日本アイ・ビー・エム(株)最高顧問の椎名武雄先輩(昭26年工学部卒)が、来年卒業後50年を迎えられるのを期に、
コンピュータ発展の過去50年とこれからの50年を存分に語ってもらおうとのパネルディスカッションが、
SFC環境情報学部長斎藤信男教授をもうひとりのパネラーに迎え、
112年三田会年次総会の特別プログラムとして4月15日に開催された。
椎名先輩はその経験を踏まえた見識を、闊達な語り口でユーモアを交えつつ披瀝し、
斎藤教授は朴訥な口調ながら、率直で鋭い指摘を随所に織り交ぜ、お二人の本音トークが会場を沸かせた。
パネルを聞いた小暮高史君はこんな感想を送ってくれた。
> IBMの椎名顧問の人柄には魅了されました。
>エラぶったところのない気さくな人柄を感じさせられました。
>立派な人を講師に選んでいただきありがとうございました。
> 私も卒業後3年間富士通にSEとして勤めさせていただきましたので
>懐かしいマシーンの話を楽しくきかせていただきました。
椎名先輩は、日本アイ・ビー・エムが、まだ大田区の海苔生産業者の横丁を入った日本家屋にあった時代に入社し、
同社を日本のトップメーカーに育てた。
一方、斎藤教授の若かりしころの最大の目標は、「打倒 日本アイビーエム」を合言葉に、
国産メーカーを育成すること。四半世紀前の仇敵同士が、恩讐を超えて三田の山に相まみえたわけである。
過去50年を振り返り、日本で情報産業が成長を遂げた要因として、椎名先輩は2点をあげる。
まず、通産省の大胆な自由化政策のもと、国産メーカーが自立を目指したこと。
そして、日本の経営者が、ユーザーとして明確な夢を示し、ニーズの面からシステム開発を先導したこと。
八幡製鉄の君津プロジェクトはその好例といえる。
結果として、かつてのメインフレームメーカーで今日残っている4社は、
IBMの他は、NEC、日立、富士通の国産メーカーだけになった。
一方、斎藤教授は眼を世界に転じ、小型化・パーソナル化の流れが、業界構造を根本から変えたことに注目。
これがマイクロソフト、インテルの成長を促すとともに、IBMの独占体制を打破したと指摘。
SFCでも1期生から全員にパソコンを持たせたが、このことが、高いリテラシーの学生を産み、SFCの先端性につながったと回顧する。
また、斎藤教授はインターネットの基礎技術のほとんどが、かなり以前から存在していたことを指摘し、
さまざまな個人の能力とさまざま技術が複合し、社会環境との相互作用の中から大きなうねりが生まれる社会的メカニズムの不思議さに
言及した。
椎名先輩はインターネットに代表されるデジタル化を、「津波」と表現。不可避の変化であり、呑み込まれるか、
波に乗るか2つに一つでは、と断じた。
たとえば、過去の40年をやり直せるとして、過去をやり直す道を選ぶか、
これからの未知の40年を選ぶか決めなければならないとするなら。あなたは、どちらを選ぶだろう。
椎名先輩は迷わずこれからの40年を選ぶという。なぜなら、これからの40年のほうが一層エキサイティングなはずだからだ。
この見解に斎藤教授も同調。楽天市場の例を引き、SFC卒業生の持つベンチャー精神を評価しつつ、
SFCも「OBベンチャー資金」を創設し、エンジェルとしてベンチャーをバックアップする構想があることを紹介した。
50年後の予測はむしろSF作家の領域かもしれない。
椎名先輩はコンピュータには「マッスルパワー」に置き換わる能力と、
「ブレインパワー」を補完する能力があるとした上で、従業員の質にばらつきが大きいアメリカでは、
「ブレインパワー」領域でのコンピュータ活用が日本より一歩先んじたと指摘。今後の日本への期待を述べた。
また、現在の日本社会の良さをそのまま残し、欠点を除去し矯正すること。人間がもっと余裕を持ち、
もっと創造的にものごとを考え、より良い社会を築くための道具としてのコンピュータに対することの重要性を熱っぽく語った。
斎藤教授は、まだまだコンピュータの時代は続くが、道具としてまだ不完全で使いにくいことに言及。
音声認識などソフト面でも、形状や素材などのハード面でも、より人間に身近で使い勝手の良いものに変化していくだろうと述べた。
また、コンピュータの活用にあたっても、その社会への適用の面でも、
今後ますます人間の叡智(ウィスダム)が求められるだろうというのが、両パネラーの共通の見解だった。
(文責:経済Q組 濱田逸郎)