T.はじめに
この報告では、日常的な会話場面を素材に、<子ども>という対象が会話においていかにして観察されるのかという問題について考察する。相手を「子ども」と見定め、そうした対象として扱い、それを刻々と確認し、あるいは変更するとき、いかなる手続きがどのように用いられるのか。端緒的ではあるが、こうした点を検討するための視座を用意することが本報告での課題である。
<子ども>(また<性差>等)が、会話のあり方において観察可能な対象として現れているかどうかは、それほど検証しやすい問題ではない。会話を観察するさいそれらが自明のものとして現れるように思えるのは、会話の様態に内在するものというより、多くの場合、発話者の姿態や声質といった手がかりによるものである。これらの要素は、観察者に対して、話者のカテゴリー(年齢や性別)を否応なく現前させ、またその後の観察−分析の与件的条件となる。しかもそのさい、それらの契機は発話の意味という図に対する地に留まり、その作用を意識されることがない。我々は、会話場面に現前しあるいは潜在する、どの要因がどれだけ自らの解釈に影響しているかを十分に理解し得ていないのである。
ここでの論考は、多くをサックス(Sacks,H.)に負っている。会話研究において彼は、会話データの使用可能性それ自体に対する検討から始めた。そもそも会話が社会学するためのデータとして使用可能かどうか、使用可能であるとしたらどのような基礎づけがなければならないか、といった事柄をまず問題にしたのである。先の問題を言い直せば、「社会化研究において会話データは使用可能であるか」ということであり、またそのためには、そもそも会話データにおいて<子ども>は観察可能かを確認しておかなければならない。
U.データについて
サックスは、会話データそれ自体というより、それを手がかりに、それに対して行う自らの理解のあり方に実質的なデータを求めた。これは、会話データに基づいて社会学するという営みが日常会話者に属し、また、自身のメンバーとしての日常的推論の自己記述的再構成が重要な課題として位置づけられているからであろう。ここで我々が試みる検討においてもこうしたアプローチがとられる。違いがあるとすれば、サックスの焦点がさしあたり会話の構造の対称的な側面に当てられているのに対して、ここでは非対称的な側面に注目しているということである (1)。社会化研究者として私は、ある参与者が「メンバーである」ということより「メンバーとなる」ということにより大きな関心を寄せているからであるし、またそのさい、会話およびそのコミュニティのあり方が内包する非対称性が、本質的な構成契機であると信じるからである。
いわゆる「会話データ」にはオリジナルの会話の再現可能性という点で、本質的な限界が多層的に存在する。しかし、姿態や声質などの情報が捨象された会話データは、かえって先の問題構制を見やすくするかもしれない。ここでは話者カテゴリーの削除や置換などの改変を施した「データ」をトリガーとして用い、<子どもらしさ>や会話の<非対称性>を検証するといった方法論をとろうと思う。
これは、会話データに接近するさい、日常会話者のモードからチューリング・テストのモードに移行する試みと言える。A.チューリングによるこの「模倣ゲーム」では、姿・声・筆跡などの手がかりが排除された上で、両性が第三者に対して「自分こそ女性である」と信じさせようとしており、第三者は彼らと会話を交わしながらどちらが女性かを言い当てることが要求される*(「男性」の立場は後に機械に代わる)。これはいくぶん特殊な状況であるが、カテゴリー化ということで言えば、日常会話においても、会話研究においても、同様の課題が存在し続けているはずである。観察者にとっては、会話の進行に合わせて、当初のカテゴリー化が適切かどうかを照合し続けなければならない (2)。また、話者自身も、理解されうるものとして自らを提示しようとすれば、自分に対する標準的なカテゴリーと自らの言動との偏差を一定範囲内におさめることが必要となる。そこでは、自分自身のパターンをなぞり場面に合わせて展開するという<自己・模倣ゲーム>が行なわれていると言える。だがそのさい、日常場面で展開する社会化や性差をデータにおいて研究しようとする者が、外在的に付与されたカテゴリーを終始与件として運用し、それ自体を検討することなく分析を行うとしたらナイーブに過ぎるだろう (3)。<子どもであるということ>や<ある性であるということ>あるいは<ある文化 (4)>といった事柄を日常場面で見い出すということは、手頃な(そして頑強な)ヒントが予め提示されている分だけ、チューリング・テストより難しいのかもしれない。
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(1)もちろんこれはサックスが後者に注目しなかったということではない。会話研究のパイオニアとして、またものの順序として、「最もシンプルなシステム」から記述しようとしたというに過ぎない。
