月に何度か男娼を抱く。待ち合わせは都心を外れた橋の上。時刻は決まって午後八時三十分。携帯電話一つで月に数十万もの大金を稼ぐ彼は、この街を根城に暗躍する欲望の回収者。個人経営みたいなものだ、と出会った時に彼は云った。事務所を一切通さない、完全な一対一の契約なのだという。金の使い道を尋ねたら、貯金しているという平凡な答えが返ってきたのを記憶している。有り触れた出会いで、その他のことはもう朧気だ。

 八時二十五分。背後に都会の喧噪を背負って橋の向こうから彼が歩いてくるのが見えるのはいつもこの頃だ。彼も、わたしも時間には忠実だ。美術専門学校を卒業している彼は、その後某ブランド店で販売員をしていた過去がある。ファッション雑誌を網羅した彼の出で立ちは、人より優れた容姿との兼ね合いで夜の街に浮き立っている。約束の時間二分前。彼はわたしの横に並び、こんな時ばかりは他人行儀に慇懃に挨拶を交わす。彼は仕事始めで、わたしは仕事後のせいか。

 並んでホテルへ向かう。その間、無言でいることが多い。途中、幾人もの通行人と擦れ違う。学生、会社員、頭の空っぽな若者たち。彼らの目にわたしたちはどう映るのか。それを考えながら歩く。

 友達、兄弟、同僚。全て否。なぜならわたしと彼は一回り近く年齢に隔たりがある。わたしはスーツを、彼は私服を着る。わたしはアタッシュケースを、彼はナイロン製の鞄を背負う。
 では恋人。その割には親しさがない。一体無言で通り過ぎるわたしたちを、街を闊歩する通行人たちはどういう風に記憶に留めるのか。

 答えはただ一つ。
 男娼とわたし、であるに過ぎない。


 男娼は藤真健司という。




 藤真を抱いている間、わたしはかつてセックスでは感じたことのない不思議な高揚感を意識する。それは例えれば人形を抱いているような感覚と奇妙に類似している。世の中には反応のない恋人に不満を募らせる男たちが多いということだが、わたしはそうは思わない。

 わたしはセックスを自己満足であると理解する。いや、セックスだけでなく、この世の中のあらゆる精神的活動の全ては自己満足に発し、自己満足に終わるのだと云ってもいい。故に、わたしにとって藤真は大いに自己満足を追求し、自己陶酔を味わうのに最も適した人物であった。

 わたしが彼に触れる時、それは彼を愉しませる為ではない。わたし自身が愉しむべく、そうしているに過ぎない。わたしにとって、彼がそれを快感と思うかどうか、それは問題ではない。

 わたしが彼に触れる時、それは間違いなくわたし自身が快楽へと埋没する為の下地造りなのだ。


「女で云えば不感症ってやつなのかも知れない」

 わたしたちの身体はうっすらと汗ばんでいる。情事を終えた後、こうして他愛ない会話をする一時がわたしは好きだ。皺だらけの白いシーツの上で、藤真は胡座を崩したような態勢で足を広げて座って云う。

「勃たない訳じゃないのにね」

 ベッドサイドの煙草に手を伸ばしてわたしは返答する。セックスの後の一服はわたしの最も欠かせない充実の瞬間だ。枕を二つ重ねて縦に並べ、そこへ背中を預ける。
 藤真はベッドの端で丸まっていたカバーを手繰り寄せると自分とわたとの下半身を覆うような具合までそれを引き寄せた。

 藤真の口の聞き方は生意気だった。わたしはそれを少なからず彼の持ち味として気に入っていた。

「男だから勃つさ、そりゃ。問題はそこじゃなくて、他の行為で快楽を得られるかどうかってことだよ」
「ああ、そうか。直接的な行為じゃなきゃ反応出来ないって話だな」

 唇に、瞼に、額に頬に、首や耳、鎖骨、ありとあらゆる皮膚を舌が這っても、藤真は反応しない。質感と体温のある人形を抱いているような自虐的な悦び。
 わたしは面白いと思う。
 現実味のあるマスターベーションのように。

