実践的行為の形式構造について


H.ガーフィンケル & H.サックス


 ハロルド・ガーフィンケルは1917年、ニュージャージー州ニューアークに生まれ、ニューアーク大学、ノースカロライナ大学およびハーバード大学に学んだ。ガーフィンケル氏はUCLAの社会学教授であり、著書に『エスノメソドロジー探究』がある。
 ハーヴェイ・サックスは1935年生まれ。コロンビア大学、エール大学法学部およびカリフォルニア大学バークレー校に学ぶ(博士号を取得)。UCLAで教鞭を取った後、現在はカリフォルニア大学アーバイン校の人類学および社会学の助教授に在任。会話の研究を行い、このトピックについていくつかの論文を執筆している。
 この論文のための作業に対して、部分的にアメリカ空軍の科学研究部からの資金援助を受けた(承認番号Af-AFOSR 757-6)。この論文の一つのバージョンである「会話の‘設定’について」は、アメリカ社会学会の年次総会(1967,8,31 )の社会言語学部会(司会はJ.フィッシュマン)で発表された。H.L.ドレフュス、E.G.ミシュラー、M.ポールナー、E.シェグロフ、E.A.ティリャキアン、E.L.ワイダー、D.H.ジンマーマンらが論文についての論評を行った。また編集のさいの惜しみないその協力に対し、D.サドゥノーとJ.サックスには特に謝意を表したい。論文中の多くの考えは、N.マッカーサーの類まれなる卒業論文「企図についての注解の達成」(“Gloss Achievements of Enterprises")により触発されたものである。


 自然言語が社会学する人──それが素人であれ専門家であれ──にとって、環境として、トピックとして、そしてまた彼らの探究の資源として働くという事実は、彼らの探究のテクノロジーおよび彼らの実践的な社会学的推論に対して、そのトピックおよび資源を提供する。そうした再帰性は、社会学者にとって、その探究の現実的な諸局面において自然言語の見出し的な諸特性として現れてくる。こうした諸特性は時に、要約を旨とした観察によれば次のように性格づけられる──例えば、それが記述するところの環境の構成部分であるようなあり方をしているある記述は、際限なく不可避的な仕方でそれが記述するそれらの環境を丹念に仕上げ、またそれらの環境によって作り上げられる、と。そうした再帰性は、自然言語の性格に次のような見出し的特性を保証している──すなわち、「表現の確かさは、その表現の結果に帰する」「定義はその境界を規定することなく、“考慮”の特定の集合を保証するために使用することができる」「ある集合の確かさは、環境の許すかぎりの無限の洗練の可能性によって保証される」等(01)

 見出し的な特徴は、素人の説明に固有のものというわけではない。それらは同様に専門家の説明にもありふれたものなのである。例えば、「社会的現実の客観的なリアリティは、社会学の根本原理である (02)」という自然言語の公準は、専門家にとって、その折々に従って、次のように解される──(社会学)共同体の成員の活動の規定として、彼らのスローガンとして、課題として、あるいは目標、業績、自慢やセールスポイント、正当化、発見、社会現象あるいはまた研究への制限として。他のあらゆる見出し的表現と同様、その使用その都度の環境が、その命題の解し方を知る者に対して、その命題に、定義あるいは課題であれ何であれ、そうしたものとして意味の確かさを保証する (03)。さらには、ヘルマーとレッシャー (04)が示したように、そうした公準はいかなる場合でも、それに向けられた言及によって開示される構造以外の構造を開示するような確かさを保証することはない。これはすなわち、その表現の確かさが論理学や言語学の広くいきわたった方法で分析されるときに、これまで利用可能だった方法が、そうした表現を操作したりおもしろくしたりできるような構造をほとんどあるいは全く開示しないということである。社会学の形式的分析の方法は、こうした表現によって様々に裏切られる。こうした表現による意味の確かさとは、手持ちの数学的方法を使用した現実的な表現においてデモンストレートすることができる構造を使わずに、限定的にある意味を特定することなのである。厳密さを探究する中で、それによってそうした表現がまず最初に理想的な表現へと変形されるような、本来の目的ではなかった実践が後付けされる。構造はそのとき、そうした理想物の諸特性として分析され、その帰結はそれらの特性として現実的表現へと配分される──たとえ、そうした営みが「適切な科学的中庸」の放棄を伴ったとしても。