(2)例えば次のデータを参照のこと。
相談員:あなた本当に中学生↑
相談者:本当だよ。
相談員:そう、バカに子どもっぽい声出したから、また小学生だからおねしょしたのかと思ったけど中学ならもうそういうことがあるのよ。
電話相談などの場面ではこのことは切実かつ日常的な作業となる。その匿名・非対面状況という特性上、相談が成立し、進行するためには、相手が「何者」かを確認する手続き/系列が会話においてなければならない。
(3)上のトランスクリプトに注目してほしい。データに付与された「相談員」「相談者」というカテゴリーは、どれだけの妥当性を持つのだろうか。話者のカテゴリー化とその表記は、多くの代替物が存在し、また表記しないことも可能である。「相談者」「相談員」といった発話者へのカテゴリー化とその表記は、無条件に許容される前提ではない。適用可能な様々のカテゴリー化の一つを、分析者が選択したものである。実際の会話場面において、当の会話者たちがそのカテゴリーのもとにのみ自分−相手を理解し、そのカテゴリー化のもとでのみ互いに発話し、また解釈していたと規定できるわけではない。
(4)「文化研究において会話データは使用可能か」「そのためにはどんな基礎づけが必要か」──こういった論点を踏まえた文化の記述は、清矢によって進められている。
V.データの非対称性
先に述べたように、我々は会話にかかわるいかなる要素が、どのように自身の解釈に影響を及ぼしているかを必ずしも理解し得ていない。しかし一方、実際の会話においては発話の様態やその継時的生起のあり方によって、話者−聴者のカテゴリー/メンバーシップの質を刻々と確認し続けている。もしそうした手がかりが、それまでに同定したカテゴリーと合致しない場合は違和感を覚えるだろうし、姿態や声といった情報が欠如している場合でも、我々はある会話系列を例えば「大人と子ども」によるものだと想定できることがあるだろう。我々は、会話のちょっとした断片に偶然的な聴者として接する時でも、日常会話者として会話分析を、つまり会話の構造に関する観察−記述−定式化といった一連の作業を行なっており、どこからどこまでが一まとまりの発話であるか、それらのつながりが適切なものであるか、また各々の発話がどんなメンバーによるものか、といった事柄をほとんど自動的に分析している。次のトランスクリプト (1)をみてほしい。
Case 1 #1 A:...シュシュポッポ コッテネ シュシュポッポネ コンド ココントコ 2 B:なにつくってるの? 3 A:シュシュポッポ コッテネ アノ チョット コッチハ Case 2 #1 A:ボクはいま何して遊んでるのかな? 2 B:おじさん、だれ? 3 A:おじさんはね... Case 3 #1 Michelle : And one for Michelle, one for Kouhei. 2 Kouhei : Thank you. 3 Michelle : Now, how many apples do you have?以上のデータを眺めて、どのように感じられるだろうか。いずれの場面も、子ども(あるいはそれに準ずる者)と年長の参与者(例えば大人)との会話のように感じられなかっただろうか。もし私だけでなく大方の読み手がそう受け取ったとしたら、それはなぜだろうか。これらのトランスクリプトは、話者のカテゴリーについて必ずしも明示的ではない。にもかかわらず、それが子どもと大人がかかわる会話であり、どの発話がどちらによるものかが推測できるとすれば、そこには何らかの形の非対称性があり、またそれを読みとる解釈手続きがあると考えられる。
[資料1]
TV視聴データの分析は、次のような論点を示唆する。
@会話データは、会話に対する理解の仕方(メンバーによる会話分析のあり方)をデータとして検討する場合のトリガーとして利用できる。
A発話者のカテゴリーを置換した‘データ’の(観察者にとっての)成立可能性 (2)は、日常会話でのメンバーシップのあり方、及び観察者が内面化しているカテゴリーのあり方に相即している。
B子ども−大人間の会話においては、どの発話にも話者のメンバーシップが明白に刻印されているわけではない。会話の話法が異なっているにしても、大人は子どもに合わせる形で会話をし、結果として両者の発話パターンは似かよるからである。それでも、
C子ども−大人間で交わされる会話には、大人間のそれにはほとんど成立しないような系列が一つは存在し、それは「問いと返答」のある種のパターン(A−Q−A系列)である。
Dそれゆえ、会話の形式的特徴として<子ども>は観察可能である、と言える。
