浮世絵の歴史

  • 終焉時代そして現在


江戸時代 - 浮世の世界
江戸時代は、長く続いた戦国時代の後、安土桃山時代を経て17世紀初めに徳川家康の手によって幕を明けました。江戸時代、各地の大名は一年おきに幕府のお膝元、江戸に滞在することを義務ずけられました。文化の中心は大阪、京都から、次第に江戸へと移っていきました。特に明暦の大火(1657)の後は、江戸城下の区画整備も進み、江戸は大都市へと発展をとげました。 江戸の町は歌舞伎や遊技施設、また吉原に代表される廓等、華やかなエンターティンメントで賑わい、浮きの世、「浮世」と称されました。 貴族や武士中心だった前時代までの文化とは違い、江戸文化はよく「町人の文化」と言われます。事実、江戸時代を代表する文化である、文楽、歌舞伎、浮世絵等は、町人達によって支えられ、発展したものです。


浮世絵初期
浮世絵は17世紀後半、菱川師宣(1618-1694)による白黒二色の硯絵(すずりえ)と呼ばれる木版画がはじまりと言われ、以降、江戸時代を通じて、多くのすぐれた浮世絵師、彫師等によって発展していきました。


初期錦絵
菱川師宣が硯絵を生みだした後、多くの浮世絵画家によってその発展が試みられましたが、18世紀後半に錦絵、と呼ばれる多色刷りが鈴木春信により創案されました。
錦絵は明和年間(1764-1779)の初め、当時流行っていた「絵暦」と呼ばれた絵付きのカレンダーに紹介されたのが始まり、と言われます。 春信は絵暦のデザインを担当しており、絵暦を通じて錦絵を世に紹介したため、「錦絵の創始者」と呼ばれています。

錦絵は多色にするため多くの木版を要します。春信は美しい若い男性や女性を多色刷りの技法を使って詳細に表現しました。






黄金時代
第二の江戸文化は天明年間(1781-1789)におこりました。天明の文化は江戸の町人の手によるもので、町人たちは江戸を中心とする華やかな文化を楽しみ、劇場や廓は連日賑わいをみせていました。

安永、天明年間(1772-1789)、北尾派は重政(1739-1820)が中心となってその勢力を拡大していました。 重政は多くの門人を持っていたと言われ、歌麿、また、後、頽廃期に活躍する北斎をはじめとする 多くの浮世絵画家が出ました。

天明(1781-1789)、寛政(1789-1804)年間に活躍した浮世絵画家として 鳥居清長喜多川歌麿東洲斎写楽、 歌川豊春 (1735-1814), 歌川豊国 (1769-1825)が挙げられます。

清長は多くの美人画を描いた画家として知られていました。女性の洗練された美しさを最大に引き出すため、清長は2枚、3枚の続き絵を多くてがけました。
国内、海外を問わず、浮世絵画家として一番名の知れているのは歌麿、と言われています。「大首絵」、として知られる、歌麿特有の美人画は、女性の美しい表情を強調して描くためにを創案した、と言われています。
写楽は、出生、本名を含め全てがなぞに包まれていますが、彼の誇張した、ユニークなスタイルは世界的にも有名です。
豊春は風景がで知られており、彼の作品は後に北斎広重 に影響を与えました。
豊春の門人である歌川豊国は多くの役者絵や美人画を描き、歌川派は豊国の代において、大いに勢力を伸ばしました。


頽廃時代

江戸時代の文化は全盛期と言われた天明、寛政年間を過ぎると、寛政の改革の反動もあって、徐々に退廃へと移行していきました。政治面では、幕府の関心は対外国政策へと移行したものの、思うようにはかどらず、また、これといった国内政策も行われませんでした。文化面においては新鮮さや自由さが欠けていき、かわりに誇張され、また歪んだ複雑なものが喜ばれるようになっていきました。

江戸文化の退廃期と言われた19世紀初頭から中期にかけて活躍した浮世絵画家には、美人画では歌川国貞(1786-1864)溪斉英泉(1790-1848)、菊川英山(1787-1867)らが、武者絵では歌川国芳(1797-1861)、また風景画では葛飾北斉(1760-1849)歌川広重(1797-1858)があげられます。


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