喜多川歌麿(1753-1806)は、数多くいる浮世絵師の中で、現在おそらくもっとも知られている、と言えます。
歌麿は、鳥山の門人として浮世絵をはじめ、当初「Toyoaki」という号を用いており、「歌麿」という号は後になって使いました。
歌麿全盛時代は天明、寛政年間(1781-1801)でした。歌麿は、
「大首絵」と呼ばれる上半身のみを描いた浮世絵の作品を多数描きました。その際、女性の美しい顔の表情を最大限に引き出すために、女性の胴より下の部分を描かず、また衣服を簡略化しました。
歌麿の活躍した時期である天明、寛政年間になると、廓、水茶屋で働くどこにでもいるような女性をただ描くのでは、世間でも物足りなくなっていました。歌麿は当時一世風靡した、吉原を代表する女郎、また水茶屋、町屋の女性を選び、歌麿の美人画は大変もてはやされました。歌麿の全盛期には、実に50もの版元が歌麿に作品を依頼していた、と言われます。
当時、歌麿の強豪相手として知られていたのは、武士であり、後に浮世絵師に転向した長文斎栄之でした。
長文斎栄之(1756-1829)は、元武士であり、ほとんどの浮世絵師が町人であったことを考えると、特異な存在と言えます。
栄之は、代々勘定方奉行を勤める旗本500石、丹波藩細田家の長男として生まれましたが、浮世絵に専念するために家督を譲りました。栄之は多くの女性の全身像を描き、その上品な作品は、主に武士階級や裕福な町人達に喜ばれました。