言うまでもなく先にあげた case 1(積み木遊びの場面)にも、このA−Q−Aという系列が見い出せる。そこには、表記のみならず、会話の構造という骨格として非対称性が見られる。この系列の意味を更に検討するため、一旦子ども−大人という場面を離れて、問いかけ一般について考察してみよう。
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(1)1-岩淵他 1968,113頁。2,3は筆者のフィールドノートより。
(2)この操作を用いた非対称性の検討は、きわめて素朴かつ雑な方法である(また、この基準に照らして成立不可能である相互行為系列が、実際には存在しうるだろう)。しかし、データの検討のさいこの手続きを用いるねらいは、普段一方的に解釈の前提としている与件的カテゴリー化そのものを検討にさらすことにあるのである。
W.会話における問いかけについて
「君は神を信じるか?」 本当の質問ではありません。 分かっているくせに、と言わんばかりだ。 「なぜ本当の質問ではないのか?」 それも本当の質問ではありません。 (J.バーンズ『太陽を見つめて』白水社、加藤光也訳)
会話が会話である所以は、複数の参与者による発話がその交代を伴いながら連続体として構成されることにある。その意味で、問い−返答という系列は、もっとも会話らしい構成契機の一つであろう。しかし実際の会話場面では、問いかけとそれに対する応答のあり方は一様でない。「質問者がその答えを知らず、知っていると思われる相手にそれを尋ねる」という形は、むしろ稀かもしれない。問いかけを<問い>を<なげかける>ことと考えると、前者ではなく後者の方に重きをおいた問いかけもあるかもしれない (1)。ここでは、質問者がその答えを知っているかどうか、また相手がそれを知っていると想定した上での問いなのかどうかという点に注目して、大まかな問いかけの分類をしてみる。
表1 Questioner Answerer type N × ○ 例:‘本当の質問’ type P × × 例:哲学的探求/自問自答 type R ○ × 例:なぞなぞ/クイズ/"Do you know what?" type G ○ ○ 例:尋問ここで検討している問いはタイプGとなる。該当する事例をいくつかあげる。
興味深いことに、聖書中に現れる最初の会話は、神から人へなげかけられた上のような問い−返答であるが、このさい質問者は解答を知らなかっただろうか* 。‘全知全能の存在’が投げかける問いの本当の意味について詳しく知ることがないが、自らによる被造物へのこの問いは少なくとも文字通り解答を知らなかったゆえではないだろう。もう一つの事例は雑誌に掲載された懸賞クイズである。ここでもある種の問いかけがなされているが、この問いは何のためだろうか**。いうまでもなく、これらの問いかけは次の点において共通である(そして、そのことによって質問者−返答者との非対称的な関係を示唆する)。
@質問者自身がその問いの答えを知っていること
A問われた相手がよく知っているか、あるいは簡単に知り得ると質問者自身によって想定される事柄を問うていること、そして
B相手がどう答えるかも知っていること、などである。
もちろん共通点のなかにニュアンスの相違もある。例えば、どちらもAも満たすがその理由は異なる。前者の場合、a)-解答が、問いが問われた者自身にかかわることだったからであるのに対し、後者は、b)-回答者の前にすでに明示的に示されているからである。(ちなみに、積み木遊びおよびTV視聴場面のケースは、a) b)両方の条件を満たす。)
どちらの場合も、質問者−回答者双方に分かっている事柄が問われたからといって、意味がないわけではない。少なくとも質問者−回答者の状態や関係は、問い以前とは変質しているからである。前者は、問われた者に、問われた事柄(自らの行為)を自覚化するよことを、あるいは自らを対自化することを促すよう働く、という点で有用であるし、後者は、質問者が求める形式で答えるということが、質問者−返答者に新たな関係を取り結ぶことになる、という点で意味のある問いである(Bは満たさないものの、クロと確信した容疑者に対する尋問−自白という形式も、同様の事情である)。以上の論点はいずれも、先のトランスクリプトの標本的な意義を示唆する。
TV視聴場面の分析が示唆するように、幼児にとっては、発話できることと、それを会話として編めるということとは同じことではないのだろう。例えば、ピアジェの言う「集団的独語」という現象を想起してほしい。会話能力ということで考えればそれは、発話はできるものの会話分析が十分に習得しきれていない段階と言えるかもしれない。ここで言う会話分析とは、先にふれたように「会話の構造に関する観察−記述−定式化等の作業」を指すが、とりわけ会話の系列に対する観察という作業は重要である。
