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難破船 9







オスカーは、リュミエールがシスカに手を差し伸べるのを見ると同時に無我夢中で彼の名を呼んだ。何も考えられない。彼を失う恐怖だけがオスカーを支配していた。
「リュミエール!!」
 少年が喜びに満ちた表情で、リュミエールに近づいていく。
「・・・貴方がいてくれたら・・・僕たちはきっと寂しくない・・・貴方は暖かいよとても・・・・・」
「リュミエール!!!」
 少年が一瞬、勝ち誇った様な視線をオスカーに向けた。


 リュミエールがゆっくりとシスカの髪に触れた。
 オスカーはその瞬間に起こりうることを予想して体が震える。
 しかし。
「シスカ、わたくしのサクリアは暖かいと感じられるのですか?」
「え?」
 突然発せられた問いに、シスカは一瞬意味の分からないと言う風な表情になった。
 リュミエールの瞳は優しくシスカを見つめている。
「貴方はおっしゃいましたね。私の持つサクリアが、まるで冷たい海の様だと。」
「・・・・・・」
「それは、本当なのですか?」
 口調はいつもと同じに柔らかく、全く圧力を感じさせなかった。
 リュミエールの瞳に戸惑いが無い。
 シスカが呆然とたちすくむ。
 その隙にオスカーの身体が、すっと軽くなった。
「リュミエールっ!」
 オスカーがリュミエール達に駆け寄るのを見てシスカは我に返った。
 一瞬速く、オスカーはリュミエールの身を引き寄せる。確かな温もりを腕の中に感じて、今まで彼を支配していた恐怖から解放されるのがわかった。
「オスカー!」
 シスカの側から、一度は触れた彼の人が離れていく。
 その時に少しだけ胸が痛んだ気がしたのは誰だっただろうか。
「そうやってまた僕たちを放り出すんだ・・・信じてたのに・・・・」
 悲しげなシスカの顔を見て、リュミエールまでもが悲しそうな顔をする。オスカーはそれでも、腕の中の人を離さない。リュミエールはこの宇宙に無くてはならない人、そしてオスカーにとっても失っては生きていけない程に想う人だ。
「シスカ・・・・」
 リュミエールが何かを言おうとしたその時。
 シスカの姿が忽然と消える。
 オスカーとリュミエールは自分達の視界いっぱいに、黒い波が襲ってくるのを見た。止んでいた風がいつのまにか激しさを増している。
「!?」
 逃げる暇すら与えられず、あっという間に二人の姿は波の中にかき消えた。
  

 どこまで引き込まれて行くのか。
 何があっても、今度は絶対に離さない。
 オスカーは波に呑まれながらも必死でリュミエールを引き寄せた。今度は、確かな手応えを感じる。こんな状況ですらそれが嬉しいオスカーだった。
 泡が立ち上る中、彼らは静かに沈んでいく。
 もう、先程の様な激しさは無く、ただ静かな空間が二人を包み込んでいる。リュミエールには身が堅くなる程に見慣れた光景。そしてオスカーにも、僅かに覗き見た死者達の眠る深い深い永遠の世界だった。


 しばらくして気がつくと、足が地についている感覚があった。あくまでも感覚だけだが、もう身体が沈んで行かないのはわかる。
 二人は視線を彷徨わせる。
 日の射さない海の底は確かに暗黒の世界だったが、何故か彼らの目には青く透明なその光景がはっきりと見えた。それは美しくて寂しい静寂だ。独りでいたら、孤独に気が狂うかもしれない。
 そこまで考えて、オスカーはリュミエールがずっとこの中に独り身を置いていたことを思い出した。考えるだけで身震いがする。

 彼が何故シスカに引きずられるのかは今ならはっきりとわかる
 リュミエールを戸惑わせ悩ませたのは誰でもない、オスカー自身だったから。
 オスカーには、リュミエールの本心がちゃんと自分にあることがわかっている。リュミエールがそれでも一歩前に踏み出せないということもわかっている。
 彼の微笑みと優しさ、そして内外ともに変わらない美しさは、守護聖という以上に彼の本質をよく表していた。オスカーという一個人を大きく包み込む存在は、リュミエール唯一人だけだ。けれでも、リュミエールは彼自身の存在価値の大きさを認められないでいる。
 そして。

──────── 彼を戒めるのは、いつかは来る別離の時。

 オスカーですら、考えるだけで絶望に身が竦むのだ。
 サクリアが衰えれば、聖地を去らなければならない。たとえ愛する人がそこにいても、違う時の流れの中で永遠に会うことも出来なくなるだろう。その時に耐えられるのかどうか、オスカーにもわからない。そんな苦しみをリュミエールに与えてしまう自分を呪わしく思いながらも、溢れ出る想いは堰き止められなかった。
たとえ短くとも、限られた時間を二人で過ごしたい。

