PとのUNO

 

PとのUNOP、それは親友の友達をさす。読んで字の如く「ぴー」と呼ぶ。初めて彼と会ったのは4年前の正月、
東京から引き上げてきて直ぐのころに(←戦後では、ない)「ぴーんちで餅つきあるから来ない?」と
誘われるがままに行ったのがきっかけ。

未だに彼の名前を知らない。しかし、ぴーのままで私の中では充分だとも思う。いや、そうなのだ。
(学年が同じということは知っている)今はスーパーの社員として商品整理に走り回る毎日だ。
万歩計も今ではもはやぴーの体の一部になったと思われる程にぴーアイテムとしては必携の一品である。
「毎日10キロは歩いてるよ。」というくらい、大活躍中なのだ。しかし...

10キロ!!!

いくらなんでもそれは歩きすぎである。何故というに、ぴーの働く先は地上数十階もある百貨店などではなく
(そんな百貨店もないが)、
既述してあるとおり、ごく普通のご近所にあるスーパーなのだから。
あの範囲で10キロだと、かなりのちょこまかさで店中を隅々まで歩き回らないといけなくなる。気になってしょうがなく
なった私は(暇じゃのう)、どうやったらぴーが10キロも歩けるのか、そのパターンをいくつか想像してみた。

その1<(まず手始めに、)普通の人間の一歩の約半分、もしくは1/3の歩幅で歩く。>

しかし、これでは見た目にもかなり辛い。1/3の歩幅になってしまったら、まともに歩くことすら無理が生じるだろう。
おまけにこんなでは、仕事にもならない。そしてその姿は、死んだじーさんを髣髴させるではないか。
(死んだじーさんは、普通に歩くのでさえも自分の足のサイズ分くらいか一歩ができなかったため、ほんとーに
ちょこちょこちょこちょこと歩いていた。ある日、外に出ようとして表に飛び出たら「気をつけ」の姿勢でコンクリの地面の
上にうつ伏せで倒れて(転んで)いたじーさんを発見したこともある。)
危なっかしくて、店にきたお客さんもろくに落ち着いて買い物もできやしない。
そして、2歩ごとにつんのめって頭から床に倒れるぴーを容易に想像してしまう。

その2<普通の人間の倍、もしくは3倍の速さで歩く。>

店中を。いわゆる「競歩」状態ですな。しかし、これをやられると、やはり客としては落ち着いて買い物ができない。
てろてろ買いたい品を吟味していたい心理からすれば、まさにマッハなぴーは客の天敵。客逆切れ多発な店にも
なりかねないだろう。

その3<万歩計とは、勝手な自分の解釈によると、腰に響く振動で歩数を確認しているようだ。では、一歩の間に腰を
何度かゆすりながら歩けば、1歩でも数歩分は万歩計でカウントされるのでは?>

文章で表現すると、すなわちこうだ↓
「足を一歩踏み出す→腰を3度ほど上下させる(万歩計に振動を与える)→足を地面に着地させる」
こうなると、今までとは逆に「スーパーウルトラスローモード(しかも英文めちゃくちゃ)」になる。...がしかし、残念ながら「速い動きが嫌われる」からといって、逆説で安易に「じゃぁゆっくり歩けばオーケー」かというとそうではなく、こちらも明らかに怒りを買う行為である。スーパーの中で、一人パントマイムをしながら働く従業員として注目を浴びるのなら、それでよしとしよう。
が、この場合の対象はぴーである。上司に大目玉間違いなし、なのである。

そんなこんなな私の予想は、実際ぴーのいるスーパーに行って見れば、答えも早かろうというものである。
そこで私は過去のスーパーで会ったぴーを回想してみた。
ん〜...浮かぶのはどれも積みあげられたダンボールを床に下ろしたり、「よっ!」と言って
私に挨拶するかたわら、万歩計を自慢気に見せるぴーのみだ。

...ハッ!!!!
「ダンボールを床に下ろす」
....なんたる!

