ポール・H・ヤング (Paul H. Young) は伝説的なバンブーロッドを製造する以前は fly tyingや剥製を製造したりする職人であった。
1920年代初期、彼はミシガン 州、デトロイト のGrand River Avenueに剥製とフライ等を取り扱う釣り専門店を開いた。
彼はフライフィッシングの経験的な蓄積から長めのバンブーロッドをトラウトフィッシングに適した短めのロッドに修繕することを始めた。
1925年に正式に販売できるロッドを造り始めた。1927年に最初のtaper rodを開発した。
ヤングは、1927年最初のカタログを発行している。そこに掲載されているモデルはtaper(先細)コンセプトによる71/2フィートから9フィートの4種類であった。
彼は優れたフライフィシャーマンでありキャスティングにも長けていた。彼はフライのプレゼンテーションはフライフィッシングの成功の
大きな要因であると確信していた。ヤングロッドという刻印が刻まれてた彼の初期のロッドは、軽くてデリカシーのあるロッドであった。
彼は完成されたロッドを求めて、様々な彼のモデルの改善と絶え間ない変更を行った。彼のロッドに対する追求は、驚異的であったためか、オーダーに対していつも遅ぎみであった。20年代の後半の数年間は空白の時期がある。その時期の会社はWeb Jordanによって運営されロッドは、ヤングの詳細な仕様書に従いHeddonとSouth Bendが制作した。ポールはこの時代にロッドのハードウェア全てを完成させた。
ポール の指導の下での会社は成長して、そして成功した;不況時と第二次世界大戦 の凶年期からも生き残った。戦後の繁栄期に、新たな世代の釣り師の需要に答えるためにロッドモデルを増やした。1946年までに29の2ピースモデルと27の3ピースモデル作りだした。
この時期、Ace や Prosperity のようによく知られているモデル名や、短いロッドモデルとして有名なLittle Giant 、 Sweetheart 、 Standby と Texan等、様々なモデルにネーミングをするようになった。
1950年代初期、ヤング は伝説的な Midge を送り出した。そして、有名な Parabolic 15と一連のロッドによって、アメリカのパラボリックロッドを完成させた。
他にヤングがデザインして制作した、有名なモデルとしては、Driggs, Perfectionistやヤング婦人の名前のMarta Marieなどがある。パラボリックシリーズとして今も残っている各々のモデルには、使用されているferrule(接合金物)のサイズによって14、16、17、18、19といった番号がつけられている。
1956年にポール はデトロイト のはずれのEight Mile Roadに新しい店舗と工場を作りその中にポール・H・ヤング社 (Paul H. Young Co.) を移転した。
グラスファイバーロッドが釣りマーケットの多くを獲得してきた、そこでヤングは、こうした市場に生き残るために80のバンブーモデルを開発し、質のいいフライロッド生産する事に全力を注いだ。
他の多くの rodmakers が倒産し、人気が高いグラスファイバーに市場の切り替わっていく中で、質のいいロッドはいいマーケットであった。
1960年4月にポール・ヤング (Paul Young) の死の後に、会社は妻のマーサ・マリー (Martha Marie) と何年もの間ポール (Paul) と一緒にやってきた息子のジャック (Jack) に引き継がれた。 ヤング夫人 は1969年で引退した後、会社はジャック が運営している。