「桜が欲しいの?」
きっと呆けたように桜を見上げていたのだろう。その少年にも声をかけられるまで気がつかなかった。
今年は春が遅い。桜が咲きはじめたのも4月中旬になってから。ふと、なんとなく桜が見たくて近所の学校に来てみたのだ。学校にはなぜだか桜が必ず植わっている。正門から少し外れたフェンス越しの桜。まだ2分咲きにしかなってないそれを、どれくらい見上げていたのだろう。
私がぼやぼや答えずにいると、制服姿の少年はフェンスにがしがし登って、桜の枝に手をかけた。花の咲いている枝を折り取る。
「あ」
フェンスから勢いよく飛び降りた少年が桜の枝を差し出した。
「はい」
とっさに何も言えずに枝を受け取ると。
少年は笑った。花が咲くように。
今、考えても確かにその時は呆けていたのだと思う。突然、亭主に死なれたような気持ちだった。「ような」と、言ったのは彼が「愛人」だったのだからだ。世間的にいうと、私の方が愛人か。あまりに突然の死だった。まだ60になったばかりだったのに、ぽっくりと。
私はいわゆる水商売の女なので、収入もある。明日から生活に困るということもないのだけれど。
「緑色の石をあげようか?」
と、彼が言った。私の名前が碧だから。そう、ありがとう、と答えておいたら、次に会った時、緑色の石をくれた。宝石などではなくて、鉱石だろうか。くすんだ緑色。でも、ピカピカに磨いてあって、目を近づけてみると色々な結晶が見えて綺麗だった。
「綺麗ね。ありがとう」
私の手の中に入った石は、ゆっくりとぬくもっていく。そういえば小さい頃、河原で拾った石を宝物にしていたっけ。
「もしよろしかったら、今度は薔薇色の石を下さる?」
彼はすてきににっこりした。
そんなときのことを思い出していた。
「綺麗ね、ありがとう。でも、枝を折るのはかわいそう」
それよりも、制服姿で自分の学校の木を折っていいのだろうか。
「でも、ずーっと見てたでしょ?よっぽど欲しいのかと思って」
あとで聞くところによると、イイトシした女が(失礼な!)子供のように一心に見つめていたので取ってやらなきゃという使命感にかられたそうだ。
実は、桜を見ていたわけではなかった。目の焦点が定まらないときのように、精神の集中が定まっていなかった。私の気持ちはふわふわと空中を浮遊して、少年に声をかけられた時、やっと地面についたのだった。
私は途方に暮れていたのだと思う。彼は、私のパトロンの彼は、いい人だった。恋をしているわけではなかったけど、出来る限り長く一緒にいるのだと、そんな風に思っていたのに。
葬儀にも出なかった私の、私だけの儀式だったのかもしれない。彼なら普通の花より、このつぼみを付けた桜の枝を喜ぶだろう。
彼がくれた景徳鎮の花瓶に入れたら映えるだろう。部屋に飾って、それが遺影のかわり。
「そう。欲しかったの。ありがとう」
彼がみたてた辻が花の着物に、うっとりするほど枝が映えた。