お題其の三・放課後


正午ピッタリに唯一の勉強道具である薄っぺらなバインダーをパタリと 閉じ、さっきから口の中で

噛み続けていた鉛筆を耳の上に乗せると、僕は教授のレクチャーが終わるのも待たずに巨大な

レクチャーホール(講義用ホール)を飛び出した。金曜日の講義はとにかく集中するのに骨が折れる。

多分これが今日の最後の授業なのだろう、僕のように我慢できずに外に出て来たヤツが十数人ほど周りにいた。

ホール内の暗さに目が慣れてしまった僕は、外の日差しに目をしばたたかせた。

じっとしていると肌がジリジリと焼けていくのを感じる。

「金曜日の放課後」って言葉がシックリくる正午だ。

普通、金曜のクラス・スケジュールは比較的早い時間に終わるのだが、 今終わったばかりの宗教学の

ディスカッション(注1)が金曜日の五時という、途方もなく遅い時間(しかも前のクラスと

4時間のギャップがある)にあるので、そうそう休み気分に浸るわけにはいかなかった。

ふと周りを見ると、ホールから出てきた人・人・人の波。可愛いワンピースを着た女の子達が、

携帯電話をかけている。大方これから友達とダウンタウンにでも遊びに行くんだろう。

それなのに僕ときたら、たった一つの(しかも死ぬほど退屈な)ディスカッションの為に遊びにすら

行けないんだ!だいたい何処のどいつが金曜日の五時なんかにゾロアスター教やらヒンズー教

やらについての討議なんかしたがるかっつーんだ?!

決めた。

僕は野球帽を後ろ前にかぶり直し、小脇に抱えていた愛用のスケボーを 地面に置いてその上に軽く飛び乗った。

右足で数回漕ぐと、かなりのスピードで滑り出した。風と太陽が気持ちいい。心なしか海から潮の匂いが

漂ってきている。

「こんな日に波乗りしないで何時するんだ」

僕は上機嫌のまま寮までの道のりを飛ばす。

T.G.I.F!(注2)

歌うようにキャンパス内の道を突き進む。キャンパスの歩道は自転車 禁止になってるんだけど、

なぜかスケボーは黙認されてるんだ。なんか矛盾しているけど、まあそのお陰で毎朝ぎりぎりまで

寝てられるんだから結構なことだ。

「ハーイ、元気?」

同じ寮に住んでる女の子の横を通り過ぎたら挨拶された。確か、ジェニーとか言ったと思うけど、

よく知らない。背が高く、誰にでもすごく愛想が良いので、勘違いする男が後を絶たない。

「週末どうすんの?」

「実家に帰るの。ジェイがLA(注3)まで乗せてってくれるから」

「そう、じゃあ良い週末を」

「ありがとう。そっちも」

一分足らずのお定まりの社交辞令を口早に交わして別れると、寮はもう 目の前だった。

中に入るとカウンターに座っていたのは僕の知り合いのRA(注4)ではなかった。

「ミシェルは?」

「今日は非番よ。さっきサーフボード抱えて出てったから多分 キャンパス・ポイントかD.P.(注5)で波乗りじゃないの?」

それだけ聞くと僕の心は既にキャンパス・ポイントに飛んでいた。 先ほどから宗教学のディスカッション

には行かないと決めていたので気分はもう休み状態だ。それに何より開け放たれた海向きのドアから

潮の匂いがしてたまらない。

部屋に戻るとルームメイトのデミトリーがびっくりした顔で、荷造りの 手を止めてこっちを見た。しめた。

週末は出かけるらしい。これなら久々にのんびりと部屋を一人で使える、と思うと顔が緩んだが、あまり

あからさまにならないように気を付けながらクローゼットから ウェットスーツを取り出した。

しばらく波に乗らないうちにホコリを被って白っぽくなってしまった それに着替えていると、デミトリーが言う。

「きみ、確かまだクラスあったんじゃないの?」

こいつはロシアから来た留学生で、信じられないほど真面目な性格なんだ。真面目なだけなら良いんだけど、

なぜか人のクラスのスケジュールをいちいち覚えていて、僕がサボろうものならすぐこうやって尋問して

くるんだ。寮に入ってから八ヶ月も経ったのに、こいつの堅苦しさにはついていけない。

「今日はもう良いんだ。それより土日どっか行くの?」

「親がロシアから会いに来てんだ。LAに居るから会いに行くんだ」

お互い久々に顔を突き合わせなくて済む時間ができるので、なんとなく 愛想がいい。

僕は適当に別れの挨拶をしてからサーフボードを抱えて裸足のまま キャンパス・ポイントまで歩く。

相変わらず見晴らしの良いこの場所から下を覗くと、思ったとおり、 ミシェルが他の連中に混じって

波を掴えようとしている。

「ミーーシェーーール!!」

僕が崖下一面に広がる海に向かって叫ぶと、はじめは声の出所が分からないらしくキョロキョロとしていたが、

すぐに上にいる僕を見つけて手を大きくふる。

「きょーーおーーーーはーーーー、なーーみーーはーー、どーーーおーーー!?」

「まーーーーあーーまーーーーあーーーーー・・・」

という声が微かに返ってきた。

まあまあ、か。まあ早朝の波みたいに、ってわけにはいかないか。 僕は「すぐそっちに行くから」と

ミシェルに言い残して、海へ続く坂道へと向かい始めた。

<後日談>

実は、あの日僕がサボったディスカッションで小テストがあったらしい。更に中間試験のサンプル問題も

カバーされたらしい。明日は中間試験なのに、ほとんどお手上げ状態だ。

やっぱりあの時クラスに無理にでも行けばヨカッタ、と少し僕は後悔している。


注1:初級レベルのクラスには、週2〜3回の教授による講義と、週一回のT.A.
(teacher's assistance、大体が院生で、助教授のようなもの)によるディスカッションがある。
実際に成績をつけるのはT.A.達なので院生とは言え、侮れないのである。

注2:Thank God It's Fridayの略。日本でいう「花金」ですね。
やっぱりどこの国でも金曜日は嬉しいようで。でもこっちでは神様に まで感謝してしまうので
結構大袈裟です。

注3:ロスアンゼルスの事。ここサンタバーバラから来るまで南に2時間くらい。
田舎なサンタバーバラと違って、物も店も断然揃ってるので 週末に遊びに行く人は多い。
ただし車のない私のような者は居残る。

注4:Resident Assistanceの略。うちの学校の寮には2年生以上の人が RAとして寮内の管理、
イベント計画、クレーム、などなど色々な世話を焼く。クレイジーで、生意気な一年坊たちの為に
日夜走り回る大変な仕事。

注5:キャンパス・ポイントもD.P.もどちらも海に隣接した場所の名前。キャンパス・ポイントは
ただの崖だが(夜行くと☆と海岸の明かりが奇麗に見える)、D.P.は学生達がすむ家が建ち並んでる。
金曜の夜とかはパーティーでばか騒ぎを起こすのも全てD.P.の住人たち。

●ほりゑ(日本)の「放課後」エッセイを見る●


手がいたい。タイプし過ぎたよ。 1