ローズマリーの雫 5
一瞬,彼は何が起こったのかわからないという表情でリュミエールを見た。
「・・・・・君は・・・・・」
「あ・・・・」
左頬を押さえる領主と,自分の右手をまじまじと見るリュミエールの間で,恐ろしい程の静寂があった。
「君は・・・・僕を殴った・・・・?」
未だ信じられないという表情で領主がリュミエールを見ている。リュミエール本人も自分の行動が信じられないのだから仕方がない。彼は生まれてからこのかた暴力など他人にふるった事がない。ましてや殴るなどと,この麗人がするとは女王陛下ですら考えない事だろう。
しかし,はずみなのか何なのか,自分を抱きしめていた領主の頬に思いっきりパンチをくらわせてしまったのは事実だった。
「まさか・・・・君も・・・・」
領主は数瞬だけ考え込む様にリュミエールを眺めていたが,ふと彼の身体から自分を離した。
リュミエールはその彼の動きを目で追っていたが,領主は手をリュミエールの髪に持っていきゆっくりと掴む。そのまま柔らかな手触りを楽しんでいるかのようにしばらく弄んでいたが,突然その手に力を込めて髪を思い切り引っ張った。
「あっ・・・・・なに・・を・・・」
「君も・・・・あの人と同じなのか・・・?」
勢いに負けてリュミエールは再び領主の方へ倒れ込んだ。その瞬間に見た領主の眼はどこか狂気の色を帯びていて,リュミエールは初めて恐怖を覚えた。
「同じなのかっ!」
「っ!?」
彼は突然大声を挙げて,髪を掴んでいた手でリュミエールを突き飛ばした。後ろにあったクッションが彼を受け止めてくれたが,その振動ですぐそばの小さなテーブルに置かれていた花瓶が床に落ちる。派手な音を立てて割れた高価そうなそれにさしてあったのは,昨日一緒に薔薇園で見た”海のしずく”だった。可憐な水色の薔薇は,無残にも床に散らばっている。領主はそれをちらりと横目で見ると,視線をリュミエールに戻した。
「それならば,こうすれば君も苦しいのだろうね・・・?」
「やっ・・・あ・・・やめっ・・・・」
狂気を孕んだ瞳のままで,領主はリュミエールの首を両手で強く締めた。リュミエールは必死で逃れようとその腕を掴むが,力の入らないままではそれも適わなかった。
今ごろになって,オスカーのセリフが頭をよぎる。
────すみませんオスカー・・・・貴方のおっしゃる通りですね・・・
「・・・・オ・・・スカー・・・・」
無意識なのか,リュミエールの呟きが小さく小さく洩れる。
「・・・!」
領主はその言葉に,咄嗟に両手をリュミエールから離した。リュミエールは急に入り込んだ空気にむせかえり苦しそうにせき込んだ。
「すまなかったな,酷い事をした。どうか赦して欲しい・・・・」
まだ息の整わないリュミエールを優しく抱きしめて,その背中をさする。その仕種は,先程までの狂気を微塵も感じさせなかった。何が起こったのかわけも分からないリュミエールだったが,やっと領主のほうを見る。
彼は静かに泣いていた。
「領主様・・・・・?」
少し声が枯れているが,リュミエールは出来るだけ優しく声をかけた。
「もう一度・・・・先程の様に僕の名前を呼んではくれないか・・・?」
「え?」
一瞬言われたことの意味が掴み兼ねたが,リュミエールは自分がオスカーの名前を口にしたことに思い当たる。途端に,彼は何か胸のつかえが取れた気がした。
「オスカー・・・・・これでよろしいのですか?」
「もう一度,もう一度いってくれ・・・」
「・・・オスカー・・・・」
薔薇の匂いが薄れずに漂い,壁にかけられた肖像画は四方から彼らを静かに見つめている。そのまま何度も何度も,彼の気が済むまでリュミエールは繰り返しその名を囁き続けた。
良く見ると,壁にかけられた肖像画の女性は,リュミエールの腕の中の男に良く似ていた。青い可憐な”海のしずく”の様に,その女性も少女のような笑みを浮かべている。彼女の瞳は,リュミエールの持つものに似て海の小波を映したような綺麗な深い青だった。
「この方は,貴方のお母様でいらっしゃるのですね。」
リュミエールが呟く様に言うのに,領主は自分も視線を上げる。肖像画を見上げた彼は,とても穏やかな表情を浮かべていた。
「・・・・美しくて優しい女性だった・・・・」
「貴方にとてもよく似ていますね。」
「・・・・僕を愛してくれたのはあの人だけだったんだ・・・・」
