三月・・・。 昼間の空気も暖かくなり始め、そろそろ春が近いことが肌で感じられる。 しかし、日没も近くなり始める頃には、空気も冷たく、吐く息もまだ白い。 部屋の前で俺は、近所のスーパーの買い物袋を片手に鍵を取り出し、 少しでも早く傍ら佇む愛しい人を、この寒さから開放してあげたいと、 ドアを開けるのを急いでいた。 彼女の名は澤倉美咲。 今、俺の最も愛する女性(ヒト)。 他に俺が愛している女性がもう一人居る・・・。 しかし、俺がもう一人の女性を愛する資格は・・・、無い。 たぶん、永遠に・・・。 俺は、自らそれを選んだ。選んでしまった。 そうする以外に俺は・・・、俺の弱い心は、答えを見出せなかったから。 「さあ、美咲さん。空いたよ、早く入って。」 そう言って俺は、美咲さんを促す。 まだ、ためらいがあるのか、それとも性格からなのか、 未だに美咲さんは自ら進んで俺の部屋に入ろうとすることはない。 合鍵を渡そうとしたことも何度かあったが、 その度に美咲さんは断わった。 「だって、由綺ちゃんにも渡していなかったんでしょ・・・。」 最初に鍵を渡そうとしたとき、美咲さんは横に首を振り 悲しそうな笑顔で聞いてきただけだった。 俺は言葉に詰まり、ただ「・・・うん。」としか言えなかったのを はっきり覚えている。 その後も、硬くなに鍵を受け取るのを断り続ける美咲さんに、 最近は俺もその話をすることも無い。 俺は由綺に合鍵を渡していなかった。 いや、渡せなかったんだ。でも今となっては そんなことは言い訳にもならない事も解かっている。 そして、美咲さんはその事を知っている。 その事実があるかぎり、美咲さんは決して受け取ることはないだろう。 今更とは思いながらも、俺がこれ以上由綺を裏切りたくないと 思っているのと同じように・・・。 俺に促されて、美咲さんが部屋に入ってから、俺も部屋に入る。 そして先ず、暖房を全開にして部屋を暖める。 さすがに三月ともなると、暖房を入れっぱなし外に出るには空気は暖かい。 もう、冬は終わるのだから。 そんな中、美咲さんは上着を脱ぎ、早速料理の準備を始めている。 今夜は、美咲さんの手料理を俺の部屋で食べさせてもらえることになっている。 クリスマスの夜に食べたチーズケーキのおいしさが示すように、美咲さんは お菓子作りが上手だ(もし由綺がその事を知っていたら、習いに行っていたかもしれない) そして、それに優とも劣らないくらい料理も上手だった。 前に、美咲さんに手料理を食べさせてもらった時には、 あまりのうまさに、美咲さんが照れ屋さんなことを忘れて誉めちぎってしまい 美咲さんはやっぱり照れて、うつむいてなにも話せなくなるほど困らせてしまった。 そして、今夜また美咲さんの手料理が食べられる。 俺は、あまりのうれしさに今日の朝と昼の二食を抜いたほどだった。 その事を美咲さんに話したら、また照れまくっていたけど。 (でも「二食も抜いて大丈夫?」と心配してくれたのが、また美咲さんらしい。) 食事も終わり、部屋のCDラジカセから理奈ちゃんの歌が流れている。 俺達は、今日、街で見掛けた由綺と理奈ちゃんのNewAlbum 「WHITE ALBUM」を聞いていた。 最初、俺はお店で、このCDを手に取るのをためらった。 でも美咲さんが一言、「一緒に聞こうね。」と言ってくれたので、 ようやく買う決心がついたのだった。 アルバムは理奈ちゃんの曲から始まった。 さすが緒方英二のプロデュースした作品だけの事はあり ポップスからラヴソングまで、完成度の高い曲が 絶妙な曲順で並べられ、一つのアルバムから、 物語を感じてられてしまうほどすばらしい出来だった。 