ひめゆり平和祈念資料館設立について

「ひめゆりの塔」の「ひめゆり」の由来
「ひめゆり」は植物の花のひめゆりとは関係ありません。
沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校は、それぞれに校友会誌が ありました。
一高女は「乙姫」、師範は「白百合」と名付けられていました。
両校が併置されることによって、校友会誌もひとつになり、両方の名前の 一部
(「乙姫」の「姫」と「白百合」の「百合」)を合わせて「姫百合」となりました。
ひらがなで「ひめゆり」を使うようになったのは戦後のことだそうです。



沖縄戦は90日余りの死闘で、日米双方に20万余の犠牲者を出しましたが、そのうち 12万余は沖縄住民でした。
米軍は沖縄戦を、本土攻略の不沈空母として確保する重要作戦と位置づけ、日本軍も 米軍の本土上陸を一日でも長く阻むための持久戦と位置づけました。
沖縄守備軍は、この至上命令をうけて玉砕方針で沖縄戦に臨むこととなり、県民の根こそぎ 動員が企てられました。
米軍進攻に備える沖縄守備軍は、県下女子中等学校の生徒らに看護訓練を強化し、米軍が 上陸するとただちに学徒隊を編成して、戦場に駆り立てました。
なんの法的根拠もなく、少女らの戦場動員を強行したのです。

1945年3月23日深夜、女師・一高女の寮生全員と自宅通学生の222名と職員18名 が南風原陸軍病院に配置されました。 他地域でも、学徒80名職員3名が在地の部隊に 動員されて、戦線に組み込まれました。
生徒らは、ただ祖国の勝利を信じて砲煙弾雨の中、身の危険も顧みず負傷兵の看護や死体処理、 医療器具・薬品・食料や水の運搬など、命ぜられるまま献身的に協力したのです。

5月下旬、日本軍は南部に敗走し南風原陸軍病院や各地の野戦病院も南部へ撤退しました。  そして、既に壊滅状態となっていた日本軍は、喜屋武半島の戦場の真っ只中で学徒隊に 解散命令を下したのです。
年端も行かない生徒らを米軍の包囲網の中で、投降を許さず地獄の戦場に放り出したこの 解散命令が、学徒隊の犠牲を更に悲惨なものにし、学徒・職員あわせて219名が尊い生命 を失いました。

あれから40余年、言語を絶した当時の惨状は片時たりとも私達の脳裏を離れません。
私達は真実から目を覆われ、人間らしい判断や思考も生きる権利さえももぎ取られ、死の 戦場に駆り立てられた、あの時代の教育の恐ろしさを決して忘れません。
戦争を知らない世代が人口の過半数を超え、戦争体験も風化しつつある今日、しかも核の 脅威にさらされる昨今の国際情勢を思う時、私達は私達の戦争体験を語り継ぎ、戦争の 実相を訴えることで再び戦争をあらしめないよう全力を尽くしたいと思います。

この思いをひめゆりの心とし、永遠に世界平和を訴え続けることこそが、あたら尊い生命を 失った生徒らや職員の鎮魂と信じ、県内外各位のご好意とご協力を仰いで、この地にひめゆり 平和祈念資料館を建設いたしました。


1989年6月23日  財団法人 沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会


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