歌川広重(1797-1858)は、江戸の町の火消しの家に生まれ、はじめは、家業を継ぎ、仕事をするかたわら絵の勉強もしていました。後に浮世絵に専念するために、火消しの仕事をやめました。広重は浮世絵頽廃期と言われる、19世紀前半に活躍し、多くの美しい風景画や花鳥画を描きました。
広重は歌川豊広のもとで浮世絵を学んでいましたが、よく、同じ風景画家の葛飾北斎と比べられます。広重が「静寂」、とすれば、北斎は「動」であると言われています。
広重の作品は日本人の心情をよく表しており、雨、風、雪、また花鳥類、といったものを題材に取り入れ、四季折々の日本の自然の美を詩的に表現しました。
広重は天保三年(1832)に、江戸から京都までの旅行中、その往路、復路に東海道を通りました。東海道中、広重は宿ごとに、付近の美しい自然、またそこに住んでいる人々をスケッチにしたため、江戸に帰った後、そのスケッチをもとに「東海道五十三次」を出しました。このシリーズは、絶大なる人気を得ました。
広重は晩年、自分の生まれ育った江戸の美しい風景を「江戸名所百景」に表し、このシリーズも「東海道」シリーズ同様、大成功を収めました。
東海道は、江戸の日本橋を出発点とした5つの主要道、五街道(東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道)の一つです。
東海道は江戸から東方沿海の諸国を経て京都三条大橋に通じる道で、徳川幕府はこの沿道を全部譜代大名の領地とし、五十三次の駅を設けました。
東海道は江戸時代、多くの作家、画家、浮世絵師によって題材として選ばれ、歌川広重の「東海道五十三次」の他に、例えば北斎の「五十三次」、江戸時代前期の仮名草子作者である浅井了意の「東海道名所記」、浮世絵の創始者、菱川師宣の「東海道分間絵図」が挙げられます。中でも広重の55の作品が収めてある「東海道五十三次」がもっとも知られています。
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