2月
24日:いつもながらのことであるが極めて多忙である.入院患者,外来共に極めて多い.病床は満床で,外来は午前中に80人さばいても特に多いとは思わなくなった.疲労がたまって,休息を強制的にとらなければ体を壊すことがわかる.こんな綱渡りの状態を知っているのに,理不尽な対応をしている国,道に強い怒りを覚える.こんな状態であればいつかは取り返しのつかない医療事故を起こすに決まっている.それでも良いから適当に地域医療を維持しておけといった態度である.そもそも私がこの仕事を負わなければいけない理由は全くないわけで,理不尽も甚だしい.勤務医の待遇改善のために,再診料を少し上げた代わりになんと,一人の診療時間を5分をめどにすることという通達が入っている.そうすると一人五分ということは,午前中の外来は40人が限度で,それ以上視てはいけないと国が言っていることに他ならない.それでいいなら楽でいい.それにしても,診療時間が何分か,誰が測定するのだろう?全く役人の考えることは机上の空論ばかりだ.さらに町の方もこちらの困難な状況を放置しているだけで,決して助けてはくれない.たとえば,内科医の退職に伴い,二年前より午後の外来は休診になっているのだが,それは名ばかりで救急ではなく午前中は込むから午後受診するとか,仕事が午前中あるので午後受診するという町民がたくさんいる.午後が休診と知っていて確信犯的に来る人もいるが,休診であることを来院するまで知らない人もいる.町は地域医療の危機的な状況を町民にきちんと説明して,協力を得るよう努力をすべきだがそんなことはない.もちろんこちらは救急ではなくても断らずに午後も診療している.町の方はここのところを曖昧にしておく方が町民からの突き上げがなくて都合が良いのだろう.しかしこんな状態で勤務が長期間続けられるはずはない.北見や紋別の基幹病院でも内科医は総辞職している.この期に及んでもまだこの町に危機感は生まれないのだろうか?
本日は悪性の風邪をひいている.無理をしていたのでそうなるだろうと思った.それでも我々は休めない.明日も大量の外来をこなさなければならない.ストレス研究が専門と自負する自分が,実に今はストレスが多い生活であると思う.この生活を乗り切るためには,トレーニングと天体写真が自分には重要である.風邪をひいても走ることはやめない.先日は極めて低温下で天体撮影を行い,両親指が凍傷になってしまった.それでもいやなことを一瞬でも忘れさせてくれる.
先週は去年投稿していた論文が2編publishされた.1つはケースレポート,もう1つは原著論文で,この田舎の病院ですべてを一人で行った臨床研究である.自分で言うのも何だが画期的な成果である.こんな田舎の病院でこんなこともできることを世に示したのである.
3月
28日:多忙で体調不良が続いている.最近は外来の数が午前中80人を超えてもあまり驚かなくなった.現在はさらに2編の論文を平行して仕上げている.一本はすでに投稿してレフリーから手直しを指示されたもので,書き直せばacceptされるだろう.もう一本は新規のものでケースレポートだ.国は医療費削減のため地方の病院に病床の廃止,診療所化を迫り,さらに新研修制度をきっかけに地方の病院で働く医師は激減している.我々の様に地方で勤務医として働く者の負担はますます増加している.しかし国の態度がそうであるから,地方でがんばっている人間の足を引っ張るような医療政策を次から次に出してくる.これでは地域医療の医師が減るのは当然だ.また医師を教育する大学では,地域医療への貢献を第一に考えて教室が運営されているところはほとんどないと思う.大学も今や大変な人手不足で,研究もままならない状態であるから当然であろう.さらに大学で教鞭を執っている医師達は,ほとんどが我々のような田舎の病院で常勤医として勤務した経験がない.経験がなければ,地域医療の魅力や問題点,その必要性について,学生に教育することは不可能だ.その結果,若い医師達もこのような地域で働くことを希望しなくなる.また,逆に田舎の病院での勤務に対して間違ったファンタジーを抱いて勤務を志望し,現実に驚き夢破れる医師の姿もしばしば見られる.田舎では老人の話をじっくり聞いて.....それはファンタジーである.現実は私がいつも書いているとおりだ.今の医師偏在の状態が大きく変化することはないが,大学で教鞭を執る医師達に,一定期間地域の自治体病院で勤務することを義務づけたらいいのではないかと私は思う.ここでの経験を生かして,学生教育にあたれば,将来若い医師達も地域医療を希望して勤務する人が増えるかもしれない.