 自然言語の見出し的特性は、素人の、また専門家の社会学的探究のテクノロジーに対して、それらの特性として以下のような不可避的な、また不治の営みを保証してくれる。つまり、社会学的推論が行われるときにはどこでも、またそれを行うのが誰であっても、それは実践的な会話の見出し的特性を修復することを求める。それは、日常的活動の合理的な説明可能性をデモンストレーションするという関心の下で行われるのである。そしてまたそれは、その評定が方法的な観察および状況づけられ社会的に組織化された日常的活動の諸特性──それはもちろん自然言語の特性をも含む──の報告によって保証するという目的のために行われるのである。

 実践的な社会学的推論の修復という営みは、客観的表現と見出し的表現との徹底した区別──それによって見出し的表現に代えて客観的表現をすることができる──を実現することを目的としている。現時点では、そうした区別と代替可能性とが、専門的社会学にその際限のない課題を課しているのである (05)

 この本に収められたほとんどの論文の中に、こうした動機および勧告が容易に見出される。とはいえ、それらは既におそらく次のような人々の著作にも生き生きと見られるのだが。例えば、ブラロック、ダグラス、インケルス、ラザースフェルド、レヴィ、ムーア、パーソンズ、シュペングラーらである。彼らは、社会学な理論構築に必要とされる課題をつきとめるために、業績を引用するために、そして専門の商売道具として使用可能な方法や成果に注目するために、それらを用いるのである。実践的な社会学的推論の修復プログラムは、次のような専門的社会学研究に特徴的な営みにおいて明確に示されている。統一的な社会学理論の精緻化および弁護、モデル構築、費用−利益分析、身の回りのよく知られた場面での経験からより広い状況を収集するため自然なメタファーを使うこと、推論の実験的設計として実験状況を用いること、自然言語の営みの頻度や再構成可能性あるいは効果に関する図式的報告および統計的評定、及びそれらを利用する様々な社会組織の営みなどである。便宜上、我々はそうした専門的社会学の実践技術を「構成的分析」という用語で収集しようと思う。

 構成的分析とエスノメソドロジーの関心は、日常的活動の合理的な説明可能性という現象およびそれに対応する実践的な社会学的推論の技術において、両立しがたいものがある。両者のそうした相違は、見出し的表現という共通の焦点においても存在する。すなわち、客観的表現と見出し的表現との結びつきについての対照的な考え方において、また日常的活動におけるルーティンと合理性との関係を明確にするという課題に対する見出しの妥当性についてのやはり対照的な考え方において、である。構成的分析が見過ごしてきた広範な現象は、そのままそっくりエスノメソドロジーの研究対象として詳述されている──例えばビットナー、チャーチル、シコレル、ガーフィンケル、マッカンドゥルー、モアマン、ポールナー、ローズ、サックス、シェグロフ、サドゥノー、ワイダー、ジンマーマンらの研究においてである (06)。彼らの研究は、次の二つの表示的特性を明らかにしてみせた。すなわち、1)見出し的表現の諸特性は、秩序立った特性である (07)ということ、そして、2)それらが秩序立った特性であることは、ごくありふれた会話や行為が生起するそのたびごとに、継続的に、実践的に達成されるということである。彼らの研究成果は、専門的社会学において一般理論をうちたてるさいに中心的課題となる見出し的表現の修復という行き方に対して、別の選択肢を提供している。

 一般理論の構築を課題とする行き方とは別のもう一つの選択肢とは、(日常生活の)諸特性がその組織的多様性の中で達成されるあり方を記述することである。この論文の目的は、一つの現象としてのそうした達成を探し出し、その特徴を明らかにし、達成に向けてなされる営みの構造を記述することであり、またそれを達成するという課題がメンバー──素人であれ専門家であれ──にとって、いかに明白で、大きな利害関心を引き起こし、また日常生活の中でその機会が満ち溢れているかに注意を払うことである。我々はここで、実践的行為の形式構造を従来とは異なった仕方で説明するよう勧告する。従来の説明とは、実践的な社会学的推論の仕事やその業績を構成している実践的行為の説明の仕方であり、それは素人に交じってのもののみならず、現代の専門的社会学や他の社会科学でも同様に驚くほど広範に行われている説明であり、しかもそれはどのケースにおいても、まともな競争者さえいないのである。