「きっとあれだね。商売だからだよ、それは。気持ちの問題さ。本当に好きな相手とのセックスならまた別だろう。意外とデリケートだね、そうすると」

 わたしの皮肉に藤真は反応しない。それは鈍いからではなく、その反対だからなのだ。

 セックスの後の煙草は煙を三回吸うまでは最高に美味だ。それからは慣習として吸うまでだ。

「一本くれる?」

 既に手を伸ばして藤真は云う。わたしは煙草の箱を取ってやり彼に手渡すと、

「ご苦労様」

 と労いの声をかけた。その意味を理解すると藤真はほくそ笑む。煙草を口に挟んだまま喋った。

「おれはこの仕事好きだよ。おれは優越感が好きなんだ」
「天職って訳か」

 わたしは軽い笑いでそれに答えた。藤真は備え付けのマッチで火をつけると、ゆっくりと煙を吐き出しながら云う。

「色々なやつがいるけど、やる前に煙草を吸うなっていうのはおまえが初めてかな」

 小馬鹿にしたように藤真は云う。そういう時の彼の顔つきは、意地の悪い娼婦そのものだ。
 藤真はわたしと比肩する程の愛煙家だった。だがわたしは男女を問わず、セックスの相手が喫煙するのを好まない。ニコチン臭い吐息はわたしの性質上我慢ならないものがあった。わたしの好みに従順なところは、藤真が云うように本当に自分の仕事を好きだからなのだろう。金を得る以上は、列記とした仕事である。なあなあにせず、こうして相手の性癖に従う彼のプロ意識は、わたしの気に入っている一つでもある。

「小物好きの若者はどうなったの」

 わたしはふと思い出して尋ねる。わたしが占領している為、枕のない格子にそのままよしかかって藤真は答えた。

「会ったよ、ちょうど昨日。やつはでかいバッグを持ってきて、約束の時間に遅れて来た。その理由がいいんだよ、おれに着せる洋服を選ぶのに時間がかかったんだってさ。その店に入るのに時間がかかったんじゃないんだぜ?選ぶのに時間を使ったっていうんだから、馬鹿馬鹿しくて笑えた。その他にもカメラを持って来てたよ。ありゃ病気だね。今度冬のボーナスが出たら、8ミリを買うからって張り切ってたよ。それにやっぱりセックスはしなかった。本当にマスターベーションが好きみたいだ。写真を現像して、それを見てやりたいんだってよ。別にいいけど。間違っておれの手に触れた時、やつは真っ青になって震えてたよ」
「問題有りだね、彼は」
「理解出来ない?おれはそいつがそれでいいなら構わないと思うけど。確かに服装の趣味は親父好みだったけどね。学生服とか黒エナメルのブーツとか、はっきり云って悪趣味だけど。でも、まぁそれなりにやつの中では完璧を極めてると思うよ。実際おれには馬鹿みたいな敬語を使うし、絶対に肌に触れないし、下僕みたいで可愛いんだ」
「優越感が感じられるからな」
「まあ、それもある」

 藤真は灰皿に煙草を押し付けて消した。わたしはとうに二本目の煙草をくわえていた。
 藤真が抱えている他の客たちの話をわたしは度々耳にした。小物好きの若者もその内の一人だった。浪人生であるその若者は、朝は新聞配達、日中は交通整理のアルバイトに費やし、藤真と会う為の金を稼いでいるという話だ。
 初めて藤真がその若者と会った時、シャワーを浴びた後藤真をベッドに座らせ、突如としてバッグの中から新品の包装したままのシルクのネクタイを取り出して、素っ裸の彼にそれで目隠しをするかと思えば、自分は少し離れたベッドの端に座り、自慰行為に耽り始めたという。
 またもう一人、今度は中年の男性で妻子持ちらしいのだがセックスをする時には必ず、持参してでも「G線上のアリア」を聴いていなければ駄目だという性癖の持ち主もいるらしい。その曲にどんな思い入れがあるのか尋ねてもその男性は決して語ろうとはしないという。