Case1もTV視聴場面での問答も、「A−Q−A」という形式となっていると述べたが、厳密に言えば、それにかかわる両者にとってA−Q−Aなのではない。これは日常会話に精通した観察者による、再帰的な構成物である。第一の発話が<A>と定義されるのは、事後的に、つまりそれを問うているように見える質問がされ、それに対して同一の発話が返答としてなされ、それが適切な返答として認容されるという観察を経てである。
もちろん幼児は、第一の発話を最初から返答として発した訳ではない。しかし、話者を異にする複数の発話の連なりを会話系列として観察できる会話者は、問いに先行するその発話を<A>であると再帰的に定義し直すことができる。(それゆえ大人間の会話ではこの系列はほとんど見られない。問いがなされた時点で、応答者は先の自らの発話が‘解答’であることを、相手に指摘するだろう)。TV視聴場面の分析でみたように、タイプGとして問われ、A−Q−Aとなるよう巧妙に配置された問いは、発話はできるものの、それを会話となるよう自らのターンとしておりこむということが不得手な段階にいる幼児に、その機会を与えるものとしてある (2)。
実際には日常会話者は、以上の事柄を、ある意味ではきわめて当然のこととして‘知っている’。それゆえ、A−Q−Aという系列をもった会話の断片がある場合、即座に問われた方を子ども、問うた方を大人として聞き取るのである。非対称性はこうして、会話のルールとして、また観察−会話分析のルールとして、日常会話とそのメンバーに埋め込まれているのである。
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(1)幼児はある時期「なぜ?」「どうして?」といった質問を多用する。幼児が知的好奇心・探求心の発現の表れだとも言われるが、しかし子どもは必ずしも解答の中身を求めているのではなさそうだ(その証拠に、彼らは大人の解答を吟味する間もなく、間髪を入れずに次の「どうして?」を聞いてくる)。むしろ、そうした発話アイテムのもつ会話系列上の権能──どんな返答がされてもすぐさま同じ問いを返すことができ、相手がそれに対して応えなければならないという──に気づき、そうしたアイテムをおもちゃとして楽しんでいるように見える。(また、周囲の成員との交渉の中で彼らは、その使いすぎが相手の不機嫌を招くことを学習したり、また頭に瘤を作りながら会話が必ずしも内的な条件でのみ終結するのではないことを学ぶかもしれない。)
(2)相互行為となっていない(集団独語的な)発話に問いを差し挟むことによって、それを会話へと再構成する。J.ラカンは、患者のおしゃべりに「句読点」を挿入するだけでも分析治療が開始しうると主張するが(『エクリ』)、ここで検討している問いも正しくこの「句読点」である。
X.人称−呼称について
では、Case 2,3 が子どもがかかわる会話であると我々に感じせしめたのはどのような要素だろうか。ここでは、童謡を手がかりにこの問題を考察しようと思う。
サッちゃんはね サチコっていうんだ ほんとはね だけどちっちゃいから 自分のこと サッちゃんっていうんだよ おかしいな サッちゃん (阪田寛夫作詞)この歌を聞くとき、それが誰によって歌われていると思うだろうか。あるいは、その歌詞内容の「話し手」が誰であれば違和感がないだろうか。この歌は(たとえ大人のクラシック歌手が歌っていても)何となく、子どもが、大人に対して、自分より年少の幼児のことについて歌っているように、私には聞こえる。もしこうした聞き取りが大多数の聞き手に共通するものであるならば、それはなぜなのだろうか。先にもみたように、我々は会話のちょっとした断片を耳にしただけでも、その発話主体や聞き手のカテゴリーや会話系列上での位置などを推測−分析する。この童謡が前述のように聞こえるとすれば、聞き手にそれを可能にし、または強制する何らかの装置・手続きがあると考えられる。この歌では「呼称」がトピックとなっており、広い意味での人称運用という問題が背景にあるだろう。
[A]MCDとしての人称
サックスはその会話研究において注目すべき分析装置 membership categorization device (以下、MCDと略記)を提示した。ここで人称をさしあたりMCDと位置づけてみると (1)、次のような視点から分析できる。
@人称というMCDは会話において、会話にかかわるメンバーをメンバー自身がその都度カテゴリー化し、しかも相手にそれを直接明示的に提示するさいに用いられるデバイスである。
Aまた人称MCDは、会話の形式構造(turn taking の構造など)を反映したデバイスであるという点で[例えば、発話主体の交代に伴うIとyouの交換など]、会話の構造に最も密接に結びついたMCDである。
