歴史の道楽学楽遊倶楽部
百選ガイドブック3
中山道編 東美濃の国

西南の空にそびえる
 中津川・馬籠で目にはいるものとしては、やはり西南の空に威容を誇る恵那山をあげなければなるまい。曲がりくねる登り道の途中でふりかえるときは、動いて見えたりする山である。
 昔の旅人は、木曽路を北からてくてく馬籠の宿にたどり着くと、足もとに明るくひろがる美濃路の景観に目をみはった。そこでやれやれとばかり一服しながら、つつがなく険路を越えてきた喜びをみなぎらし、よもやま話に時がたつのも忘れたことだろう。ここで恵那山をへだてて、ゆたかな木々をまとう木曽側の部落が点在する眺めは、何人にも強く印象づける。

美濃随一の名山・日本百名山
 恵那山は標高2191m、中津川市の東南およそ10kmのところで、長野県下伊那郡との道境に接している。だから下伊那地方の人びとにも親しみの多い山だ。
 山体は総じて花崗岩におおわれ、上へ行くと石英斑岩(せきえいはんがん)が目にうつる。頂上付近はまるみをおびて展望が広く、馬籠の方から見られる北西側の全面は、切りたつような断層がみごとである。ふもとにかけてはモミやツガなどの針葉樹がしげり、秋の晴れた日に注意してみれば紅葉がたなびくようにそれとわかる。
 中津川で見上げると胸を張る山容であり、江戸時代から美濃随一の名山として知られ、深山久弥の名著「日本百名山」にもとりあげられている。

伊吹山と相対す
 明治時代に日本アルプスなどを歩き回り、小島鳥水(うすい)に次いで日本山岳会の第二代会長となった高頭式は、明治39年(1906)に刊行した大著「日本山嶽志」の中で、恵那山のことを次のように書いている。
「恵那郡中、第一の高山、郡名は此(これ)より起るとぞ。信濃にては野熊山と称せり。
 神代の時に、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御恵胞(みえな)を此山に納めたるを以て此称あり。故に伊勢大廟(たいびょう)大麻の真木及び社材は、21年毎に此山中より伐り(きり)出して、伊勢に献ず。是れ上古よりの遺風なりと云ふ。山上の木は風烈(はげ)しき故、庭木の如く低し。・・・其(その)かたち舟をふせたるに似たれば、俗に覆舟山と云ふ。峯につもれる雪、夏に至りても消ざる事、御嶽、駒嶽などに同じ。・・・伊吹山と濃尾平野を隔てて東西に対峙す。」

山の名のいわれ

 このうちの神話をかせめた伝説については、徳川幕府につかえた森山孝盛が享和2年(1802)に出した著書「賎(しず)のをだまき」をみると「恵那山は天照大神産給ひ、胞衣(えな)を納めし故、恵那山と云ふ」としるしている。
 昔は山をけがすようなことをすれば、明神が怒って雨を降らし、すっかり清めたといわれる。ふもとの人たちは9月に祭りのため登山したそうである。
「毎年9月9日に登山す。絶頂迄(まで)五里、篠竹生茂り、常道もなし。大勢踏分け登り、前夜は川上に通夜、四十余度水垢離(みずごり)をして、鶏鳴を山に登る。・・・四方を望めば富士、浅間、白山、伊吹、近江(おうみ)の湖、伊勢の海、一瞬に見渡す。其(その)夜は山上に小屋をさし通夜し、水垢離をして翌日下山す。其外、七日精進潔斎す。山上に池あり、此辺の笹を取り来り馬に飼へば祈祷になると云ふ」

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