「何時?もう十一時近いのか。どうすんの?今日は帰るのか?」

 腹這いになって時計を確認しながら藤真は尋ねた。わたしも云われるとベッドサイドのキャビネットに上がっている自分の腕時計を眺めた。十時四十五分だった。

「いくらだったっけ」

 藤真と月に数回会っているが、その殆どがホテルで云えば休憩だ。宿泊をしたのは初めて彼を抱いた時ではなかったか。一ヶ月も前のことだ。

「宿泊料金が?それともおれが?」

 藤真は同じ姿勢のままわたしを見た。
 見上げている大きな瞳に長い睫毛。

「どっちも」

 わたしはそう云って煙草を消し、藤真が答える前にまた云う。

「混血児みたいだって云われることないか」

 藤真は目を細めて笑った。それから身体を起こす。
 髪も目も茶色がかって、皮膚の色が白い。

「時々はね。カラーコンタクトかって云った馬鹿もいた」

 立ち上がって壁際のソファに置いてあるバッグを取って戻ってくる。均衡の取れた肢体は中性的な印象を醸している。

「ホテルの方はね、確か一万と少しじゃないのかな。これに書いてないか?で、おれの方はというとプラス四万だな」

 その時にわたしは首尾よく藤真がテーブルから持ってきたホテルの料金表を眺めていた。

「十二万五千円か」

 夕方から終電の時間まで彼と過ごすと、その間何をしてもしなくても七万円だ。もし今夜泊まるとしてホテルの宿泊料が一万と五千円。藤真の方には更に四万円で、しめて十二万五千円の出費と相なる。

「仕事プログラマーだっけ。儲かるの?」
「目が悪くなるだけさ」

 ちょうど料金表を見る為にかけていた眼鏡を再びキャビネットに置いてわたしは答えた。

「でも給料は良いんだろ。じゃなきゃ月に何度も会ってられない筈だからな。大事な客だよ、ほんと」

 冗談とも本気ともつかない口調で藤真は云いながらバッグの中から携帯電話を出している。

「もっと金払いのいい客はいるだろ」

 わたしの言葉に藤真は肯定の意味で少しだけ頷くと、もう一度聞いた。

「で、どうすんだよ」

 そう云う間に携帯のベルが鳴り、どうやら予約が入ったようだった。わたしも元々帰るつもりでいたからそれはちょうど良いことだった。

 別々に浴室を使い、着替えてホテルを出たのはそれから三十分後の、十一時三十五分だった。週末でもないのに辺りは人々で賑わっている。一応裏通りではあるが、すぐ角を曲がれば都心である。大通りに出てまもなく、わたしと藤真は別れた。




 わたしにはトモ子という恋人がいた。
 トモ子はわたしより七歳年下で、四年制大学を卒業して後バイヤーを職業にし、現在は昨年の末からずっと海外を巡り、商品の選別をしている。

 わたしとトモ子は幼なじみであった。幼年の頃僅かだが暮らしていた家の近所にトモ子の実家がある。当時は他の友人たちを交えて、その頃のわたしの親友であった友人の妹であるトモ子も、時々はただ虐められる為に仲間に誘われ、よく泣かされて家へ帰って行くのだった。年齢が離れているからまともな会話をした覚えも、人間関係という程のものも築いた記憶はなかったが、そうやって兄とその友達に泣かされて大泣きに泣いて家路を辿るトモ子の後ろ姿ははっきりと覚えていた。

 その内、わたしは父の仕事の関係で引っ越すことになりトモ子とも親友であったその兄とも関係はなくなった。ところが、三年前にわたしはひょんなことから今の企業で海外赴任をすることになり、一年間だけイギリスに滞在していたことがあった。そしてそこで偶然にもトモ子と再会したのである。向こうはわたしのことを覚えていたらしい。すぐに気付いた様子だったが、声はかけてこなかった。わたしも暫くトモ子を眺める内、彼女の左目の下方にある小さな泣き黒子に見覚えがあるような気がして、それが引き金となって幼年時に引っ越してから終ぞ思い出すことのなかった記憶が蘇ったのである。

 トモ子は大学生であったが、イギリスに留学していたらしい。わたしたちはどちらからともなく付き合うことになった。トモ子は初めて二人だけで食事をした時に、夜景の見えるレストランの窓辺のテーブルで、かつて兄とわたしたち仲間に虐められては泣かされていた思い出話を始めたことがあった。

 あの時、あたしはあなたが大嫌いだった。トモ子はこんな風に云ったと思う。わたしがその訳を尋ねると、それはわたしが虐められている彼女を一度も保護しようとしなかったからだという。他の仲間と一緒になって乱暴する訳ではないのに、絶対に自分を助けてくれないわたしがトモ子には乱暴を働く者たちよりも、卑怯で薄情に見えたのだという。