北見日赤病院の内科医総辞職の真相は詳しくはわからないが,医師達の過剰勤務に耐えられなくなったという理由の他に,多分に政治的な事情もあったのだろう.この件に関して,マスコミの論評は全く論点がずれていた.医師達は患者を診るために存在するのではないのか?それを置き去りにするとは何事か?辞める医師達は傷ついたろう.医師は患者を診る前に,自分の生きる権利がある.自分の健康を守る権利,職場選択の自由もある.批判は筋違いだ.医師達をこのような状況に追い込んだ本当の事情を,問題点を追求して明らかにして,今後同じことを繰り返さないようにすることがマスコミの役目ではないのか?これまでこれらの医師達はどれほど地域のために貢献してきたか知らないのか?タブロイド紙のように,一般人の関心をあおり,新聞が売れればよいという低俗な報道姿勢を感じる.自分もこのまま長く今の仕事を続けることは不可能だ.自分はもうこの地域で,十二分に働いたと満足している.
一枚貼っておく.シグマの円周魚眼を最近手に入れ,タカハシのスカイポートを使って気楽な撮影を続けている.
4月
20日:相変わらずの多忙状態.先週は内科学会出席のために東京へ行ってきた.しかし仕事が忙しいために最終の飛行機で出発.午前中は外来で,出張に備えて患者の予約は入れないようにしたが,それでも40人を超える患者が受診した.こういう状態だから,予約患者を40人入れると,1人で80-90人を必然的に診ることになるのである.はっきり言っておくが,これは不可能なことであり,やってはいけないことである.外来患者数を規準として,必要な医師数は決められており,その規準を満たさなければ診療報酬は減額だ.しかしこれはおかしい.自分を犠牲にして多量の仕事を親切にこなしている人間の足をひっぱていることに他ならない.さらにこの4月から診療時間を1人あたり5分以上とらないと,診療報酬が削られるようになった.国はこのように医療過疎地域の病院の足を引っ張りつぶそうとしてる.口では地方に勤務する医師が少なく危機的な状況だと言いつつ,医療費削減しか頭にない.まじめに多数の患者を診察すればするほど,赤字がふくらんでいくのである.やってられるかという怒りがこみ上げる.この地域で,今の規模,機能を維持して病院を継続するには赤字は必須である.それはすべての医療経済の専門家が指摘していることである.こんな状態で今は孤軍奮闘している状況である.しかしこの町は我々をサポートしてくれているかというとそんなことは全然ない.(少なくともこちらにはそんな姿勢は全く感じられない)少しでもこちらの仕事の負担を軽減するために,できること,当然やらなければいけないこともやっていない.その姿勢はこちらの足をさらに引っ張るような対応であり,モチベーションを下げる.それ故,自分は何のためにここで医療を続けたらよいか,目的がなくなっている.それは何も今に始まったことではないが,そのように思ってからは,自分のプライドを守るために仕事を続けてきた.医師(プロフェッショナル)としてのプライドである.しかし最近思うのは,このように考えて仕事を続けることは,結局は町の地域医療への危機感の欠如を助けることになっているのではないかいうことである.なぜ,医師がいなくなって病院の存続が本当に不可能にならないと,危機感がわかないのだろうか?本当に不思議である.未だに町の理事者は病院の民営化検討を打ち出している.しかしこの1年,実際的な検討は全くなされていないようだ.(実際的というのは,身売りする相手を探すと言うことだ)怠慢だ.さらに今の規模の病院を残すと言いながらも,町から今のような病院への赤字補填はできないと言っている.民営化しても赤字は先に述べたとおり必須であり,それは町から補填しなければいけない.そうしなければ病院は存続しない.だからこの理論は自己矛盾である.なんでこんな簡単なことが理解できないのか?我々が怠慢で赤字が出ているのなら仕方がないが,ベッドの稼働数,外来患者の数は,1人の医師が決して診てはいけない数なのである.それでも赤字なのは大部分が国の医療政策のせいなのである.だから町がお金を出せないと言うことは,病院を閉鎖すると言うことと同意であり,さらにこちらからすると,これだけ孤軍奮闘してやっている我々の仕事も全く評価していないということになるのである.町への不信感が募る.そしてやるせなさが残る.この病院が閉鎖されると町民に重大な不利益となると考え,自分なりにつらい仕事をがんばってきたつもりであるが,町の上層部はそう思ってはいないようだ.