「優しいお母様でいらしたのですね・・・・・」
リュミエールは思わず彼の頭を撫でていた。小さな子供にするように,穏やかな表情を浮かべて優しい仕種で彼を暖かく包む。
彼はそんなリュミエールの腕の中でしばらくその穏やかな空気を感じていたが,しばらくするとリュミエールの腕から抜け出した。
「・・・おいで。火の石はこの館にある。」
「え?」
彼はリュミエールを連れて部屋を出ると,そのまま大理石の広い廊下をまっすぐに歩いた。
いくつもの豪華な扉。
それだけでこの館がとてつもなく広いのだと思わせる。リュミエールは何となく,一人でこの館に来る彼の孤独が見えた気がした。
しばらくして,大きくて豪奢な扉の一つの前で彼らは止まった。領主は無言でそれを開け,リュミエールを中に導く。
中はどの部屋とも違う質素な趣のしつらえだった。だがよく手入れされているだろう家具は,どんなものよりも大事にされているのがわかる。天蓋つきの大きなベッドは誰も使った形跡がない。奥に置かれた大きな鏡台から,この部屋が女性のものだとリュミエールにもわかった。
「ここは母の部屋だ。母はよくこの館に来ては,密かな逢瀬を楽しんでいたよ・・・・・父とではなくね。」
「・・・・・」
「そんな顔をしないでくれ。貴族として生まれるとね,こんなのは良くある事だよ。父と母は政略結婚で,父には愛人がいた。母だって,同じ事をしても良いとは思わないか?」
返事を返せないでいるリュミエールに苦笑しながら彼は話し続ける。
「・・・・僕はね・・・・思わなかったんだよ。」
彼から洩れるため息は,長い間溜め込んでいた想いそのものの様にとても重かった。
「ある時僕は,母と愛人の密会の最中にこの部屋に来てしまったんだ。母は酷く動揺していたよ・・・・。その後で母に何度も何度も叩かれた。お前は私を軽蔑するのかって僕にききながら,僕の答えを恐れていたみたいだった。」
彼の表情はすっきりとしている。語られる内容とはうらはらのそれに,リュミエールは心配そうに彼を見ていた。
「僕はとても母を愛していたよ。父が死んだ日,重傷の母の元に行ったんだ。母の首はとても細くて,まだ子供だった僕の手でも十分だった。」
「・・・・・貴方は・・・・」
「ふふ。僕は強く母の首を締めた。でもね,最後まで出来なかった僕には・・・・・。彼女はその後静かに逝ったよ。」
「貴方の心はずっと傷ついたままだったのですね・・・・・」
「母の思い出に浸るのは決して嫌じゃない。けれど時々・・・そうだね,寂しくなるかな。」
「お可哀相に・・・」
リュミエールの言葉に領主は何か言おうとしたが,彼の青い瞳が心なしか潤んでいるのを見てそのまま言葉を飲み込んだ。常にリュミエールからは不思議と安らぎや安堵を感じる。今はそれがとても心地良い。
「見てみなさい。これがローズマリーの雫と呼ばれる石の片割れだよ。」
「・・・・これが火の石・・・」
領主が母親の鏡台から出したのは,リュミエールが聖地でみつけた石と同じ薄ピンクの綺麗なものだった。おそらくは,どちらが水の石か火の石か,二つ並べたら区別が付かないだろう。
「伝説では,二つの石を一つにすると災いを呼ぶとある。この火の石はずっと我が家にあったらしいが,水の石の方は誰も見た事がないはずだ。」
「何故,水と火なのでしょうか?」
「ああ,それもまた別の伝説なのだが,心正しき者が二つの石を合わせるとピンクから青く色を変えるのだそうだ。逆に悪しき者であれば赤く染まる。火が勝つか,水が勝つかということらしいが・・・・・」
「火と水ですか・・・。」
リュミエールが真剣に考え込むのを見て,領主は話しを続ける。
「いつだったか母が僕に話してくれたことがある。その石はローズマリーの雫と呼ばれているが,きっとその花の様なブルーだったに違いないと・・・・。母は自分の瞳の色をとても愛していたのでね。」
「お母様の瞳は奇麗な青でしたね・・・」
「僕も母と同意見だよ。とくに君を見た後ではね。」
「わたくしを?」
きょとんと自分を見ているリュミエールに苦笑して,領主は彼の額に軽くキスをした。
「君から感じるその優しさは,どんな激しさですら包み込んでしまうだろうからね・・・・・」
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