 たちの悪い人だと思ったわ、とトモ子は恨みがましい口調で云いつつも、笑っていた。わたしは、今でも自分は薄情で卑怯な人間だと云った。するとトモ子は暫くわたしを探るように見つめ、それから窓から見える夜景に視線を投げて、あたしは強くなったわ、と呟くように云った。それからわたしを見つめたトモ子の瞳は、どういう訳か涙で光っていた。


 トモ子からは週に一度、大体は金曜の夜九時に電話がある。その他にも月に何度か手紙が届いていた。わたしは手紙を書くという作業が好きな性分ではなかったが、暇を見つけては出来るだけトモ子に返事を書いた。電話も余り好ましく思わなかったが、それを仄めかしたことはなかった。

 先週、以前から薄々勘付いてはいたもののあえて問い質しはしなかったのだが、トモ子の方から仕事がうまくいっていないと打ち明けてきた。元々、トモ子は努力家だが活発なたちではない。だが、バイヤーという仕事は彼女の憧れだったらしく、両親の止めるのも聞かずに就職した。すぐに海外へ飛び立ち、留学していたことが功を奏して言葉の障害は少ないものの、まったくの一人きりで生活をすることについてまわる女らしい不安と焦燥で、落ち込んでいた。

 そのきっかけとなったのは、今年の始めになって交通事故でトモ子の兄が亡くなったこともある。トモ子は大変兄になついていたから、葬儀の為に帰国した時の有様は、思わずわたしは閉口していまいそうなものだった。このまま自殺でもしかねないような状態だったのである。わたしも、トモ子と交際するようになってから再び彼女の兄とは親交を深めていたから、葬儀には参列したが、大勢の弔問客の中で一際、トモ子の哀しみは異様だったような気がした。トモ子はすぐに外国へ戻ったが、それからというもの手紙や電話では始終悲観的な感情が現れていた。

 そして遂に先週、トモ子は仕事を辞めて日本へ帰ると言い出した。電話の向こうでトモ子は泣いていた。わたしは、かつてイギリスで聞いた言葉を思い出し、強くなったんじゃないのか、と彼女に云った。するとトモ子は、それとこれとは別だ、とにべもなくわたしの言葉を退けた。わたしはトモ子に、もう少し考えてみるように諭した。わたしは構わないが、トモ子の両親がどう云うか、それを切々と説いて聞かせた。トモ子は始め不本意そうにしていたが、次第に現実を直視するに従って、両親の言葉を無視して飛び出した結果、一年と経たない内にすごすごと戻って行くようなことになれば、何と云われるか分かったものではないと気付いたのだろう。納得していた。

 トモ子がいとも容易に仕事を辞めると言い出した裏には、きっとわたしと結婚しようという考えがあったのではないかとわたしは心中考えていた。トモ子は今年二十五歳になる。そろそろ結婚というものを真剣に考える時期だ。そしてわたしたちの付き合いは早いものでもう三年と少しになるのだから、当然彼女の方も意識しない訳はないだろう。そこへきて仕事はうまくいかないのだ。どうにか逃げ場を求めようとしても、それは人間として当然のことでもあるからわたしはそのことでトモ子の打算を責めようとは思わない。ただトモ子にそのような魂胆があったのではないかと思っているだけだ。

 その日、たっぷり三時間近くも電話で話し、やっとトモ子は納得して電話を切った。四日後、手紙が届いた。そこにはわたしの助言に感謝し、自分の惰弱さを責め、もう一度頑張って仕事を続けるということが書いてあった。落ち込み易い人間にはありがちなことだが、一端その局面を打破すると、今度は異常なまでの自信と希望に溢れるらしい。両親を振り切って海外へ行くと決意した時そうであったように、その手紙でのトモ子もまた過剰なまでに自信と希望を身につけ、手紙の締めくくりには、亡き兄の分まで頑張ってこの仕事を続けようと思う、と書いてあった。

 よく云われる言葉だが、それを見た時にわたしの中のある虚無的な部分が、そのような心構えでは決してトモ子の決心も長続きするものではないとわたしに感じさせていた。


 そしてそのわたしの直感が現実となった。手紙が届いた週の金曜に、トモ子から電話がなかったことも全てが来るべきその日の為の前振りのようなものだった。何の連絡もなく更に一週間が過ぎ、木曜になって不意に退社しかけたわたしにトモ子から電話があり、今空港にいる。詳しいことは会ってから説明するから。との礼儀上多少不躾な云いようで、わたしに迎えに来て欲しいと頼み込んできた。