社会学的探究でメンバーが用いる方法

 アルフレッド・シュッツは、日常的活動や実践的環境、実践的活動および実践的社会学的推論の社会構造についての実践的知識を社会学的研究に利用した (08)。これらの現象が、固有の特徴的な性格を備えていること、およびその特性によってこれらの現象自体の中に正当な探究の領域が構成されることを示したのは、彼の独創的な業績である。シュッツの著作は我々に、実践的な社会学的な探究の環境とその営みにおいて、その有効性を失うことのない指針を与えてくれた。こうした研究の成果は、他の出版物においてさらに詳細に補足されている (09)。それらは、エスノメソドロジカルな研究とは異なった調査研究の方針に対して正当な理由づけを与えている。その方針とは、社会学的探究と理論化の実践およびそのトピック、そこからの知見、環境、探究の方法論としての利用可能性など、徹頭徹尾メンバー達の用いる社会学的探究と理論づけの方法である、ということなのである。不可避的に、そして修復の望みもないほどに、そうした営みは次のようなメンバー達の方法から構成される──すなわち、選択肢のセットを組み合わせる方法、情報の事実としての性格を組立て、テストし、検証する方法、選択の環境に説明づけをする方法、さらには無矛盾性、首尾一貫性、有効性、効率性、計画性そして単独あるいは協同による諸行為に関する他の合理的特性を評価し、産出し、認識し、保証し、そして強制するさいメンバー達が用いる方法から構成されるのである。

 メンバーという概念こそが、事の核心である。我々は、この用語を一人の人間を示すものとしては用いない。そうではなく、この用語は、自然言語への精通を示すものであり、これについて我々は次のように理解する。

 人々は、彼らが自然言語を話しているように聞こえるという事実により、どういうわけか、観察可能で報告可能な現象として常識的知識を客観的に産出し、客観的に表示することに従事しているように聞こえる──こうした観察を提起してみる。我々はここで、こう問いかける──話者、話を聞く聴取者、そして別の形ではあるがその場面にいる証人をして、常識的知識、実践的環境、実践的行為、実践的社会学的推論の客観的な産出と客観的な表示を可能たらしめるのは、自然言語に関するどんな事柄なのだろうか。こうした現象を、観察可能かつ報告可能なものとし、また説明可能な現象とするのは、自然言語に関するどのような事実なのだろうか。話者や聴取者にとって、自然言語の営みは、どのようにしてかともかく談話の個々の中にあるこうした現象を呈示し、そしてこうした現象が呈示されるという事実が、そのことによってそれ自体、それに引き続く記述、言葉、問いの中で、またその談話に対する別の扱いのなかで呈示可能なものとされるのである。

 エスノメソドロジカルな研究の関心は、詳細な分析を通じて、説明可能な現象とは、徹頭徹尾実践的に達成されるものであると規定することにある。我々は、それが進行していく一続きの行為によるものであることを強調するため、そうした達成という「作業(ワーク)」について話すことにしよう。作業は、実践の集合として行われ、それによって談話のある状況に位置づいた個々にいる話者は、彼らが単にあれこれの言葉で言えることとはまた違った何物かを意味するような、言いかえれば「注解の営み」として行われるのである。注解の営みを理解することは、我々の議論にとって決定的に重要であり、さらなる論議はこの章の補遺で行われるだろう。