5月
10日:看護士の休職(産休,病欠)が重なり,病院業務に支障が出た.夜間の勤務が月5回以上にも上るという.この状況を緊急的に乗り切るためにどうするか,様々なことを考慮して最善の対策を行う--これが行政の危機管理であるが,端から見るとどうもそんな能力を町の上層部に期待するのは無理だと思った.仕方がないのでこちら側ですぐに話をまとめて,方針を担当者に指示するような形で,とりあえず新規入院を停止する体制とした.当院の業務で一番負担になっているのは,救急である.救急は24時間体制でマンパワーが必要である.なおかつ当院は隣の町の救急も対応している.しかし現実として救急を停止すれば社会的な問題が大きすぎる.また今いる入院患者を他の施設に転院させることも不可能.看護士もそのことは良くわかっている.それなら,緊急にできることは新規の入院停止しかない.現在90人ほど入院の満床状態であり,もともと新規入院は不可能な状況で,この体制にしても看護士の負担は軽減しない.しかし,何か少しでも町として緊急に対応したという姿勢を見せなければ,ボランティア精神で勤務を続けている看護士達の不満は収まらないだろう.ますます人員は減っていくに違いない.これについては,他に選択肢はないことはみんなすぐに了承.そしてここからこの体制を構築するのにどうするか考えて,動くのが行政の基本的な(原始的な)役割である.しかしこれがどうしたらよいかわからないのだ.町民に入院できませんと我々が説明しなければならないのか?当初,町の方からこの状況を報告しようとするそぶりが見られなかった.今までと同じ対応である.これもこちらがきちんと町民に町から説明するように要請.さらに転送する病院に対して状況を説明してお願いをしなければならない.当然のことである.これもこちらから要請して,町を動かした.さらに看護士を至急確保するために,民間の実績のある看護士斡旋業者を知人を介して紹介してもらい,そこに直ちに連絡を取るよう指示した.これだけのことを迅速にやれなくて,危機感が欠如しているとこちらからいわれても仕方がないだろう.こちらが危機感がない,姿勢を見せろと指摘しても,やることはやっているという返答があるばかり.やっていないから指摘しているのであって,やっているという判断は,自分の常識(経験も根拠もない)から判断している言い訳である.自分はこれまで複数の自治体病院で働く機会があり,自治体の地域医療の対応,考え方,取り組みは少なくともこの町の行政担当者より理解している.自分の規準ではなく,他の自治体ではどうしているか話を聞きに行って,自分たちの常識が非常識であることを認識してもらおうと思ってもそこまで努力する気はないらしい.当院の歴史の中でこんな状況はこれまでなかった.内科医が欠員して,新規内科入院を停止すると言っても,町としてその方針を行おうと言う姿勢がなかったから,結局はこちらのボランティア精神によってずっと入院治療に応じてきた.私の本心は,その時に危機感を持って町が今後の医療を考えるきっかけになってもらおうという意味合いがあったのだが,そんな親心も全く理解されずこちらの親切にあまえているだけの状態であった.新規入院を停止することはそう単純なことではない.病院に対する町民の信頼はおそらくひどく低下するだろう.また外科の先生は手術もできなくなる.自分の役目を果たせない先生はここにこのままいてくれるだろうか?自分も含めて入院患者を診られないことは,やる気がある医師達の意欲を低下させる.そして自分が力を発揮できる場所を探すようなる.これが大部分の医師の職場の選び方である.さらにこの町の新規入院患者すべてをお願いした病院はいつまで受け入れてくれる?どこの病院も医師が潤沢にいるわけではない.向こうの病院もおそらく対応できなくなる日が来るだろう.そうしたら町民の命はどうなる?本当に病院存続,地域医療存続の危機が迫っている.非常ベルの音が聞こえているか?この音を数年前から聞いている自分は,なんとか町の指導者達にも同じ音を聞かせるよう努力してきたが,無理なようである.
