は社交的だが、個人的に親しくなるまでには、かなり慎重であると思 う。幸運にも、私は、親友ということができるアメリカ人ができた。まず、息子ど うしが親しくなり、私たちも最初は、とりとめのない会話をしていたのだが、彼女 と私はとても気が合ったのである。私の英語を彼女は誠意をもって理解しようと努 力し、私も必死で自分の考えを伝えようとした。Guessしてくれと頼む私に、彼女は 「こういうことか」と問い直した。すると、私の考えていることが、彼女にちゃんと通 じていて、たぶん、私たち二人は、かなり考え方が似ていたのだと思う。そして、 今でもインターネットでメールの交換をしている。インターネットは時差に関係な いし、電話ではなかなか思うように話せない私の英語力でも、じっくり書くことが できる。私たちは、walkingしながら、よく話していたのだが、インターネットはそ ういう気分になる。
ただし、あなたのいうように、まだまだインターネットで外国 とメールの交換をしている日本人は少ない。まず、コンピューターにふれる年齢が 、日米では違う。息子のElementary schoolでは、1年生からどんどんコンピューターをやらせていた。しかし、日本ではまだまだである。教育に関しては、日本の状況はひどいと思う。何が経済大国であろうか。1クラスの人数の多さ、教師の多忙さ、など......いったい 、日本の経済が生み出したお金はどこにいってしまったのでしょう。 外国で暮らしたことのある友人とよく集まると、皆、溜め息をもらす。やはり、日 本は暮らしにくい。物価は昔に比べれば安くなったと思う。しかし、なにか窮屈な のである。たとえば、私は、また働きたいと思っているが、まず、年齢で面接さえ 受けられない。年齢制限が立派な差別であると、なぜ気が付かないのだろう。また 、日本の若者のマナーの悪さには驚きました。外国から帰った者だけが集まると、 初めてみんな本音をぶつけるのである。「なんで、日本はこうなんだ」という怒りで ある。しかし、なぜか、この怒りを声高に叫ぶことがはばかられるのである。「そん なこと言ったって」とか「外国かぶれ」と非難されそうなのである。そして、多くの人 が日本にあきらめていくのである。