(研究ノート)
偏差値=貨幣論についての覚え書き
本稿ではこれまでの分析とはいささか趣きを異にして、一つの試論あるいは覚え書きとして偏差値の持つ意味を考えたいと思う。まず偏差値特有の存在性格を貨幣との類比でみていき、さらには偏差値が受験体制の中でもつ意義あるいは機能を、特に偏差値信仰と呼ばれる事態と関連づけながらさぐっていくことにしたい。
本論に入る前に確認しておきたいことは、ここでは、偏差値という指標の是非あるいは教師がそれを用いることの是非を論じるわけではないということである。ここではただ、なぜ受験体制において他ならぬ偏差値という指標が用いられるのか、それが偏差値のどのようなあり方に由来するのかをみていこうとする。
1.偏差値の存在性格
偏差値のもつ意味を探ると言っても、これまで既に「偏差値の運用類型」という形で、あるいは「選別の担い手としての偏差値」という形でそれぞれの側面については詳細な分析がなされてきた。ここではそれらの三者面談に即した、データ内在的な分析とは別に、偏差値のあり方についての幾分概念的・認識論的な考察を試みることにしたい。
(a)偏差値の存立形態
偏差値の基になるものは当然テストであるが、一口にテストといっても様々である。元来テストとは資格試験としての性格をもち、基準点に達した者に何らかの資格を与えるという資格授与の手段であったが、現在では選別試験という性格をもつテストの法が一般的であろう。この形式は、素点自体にはそれほどの意味はなく、テストにおける他者との相対的な位置(例えば順位)が問題となる。受験体制においてテストと言えば、もちろん選抜試験を意味するわけであるが、偏差値とはテストのもつこの“選抜”という性格を端的に数値化したものと言えよう。多数の学校間で一斉に行われるテストに基づく偏差値は、受験者相互の関係を、あるいは個人にとってみれば全体の中での相対的な位置を、数値化した指標である。また偏差値は、テストにおける受験者相互の関係を写し、数値化した指標であることによって、受験者個人を価値づける尺度となる。さらに、偏差値が価値づけるのは受験者個人にとどまらず、蓄積されたデータに基づき、受験校をも価値づけ、例えば高校序列といったものの尺度にもなる。それゆえ教師にとって偏差値は、進路指導のさいの最も重要な指標であり、テストに投影された受験者相互・受験校相互の関係を表示するのみならず――あるいはそのことによって――受験者と受験校を関係づける媒介となる。
もちろん、学校間にまたがる業者テストとそれに基づく偏差値という指標が用いられていなかった時期にも、受験者の学力は何らかの形で尺度化されていたし、学校序列も歴然として存在していた。そして受験指導のさいの指標も、各種の校内・校外テストの素点、校内順位あるいは通知表の評価、内申書等様々なものがあったに違いない。しかしそうした指標による進路指導過程においては、どの受験者にどの学校を受けさせるかという具体的な指導場面で、望むと望まざるとにかかわらず、教師個人の判断あるいは解釈が入らざるをえない。これに比して、受験にかかわるほとんどすべての受験者が受ける業者テストに基づく偏差値は、統計的に洗練された形で多数の受験者を尺度づけるもので、やはり偏差値で表された学校の難易度を示すデータと相まって、合否の“予測可能性”という点では、そうした他のどの指標より洗練され、有用性・普遍性が高い。とりわけ多数の学校が公立・私立入り乱れてひしめく東京などの地域では、ほとんど絶対的とも言うべき評価を獲得しつつある。
また偏差値の予測可能性への信頼は、第5章で主題化されているような状況を生じさせる。それは、受験校決定の際には、教師があえて判断を下すまでもなく、予め受験者および父兄は偏差値相応の志望校を選ぶという状況であり、それはあたかも学校のもつ潜在的な選別機能が、偏差値自体に内在する(「選別力」とも言うべき)“力”“性質”のように現象する事態である。またそれゆえ、進路指導過程は、大局的な所では教師・受験者・親の個人的な意思、思惑がぶつかり合う意思決定場面というよりは、客観的な、確率された制度におけるプロセスのように映る。進路指導の指標あるいは媒介としての偏差値の、こうした有用性・普遍性は、貨幣経済社会における貨幣のそれにも比すべきものとなりつつある。 ところで、偏差値という受験体制における“通貨”は、言葉の上だけではなく、その内実および存立形態において、貨幣にきわめて似かよった性格を帯びつつあるように思われる。偏差値のもつ意味を考えるため、ここでしばらく貨幣のもつ存在性格をみていくことにしよう。
(b)貨幣の存在性格