6月
15日:看護士不足のために続いている入院停止のため,日々の仕事は今までになく楽になっている.しかし,自分はその分必ずほかの仕事が加わり,多忙なことに変わりはない.1月から書いていた論文が先週ついにacceptされた.それで早くも次の仕事を論文にまとめている.さらにある製薬メーカーが,IBSの治療薬を今年発売するため,自分がこれまでしてきたIBS関連の仕事について,薬の発売に合わせて一般医家向けに講演してほしいと依頼を受けている.本来なら断るところではあるが,この領域の研究者は日本でほとんどいないので是非という依頼のため,謝礼を断るという条件で引き受けた.そのための準備をしなければいけない.さらに毎年恒例となったが,内科学会関連の仕事で,内科認定医受験者の申請書類の採点と締め切りが近い仕事が山積みである.このような仕事は,幾ばくかは社会のためにボランティアで貢献できるのではないかと,常日頃自分が心がけている姿勢の結果である.これは決して自慢ではなく,純粋に自分の存在する意味は社会への貢献にあると常に考えてきた.忙しく仕事をするのが自分の性分なので仕方がない.逆にこのような自分の得にならない仕事をせず,暇にしていると,自分は自分でなくなってしまうと考えている.
7月
31日:7月1日から病棟の受け入れが再開され,またたくさんの患者が入院している.疲労困憊である.先日新聞に,どこかの病院が運営する家庭医療センターが,医師を育成し,地方に派遣したいので希望する自治体は問い合わせを受け付けるというニュースを読んだ.一見すると,すばらしい試みだと思ってしまうが,よく内容を読んでみると,なぜか自治体が運営する診療所に限るという条件がついており,さらに派遣は3人ペアだという.おかしいと思わないだろうか?北海道の地域医療でもっとも困っているところは,大都市から離れていてベッドを持つ自治体病院である.救急をやらざるを得ないために,ベッドを持たなければいけないのである.ここにはつとめる医師が少なく,本来なら1人で視てはいけない数の患者を担当してぎりぎりでやっている.真に地域医療を考えるのなら,このような病院で働ける医師を育成して派遣しなければいけない.ずれている.地域医療といえば,老人の話をゆっくり聞き,検査の機械がほとんどないようなところで,聴診器一つでのんびりやっているなどと思っているのだろう.診療所は大都市近郊で,救急患者をすぐに搬送できるような地域でないと,北海道では機能は発揮できない.診療所という発想は,家庭医というスタイルに起因する.家庭医は外来が中心で,病棟は本来あまり関与しないのが一般的である.それではこのような病院では働けないのである.家庭医が悪いわけではない.しかし働くフィールドが違うのだ.専門性の高い医師は幅広く診ることができないから,地域では働けない.だから家庭医が必要なのだという昨今の流れにのり,盛んにマスコミでもてはやされている.しかしこれは大きな間違いだ.専門性が高いから,自分の領域以外でも緊急的に対応することができ,また適切に専門医に紹介することができるのである.この精神がない医師は本当の専門医ではない.家庭医,専門医が異なるフィールドで協力し合うことが必要なのである.しかし家庭医が本来働くフィールドはこの診療所であり,これは国の医療行政の打算的な思惑(医療費の抑制)と結びついて,病床の削減,地域病院の診療所化が今後も推し進められるだろう.これは地域住民の命を軽視することに他ならない.新聞報道は実に表面的な内容だ.裏にある真実を見抜かないと目をふさがれて,知らないうちにいつしか大変なことになる.