B人称MCDは、会話にかかわるメンバー間の社会関係を直裁に反映したMCDである。(とりわけ日本語においては、例えば目上−目下の関係、職場の人間関係などを反映し、また規定するMCDである。)逆の言い方をすれば、メンバーがかかわる様々な社会関係あるいは社会構造は、会話において人称MCDの運用として学習される。
C会話中に現れる人に関するカテゴリーは、「家族」「生涯段階」等各種のMCDのメンバーである以前に、すべて‘人称’というカテゴリー・デバイスに属している。
P={人称代名詞、親族名称、地位−職業名称、人名・あだ名といった固有名詞...}
D人称カテゴリーとその運用ルールは、会話の起点である発話者の位置決めを行い会話系列の構成を支えるデバイスであるという点で、会話のコードであると考えられる。
さて、標準的な人称MCDについてさらに論点をあげる。
E人称の集合Pには下位集合としてfP,sP,tPがあるが、人称代名詞を初め集合Pからいくつかのパターンが除外される。
fP={一人称代名詞、....}(例えば、名前+さん/ちゃん/氏 etc.は除外)
sP={二人称代名詞、....}
fP={三人称代名詞、....}
Fまた、先の@、Bの条件により、対面状況の会話においてはfP・sPのすべてのカテゴリーが利用可能なわけではなく、参与者のメンバーシップに対応して、一定の組み合わせのみが実際に利用される。
[B]人称における非対称ルール
このように、自称として「サッちゃん」を用いたり、二人称として「ボク」を用いたりするのは標準的なメンバー間では不適切であるが、乳幼児や障碍児などが参与した会話場面ではごく普通の用法となる。それゆえ、大袈裟な言い方をすれば、この人称MCDという「コード」の形式は単一ではない。カテゴリーのセットも交換ルールも様々なヴァリエーションをもつ。「ボク」や「サッちゃん」が先のような形で用いられたとき起きることは、会話あるいは観察の断裂ではなく、単にモードの転換である。そうした人称運用は、観察者をして、その会話に正規のメンバー以外の参与者(例えば、幼児)がいるように感じさせるだけである。[我々は、相手をひとまず可能な会話者として交渉に入ったときに、どれほど話がかみ合わず、あるいはまったく意思疎通が成立しなかったように思えるときでも、何らかの意味の獲得が存在する。例えば、そうしたコミニュケーションしかできない相手としてカテゴリー化する。]ここには「非対称ルール」と呼びうるような形式があり、またその運用は社会化の過程と結びついていると思われる。
童謡の‘歌い手’が「おかしい」と感じたのは、通常fPとは成り得ない「サッちゃん」という呼称をそのままfPのカテゴリーとして用いていることであるが、しかし、おそらく、「あなた/君」といった人称代名詞を用いることをせず、一貫して「サッちゃん」をsPとして使っていたのは周囲の大人であろう。それゆえこの背景には、標準的なメンバーがメンバー候補に、人称に関する拡張ルールを運用し、それに候補者が適応したのだという言い方ができるかもしれない。
幼児が一人称/二人称にも親族名称や名前(あだ名を含む)を用いることのを、大人は許容するのみならず、自らもその運用ルールに従う。というより、人称交換を含んだfP−sPの運用がまだ幼児には難しいことを見越して、暫定的に自身が‘拡張ルール’に移行する (2)。確認すれば、この‘拡張ルール’の基底原理は(本来の人称代名詞を使うか使わないかということではく)幼児に対して、会話ターンの交代による人称の交換を行わず、fPとsPのカテゴリーメンバーを同一にすることを認容するということである。
Case 2にみるように話者が交代していくにもかかわらず[ボク−ボク][おじさん−おじさん]などと一/二人称に同一の言葉が用いられる会話系列は、それだけで話者のメンバーシップの非対称性を──すなわち、参与者の一方が‘幼児(あるいは障碍者)’であることを推測させ、またそれが大人同士の会話だとされたら強い違和感を生ぜしめるものとなる (3)。逆に幼児でありながら‘発達段階’にそぐわない標準の人称モードを使っているように見える場合には、メンバー自身による、次のような確認が行なわれることになる。
Case 4 (4)
その意味で、このデータも、表記や言葉遣いという局面だけでなく、形式構造としての非対称性を示唆するものである。
Y.非対称ルールから対称ルールへ
先にふれたように、標準的なメンバー間で使用されるルールを<対称ルール(SR)>、標準的なメンバーと乳幼児/障碍児などとの会話で使用され、メンバーシップの質が非対称であることを表示するルールを<非対称ルール(ASR)>と呼ぶことにする。さて日常生活において運用可能なこれらのルール群は、メンバー候補者(CM)にとってどのように現れ、学習されることになるのだろうか。先に見てきた人称に関するルール群をイメージしながら、そのプロセスを素描する。
表2.