これでも充分に腰の上下運動が可能ではないか!
とするとぴー、君は歩いて歩数を確保しているのではなくダンボールの荷下ろし作業で...
う〜む、あんなところに答えが隠されていようとはぴーも未だに気づいておるまい。
(おもしろいから黙っておこう)

さてさてこんなぴーではあるが、
車とスクーターを所持し、休みのたびに車の手入れに忙しい(というかこれくらいしかすることが、ない)。
ピカピカの愛車を愛するあまり、晴れの日以外は車に乗らない。
(つまり「雨が降るからスクーター」が、ぴーの中での常識)。
変わっている。

おっと、話がしょっぱなからずれてしまっているので、本来のテーマにいい加減入ろう。

...そんなぴーを交えてのUNOが、私たちの中で、今密かに盛り上がっている。
既にかれこれ100万回(嘘)を超えたと思われるが、ぴーは未だにルールを理解していない。
おいっ、ぴー、お前の脳はどーなってんだ?!思わず一人ごちることもしばしばだ。
点数で順位を決めているが、ぴーは当然の如く毎回最下位、ビリッけつである。
(しかもビリから2番目の点数からさらに数百点は稼いでの、ビリ)
確信を持って断言できるが、日本総人口を集めてやったとしても、ぴーはやはり
<ビリから2番目の点数からさらに数百点は稼いでの、ビリ>
は間違いないだろう。

もはやそれは「UNOってさー、英語で書いてあるから意味わかんないんだよね〜っ」の
許容枠をとっくに超え、はなからカードの主旨を全く無視して独自の世界でやっているとしか思えない。
例えば、

・(その1)「あっ、俺赤切れてる〜...しかし(でも、という表現はしない)、このカードもってるから平気だもんねぇ〜。へッへッへっ」と得意げに「WILDCARD」を叩きつけ、「じゃ、次は赤」と本気で言う。

・(その2)「あっ、俺赤切れてる〜...しかし、このカードもってるから平気だもんねぇ〜。へッへッへっ」
と得意げに「WILDCARD」を叩きつけ、「じゃ、次は俺の好きな緑」と指示を出すが、次の番※にはその緑のカードを
もう持ってない。
「お前が緑って言ったんじゃねーか」と突っ込むと、「?自分の好きな色だろ?」と100万回やったあとで
こう言ってしまえる。
※ちなみに4人くらいの少人数でやったときの話です。

・毎回「俺には作戦がある」「俺の作戦は...」とうるせーよ、とつっこまれるほどに二言目には「作戦」をほのめかすが、
今のところ、ぴーのどれがその作戦だったのかは誰も知らない(勝ったためしがない由)。
ついでにいうと、知りたくもないし、知ったところで結局はビリだから、誰も「ぴー作戦」に興味を持たない。
未だにドロー系のカードの使い方を間違っている奴の作戦なぞ、たかがしれている、くらいの価値しか私らにはない。
とどのつまりが「俺の作戦は...」のぴーの声すら、全員の耳にはもはや届いていないのだ。

・「しょ〜がねぇな〜。これ(←いわゆるDRAW FOURの類)、今使ってもいいけど
後の切り札にとっておくか〜」と強がり、中央に置かれたカードを引くぴー。
当然手持ちカードもどんどん溜まり、ついには両手のカードが孔雀の羽のような豪華な広がりをみせる。
(たまに持ちきれなくてボタボタ畳の上に落とす)
一体全体、いつ切り札を使うんだ、ぴーよ?と思ううちにあれよあれよと一人、また一人と
「UNO!」と歓声を上げるなか、一人孔雀のぴーを残し、ゲームはたいていあっという間に終わる。

ゲームが終わってぴーの手持ちの札を皆してみると、
ドロー系のカードしか残っていない。当然、点数も信じられないくらいの桁に跳ね上がる。
「お前、こんなにカードもってて、なんでつかわねーんだよ!」のつっこみに、
「へへっ、作戦、作戦(←なんの?)」と答える。(ほらね)

しかし、100万回を超えた今、UNOのビリ=ぴーという法則が成り立っていることが確実となっているため、
ゲーム終了後の「お前、こんなにカードもってて、なんでつかわねーんだよ!」のつっこみも
遥か彼方の遠い過去の新鮮な驚きだったころへの思い出と成り果て、
もはや今となっては誰一人驚きもしないし、つっこみもしない。

あわれ、ぴー。しかし彼を含む我々全員が、いまだにぴーとのUNOを飽きもせず続けている。
ぴーよ、一度で良いから「UNO!」と言ってあがってみたいと思わないか?

はっ!それともぴーはやはり己のルールの中でただ一人孤独に、我々と「我流UNO」をやり続けていたのか?!
だとすると、ひょっとしてぴーは「新しいUNOの楽しみ方」を発明しているすごい人なのかも?

ってそんなはずないじゃ〜ん。べろん。

 

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