ラインハルトが退出した後、しばらく同僚達同士の談笑は続いた。
普段は忙しくて、それぞれ顔を合わせる事が少ないおかげで、こういう時はおおいに話に花が咲く。
もっとも、オーベルシュタインは皇帝が出ていってすぐに姿を消すのが常である。一部に言わせれば、彼がいると迂闊に話が出来なくて、息苦しいそうなので、彼がいないほうが都合は良いらしい。
一時間も経っただろうか、ようやくおひらきになった室内にはロイエンタールとミッターマイヤーのみとなった。
「俺達も帰るか。久々に楽しい夜だったな。」
「ああ。奥方も待っているだろう。」
実際はミッターマイヤー夫人は先に寝ているはずだった。何故なら、ロイエンタールとミッターマイヤーは、しょっちゅう二人で酒を酌み交わし、徹夜になることもしばしばだったからだ。
気の合う友同士であり、かつての学友である二人は、仕事においても良いコンビである。
城を出てすぐだった。
「誰だ!?」
暗闇の中でふいに何者かの気配がした。
途端に、二人に向かって赤い閃光が走った。
「!?」
「くっ!!」
とっさにロイエンタールは自分達を庇う様にして、簡易魔法を発動させる。
同時に閃光は消滅したが、ロイエンタールは続けて敵に向かって光を放った。
「!?うわあああああああああっ」
光が収まると、二人の前にはショックで気を失った魔法使いらしい男が転がっていた。
ミッターマイヤーは眉を寄せて、その男に近寄る。
ロイエンタールの放った光は特別相手を攻撃するものではなかったので、男はただ気絶しているだけである。なんとも情けない風情にロイエンタールは少々不満気だ。
「どうやら、どこかの誰かがようやく動き出したようだな。それにしても俺達も随分と過小評価されたものだ。それとも、何か別の意味があるのだろうか...」
「とにかくこいつを城へ連れていかなければな。小一時間は目を覚まさんだろう。俺が担ごう。」
そう言ってロイエンタールが男を乱暴に担ぎ上げると、二人は今来た道を、再び城に向かって歩くのだった。
ロイエンタールとミッターマイヤーが何者かの攻撃を受けたのとほぼ同刻に、オーディーンの港へ音も無く侵入した集団がいたのだが、それに気がついた者は皆無であった。
夜のオーディーンは海の音だけがきこえる。酒場にでも行けばそれなりに賑やかだろうが、港は常に人気もなく静かだ。
しかし今夜は少々違う。
ヤン・ウェンリーは暗がりの中で一人海を見ていた。
まっすぐ、エルベの国がある方向に向かって、普段はあまり見せない厳しいまなざしで海を見つめていた。
晴れた日であれば、海の向こうにエルベの姿が見える。
エルベはアルクスライヒよりももっと小さな王国で、薬草で有名な所だった。
多くの薬師達がオーディーンとエルベを行き交い、港は常に賑わっている。港に入る船の大部分がエルベとオーディーンを繋ぐものであるのもうなずけるだろう。
アルクの花に彩られたアルクスライヒには及ばないまでも、エルベは自然がとても美しく、湖があちこちに点在する。
このエルベは小国ながらも、他国の影響を対して受けずに平和に満ちている国だった。アルク同様、周囲を険しい山脈に囲まれているというのもその理由の一つだが、実はエルベ王家はアルク王家と同じ血脈を持ついわば親戚関係にある為、アルクスライヒという大国に睨まれながらエルベに手を出す国は皆無なのだ。
何代か前のアルク皇帝が、自分の弟にエルベを与えたのがこの国の最初であった。以前ほどの親密さはないが、今でも両王家は友好を保っている。
「それで、貴方は何をなさっておられるのかな。」
涼やかな潮風が横を過ぎ去る。
ヤンはエルベに顔を向けたままで静かに目を伏せた。
「エルベから眺めるこの国はとても綺麗ですよ。」
一度言葉を切って、ヤンは続ける。
「ここから見るエルベは美しいと思いますか、トリューニヒト卿。」
トリューニヒトと呼ばれた男は、ヤンのその言葉には答えなかった。その代わりに自嘲じみた笑みをもらすと、自分も視線を海の向こうへと向けた。
「貴方が何をしようと、アルクは手強いでしょう。無駄なことをなさってるとは思いませんか。」
ヤンの言葉にトリューニヒトは今度は口をひらいた。
「貴方はそれでよろしいのか?」
「何がです?」
すぐに返されたヤンの素っ気無い言葉に、トリューニヒトは小さく笑った。
「どうやら貴方は正真正銘の無能者らしいですね。ヤン家を継ぐには相応しくない。お父上は活動的で頭のおよろしい方でしたが...いや、失礼しました。」
何も答えないヤンに向かって嫌な笑いを向けると、トリューニヒトはもう用は済んだとばかりに、背中を向けて去っていった。
彼の姿が見えなくなると、ヤンは思い切り嫌そうな表情で、これ以上にないくらいに深くため息をついた。
「....トリューニヒト卿...無能は貴方でしょう。本気でアルクに立ち向かえると思っている貴方が一番の馬鹿です。」