 わたしは承知し、空港に向かった。

 待合所のビニールのソファにトモ子の姿を発見した。中肉中背のトモ子は、葬儀の時帰国してからずっと温暖な気候の土地にいた為か、日焼けして肌の色が焼けていた。それがいつもの服装なのか、はたまた何か急な出立でもあったのか白いTシャツにジーンズという出で立ちで、ボストンバッグを一つ抱えていた。

 わたしを見たトモ子の顔つきは沈んでいた。わたしは何事もないように接し、彼女と駐車場に止めておいた車に乗った。平坦な田園風景を暫くトモ子は眺めていたが、やがて云った。仕事を辞めたらしい。と云うよりは殆ど無断で飛び出し、ありったけの荷物を日本の、しかもわたしの家へ宛てて送り、必要な物だけはボストンバッグに詰めて飛行機に飛び乗ったらしかった。わたしはトモ子の言い訳とも、説明ともつかぬ言葉を全て聞き終えてから、これからのことを尋ねた。トモ子は無言になり、俯いた。わたしは、それでは分からないとトモ子に云った。暫く家に置いて欲しいとトモ子は云った。わたしは、わたしが云いたいのはそのような目先のことではなく、これからのことなのだと説明した。するとトモ子は情緒不安定の為か激した様子で、それはまだ考えてない。あたしはこれでも頑張ったつもりだから、今は苦しめないで、と云った。わたしはそれを聞き、好きにしたらいい、と云った。それからわたしの自宅までの二時間弱の距離、わたしたちは一言も会話をしなかった。



 トモ子はわたしの家で暮らした。家族にもわたし以外の友人、知人一切にもこのことは秘密なのだという。後日云った通り海外から、彼女の荷物が届いたが、それは段ボールに詰め込まれたまま、使用していない一室に並べられている。

 毎日、トモ子は本を読んだりテレビを見たりして過ごしていた。しかし決して愉しそうではなかった。意味もなく壁の時計を見やる姿が、最近では彼女の癖となりつつあった。わたしが仕事に出掛ける前に起き、朝食を作ってくれた。帰宅すると夕食の用意が整えられている。部屋の掃除も洗濯もトモ子は完璧にこなしていた。

 わたしはある時、トモ子に職を探すように云った。トモ子は傷ついた顔をして、自分が邪魔なのかと反対に聞いてきた。わたしは、そうではない、だがこのままでは何にもならないと云った。トモ子は項垂れた。わたしはトモ子に、仕事を見つけてそれから両親にこのことを話した方がいいと云った。そうした方が、肩身の狭い思いをせずに済むとも云った。トモ子は何も云わなかった。わたしは彼女が口を開くまで辛抱強く待った。やがて彼女はひどく云いにくそうに云った。あたしと一緒になる気があなたにはある?トモ子の言葉は唐突だったが、その口調からしてしばしば考えていたことなのだろうと分かった。働くのが嫌なのか、とわたしは聞いた。トモ子は否定した。そうじゃないけど、でも、いずれは結婚したいから。あなたにその気があるのか知りたいの。

 トモ子はおそらく半分は嘘を云ったに違いなかった。こうしてわたしの家に住み、朝夕の食事を作り、家事をこなしていく内に、これが結婚というものならば、その方が仕事をするよりも気楽でいいものだ、と感じたのだろう。仕事に対して自信を失っているトモ子は逃避する場所を求めていた。体裁良く云うならば、自分の居場所を求めていたのである。それがこの場合、結婚だったのだ。

 トモ子は泣いた。泣きながら聞き取りにくい声で云う。あたしは駄目な人間なの。甘えてるのは分かってるけど、でもあたしにはあなたしかいないのよ。それともあたしは良い奥さんになれないかしら?

 それを聞いてわたしは笑った。

 そして彼女が良い奥さんになるだろうと云い、最後に結婚をするつもりはあるが自分にそれを女性の方から云わせる気持ちがないことを告げ、また改めてわたし自身の口からお願いすること、そしてひとまず彼女は家族に事の顛末を話し、話せばきっと理解して貰えるだろうから暫くは実家で生活するようにとわたしは云った。

 トモ子は素直にわたしの言葉に従い、翌日になると実家へ戻って行った。



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