こうした流れにおいて重要な画期は、周囲のメンバー(RM,CMを問わず)が運用している会話−会話分析のルールへの観察−評定であり、ある意味ではCMはRM以上にそれに敏感となり、またその観察を表明する。RMがその使い分けを当然のものとして行うのに対して、c’の段階にいるCMは、それを意識的に行い、自分がその違いに気づいていることをことさら報告する。
[.非対称ルールと対称ルール
これまでみてきたように、日常会話は、共通の語彙を持ち、単一の会話コード・ルールを同型的に習得した者同士にのみ許されるような「閉じたシステム」ではなく、メンバーシップに応じて適用可能な複数のコード・ルールがあり得、またそれらを乗り換えたり即興的に調達したり (1)しながら編まれる「開いたシステム」であると考えられる。また特に乳幼児がかかわる会話は、そうした開かれた会話のあり方を利用しながら、乳幼児による不完全な(あるいは偶発的な)かかわりをターンとして扱い、解釈し、相互行為のなかに織り込もうとするような、多種多様なメンバーにも開かれた系となっている。またそのさいの、開かれたシステムとしての会話場面が、社会化の重要な契機であると考えられる。
−文献−
阿部耕也 1986a,「テレビを介した子ども−大人関係」(マスコミと教育研究会『子ども のテレビ視聴の様態に関する調査研究』東京都生活文化局、23-41頁。
#1 A:だれですかこわしたの
4 B:シラナイヨ
5 A:この人だれ(おとながカヨちゃん自身を指さして)
6 B:ワタシ ナンデモワタシテユウノ
ここで、標準的なメンバー間の会話には許されないにもかかわらず、乳幼児などのメンバー候補者がかかわる会話では許容される、こうした人称交換のパターンを‘人称に関する拡張ルール’と呼んでおきたい。こうした人称運用のあり方をもルールと呼ぶのは、それが標準的なメンバーにとって、観察可能であり、報告可能であり、さらにはまた(観察者としてまた会話者として)運用可能だからである (5)。また、前節であげた人称変換ルールが、<発話者>−<聴者>が置き換え可能であるような会話に対応するという意味で‘対称ルール’であるとすれば、こちらの拡張ルールは‘非対称ルール’と言えるだろう。この意味での‘非対称ルール’は、前節で取りあげたタイプGの問いかけをきっかけとしてA−Q−A系列の運用など、幼児−大人間の会話を中心に、数多くのバージョンがあるものと考えられる。
さて、「サッちゃん」の‘歌い手’がサッちゃんの言動を「おかしい」と感じ、サッちゃんが幼少のメンバーであることを我々に感じさせるたのが、以上のような背景であるとすると、ではこの‘歌い手’自身が大人ではなく「子ども」であるように感じさせるのは、我々が用いるどのような装置だろうか。このことは、おそらく次のような問題と関連している──すなわち「会話において対称ルールと非対称ルールとはどのように関係しているのか」ということである。次節ではこの点を検討してみたい。
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(1)これには検討の余地がある。──@‘人称’がMCDであるとすると、その場合はしかし、母集団のメンバーの資格や、適用ルールが、他のMCDと異質となるように思える(例えば‘I’や‘you’が適用される母集団とはどのようなものか?/その適用ルールはいかなるものか等)。また、A‘人称’がMCDではないとすると、その場合はしかし、メンバーを確かにある仕方でカテゴリー化するものでありながらMCDではないことになる。では人称とは何か、と問わねばならない。他のMCDのカテゴリー・メンバーが、メンバーにある意味を付与する(カテゴリーあるいは類型性を与える)のに対して、‘人称’はなんら実質的なカテゴリーづけを行なわないという意見があるかもしれない。しかしこの場合も、英語ならばともかく、日本語では、人称のカテゴリー・セットのどのメンバーを使用するかによって、成員のカテゴリーづけは大きく変わってくる(例えば「貴様」と言うか「あなた」と言うかで...)。
先にふれたように、一旦‘人称’をMCDとして認めると、他のあらゆるカテゴリー・メンバーも不可避的にこのMCDに属することになる。逆に言えば‘人称’以外のMCDに属しないCMが、本来のいわゆる人称代名詞であるということになるのかもしれない。