「オスカー、大丈夫ですか?」
 ふとかけられた声にオスカーは我に返った。どうやら、短い時間ではあるが、自分の考えに浸っていたらしい。心配そうなリュミエールの表情が自分を覗き込んでいた。
「ああ。お前も大丈夫か?」
 安心させる為にオスカーは薄く笑って答えた。
  「はい・・・・」
「それにしても、俺達を連れてきておいて、何をしているんだあのガキ」
「オスカー・・・」
 シスカをガキ呼ばわりするオスカーに、リュミエールが眉を寄せる。こんな状況でも彼は真面目だ。オスカーは思わず笑ってしまった。


 少しだけ、水の流れを感じた気がする。
「余裕だね貴方。怖くないの?」
 その存在も海の中では更に薄れている気がした。僅かに感じる邪悪な気配は、今は穏やかなものだ。彼のテリトリーの中であれば、何者であってもその力の前には屈するしかないからだろう。
「シスカ・・・」
「ようやくお出ましかボウヤ。」
 オスカーは自分が完全に開き直っているのに内心苦笑した。リュミエールを守るという目的だけが、彼を前に進ませる。女王命令でもあるのだから文句はないだろう。
「僕としては、貴方を招きたくはないんだよね。邪魔だもの貴方。」
 オスカーに向かって放たれる少年の言葉は素っ気ない。純粋に自分が望むものだけを欲しがるシスカの姿は、ある意味哀しかった。リュミエールが少年をその手から離せないのはそのせいかもしれない。あまりにも真っ直ぐに気持ちをぶつけてくる子供を、この水の守護聖が無視できるわけないのだから。そしてその優しさ故に、少年はリュミエールを望む。
 オスカーは全身の血が逆流しそうな程に心が揺れ動く。
 これは嫉妬というものか。
 彼がどんなに欲してもすぐに得られない物を、こんな少年が苦もなく手に入れようとすることに憤りを感じるのだ。
「言ってくれる・・・・だが、俺達は帰らせて貰うからな。お前と遊んでいる程暇ではないんでな。」
「貴方、自分の立場がわかってるの?貴方なんて、水圧に潰されて死んじゃっても良いんだよ僕としては。」
「ふっ、女王陛下に守られている間は、それは無理な話だな。残念だが・・・」
 少年を逆上させても仕方が無いだろう、とリュミエールがはらはらしながら二人を見つめる。だが、別段怒った様子でもなシスカは冷笑した。
「良いね、女王サマが守ってくれるんだものね。僕たちみたいなただの人間には見向きもしないくせに、貴方達って宇宙を守ってるっていう自己満足を感じてるの?」
「そんなことはありません!陛下はお一人でこの宇宙を支えておられるのです。私達はお手伝いをしているだけにすぎません。」
「・・・・お一人で、何を支えているって言うの?僕には宇宙がどうなってようと関係ないよ。僕が僕であればそれで良かったんだ。だけど、結局は僕はここにいて、女王サマは安全なところで安穏と宇宙を見下ろしてるだけでしょう?貴方の言ってる事は嘘だ。」
 無条件に信じ尊敬する女王。それは守護聖だけがその慈愛を受けられるものではないはずだ。けれども、少年はそれを否定する。
「リュミエール、こいつにそんな事を諭しても無駄だ。」
 オスカーはリュミエールにこれ以上何も言わせないつもりだ。
 リュミエールは分かっていない。目の前の少年は、幼い身で全てを奪われたのだ。オスカーには詳しい事はわからないが、この海の底に眠るというならば長い歴史の中で数多の人間が辿った運命を彼も強いられたに違いない。雄大な海原で、助けもなくその命を沈ませたのだ。そんな者に女王の加護など説いてどうなるだろうか。
「そう。無駄だよ・・・・・ホラ、皆が呼んでる・・・待ちきれないんだきっと・・・」
 リュミエールがその瞬間、無意識に後ずさりする。オスカーがその身を引き寄せるが、彼の身体が少し震えているのがわかった。暗闇の向こうから感じるものに怯えているのだろう。
「ああ、逃げないで。皆が貴方を待ってるよ。安らぎをもたらしてくれるという期待に皆歓喜してるでしょう?」
 今までになかった重圧感。オスカーが一度シスカに導かれて経験したものと同じだ。沢山の人間の想いや恨みが四方から自分たちを手招いている様な不快感が一挙に襲った。どす黒い感情があたりを支配する。
「あっ!」
「リュミエールっ!!」
 一瞬のことだ。大きな渦に取り巻かれるように、二人の身体が離れた。あまりの重圧に二人とも自由がきかない。オスカーですら身体中が軋むような苦痛を感じる。