8月
31日:相変わらずの多忙で,疲労がたまり体調不良が続いている.練習量は昨年よりもかなり増えているのだが,疲労が抜けきらないので,秋のレースの結果は望み薄だ.夏休みは結局3日しかとれなかった.ここ数年そんな状態が続いている.町の方は相変わらず,今後の地域医療をどうするのかはっきりとしたプランやポリシーが全くこちらに示されず,病棟を休止しようとしなかろうと,たいした問題ではないというような態度である.(病棟休止という事態になっても,町の中枢部が病院に直ちに乗り込んできて,自分が先頭に立って問題を解決するという姿勢はなかった)こんなことを言うと必ず言い訳を返されるのだが,そのたびごとにそれではなぜこのような態度をとったのかと問い返すと,それに対しては気がつかなかったという返答が後に帰ってくる.こちらから言わせれば,怠慢と指摘せずにいられない.このような態度が,こちらのやる気をそいでいく.何度親切に忠告しても同じ.これでは疲労が倍増するのもやむを得ない.10月は学会発表と,講演会での発表などスケジュールが立て込んでいる.その準備も始めなければいけないので,疲労を抜くどころか,オーバーワークになるのは避けきれない.絶望的な状況だが,こんな状況でも冷静に自分を見ている自分がいる.この感覚は,陸上競技の選手として経験を積み重ね,極限の状況で最大限の能力を発揮するようにトレーニングを積んできたからこそ会得できたのではないかと思っている.この姿勢がないと,今の自分の置かれた環境では自分はすぐにパニックを起こしてしまうだろう.それが起きないのは,スポーツで鍛えられたからだ.息子も陸上を始めている.自分が一緒に練習をしながら教えているが,練習でも息子を負かすことはだんだん厳しくなってきている.しかしまだ,100mから長距離まで負けることはない.先日一緒に1000mのタイムトライアルをしたら,楽に2分台がでた.まだまだ自分にスピードもあることがわかってうれしかった.しかし来年は何回かは負けるかもしれない.息子には陸上競技をすることにより,自分と同じように走ること以外の様々なことも今後長い時間をかけて学んでいって欲しいと思っている.