「同感ですな。あの男は全く周りが見えていない。」
「シェーンコップ.....」
どこに隠れていたのか、音も無く横に立ったのはシェーンコップだった。というより、ヤンがぼーっとしていたのかもしれない。少し驚いたようなヤンに、シェーンコップは笑いかけながら言う。
「どうやら、動き出した様子ですよ。先程かの双璧のお二人が襲われた模様ですが、まあたいして相手にされてませんでしたね。」
「そりゃそうだろう。あの二人は帝国一の魔法継承者だ。そこらへんのアホに相手が勤まるわけがない.....」
「そうでしょうねえ....第一、皇帝の側近は彼らを含めて皆かなりの剣の使い手ですし、強大な魔法でもないかぎり勝てませんよ。」
最後の方にはなにやら含みがあったが、シェーンコップはそれだけ言うと、ヤンに帰りを促した。
「しばらくは何もしないんですよね?ユリ坊も待ってますから、今夜はもう帰りましょう。」
ヤンは何も言わずに肯いて、もう一度暗い海を見る。
夜は何も見えないが、ヤンには海の向こうに美しいエルベの姿が見える気がした。
そんなヤンを見つめるシェーンコップの表情はどこか憐憫がこめられていたが、ヤン自信はそれを見ることはなかった。
何か物音を聴いたような気がしたエミールは、慌てて服を整えると外へ飛び出した。エミールは兵舎ではなく、すぐ近くの自分の家で待機しているのが常だった。兵舎には主に遠い地方からの者や、家族のないものが住んでいるのだ。
辺りは真っ暗なため何も見えないが、エミールの耳にはいくつかの足音が掛け去るのがはっきりと聞こえる。しかし、次第に彼の視界がはっきりしてくると、数人の男達が地面に倒れ伏しているのがわかった。
「...!?」
そこに倒れていたのは、自分の同僚達だった。おそらく夜勤を命令されていたのだろう、きちんと制服を身につけている。エミールは慌てて駆け寄るが、皆完全に意識が無く反応がなかった。
「一体、誰がこのような事を.....とにかくすぐに知らせなければっ」
彼一人で、皆を運ぶなど到底できないので、ともかく兵舎へ行って誰かつれてこようとエミールは立ち上がった。
がその時、エミールの視界は突然真っ白になり、続いて突風が彼の体を吹き飛ばした。
「うわああああああああああああっ」
思いきり背中を打ったエミールは、低くうめいたまま動けない。それでも視界は再びはっきりして来て、自分を吹き飛ばした相手を見ることができた。
フードを目深に被っているために顔はわからないが、背の高い体躯の良い男だ。手には何も持っていないところを見ると、どうやら魔法使いか何からしい。何にせよエミールは剣も持っていないし、魔法も使えない。次に襲い掛かるであろう一撃をただ待つだけだった。
その時ふいに、ほんの一瞬だがエミールは何か風が頭上を走ったように感じた。
「エミールっ!大丈夫か!?」
「ミッターマイヤー!エミールを保護しろっ」
声と共に強い光と光がエミールの視界の中で激しく行き交う。
エミールの目の前で、彼の敬愛するロイエンタールと正体不明の男が戦っている。彼をはじめ他の皆も、ロイエンタールが真剣に魔法を使うなど滅多に見れるものではなかった。
驚きと感激とで目を見開いているエミールと、彼と自分にシールドをかぶせて魔法の余波が来ない様に場を作るミッターマイヤーの二人の目の前で、既に簡易魔法のレベルを超えた力がロイエンタールと謎の男の間でぶつかり合う。
先程ロイエンタール達を襲った男など問題ではなく、この謎の男はロイエンタールの放つ高位魔法にもびくともしない。流石のロイエンタールも額に汗がにじみはじめた。
これ以上の高度な魔法は、周囲への影響も激しい為に使用するのがためらわれる。実際は短い時間だったが、彼らには相当に長く思える一瞬だった。
ふいにロイエンタールが自分の脇に持っていた剣を抜いた。
男は不意をつかれたように一瞬戸惑う。ロイエンタールは魔法を使わずに、その隙をついて剣を手に走った。
慌てた男は防御魔法を唱えようとしたが、ロイエンタールの方が一瞬早くその剣を男の腕へと突き出した。通常の、剣など使えない魔法使いとは違い、皇帝とこの国を守る彼らの剣術は並大抵なレベルではない。
男は右腕に深手を負ってそのまま地面に倒れた。
ロイエンタールが何かしたのか、男は全く身動きができない。
「エミール、怪我はなかったか?」
「はっはい!大丈夫です。助かりました本当に。」
ほっとするエミールを確認すると、ロイエンタールとミッターマイヤーは倒れて動けない男のフードを剥ぎ取った。
まだそれ程歳をとっていないが、彼らよりは上だろうか。
「生身の攻撃に弱いのが致命的だったな。あまり俺達をみくびらないでもらいたいものだ。」
憤然と言うロイエンタールだが、内心はこの男の技量に疑問を感じていた。これほどの力を持つ者がエミール達を襲い、赤子に等しいような力しか持たない者が、ロイエンタール達を襲ったのだ。