『・・・苦しいの・・・ずっと・・・』

『・・・助けて・・・』

『帰りたい・・・・帰りたいよ・・・』

「・・・わ・・・わたくしは・・・・」
 リュミエールが耐えきれず耳を塞いだ。だが彼らの声は頭の中に響いてくる。
「一歩踏み出せばいいんだよ・・・恐れずに・・・皆、貴方を待ってるんだから・・・」
「・・・本当に・・・・私が貴方達に安らぎを与えられるのですか・・・?」
 それを司るのは自分ではないが、闇を沈めるのには闇ではだめなのかもしれない。自分が彼らに与えられるのならば、それは守護聖としてすべき事ではないのか。

 永遠の安らぎを彼らに─────


「・・・・何故逃げるの・・・?」

 逃げる?
 誰が?

 リュミエールは自分がシスカから逃げようとしているのにようやく気がついた。正常な思考は既に奪われている。だが、身体は無意識にリュミエールの奥底に潜む本心に正直に反応した。
 少しづつ後ずさる彼の行く先には、唯一人愛する存在。
 リュミエールははっきりと自分の中にある恐怖を感じた。
「・・・助けてはくれないの・・・?」
 幼い表情で哀しげに言うシスカにも、リュミエールは頭を振ることしか出来なかった。
 自分はこんなにもオスカーを欲している。生きて、彼と共に時間の流れに身を置きたい。次々と溢れ出る気持ちにリュミエールは愕然とする。いつのまにかオスカーの腕の中にいた事にすら、呆然としたまま気がつかなかった。
「ご免なさい・・・・私は・・・・オスカーと共にいたい・・・・」
 たどたどしく言葉を紡ぎながら、彼は耐えきれず両の瞳を閉じた。その目から涙がこぼれ落ちる。何故長い間一人で悩んでいたのだろう。彼と一緒ならば、海の底も怖くはないのに。力強いその腕が自分をしっかりと抱きとめてくれるのに・・・・・。
「・・・・・リュミエール。」
 オスカーは彼を後ろから抱きしめた。
 初めて口に出された言葉に深い歓喜を覚える。長い間秘められていた言葉がオスカーの耳にやっと届いたのだ。
「愛してますオスカー・・・・ずっと・・・」
 涙の枯れないままの瞳を開けてリュミエールが呟いた。
彼がそうしたのか、無意識なのか、水のサクリアが強く辺りに流れ出す。オスカーにとってはどのサクリアよりも心地良く感じられるそれ。今は、込められる限りの優しさを乗せてリュミエールから発せられていた。

 せめて、水の優しさが伝わるように。
 宇宙を統べる女王の慈愛が少しでも感じられるように。


「おい・・・あれは・・・」
 オスカーの呟きをリュミエールは無言で聴く。

 水のサクリアと共鳴するように降り注ぐ白い光。
 シスカも、沢山の声も、光の中に包まれていく。
 彼らは次なる生に向かって導かれて行くのだろうか・・・・。

「陛下・・・・?」

 聖なる白い翼が、全ての暗闇を拭い去る。
 これは、常に彼らを導く女王のサクリア。


 一瞬、白い手に軽く頬を撫でられた気がした。





 気がついたら、二人とももとの海辺で横たわっていた。
 服も濡れていない。まるで全てが夢だったかのように海は穏やかだった。
 眩しい程の陽の光が彼らの上に注がれる。
「全ては陛下のお導きだったのですね。私の迷いをご存じだった・・・・」
「ああ、それもあるだろうな。」
 今までの苦しみが嘘のように、リュミエールの心は晴れていた。

 もう、自分の想いに背を向ける必要はない。
 いつか来るその時まで、離れない。

 この惑星から感じられていた妙な不安はかき消えている。このまま戻ってジュリアスに報告しても大丈夫だろう。
 尤も、既に女王から伝えられているかもしれないが。
「帰ろうリュミエール。」
「はい・・・」
 真っ直ぐな視線を向けてくる水の守護聖の瞳は綺麗だった。

 



 穏やかな陽差しの下で、風を受け大きく帆をひろげた船が大海原を渡る。
 船を守る男達。楽しそうに走りまわる子供達と、それを見つめる母親達。
 まだ見ぬ土地が、彼らを待っている。


 水の守護聖の自室で、一冊の古びた本がどこからともなく吹いた風にパラパラと捲られた。





THE END




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