9月
26日:病床はほぼ満床で,90人以上の入院患者を抱える.さらに隣の町の唯一の医療機関が,ベッドを廃止するという.そして何の知らせもなく,突然その病院で入院中の患者が手紙を持って,当院で入院させて欲しいと来院する.隣の町の行政も甚だおかしなことをする.唯一の医療機関のベッドを廃止すると言うことは,重大なことである.今後の町の医療をどうするのか,入院患者の受け入れ先をどうするか手を打ってから廃止するのが筋であろう.赤字の施設にお金を入れるのがいやだから廃止をして,あとは知らないという態度.こちらは自分の町の医療さえカバーし切れていない状況なのに,結局は自分がまた無理をして他の町の医療をカバーする羽目になるということだ.常識のかけらもない.恥知らずとはこのことだ.こんな仕打ちを何の断りもなくしてくる行政.地方に医師がいなくなるのは当たり前ではないか.しかしこちらの町の行政も迷走している.町長の病院民営化のマニフェストは検討もされず,しかしかといって,未だに不可能だから断念するという表明もないままこちらに何の説明もなく経過している.さらに,町のゴミ処理場が地域住民との交渉が難航して建設不能となり,ついには町のゴミを他の自治体に運搬して処理してもらうことになるらしい.莫大な費用がかかり,さらにゴミを受け入れる自治体住民の迷惑となる.今のゴミ処理場がいっぱいとなることは何年も前からわかっているはずで,それでも結局は準備が完了せず計画が止まったまま.医師の確保問題の時も,対応の遅さ,危機感のなさを痛感していたが,いつまで経っても同じ間違いを繰り返していると失笑してしまう.病院に入れるお金はないと言っておきながら,こんな無駄な出費をすることになった責任はだれがとるのだろうか?先日は昨年優勝したオホーツクマラソンが開催された.疲労と風邪で体調は良くなかったが,今年も優勝してしまった.やはり練習をきちんとやってくると,体調は悪くてもなんとか持ちこたえられるものだと実感した.記録は風が強かったせいもあり,1時間22分と昨年より3分弱遅いが,勝負に徹した走りで満足である.来週は日本消化器病学会で発表のため東京へ行く.そのため外来を休まなくてはならない.昨日の外来は午前中で90人弱を一人で診た.仕事を休むと,その前後に仕事がやたらと増える.休んだからといって自分の仕事を他人がやってくれるわけではない.この現実があると,休みをとる気がなくなってくる.そうすると疲労がさらに蓄積するという悪循環.発表が終わってこちらに帰ってきたら,週末はマラソンレース.一年に一度しか出場できないので,万全の準備でレースに臨みたいのだがおそらく出場前にすでに疲労困憊となっているだろう.いい記録は望めそうにない.極めて忙しいので,なかなか趣味の写真も撮れていないが,先日の撮影成果をあげておく.
10月
31日:学会発表のあとすぐにフルマラソン出場,さらにハーフマラソン出場そして一般医家向けの講演会での発表と,相変わらずの忙しさが続いている.マラソンは3時間9分でまずまずの記録で走れた.ハーフマラソンも悪天候の中2位入賞と,なかなかの結果であった.シーズンオフを迎えたが,雪が降る前にいつも使っているコースのタイムトライアルをやって新記録を作る予定である.ところが疲労と風邪,足底筋の炎症が重なりなんとかjogを続けているような状態で,果たして記録を作ることができるかどうかは不明である.こうしている間も新しい論文を作成中であるが,最近では海外の雑誌からレビューを書いてくれないかと投稿のinvitationが来たり,さらに雑誌のレビューアーの依頼も受けるようになった.レビューアーというのは,雑誌に投稿された論文のチェックをして,採択すべきかどうかの意見を述べる役割である.今までさんざん自分が評価されてきたが今度は逆の立場になったと言うことだ.時間のとれる限り,これらの仕事も引き受けている.12月には北見でもう一度一般開業医向けの講演の依頼があるので,その準備もしなければいけない.病院の方も相変わらずで,入院患者は90人以上が続いている.自分が最後には責任を持ってしなければいけない仕事に対してはだれも助けてくれない.国,道の態度も不変.かといって自治体が気を遣ってくれるかというと,そんなことは全くない.足を引っ張り,さらに怠慢を指摘するとすぐにばれるような嘘や言い訳をして,その場のこちらの怒りをかわせば良いくらいにしか思っていないのだろう.もうそんな態度にはあきらめと本当は怒りさえなくなってきている.しかし怒らないとますますつけあがって,怠慢で無能な態度を続けて町民の利益を損ねるだけだから,こちらが親切に怒りを表してやっているだけだ.しかしそれも無駄なことだと最近わかってきた.怒るのがたとえポーズであったとしても疲れるものだ.無駄なことに労力を使う暇は自分にはない.危機感がない人間は幸せだろうな.だけど結局最後にどうなるかは目に見えている.先月書いたゴミ問題も同じである.問題を先送りにしても結果は見えている.先日撮影したM31をあげておく.くだらない雑用に追われて疲れても,寝不足になってまで写真を撮影すると不思議と一瞬でも怒りを忘れる.