(2)鈴木は大人−幼児間のこうした事実に注目した上で、「ある特定の親族集団内では、目上の者は目下の者が自分を呼ぶ、まさにそのことばをひき取って、自分のことを称する」と述べている(鈴木孝夫『ことばと文化』岩波書店、154頁)。しかし順序としてはむしろ逆ではないだろうか。つまり、幼児が自分のことを呼びやすいように、あるいは乳幼児に自分の呼び方を教える形で、例えば父親は自分を「おとうさん」と言うのではないか。
(3)データにおいて「ボク」や「おじさん」ではなく、「おとうさん」「先生」「サッちゃん」などを代入してみてほしい。どのような言葉が入っても、自称−呼称に同じカテゴリー・アイテムが使われる限り、そのデータは一方が‘幼児’あるいは完全な参与資格をもたない会話メンバーである会話系列のように聞こえないだろうか。(ex.「フォレスト・ガンプ」)
(4)岩淵他、前掲書、213頁。カタカナ表記の発話は2才7ヶ月の幼児のもの。
(5)以上の人称ルールを‘拡張ルール’‘暫定ルール’としたが、発生的にはむしろ一/二人称にも固定的に「名前」を使うことなどの方が先で、I−youの交換ルールは後であったかもしれない。とすれば、人称ルールに関しても「個体発生は系統発生を繰り返す」ということになる。
a −CMはまず、RMによってASRを一方的に適用される存在である。ただ、その場合でもメンバーとして扱われる。[「おまめ」「みそっかす」etc.]
a'−また同時にCMは、RM同士の、観察可能な形で行なわれている会話に常時さらされている。
b −CMはRMによってASRを適用されながら働きかけられ、また偶発的な言動をも必要にして十分なターンとして受容され、またそれをトリガーとして再び働きかけられることを通して、ASRの被適用者として定位され成形される。
b'−しかし、CMはまだSRを適用される段階ではないし、運用する段階でもない。
c −次いでCMは(RMから)徐々にSRを適用されるようになり、そこでの働きかけ合いを通じて、その担い手としてSRを運用するようになる。
c'−しかしCMは他のCM(より年少のメンバー)にASRを適用して働きかけることはしない。ASRとSRの双方にふれながらも、両者を統一的なルール群としては運用していない。
d −次いでCMは相手によって、SRとASRを使い分けて会話を行うようになり(つまり複数のルール群を運用し)、この段階でCMはRMの仲間入りをする。
「サッちゃん」の事例で言えば、幼児が「サッちゃん」と自称することは<ASR−SR>を運用可能となったRMからすれば必ずしも「おかしい」ことではない。それは、その年齢の幼児の発話様式とすれば当然で、またそれを当然視した上で大人たちは「サッちゃんのママはどこ?」といった問いかけを行うからである。人称運用が対称ルールで行なわれておらず、拡張ルールが用いられている会話を観察した場合、その事実に敏感なのは、対称ルールを習得したての子どもたちであろう。拡張ルール/標準ルールを習得し、またそれらのルール群の運用をマスターして久しいメンバーにとっては、それは自明で報告するに値しない事柄であるのに対して、ステージc’にいるCMにとっては十分にニュースバリューがある。彼らは、「わたし」/「サチコ」というべき場面で「サッちゃん」という自称をするサッちゃんを「おかしい」と感じ、また取り立てて言明する。そして同時に、あらかじめその理由も知っている(「…だけどちっちゃいから…」)と報告するのである。
メンバーの資格による、拡張ルールへのこうした対応の相違はまた、それ自体、観察可能で報告可能なものとなっているように思える。そしてその事実が、聴者−分析者をして、こうした発話(歌詞)に接したときその話し手の年齢その他の資格を推測することを可能にするように思える。
確認すれば、「サッちゃん」が幼児であることを観察せしめたのが人称ルールのあり方そのものであるとしたら、その「サッちゃん」の言動について報告する者が、子どもであるらしいことを観察せしめるのは、人称に関するルール群への対応(トピックとして観察−報告すること)であるということになる。