 I.A.リチャーズは、このテーマに合った事例を提供している (10)。彼は、話されたフレーズやテキストを括弧でくくるのに疑問符を使ったらどうかと言うのである。例えば、?実証的な社会研究?、?理論体系?、?連鎖システム?、?社会心理変数?、?注釈行為?といった表現は、読者に、次のような手続きをするよう教える。括弧でくくられたフレーズがどう理解されるかは、そのテキストを理解可能なものにするのに用いられるまだ知られていない手続きによって読み解くさいの課題なのである。しばらくの間、テキストや手続きについては何も決める必要はないので、我々はしばらくの間は、どれほどの間でも、待つだろう。我々がそのテキストについて読んだり、話したりするとき、あるいはもしそうすれば、我々はそこからどんな事柄が導けるかを見直すことになるだろう。かくして我々はそのテキストを、未定義の言葉としてではなく、生きたコンテキストに対する注釈として使用できることになるのであり、そのコンテキストのもつ様々なあり方は、ある種の組立て手続きとして我々が特に説明する必要がないのである (11)

 リチャーズの注解は、ある有り様で一つのテキストの使用について話す営みから成る。テキストを用いるある有り様とは、談話の流れが一つのコンテキストを構成するよう導かれているにもかかわらず、いかにしてテキストの理解されるべき性格が最後に作り上げられるかは全く明示されないままである、というものである。そのさい一つのコンテキストは、そのテキストを自身に埋め込み、それによってテキストのレプリカに、認知され変化しはするが明文化されないままの構造的性格を付与するのである──例えば「始まりのテキスト」、「終結のテキスト」、「その二つを結びつける会話の間に入る一続き」といった性格である (12)

 明らかに話者は、リチャーズのテキストの注解がその典型的事例となるような仕方で、以下に述べるような手続きをとることが可能であるし、そうするだろうし、それが可能であったし、そうすべきであるし、また断固そうするのである。その仕方とはすなわち、自然言語の記号的な諸事項の持つ、認めることができるほどに認識可能な限定性、明白さ、同一性、実体性あるいは妥当性を達成するよう手続きをとるということである。そしてまた、たとえ談話の流れの中では、話者が何について話しているかがわからず、その知識があれこれの言葉で話すのに全く、あるいは“終わりまで”利用できないとしても、明らかに話者は、注解によって手続きをし、自然言語を用いて膨大な仕事をこなすことができるのである。経験から言うとすれば、以上のことは、話者が自分たちが何について話しているのかを知らない、ということを意味しているのではない。そうではなく、話者は、自分たちが何について話しているかを、いま述べたような仕方で知っている、ということを意味するのである。

 リチャーズの注解とは、こうした方法の一つにすぎない (13)。注解の実践は、多くの経験の中に存在する。終わりはないが個別的でかつ分析可能なあり方で、注解行為は、自然言語とともに、自然言語において、また自然言語から、観察可能かつ報告可能な理解を産出する方法である。談話が理解されるということ、そしてそれがいかに理解されるかということを、談話−において−呈示し、その−談話−に対して−呈示するための多くの方法として、注解の実践は「メンバー」であり、「自然言語への精通」であり、「合理的に話すこと」であり、「分かりやすい談話」であり、「英語を話すこと」(フランス語でも何でもかまわないが)であり、「明白で、首尾一貫した、説得力のある談話」なのだ。

 自然言語への精通ということを理解する要点は、ここにある。談話の個々の部分において、話者は他者と一致協力しながら、それらの個々の談話に注解を加えることができ、そしてそのことによって、話者があれこれの言葉をで言えるのとはまた別の何かを意味する。すなわち話者は、相互行為の実際場面において、まだ分かっていない随伴性をこえてそうしているのであり、またそうする中では、自分が話しているということ、および自分がいかにして話しているかということについての認識は、当該の言葉にとって特に問題とはならない。言い換えれば、談話の個々の部分は、話された各々の場面に対して、その談話についての告げる価値のあるようなストーリーを付与するわけではなく、またそれについて問うに価値のあるような質問を発するわけでもない、ということである。