11月
31日:先日投稿していた論文がacceptされた.今年2本目である.努力が報われると,一瞬日がさしたような明るい気分になる.今も別の論文を作成中である.こちらはデータ処理に時間がかかるため,完成して投稿するのは来年になるだろう.論文を落ち着いて書くことができるのは,土日しかなく,なかなか進まない.それでもコンピュータに向かって一人で論文を書いている時間は苦痛ではなく,逆に楽しくさえある.コンピュータは論文作成時に気分転換のために,時々機種を変えて仕事を続けている.今稼働しているコンピュータは実に8台.7台はthinkpadである.私はこの機種のキーボードのタッチが好きで,他の機種にはなかなか移行できない.10月にはモニター募集に当選して,60万近いthinkpadの新機種W700を20万円台で手に入れることができた.17インチ,フルハイビジョンモニターでカラーキャリブレーション付きである.天体写真の画像処理に最適だ.さらにHDDは2台搭載してRAID,パームレストにはタブレットも付いている.videoはNVIDIAのノート用のハイエンドチップでビデオラムはなんと1GB.快適である.その他Z61P,T42P,A30P,X300が常時稼働しているが,A30Pは今故障中で,修理に出している.さらにX300はトラブルのため今,retore中である.これらの機械を代わる代わる使いながら,仕事のやる気を落とさないように自分で注意している.もちろん最新機種が一番処理が早く快適なのだが,古い機種も愛着が強く,捨てたり使わないでしまっておくと言うことができない.これだけ使われたら,機械も本望だろう.コンピュータをたくさん買っても使い倒して,さらに論文もこれだけ書いているので,良いだろうと自分で納得している.しかし莫大なお金がここにはつぎ込まれている.論文を書くだけなら,今から10年前の機種でも十分な能力を持っている.でも新しいテクノロジーが発表されると,それを使ってみたくなるのがコンピュータが好きな人間の気持ちである.それでも今年は2台もコンピュータを買ってしまったから,もうしばらくは買えない.買わない.絶対.それでもどうかな?
12月
30日:今年も終わりに近づいている.昨日で病院も通常業務終了.一年を振り返ると,疲労が蓄積しているという感想が第一に来てしまう.ここでの仕事がいつまで続くかわからないが,町の態度は相変わらずひどすぎるので,辞めるときも後腐れがないので,こちらとしてはかえって気が楽になっている.論文は2本acceptされまずまずのproductivity.レースはハーフマラソンに優勝とまずまずの成果であった.学会発表は日本消化器病学会と,医師会の講演会が2回.今年買ったものは,thinkpadX300,thinkpadW700の2台のコンピュータと,EOS50D.また散財してしまった.そうそう,天体写真に使っていた改造デジカメが故障してしまった.そのため新しいデジカメを買ってさらに改造しなければならない.来年も大きな変化を望むわけではないが,少しでも納得できるようなことが多い年になってもらいたい.正月は休養をとろうと思う.幸い応援の先生が来てくれるのでdutyはないのだが,ここにいる限りは毎日出勤してしまう.夏休みも3日しかとっていない.本来ならどこにも行かずに休むべきだが,家族のこともあり実家へ短期間帰省することになる.ここにいる限りは心まで休むことはできないのだが,ここを離れるためには車を長時間自分で運転しなければいけないので,どっちが休養になるのかは微妙.夜晴れれば天体写真も撮りたいと思っている.今年一年,お世話になった皆さんどうもありがとうございました.特に私を助けてくれた出張医の皆さん,来年もよろしくお願いいたします.それでは皆さん良いお年を.最後にお年玉で写真を一枚.