難破船 2
いつだって鮮やかに蘇るあの場面。
繰り返し繰り返しその理由を見つけようとして,出口の無い迷路に転がり込む自分。
心が指し示すままに彼を受け入れれば良いのに。
オスカーは,何故あれほどに真っ直ぐに見据えてくるのだろう。自分を好きだと言ったあの真剣な眼差し。思い出すだけで僅かに震えがはしる。
彼はあの時,黙ったまま応えを返せない自分に優しく微笑んだ。常に反発し合う自分達の間で,これ程までに穏やかな空間が生まれた時があっただろうか。
「...おかしいだろうな俺がこんなことを言うのは。」
オスカーの落ち着いた口調が,染み渡る水の様に自分には感じられた。ゆっくりと,穏やかに,少しづつ自分の意識の奥底に向かって浸透して行く。
「リュミエール,お前を困らせたいわけじゃない。ただ俺が思っている事を伝えたかっただけだ.....」
不思議と驚きやショックは無かった。オスカーの想いは,紡ぎだされた瞬間すんなりと自分に馴染んでいたからだ。
「....俺が言いたいのはそれだけだ。邪魔したなリュミ....!?」
オスカーは,無言で彼の頬に両手を添えた自分を,息を呑んでみつめている。明確な答えが出せないけれども,この穏やかさに身を委ねるのは間違ってはいないと思った。
「お前のサクリアは,俺とは正反対に穏やかで心地良いな....」
そのまま動かない自分に,オスカーはゆっくりと顔を近づけた。
初めてかわすくちづけ。
炎の様な躍動が全く感じられないオスカーのキスは,自分にとって安らぎを感じるような甘さを含んでいた。
リュミエールが目が覚ました時は既に外は闇だった。オスカーが運んだのだろうか,彼は自分の寝室のベッドの中にいた。どうやら完全に熟睡していたらしい。
「....オスカーは帰ってしまった様ですね....」
知らずため息が洩れる。残念に思うからなのか,心細いからなのか,彼にはよくわからなかった。
ベッドから離れ,蝋燭を点すと,リュミエールは窓辺に向かった。そして,薄暗い明かりの中で朧げに映る自分の姿をガラスの中に見出す。
彼の双眸が一瞬戸惑うように波立った。
「......そこに,いらっしゃるのでしょう....?」
誰もいない室内に背を向けたまま,リュミエールは問い掛ける。
暗闇が静かに揺れる。
リュミエールは静かに振り返った。
「言ったでしょう?僕はいつだって傍にいるって.....」
クスクス笑いながらそこに立つのは,金髪に蒼い瞳を持つ少年だった。見た目はマルセル位の年齢に思える。だが,蝋燭の明かり一つでもくっきりと浮き上がるその姿は,およそ聖地に相応しいものではない。その身から発せられる気配からは,ヒトとしての実体感が全く見出せなかった。
「シスカ.....」
深いため息とともに吐き出された名前に,少年は苦笑を洩らす。
「そんなに悲しそうな顔で僕を見ないで下さい。僕まで悲しくなってしまう。」
「........」
シスカの瞳が蒼く光る。
リュミエールの顔が苦しそうに歪められた。
「貴方はそうして僕を否定しようとするんだ....僕には貴方が必要なのに.......それはあの炎の人の為?」
最後の一言にリュミエールの肩が揺れる。
「ダメだよ....貴方はきっとあの人を永遠に水底に沈めてしまう...僕のように...」
リュミエールに向かって手を差し伸べるシスカの表情は,波ひとつない海の静寂そのものだった。暗く,底知れぬ空間の中にシスカはいた。
「貴方は水そのもの。貴方だけが僕の声を聴いてくれる....」
身動きの出来ないリュミエールに何を思ったのか,シスカは挙げた両腕をおろして自らの身体を抱きしめた。
「....寒いんだ....ここはとても寒い....」
呟きがだんだんと薄れる。
そして,空中に撒き散らされるが如く分散していくその輪郭。
「....シ...スカ....」
リュミエールの掠れた声が絞り出された時には,シスカの姿は闇の中のどこにもなかった。
数秒か,数刻か。
それはほんの一瞬だっただろう。我にかえったリュミエールは自分の意識がどこかへ飛んでいたのに気が付いた。
自分の寝室を見渡し,何の気配も感じないのにほっとする。
そして,動かした視線の先にそれを見つけた時,背筋に寒気がはしった。それでもリュミエールは近づき,それを手に取る。
「....私の故郷の海は静かで美しくて,毎日のように子供たちが泳いだり貝を採ったりして楽しんでいました....」
誰に言うでもなく言葉を紡ぐ。
赤茶けた,一冊の本。
古い皮の表紙には,嵐の中で波にもまれる船が描かれている。その船の運命は,誰にでもた易く想像できた。
おそらくは人の手から手へと渡ってきたに違いないその本は,リュミエールの館の本棚の中に目立たない様にひっそりとあったものだ。彼が持ってきた物ではないから,過去の水の守護聖達の一人がそこにしまったのだろう。
彼がそれを見つけたのはほんの偶然だった。
深く暗い海の底へ,船と運命を共にした人々。子供たちを抱える母親,手を繋ぐ恋人達。嵐の中,彼らは一様にして海の藻屑となっていった。
「この身に溢れるサクリアは,まるで故郷の海のように穏やかで優しく.....」
ただの物語だと最初は思ったが,それは生き残ったある母親が語ったものを物語風に書き記したものだった。息子を失った海を見ながら綴られた彼女の想いは,遠く時を超えてリュミエールの元へと届いた。
母の強い想いの為に封じられてしまった幼い魂とともに。
”僕はいつも貴方の傍にいる....だって,貴方は......”
オスカーの炎のサクリアは聖地のどこででも感じられる。それでも,リュミエールは自分が孤独と寒さに脅えているのがわかった。
”貴方はこの冷たく凍れる海そのものだから”
”お前のサクリアは,俺とは正反対に穏やかで心地良いな...”
少年とオスカーの言葉が,いつまでもリュミエールの頭の中でこだましていた。
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