また理奈ちゃんのボーカルも、さすが天才といわれるだけのことはあり 歌唱力、表現力ともに最高のものだった。 そして後半の由綺のパートに移る。 一転して、由綺の曲はしっとりとしたラヴソングが多く 歌唱力では理奈ちゃんにかなわないものの 表現力において、由綺の唄は素朴で、一所懸命で心に響くものがあった。 俺と美咲さんは、一言もしゃべらずにこのアルバムに聞き入っていた。 俺は、由綺がこれほどまでに成長していたことを改めて知った。 あの、クリスマスライブの夜、驚くほどの成長をしていた由綺。 しかしこのアルバムは、またあの時と同じ驚きを俺に与えた。 いま、改めて弥生さん言っていたことが解った気がした。 由綺も天才なのだということを・・・。 ― 俺は、由綺に何かしてあげられていたんだろうか? ― 改めて、考えてみる。 やはり答えが見つかるような気はしなかった。 ― やっぱり、弥生さんの言う通り邪魔物だったんだろうか・・・?― すぐに嫌な考えになってしまう。 そして考える事を止める。 曲はアルバムと同じ名前の曲「WHITE ALBUM」になっていた。 窓の外を見つめながら、俺は何とはなしに曲に聞き入っている。 なにか、白い埃のようなものが曇ったガラスの向こうに見えた。 どうやら、雪が降り始めたみたいだ。 ― なごり雪ってやつかな・・・? ― おそらく今年最後の雪になるであろう今夜の雪・・・。 「美咲さん、雪が降ってきたよ・・・。」 なんとはなしにつぶやく俺。 「ほんとう、綺麗・・・。」 そう言って窓の外を見る美咲さん。 ふと、美咲さん何かを言いたそうな困ったような顏をしているのに気付いた。 どうしたの?と俺は、無言で美咲さんを見つめる。 少し照れて美咲さんがうつむく。 今度は声を出して美咲さんを促す。 すると美咲さんは 「ううん、・・・なんだかこの曲、 藤井君と由綺ちゃんのことを歌ってるみたいだねって・・・。 そう思ったんだけど・・・。」 そうか、それなら美咲さんが言うのをためらったのも解る気がする。 言葉では言い表せない何か、でも確実に感じている何か・・・。 「なんか、変に気を遣わせちゃったね。」 俺が言うと 「ううん、私こそ・・・。変な事言ってごめんなさい。」 そういって、美咲さんはちっとも悪くないのに誤ってくれる。 ―やっぱり、辛いなのかな。俺・・・。― 俺は、声に出さずにふと思う。 何が辛いのか自分でも解らないまま。 そして歌詞カードを手に取る。 思えば、由綺の唄の歌詞カードを見るのは初めてだ。 それは、どんどん成長してしまう由綺を見るのが恐かったからなのか それとも、それ以外の理由からかなのか・・・。 とにかく、俺は意識してか無意識かも解らずに、由綺から距離を置こうと・・・、 逃げようとしていたのかもしれない。これから由綺が進んで行く世界と 俺の暮らす、平凡な世界との違いをいい訳にして・・・。 CDラジカセからは由綺の歌が聞こえている。 ―ほんとだ、まるで由綺と俺の事みたいだ。 英二さん、そこまで俺達の事解っていてんんだろうか・・・? まさかね ― そう思いながら歌詞カードの作詞が書かれているところを探す。 そして、俺は目を見張った。 「作詞 森川由綺」 俺の歌詞カードを持つ手小さくが震え始める。 近くにおいてあったCDラジカセのリモコンを手に取り 再び由綺の曲「WHITE ALBUM」を初めから聞き直す。 