雪鏡のとける朝 1
その日も、聖地は透き通った空気とともに清々しい朝を向かえた。
日の曜日であるその日は、おそらく誰も起きだしてはいないだろう。まだ目覚めを迎えるには早い刻限である。
オスカーはゆっくりと穏やかな歩調で、水の湧き出るその庭園の中を歩いていた。
これ程までに自分の心をざわめかせる存在を、今もふと頭に浮かべてオスカーは苦笑する。
この様に朝早くからふらふらと彼の人の私邸の前まで来てしまうのは、これで何日目だろうか。数えるのも馬鹿馬鹿しくてため息が出る。
今日もまた、オスカーの"散歩"は、収穫も無しに終わった。
「...大丈夫ですかオスカー?」
すぐそばできこえたリュミエールの声に、オスカーは一瞬にして現実にかえる。
どうやら会議が終わってからもしばらく惚けていたらしい。
リュミエールの心配そうな表情がオスカーの目に入った。心臓が跳ね上がりそうな感覚を、オスカーは理性を総動員させて押さえる。
「なんでもない。少し考え事をしていただけだ。」
オスカーはそっけなく言って、さっさと立ち去ろうとした。
しかし、水の守護聖の憂いを帯びた双眸に捕まって、足が動かせない。
この水色の麗人はおっとりしている反面、実はとても力強い何かを持っているらしい。
オスカーはリュミエールの視線に囚われたように立ちすくんでいた。
「何でもないというご様子ではないようですが...?きちんと眠っておられますか?」
「当たり前だろう。人の心配をするのも良いが、自分こそ顔色が悪いぞ。」
オスカーは冷たく言い放つ自分に内心腹が立つが、それでも正直に振る舞う事はできなかった。
リュミエールが首をかしげるのを見てドキリとするのを押さえるのも一苦労だ。
気の向くままに女性を口説いている時とは違い、今は自分のペースが掴めなかった。いい加減立ち去らねば、とオスカーは身を翻す。
「仕事をさぼっていると、ジュリアス様に叱られるぞリュミエール。またな。」
自分では上出来だと思う。ごく冷静に立ち去ることができそうだ。
オスカーは内心ほっとした。しかし、後ろから追ってきた声に、再び足が動かなくなる。
「貴方の理由を聞かなければ、私はこれからも毎朝はやくから目を覚まさねばならないのです。
睡眠不足はいけないと貴方はおっしゃったではありませんか....」
「なっ.....お前...知っていたのか...?」
自分が秘めた思いとともに見上げる想う人の部屋の窓は、常に閉じられていたはずだ。
気が付いて貰いたいと思う自分と、心を明かしてしまうのを恐れる自分とがいつもせめぎあっている。
これはオスカーだけしか知らないはずの想いだった。
「知られたいからこそ貴方はいつも佇んでいたのではないのですかオスカー?」
鏡の様なリュミエールの瞳が、オスカーの動揺を映す。
水と炎。しかし、常に相反する自分達の間に垣間見る何か。
ある日オスカーは、日を追うごとに膨れ上がる想いが愛や恋の類であることに気づいてしまった。
けれども、その想いを相手に告げることは躊躇われた。相手が同じ想いを返す事はありえない。
自ら最後の杭を打ち込むくらいなら、このまま想いを閉じ込めておこう。
毎朝見上げる窓を見つめながらオスカーは自分に言い聞かせていたのだ。臆病な自分に情けないと思いつつも。
「貴方が、いつか窓を開いて私の目の前へと来てくれたら、
私も心に閉まっていた想いを伝える事が出来ると....貴方の強い炎のサクリアを常に感じながら、
つい窓を開けて飛び出して行ってしまいそうになる自分を押さえていました。」
目を見張るオスカーの前には、燐とした水色の光を帯びた瞳があった。
日の曜日。穏やかな朝の光の中、リュミエールの私邸ではカチャカチャと食器の音が響いていた。
水の守護聖の寝室の窓は大きく開かれ、テラスでは人待ち顔のリュミエールが緑の庭園を望んでいる。
その緑の中に、柔らかく朝日に照らされた彼の人の髪が見えると、秀麗な水の守護聖の顔はうっすらとピンクに染まった。
「よう。今日もご機嫌麗しゅう、水の守護聖殿。」
「おはよう御座いますオスカー。」
オスカーは自分を見下ろすリュミエールの優しい表情に、満足そうな笑みを浮かべた。
「...それで水の守護聖殿、俺は家に入れていただけるのかな?」
「勿論ですオスカー。こちらで朝食を御一緒致しましょう。どうぞあちらからいらして下さい。」
そう言ってリュミエールが指差すのは、テラスのすぐ横にある大木である。
オスカーとリュミエールの間にひとときの静けさが通り過ぎる。リュミエールの綺麗な微笑みは、いつもと変わらず美しい。
「....あの時は私の方が根負けしてしまいましたが...オスカー、貴方にも少々苦労していただかないと割に合いません。」
「リュミエールお前....」
優しい水の守護聖の裏を垣間見たようなオスカーだったが、リュミエールの笑顔を見ていたらどうでもよくなった。
「よし。今すぐそっちに行くからなリュミエール!」
オリヴィエあたりが見ていたら、勝手にやっててくれとでも言われそうな二人である。
数分後には、テラスに用意された朝食を前に、楽しそうに談笑するオスカーとリュミエールの姿があった。
完
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