貨幣のもつ独特の存在性格は経済学における大きなテーマの一つであり、ことにマルクスにとっては主要な課題であった。彼が注目したのは、貨幣という人間の社会生活における媒介が、人間という主体の欲求を満たすための従属的な、いわば“奴隷的”なものであるにもかかわらず――あるいは、他ならぬその事実によって――、貨幣経済社会においては、あらゆるものの上に君臨する“王”として、「目に見える神」として現象するその事実であった。彼は『経済学哲学草稿』の中でシェークスピアを引用しながら、貨幣のこうしたメカニズム、その弁証法的展開を分析したわけだが、それは後年の『資本論』の契機となるものであった。マルクスの引用した『アテネのタイモン』でシェークスピアが描き出したように、貨幣は元来“奴隷的なるもの”である。それは人間という主体の欲求、生活を満たすための手段であり、生活と生産手段、人間と商品あるいは人間と人間とをとりもつ媒介者であり、もっとも普遍的な客体である。しかし、そうしたあらゆるものの“とりもち役”であることによって――普遍的な媒介であることによって、それらのもののの上に“王”として、全能の「目に見える神」として現象する。しかしこうした弁証法的展開は、単に“奴隷”であるだけでは完成しない。例えば物々交換的段階では、こうした“神性”は獲得できない。(例えば我々は、現代でも、場合によっては大根10本を魚2匹と交換しうる。しかし大根のこの交換価値はきわめて限定されたものであり、貨幣のような“神性”とはほど遠い。)それはあくまでも、あらゆる対象のであることによって――また社会の大多数の成員が、貨幣の購買力およびその普遍性への“信仰”をもつことによって――完成される“神性”である。そのさい注意すべきことは、その“神性”――また貨幣のもつ購買力という“性質”は、あくまで言うまでもなく諸個人の実践的な相互作用が結果的に生み出した力であるが、これは各々の個人の側からみると、相互作用の媒介である貨幣にするかのように映るということである。そしてその“力”は、各々の個人にとって何か疎遠な、外在する強制力として現れるのである1)。[疎外態としての貨幣]
さて、以上のような貨幣の存立形態がもたらす重要な帰結は、それが流通される過程が匿名化され“脱人格化”されるということである。すなわち、貨幣のような普遍的な媒介が存在しない物々交換的段階の社会においては、人々の生活を媒介するものも、それを交換する過程も“人格的”であり、それに関わる具体的な諸個人の個性が強く刻印づけられている。ところが貨幣経済が浸透した社会においては、媒介である貨幣の普遍性にゆえに、その流通過程も匿名化され“脱人格化”されるのである。
さてこうして貨幣の存立形態及び存在性格を見てくると、いくつかの点で偏差値と類比性を見出すことができる。重要な点だけを確認しておけば次のようになるだろう。すなわち、(1)両者とも、各々の場において――貨幣経済社会において、また受験体制において――それぞれ普遍的な媒介であり、(2)他ならぬその事実によってあたかも具体的な諸個人から外在的に“購買力”あるいは“予測可能性”(またそれよの信頼から生じる“選別力”)という力・性質をそれ自体のうちに持つように映り、(3)またそれぞれの媒介としての普遍性によって、その流通過程――市場での交換過程および進路指導過程――が匿名化され“脱人格化”されるということである。とりわけ(3)は後述するように偏差値が受験体制において持つ機能として重要である。
ところで、偏差値と貨幣が類比的であるといっても、いくつかの重要な点で決定的に異なるのはもちろんである。例えば両者は、その流通の場面のみならず流通の仕方もまるで異なっているし、交換のあり方も違う。人間という主体への帰属の仕方・所有のされ方も根本的に異なる。また貨幣が持っているような物質性は偏差値にはない。(もっとも貨幣の物質性と言ってもその媒体は何でもよいし、貨幣のもつリアリティはその物質性の故ではないが。)とは言え、こうした差異はここで論じようとする問題にはほとんど関与しないはずである。また逆に、貨幣と偏差値との相似点は前述しただけではない。例えば両者とも、使用者から通常その存立根拠を問われることはない。貨幣の交換価値がどのように裏付けられているとか、偏差値が統計的にどう処理されどのような数式によって導出されるといったことは、ほとんど問題にされない。受験者もその父兄も知らないことが多いし、教師も明確な知識を持っているとは限らない。(ちなみにある教師はインタヴューに答えて次のように述べている。「そう、あたしもこの出し方わかんないんですよねー。計算の仕方がなんか難しくしてあんでしょう…。えーすごいなんか掛けたり割ったりねぇ、そう、すごいやり方があんですよね…。」)
問題となるのは運用のされ方であり、貨幣も偏差値も、それぞれの流通場面での使い方・使われ方を知っていれば事は足りるのである。