隣で美咲さんが少し驚いたような顔をして俺を見ていたが 今の俺にはそれに気づく余裕は無くなっていた 「すれ違う 毎日が 増えてゆくけれど お互いの 気持ちはいつも 側にいるよ ふたり会えなくても 平気だなんて 強がり言うけれど 溜め息まじりね 過ぎてゆく季節に 置いてきた宝物 大切なピースの 欠けた パズルだね 白い雪が街に 優しく積もるように アルバムの空白を 全部 埋めてしまおう」 そして俺は、この歌声から、由綺の成長ではなく、 由綺の心を、思いを知った。 どうして・・・、なぜ今になって解ってしまったんだろう。 由綺も辛かった事を・・・、由綺も寂しかった事を・・・、 それでも俺を信じ続けてていてくれた事を・・・。 本当に辛かったのは由綺だったのに・・・。 俺は、それを解ったつもりになっていた俺自信の事を恥じた。 俺が、持っていた歌詞カード静かに床に落ちる。 俺は美咲さんに抱き着いていた。 そして俺は、美咲さんの胸に顔を埋めた。 美咲さんに涙を見せたくなかったから・・・。 そんな俺を、美咲さんはやさしく抱き止めてくれた。 そして、俺の髪をやさしく、その手からぬくもりが伝わってくるほど やさしく撫で付けてくれた。 涙が止まらなかった。 由綺の歌声が聞こえてくるから・・・。 由綺の歌声がやさしかったから・・・。 由綺を愛しているから・・・。 美咲さんが暖かかったから・・・。 美咲さんがやさしかったから・・・。 美咲さんを愛しているから・・・。 「・・・っ、ぐっ・・・、うっっ、うぐっ・・・。」 俺の鳴咽が部屋に響く。 いつしか美咲さんも泣いていた。 なぜ、俺は由綺を待ってあげられなかったんだろう。 なぜ、俺は由綺を信じてあげられなかったんだろう。 なぜ、俺は美咲さんを愛してしまったんだろう。 CDラジカセいつのまにか最後の曲 由綺と理奈ちゃんのデュエットによる切ないラヴソング 「POWDER SNOW」が流れていた。 今でも俺は由綺を愛している。 しかし俺は、由綺が夢をかなえ、大きくなっていくのが恐かった。 由綺が離れていってしまうのが恐かった。 その由綺をこのまま愛しつづける事が出来なかった。 そして、美咲さんへの気持ちに気付いてしまった、俺。 おそらく、高校の頃から持っていた 美咲さんに対する憧れにも似た思慕。 初めは心の隙間から生まれた思いであったかもしれない。 しかし、今は違う。 美咲さんはもう、俺の心の一部であり すべてを犠牲にしても守らなければならない人だから。 そう、愛する由綺を裏切ってでも・・・。 俺の胸の中で、さまざまな思いが交錯する。 後悔、自責、怒り、悲しみ、切なさ、愛おしさ・・・ もう何も考えられなくなっていた。 二人で生きていく、そう決めていた。 親友と友人と恋人と後輩と・・・。 失ったものは、もう戻ってこない。 もう二度と、あの頃には戻れない・・・。 だから、いま二人は一緒に泣いた。 あの夜、同じ時間に別々に泣いた時のように。 今度は、同じ時間に、同じ場所で、二人一緒に・・・。 由綺の唄が聞こえる・・・。 「今でも覚えている あの日 見た雪の白さ 初めて 触れた唇の温もりも忘れない I still love you・・・(私は彼方を愛しつづける・・・)」 部屋の中は、美咲さんの啜り泣きと、俺のもはや慟哭に近い鳴咽と、 そして、CDラジカセから聞こえる、由綺の歌声が、流れ続ける。 外は、冬の終わりを告げる、おそらく今冬最後の雪が 音も無く降り続いている。 そして、由綺の唄も終わった。 部屋の中には、俺と美咲さんの泣き声だけが聞こえていた。 俺と由綺の、最後の冬のアルバムは、空白のページを残したまま、 そしてゆっくりと閉じられる・・・。 了