あの後すぐに城へ向かおうとしたが、偶然にも通りかかった部下数名に意識の無い男を託して、そのまま二人はオーディーンへ向かったのだった。一種の感というものだろうか。何か嫌なものを、オーディーンから感じたせいだ。
「こいつは絶対に連れていかないといけないな...卿と互角に争う者など滅多なことではお目に掛かれないないからな。」
「....だが、何かがひっかかる。」
横で何も言えずに立っているエミールは、その時自分の周りに嫌な風が吹いたのを感じた。
直後、ミッターマイヤーが突然に立ち上がる。
「空気が動いた。まだ何かがいるぞ...!?」
ロイエンタールも同様の気配を察したらしく、表情を硬くして意識を辺りに向ける。そして突然にその身をひるがえし、暗闇の向こうへと炎の柱を放った。
「!?」
その炎は、そのまま自分たちへ向かってはねかえってきた。咄嗟に防御魔法でかわすが、ロイエンタールはそれ以上の攻撃はしなかった。
そこに倒れていたはずの男も、謎の気配も既に消え失せていたからだった。
ガイエスブルグは然程奥まった場所ではないが、それでも静養にも適しているところだ。皇妃ヒルデガルドはその夜も、バルコニーで一人、思索を巡らせていた。
時々手で自分の腹部を撫でているのに気づいて、ヒルダはひとり苦笑する。男勝りで、父親にまで”それでも女か!”と度々しかられた程に激しい気性の自分が、子供などと随分と女らしい事をしているものだとヒルダは思う。
テーブルにのせられた花瓶には、昼間ラインハルトから届いたうす紫の花があった。何という花だったか。ヒルダは毎日こうやって律義に花を届けてよこすラインハルトを思って、静かに笑った。
しばらくぼんやりとしていただろうか、突如ヒルダの周辺に霧のようなものが立ち込めはじめた。しかし、ヒルダは特別気にした様子もない。
その霧はだんだんと人の形を取り始め、しばらくすると誰か見知らぬ男が現れた。
「皇妃ヒルデガルド様、御無礼をおわび申し上げます。」
そういって男はヒルダに向かって、恭しく一礼する。
ヒルダは全く反応を示さない。ただ空ろな表情で男を見ていた。
「貴方様には大変不本意であることと存じますが、わたくしと共に来て頂きます。といっても聞こえてはいないでしょうが....」
男は口元だけで薄く笑うと、ヒルダに自分の右手を伸ばした。
しかし、彼がその手を彼女に触れさせることは出来なかった。
「!?」
「きっといらっしゃると思って待っていたのです。」
自分の術中に陥っていたはずのヒルダが美しい笑顔でそう言うのを、男はある意味脅えたように目を見開く。
しばらくして男が気づいた事は、自分の体が全く自由にならないという事実であった。
自分を真っ直ぐ見据えてくるヒルダの前で、男はなんとか自由を取り戻そうと必死になったが、何故か全く身動きがとれない。男の額に冷や汗が流れた。
「どうやら下調べが足りなかった様子ですのね。」
「あ...お...まえ...」
「早く御用件をおっしゃって下さいな。夜は冷えますし...」
ヒルダの笑顔は先程と同じだが、男のほうは真っ青な顔でうめいている。何か見えない力に押さえられている様な感じでもあった。
男が何も言えずにいるのを見て、ヒルダは薄い微笑を浮かべたまま自らの左手で男の頬を撫でる。
「私はこの子の母となる身。何に変えても我が子の命を守るのが母というものです。」
「....う..あ....」
「貴方にも母がいるのでしょう?」
恐怖に脅えていた男が、次第に穏やかな表情になっていく。
ヒルダは変わらず彼に微笑を向けていた。
「お眠りなさい.....」
その言葉がまるで合図になったように、男はそのまま深い眠りに落ちて行った。
力無く崩れ落ちるその体の横で、ヒルダは張り付いた微笑をそのままに、再び自分の腹部をさする。そしてふと気がついたように、ラインハルトがいるはずの方向へ顔を向けるのだった。
翌日、皇帝ラインハルトは、皇妃ヒルデガルドから届いた贈り物に唖然とした。
「皇妃....」
「流石ヒルダ様ですね。わたくしの気遣いなど逆に失礼でした。」
ラインハルトとキルヒアイスの前にいるのは、昨夜ヒルダを襲おうとした男だったが、見事なまでに萎縮している。
逃げようという意志は全く感じられなかった。
ラインハルトが近寄ると、男は身体をびくっとさせたが、黙って頭をたれた。
「...何の為に皇妃の元へ行ったのか話せ。」
ラインハルトも、男があまりにも大人しい為に、さほど威圧せずに命令する。キルヒアイスは、いつでも飛び出せるように手元の剣に手を添えていたが。
「私は....皇妃様を連れてくるようにと命令を受けて...」
「誰の命令だ?」
男は少し黙ったまま歯をくいしばっていた様子だったが、結局は口を開き全てを語った。