我々にとって、会話に投げ込まれた問いかけや人称は分析可能であり、それに対する分析によって<子ども>がその会話の様態において観察可能となる。そして、この「会話分析」という営みは、意識的にするものではなく、会話に入り、あるいはその断片に接したとき、不可避的にこなさねばならない課題である。
悟空はその下であれこれ算段をめぐらせていました。「おれさまの本当の名は孫行者だ。口から出まかせにつけた名が者行孫だ。本当の名なら吸い込まれてしまうだろうが、出まかせの名なら、どっちみち吸いこめるはずがないだろうな」とて思わずひと声、返事をしてしまったのです。するととたんに、ピューッとひさごのなかに吸いこまれ、ぺたんと封印のお札を貼られてしまいました。なんとこの宝もの、名前がうそか本当かにおかまいなく、返事をしたときの呼吸をつかまえて、なかに吸いこんでしまうのです。 (『西遊記』岩波書店、中野美代子訳)
そのさい、会話とそのコミニュティにとって本質的な構成契機は、対称ルール以上に非対称ルールであろう。会話コミュニティは、未だメンバーではなく会話に精通していない存在をメンバーとして補充し、標準的なメンバーとして成形しなければならないからである。メンバーが非メンバーと接し、働きかけあい、会話を達成していくそのどの過程をとっても、彼らの関係は非対称的なものでしかありえないからである。[厳密な意味で、メンバーシップの質が同じだと想定しうる参与者からなる会話場というのは、日常場面においてほとんど存在しない理念型のようなものである。日常生活のほとんどを占める会話場は、非対称的であったり、過渡的状態であったりすのではなろうか。]
我々は、日常世界というコミュニティを運営するとき、ルールを知らない新規参入者を‘勉強’が終わるまで外部に待たせたりはしない。会話を交わしながら、会話を習得させるしかない。そのさい重要なことは、要件を備えていない者をもメンバーとしてみなすことであり(不完全な、あるいはまったく偶発的な所作でさえ十分なターンとして認容することであり)、またそれを可能にする非対称ルールの存在である。
会話にかぎらず、およそそのメンバーとなるのに何らかの条件を要するコミュニティは、そのことによってかえって非対称的な構造を内包していなければならないように思える。例えば、子どもの仲間集団では、幼い新規参入者に対しては、「おまめ」「みそっかす」といった形で鬼ごっこをするにもレギュラー・メンバーとは違ったルールがあてはめられる。会話にしても遊びにしても、レギュラーメンバーのそれと完全に同一のルール、同等の能力が厳格に求められたとしたら、そもそも誰もそのメンバーになれないからである。以上の意味において、非対称ルールは(対称ルールから測れば‘拡張あるいは暫定ルール’に見えるにしても)まったく本質的なものである。
会話の構造の非対称性に注目し、対称ルール以上に非対称ルールに本質的契機をみるという態度は、あるいは我々をウィトゲンシュタインに近づけるかもしれない。我々が漠然と会話と呼ぶ現象はきわめて多種多様なメンバー間で編まれる組織であるが、異文化コミュニケーションも含めた膨大な裾野まで、会話にかかわる共通のコードやルールが覆いうるだろうか。時に人間以外のメンバーをも構成契機としながら、やはり「会話」としか呼びようがないこの事象を範疇づけるには「家族的類似性」のような捉え方をするしかないかもしれない。一組のメンバー間で会話がなされ、またその一方が別のメンバーと会話をしたとき、そこでのコードが同一だと確定する根拠はない。共通の対称ルールがあるとすれば、それはむしろ、多種多様な即興的な非対称ルール群の重なりに刹那的に浮かんだ島のようなものかもしれない。会話の非対称性をあまり普遍化しない方がよいかもしれない。しかし、子どもにかかわる非対称ルールは、(用語としての適切性はともかく)自称として不可避的な契機と考えられる。なぜなら子どもにかかわる非対称性は、会話共同体としての社会の成立と存続にかかわるものだからである。
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(1)例えば、幼児語という「コード」を想起してほしい。
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