ともあれ、以上みたように貨幣と偏差値とは、その媒介としての存立機制において重要な共通点を持っており、後にみるようにそのことがもたらす共通の帰結も重要である。類比を急ぎすぎたきらいもあるので、次節では(1)〜(3)の各点について詳述しつつ、偏差値信仰という事態と受験体制との関わりをみていくことにしよう。
2.偏差値信仰と受験体制
前述の如く、業者による一斉テストとそれに基づく偏差値がなかった時期にももちろん生徒の学力は尺度化され、学校序列も存在していた。しかしそのさいに尺度とされる各種テストの素点、校内順位あるいは通知表の評価といった指標は、進路指導過程における媒介としては、その適用範囲・普遍性という点で偏差値に大きく劣る。〔もっともこの普遍性は、偏差値自体の特性というよりそれを基礎づけるところの学校間にまたがる業者テストに負うところが大きく、その意味では本稿で論じる「偏差値」は業者による一斉テストを不可欠の契機として含むものである。〕そしてそれらの指標を媒介とした進路指導過程では、好むと好まざるとにかかわらず教師自らの判断・意思が入らざるを得ない。というのは、そうした合否判定予想の根拠としては適用範囲が限られ、またその意味で不確実な指標によって受験者・父兄が受験校を決定していくためには、指標の運用者としての教師による解釈が不可欠となるからである。こうして偏差値以前の指標を媒介とした進路指導過程は、教師の個性が強く刻印づけられた意思決定場面となる。
これに比して、一斉テストに基づく偏差値の合否に関する“予測可能性”は、教師の解釈という契機を含まない、あたかも偏差値自体に内在する性質のようにみえる。受験校決定の場面では成績要因で対立するケースがほとんどみられず、生徒・親はあらかじめ偏差値相応の志望校を選んでいて教師があえて自らの判断を示すまでもないというのはよくある状況だが、そのことは他ならぬ偏差値という指標がなぜ教師によって採用され、存続しているのかを示唆しているように思える。「偏差値輪切り」あるいは「テスト漬け」といった批判を浴びながら、教師が毎月のように実施される業者テストを生徒に受けさせ、それに基づく偏差値を進路指導の最重要の指標として採用するのは、一つにはもちろんそれが合否判定の指標として統計的に洗練され“予測可能性”が高く、「生徒を傷つけない」で済むということによるのだろう。またそうした指標による指導では、教師の労力も大きく軽減されることになろう。しかしそれだけではなく、偏差値の採用は、それを媒介とした進路指導においては、意思決定過程が匿名化され“脱人格化”されやすいという事実にも由来するように思われる。すなわち、学校の持つ潜在的な選別機能を担うのは教師個人ではなく、テストに基づく偏差値自体であるというわけである。こうして進路指導の場である三者面談では、教師は決定的なことはほとんど言わず、「」。こうした意味でも偏差値は貨幣と類比的である。すなわち、貨幣が商品経済社会における物神である如く、受験体制における物神なのである。貨幣経済社会においては「カネがものをいう」ように、受験体制では「偏差値がものをいう」わけである。
こうして、偏差値という指標を用いることによって進路指導過程が“脱人格化”されるということは重要である。教師は受験で「生徒を傷つけたくない」と言うが、もちろん教師自身も進路指導で傷つきたくはないだろう。たとえ受験者が結果的に受験した学校に合格したとしても、進路指導の過程で――教師が選別の担い手となる形で――直接的に受験校の決定に介入することはできるだけ避けたいはずである。選別の担い手が存在するとしたら、それは偏差値という媒介自体であり、偏差値の“予測可能性”に受験者・父兄が従う形で進路決定がされるのが望ましい。その内実において、また潜在的にどうあれ、そうしたを可能にするのは、これまで述べたような偏差値の存立機制・存在性格なのである。
ところで、偏差値によって――あたかも教師・受験者・親の各個人の思惑をこえて、客観的に――確立された制度のように進路決定が行われる状況を「偏差値体制」と呼ぶなら、しかしそれを支えるのはそこに関わる一人一人の“偏差値信仰”である。偏差値のもつ正確な予測可能性およびそこから導かれる“選別力”は、前述したように毎月のように実施され受験に関わるほとんどすべての生徒が受ける御者テストという基盤に基づき、また偏差値という指標の統計的な洗練に由来するものであることはもちろんである。がしかし、そうした事実に加えて、偏差値が受験体制における“通貨”として流通する過程で、そうした通貨の有用性(“予測可能性”)へのある種の信仰が伴って初めて成立するものなのである。偏差値の有用性――合否予測の指標としての正確さが無媒介に保障されるわけではなく「偏差値は正確だ」というそれに関わる人々の思い込みによって完結するという点は、基本的には貨幣の場合も同様である。こうして「偏差値体制」は、教師・生徒・親などの偏差値信仰によって維持され再生産されるわけである。またそれゆえ教師には、この偏差値信仰を維持する必要も出てくる。
