難破船 8
海を渡る風というのはくすぐったい程に爽やかだ。少しだけ潮の匂いを孕んだそれは,湿り気を帯びていて心地良かった。人気の無い海辺は,穏やかな波音だけが響いている。
「お前...最近はまっすぐに俺をみてはくれないだろう...?」
「そんなことは.....」
困った様なリュミエールには弱いオスカーだが,今回は仕方がない。
昨夜,あの少年に導かれて彼が見た光景は,オスカーに何かをもたらした。目を覚まし頭がはっきりするにつれて,自分が見たものの意味を冷静に考えることが出来たのだ。ここのところのリュミエールの変化とあの凶々しくも寂しい光景が一致したとき,もうオスカーには躊躇する理由は存在しなかった。
「俺はお前が持つ不安や悩みを全部受け止めたい。お前の全てを受け止めたいんだ....だがお前が黙っていてはわからない。」
「オスカー.....わたくしは....」
リュミエールの小さな呟きは波音にかき消される程だったが,オスカーにははっきりと聞こえる。どんなに些細なものでも,オスカーは何一つ自分の手から零れ落ちることを赦したくない。いや,赦さない。
「お前は自分を自分自身で追いつめようとしているのがわからないのか?お前の目には何も映らないというのかっ!?」
オスカーは自分が憤りを隠せない事に苛立つ。決してリュミエールに対してではない。不甲斐ない自分自身と,愛する人を陥れる存在に対してだ。
「...貴方は何を.....」
「いくら呼びかけても,お前は俺に気が付かない。暗い海の底で独り,在りもしない壁に遮られているのがお前だリュミエール....」
「......オスカーっ!」
苦しそうな表情でオスカーがはき捨てる様に言う。そしてそのままリュミエールをきつく抱きしめた。そこに彼がいるのを確かめる様にきつく。
「俺はお前を離したくないんだ。愛してるリュミエール...」
幾度となく与えられたその言葉。
「わ....わたくしは....」
最初からその感情に支配されている。ただ,言葉に出来ないだけ。リュミエールがずっとオスカーに伝えたかった言葉を。
その一瞬。
『やめてよっ!僕たちを見捨てると言うの!?』
「何っ!?」
震えるリュミエールの言葉を遮るように,突然違う気配に辺りが満ち溢れる。
空気が一瞬にして重苦しくなる。重力に押しつぶされるような苦しさが,リュミエールとオスカーを取り巻いていた。
「シスカ....」
リュミエールの心があっという間に沈んでいく。先程まで感じていたオスカーの暖かさとは裏腹に,シスカの気配は氷の様に彼に突き刺さる。未だオスカーの腕の中にいる彼の身体は,小刻みに震えていた。
「またお会いしましたね,炎の人....でも...」
纏う気配は邪悪に満ちているのに,その表情はどこか寂しそうだった。だがオスカーには少年をゆっくり観察している余裕など無い。リュミエールを抱く腕に力が篭った。
「貴方,邪魔だよっ!」
「っ!」
「オスカーっ!!!」
少年から,オスカー達に向かって投げつけられた強い力が,真っ直ぐに投げつけられる。リュミエールを庇いながら,オスカーはその直撃を受け吹き飛んだ。
明らかにオスカーを狙って放たれたその力は,少年の小柄な身体からは想像も出来ない程に悪意で固められていた。リュミエールが少年をきつく睨む。
「シスカっ!オスカーを傷つけるのはやめて下さいっ!!」
少年の怒りが,少しずつ激しくなっていく。先程まで穏やかだった海が,大きく波立ち始めた。
風が強い。
リュミエールの長い髪が,なすがままに風に巻き上げられる。
「貴方が僕たちと共に来てくれるのなら,全てが終わるんだ。」
「シスカ...わたくしの優柔不断さが貴方達を苦しめるのですね...」
「リュミエール!こいつに引きずられるなっ!」
身体が重く身動きが出来ないオスカーは,焦りながらもリュミエールを呼ぶ。
このままでは,愛する人がこの手から零れ落ちてしまう....
「もう分かっているんでしょう?ここは...この海は...僕たちが眠るところ。貴方は自らここへ来た。」
惑星に降り立った時に感じた不安。それは全てこの為だったのか。
少年がリュミエールを呼び続ける声が,彼をここまで導いたのか。
「一緒に,来てくれるよね?」
風が一瞬やむ。
少年の表情は,幼くあどけないものだった。
母を慕う子供の顔。
水のサクリアに同じ温かさを見出したのか。
リュミエールは,聖母の微笑みを浮かべて,少年に向かってゆっくり両手を差し出した。
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