月のうさぎ
夜はこれから。
闇夜を照らす月があまりにも美しいからなのか、優しく木々を揺らすそよ風が気持ちいいからなのか、
妙にはっきりとした頭でオスカーは真っ暗な道を一人歩いていた。
一度はベッドに入ったのに、急に目が冴えてしまいそれからどうしても寝付けなくて、けれども馬に乗ってどこかへいこうという気もなく。
こんな夜はゆっくりと自分の足で静かな夜道を歩くほうが情緒があっていいのかもしれない。
そんな事を考えながら、ぼんやりと月を見上げた。
誰だったか。
月にはうさぎが住んでいるという。
そんな事を言っていた。
「月なんかでうさぎが何をしてるっていうんだ。」
思わず笑ってしまう。
「しかし・・・・何処へいこう?」
オスカーは、何も目的がないことに気がついた。せっかくの美しい夜なのだから、気持ちの良い散歩を楽しみたい。
と、その時。
カサカサと耳にこそばゆい音が、軽やかに通り過ぎた。
「ん?誰かいるのか?」
オスカーはあたりを見渡す。
だが、こんな時間に人がいるとも思えない。それとも自分と同じように寝付けなくて散歩に出た人がいるのだろうか。
けれども、音の正体はすぐにわかった。
「・・・お前、こんな時間にエサでも探してるのか?」
オスカーが見つけたのは、月の光に照らされて一層白く浮かび上がる小さなウサギの姿だった。
耳をピンと立ててオスカーの方をじっと見ている。
ウサギの赤い目が、妙に鮮明にオスカーの瞳に入り込んでくる。
「あ、おいっ」
オスカーが近づこうとしたら、途端にウサギは身を翻して走り出した。
だが、オスカーが立ち止まると、ウサギも同じように止まって彼のほうを振り返る。
「?俺をどこかに連れていきたいのか?」
肯定とも否定ともわからないが、ウサギはじっとオスカーを見つめる。
そしてまた軽やかに走り出した。今度はオスカーもついていく。
そうしている内に、ウサギが確実にオスカーをどこかに導いているのがわかった。
不思議に思いながらも、なんとなく好奇心にかられて後を追う。
夜の聖地は、清廉な静寂に包まれている。
女王と守護聖達の住まう麗しい庭園。
ときおり独りで空を見上げると、忘れきっていた過去や既に思い出となってしまった事が、寂しくそして美しく思い出されることがある。
聖地は時間を忘れた楽園。だが、そこに生きる自分たちは?
オスカーは美しいものが大好きだった。
故郷の地にひろがる大草原や、ふと見上げた晴れ渡った青空。生まれたばかりの子馬や、ふとした時の母親の笑顔。
何でも美しく見えたあの頃は既に過ぎ去ってしまった。
どれだけ美しくとも、作り物めいた聖地では本当に美しいものは見られないのかもしれない。
オスカーは自分が思ったよりどうしようもない事を考えていると思い、ウサギを追いかけながら笑い出した。
聖地にだって美しいものはたくさんあるじゃないか。
ジュリアスの身の内から輝く美しさや、女王陛下が守るこの平安、自分が時々声をかける聖地の女性達。
これ以上に美しいものなど欲しいとは思った事がないはずだ。
「・・・・・・」
けれど、まだわからない。
木々の間を抜ける。
それ程早い速度で走っているわけではないが、時々細い枝がオスカーの肩を打つ。
僅かに上を見上げると、月の光が枝々の隙間から見え隠れして、オスカーはなんだか美しい光の回廊を通り抜けているような錯覚に陥った。
あまりにも幻想的で、意識がどことなくぼんやりしている。
ウサギは彼を何処へ導こうとしているのか、オスカーはそんな事どうでも良くなってしまう。
どこかへ吸い込まれていくような、永遠に続くような回廊を、誰かが、何かが待っているような感覚を僅かに覚えながら、夢見心地で進んでいく。
ウサギの赤い目の魔力に惑わされたのかもしれない。
突然、視界が大きくひらける。
その先にオスカーが見たのは、一面にひろがる水面だった。
「おいっ!」
白いウサギの姿がそのまま宙に飛んで、まるで月に吸い込まれていくかのように消える。
「!?」
ウサギが消えた途端、オスカーの足が凍るように止まった。
彼の視線も、そこに縫いつけられたかのように一点をみつめている。
「・・・・オスカー・・・・?」
月の精霊が降りてきたのかと思った。
淡いブルーの光の下、青銀の艶やかな髪がなんともいえない程に鮮やかに浮かび上がっている。
昼間の彼は当然見慣れているが、夜の静寂の元で見るのは初めてだった。
「リュミエール?何をしているんだこんな時間に・・・・・」
「それは貴方も同じことではありませんかオスカー。」
「まあ・・・それはそうだが・・・」
ウサギを追いかけて、気が付いたらここにいました、とはちょっと言いにくい。
「私は、とても美しい月夜でしたので、どうしてもこれを弾きたくて。でも月にみとれていたらこんな時刻になってしまいました。」
リュミエールは足元に置いてあるハープを指さす。
それは彼がいつも持ち歩いているものだが、オスカーの耳に直接入る機会は滅多になかった。
時折、執務が暇になった時に弾いている事があるが、オスカーは窓の外から僅かな旋律を耳にするだけだ。
それでも充分に、その音色がとても美しいことはわかる。
オスカーは一度でいいから、自分の為の演奏をきいてみたいと思った事が何度かあった。
「・・・・俺も・・・月に誘われてなんとなく・・・な。」
「ふふ、それでは私と同じですね。」
どこか嬉しそうに笑うリュミエールに、オスカーもつられて柔らかな表情になる。
「リュミエール・・・・」
今が良いチャンスかもしれない。オスカーは今まで適わなかった願い事を伝えてみることにした。
「なんでしょうか?」
「・・・せっかくここで出くわしたんだ。何かこの月夜に相応しい曲を俺に聴かせてはくれないか?」
少し考え込むような表情でリュミエールは彼を見たが、すぐにとても綺麗な笑顔を見せてくれた。
「はい、よろこんで。」
そう言うと、ハープを取ってオスカーを岸まで導く。
湖面に映った月と空とをみつめながら、リュミエールは自然な動きでハープを弾き始めた。
それはたぶん、彼の指がきままに奏でる即興曲なのだろう。だが淀みなく美しい旋律を生み出すリュミエールに、オスカーは素直に感心した。
こんな美しいものを、いつも聞き逃していたなんて。
彼の美しい指は、きっと様々な情景を旋律にのせて聴かせてくれるのだろう。彼の愛した故郷の草原も、そよ風も。
オスカーは、ようやくオアシスにたどり着いた旅人のような気持ちに、少し幸せを感じた。
リュミエールがいくつかの曲を披露した後、二人はなんとなく黙って月を見上げていた。
「オスカー、あの月の影がまるでうさぎの様ではありませんか?」
「・・・・言われてみるとそうだな。」
リュミエールが小さな発見に嬉しそうな顔をしている。
「本当に、あそこにはうさぎが住んでいるのかもしれないな。」
「ふふ。」
子供の様な発想なのに、オスカーが素直に同調してくれたのでリュミエールも嬉しくなる。
普段では決して見えなかったオスカーの一面だ。
そのまま二人でしばらく月のうさぎを見続けた。
END
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