例えば、三者面談場面で、偏差値の有用性を充分認識していない生徒・父兄に対しては、教師は啓蒙者として、また信仰をうえつける司祭としての役割を果たす 。例えば「偏差値で3下がるなんて異常だ 」といった教師の言葉は、生徒の成績が大幅に下がったことに対する叱咤激励であると同時に、素点が大きく変動することはあっても偏差値は安定したものだという、指標としての有用性を説くものともなる。また生徒や親の志望校と教師の考えるそれとの間に大きなギャップがあるときには、志望校の難易度が生徒の偏差値と照らして高すぎる場合のみならず、低すぎる場合にも教師は介入する(5章で言うところの「引き下ろす選別と引き上げる選別」)。前者の場合は教師の立場からして当然とも言える。教師はやんわりと無理だということを匂わせ、すべり止めを用意させたり、次回の三者面談まで決定を“保留”したりする 。しかし後者の場合にも、つまり偏差値に照らして受験者の志望が低いと思われる場合にも、教師は「もっと自信持ってくんなきゃ困る」とか、「こんな点数で○○高行ったらびっくりされちまう」といった表現で目標の上方修正を促すのである。生徒の志望を尊重するということで言っても、また受験で生徒を傷つけないという姿勢からしても、志望校に対して偏差値の余裕がある場合はとりたてて問題にする必要がないようにも思えるが、もしこうしたケースが多くなるとまた別の局面の問題を引き起こすことになる。すなわち、そうしたケースの積み重ねによって多かれ少なかれ偏差値による学校序列がくずれ、偏差値の予測可能性が損なわれるという問題が出てくるのである。そうした意味からすれば、後者の場合の介入も、やはり重要な、いや不可欠な教師の作業といえるかもしれない。また、各学校の教師間でも偏差値信仰は共有されている。もっともそれは、受験者や父兄のそれと幾分趣を異にしたもの――“教義を理解した上での自覚的信仰”(explicit faith)であろうが…。それは例えば、「他の学校でも、こうした表(筆者注…偏差値による学校のランク表)をみて指導するわけですから、まあ、あんまり大きく変わることはないわけです」といった言い方にうかがうことができよう。
このように偏差値の“予測可能性”は、決して無媒介に、それ自体に内在する性質としてあるわけではなく、その内実において、それに関わる一人一人の偏差値信仰に支えられた――そしてまた教師の様々な働きかけに基礎づけられたものである。教師・生徒・父兄それぞれの思惑をこえて、あたかも偏差値自体に内在する“力”によって「客観的」に受験校が決定されるように見える状況も、同様に、こうした信仰および司祭たる教師の働きかけによって支えられるものである。
しかし前述した如く、その内実はともかくそのようにということは重要である。進路指導過程が偏差値という指標を用いることによって“脱人格化”されるということは、いずれにしても何らかの形で存在する学校の選別機能を、偏差値という媒介自体が担うように現象するということであり、そこでは教師は単なるアドバイザーとして、あるいはオブザーバーとしていることができる。教師はいわば、偏差値の“客観性”に寄りかかる形で進路指導を行うことができるわけである。そして前述したように、そしたあり方が可能になるのは偏差値の特徴的なあり方によってである。
そうした意味で、偏差値は「依代」である。未開社会におけるトーテム崇拝等の共同幻想の対象(神々や精霊)が幻想の媒介物としての依代を必要とするように、また近代社会において抽象的な形で存立する共同性の憑依体として貨幣が必要とされるように2)、偏差値は受験体制において――激烈な競争・過酷な選別を強いながら、その責任が曖昧に拡散されていく現代の教育制度において必要とされ編み出された指標である。偏差値信仰――合否予測の指標としての有用性・普遍性という点での自覚的・無自覚的な信頼――の対象であり、またそのことによって学校の潜在的な選別機能を“目に見える”形で引き受ける偏差値という媒介は、受験体制において求められ生み出された依代であり物神なのである。
(阿部 耕也)
注
1)貨幣の存在性格についてのこうした分析は、真木悠介の物象化論に依拠するものである。『現代社会の存立構造』筑摩書房(1977)[pp.18-33]。
2)真木、前掲書[p.28]。
学校社会学研究会『受験体制をめぐる意識と行動 〜現代の学校文化に関する実証的研究〜』(伊藤忠記念財団、223-231頁、1983年11月)所収の論文を若干修正。
I use "ルビふりマクロ".
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