 「あれこれの言葉で言えるのとはまた別の意味」という考えについては、コメントする必要があろう。この表現は、「話者が言うこととはまた別の」というよりむしろ、話者が言うことはどんなことであれ、彼が言うことの意味をつかむさいに用いられる当の素材を提供する、ということなのである。たとえ話者の言うことがどんなに広範にわたり明確なものであっても、その広範さと明確が、話者が言うことと話者の談話を文字通りに引用することによって解釈されるその意味との対応関係を決定するという課題を課することはない (14)。そうではなく、相互行為の自同的な場面の一部となるという点で、話者の談話自体その相互行為のもう一つの随伴性になる、ということなのである (15)。話者の談話は、それが注解する当の環境を無限に拡張し、精緻化していき、そのようにして談話自体の持つ説明可能な形で理解可能な性格に寄与するのである。話されたことは、談話のもつ説明可能な形で理解可能な性格に対して、変化しやすい運命を保証する。要約すれば、自然言語への精通とは、徹頭徹尾、また救いようもなく、その場面場面で成し遂げられる達成なのである。

実践的行為の形式構造へのエスノメソドロジーの関心

 エスノメソドロジーの関心は、構成的分析のそれと同様、一貫して日常的諸活動の形式構造に向けられている。しかしこの二つの立場は、形式構造への理解を異にし、相いれないものである。

 我々は、次のような現象への注意を喚起したい。それは、形式構造が、専門家たちが理解する専門的な社会学の説明に使用可能であり、彼らはひとり専門的な社会学のみがそれを達成していると主張する、という現象である。形式構造に関するこうした説明は、社会学者が自然言語に精通していることによって行われるのであり、その精通とは、必須条件として、専門家としての読者という妥当な資格を必要とするのである。このことは、専門家としての社会学者による形式構造に関する説明に対して、エスノメソドロジーの関心となるような一つの現象としての性格を保証する。ここで、この一つの現象とは、自然言語への精通に、やはり同様に関係する他のどのメンバーたちの現象とも、何ら変わらないものではあるが。形式構造に関するエスノメソドロジカルな研究は、そうした現象についての研究へと方向づけられ、それがどこで、誰によって行われようとも、その妥当性や価値、重要性、必要性、実用性、成功、結果といったことについてのあらゆる判断を差し控えながら、メンバーによる形式構造の説明を記述することを目指す。我々は、こうした手続き上の方針を“エスノメソドロジー的な無関心”と呼ぶことにする。

 エスノメソドロジー的な無関心を次のような立場とみなすことはできない。つまり、バールソンの著作のような一冊の本がいかに広範にわたる記述をしても、それでもなお問題は見出しうるはずだと主張するような立場ではないのである。その点では、この立場は研究手続き上安定した特性として誤りの余地をあてにすることができる、とするような事例ではない。専門的社会学の統計学的な方針が決定されれば、説明されない変化を抱え込むことになるという事実に頼ることは、いまだ説明されない現象に位置づけを与えようとする我々の採る方途ではない。それからまた我々の研究は、専門的な社会学的推論に対して、それを修正し、洗練し、寄与し、詳細に記述し、細別し、明確化するような基礎−構築的な読み手としての立場にも立たない。また我々のいう“無関心”とは、その種の課題に対するものでもない。むしろ我々の“無関心”とは、実践的な社会学的推論の全体に対するものであり、またそうした推論は、どのような発展形態であろうと、どのような誤りや妥当性を伴おうと、どんな形式であろうと、分かちがたく不可避的に我々にとって自然言語への精通をもたらすのである。専門的な社会学的推論は、我々の研究関心が、現象としてただ一つ選び出したわけでは決してない。エスノメソドロジカルな研究をする者は、専門的な社会学的推論について“関心をもつ”のと少しも変わりなく、法的な推論や会話の推論、予言的推論、精神医学的推論などにも同様に“関心をもつ”ものなのである。

 エスノメソドロジーの“無関心”という手続きがあるとき、形式構造によって我々は、日常的諸活動を次のように理解する。(a)日常的諸活動は、分析によれば、均一性、再構成可能性、反復性、標準性、典型性といった特性を呈示し、また(b)以上の特性は、特定の産出群とは独立に存在し、(c)特定−群の独立性は、メンバーによる認識にとって一つの現象なのであり、さらに、(d)以上のa)、b)、c)という現象は、どの特定群にとっても実践的で、各々の状況で成し遂げられる達成なのである。

 形式構造の以上のような産物は、社会学や社会科学において普及しているものと次のような点で対照的である。つまり、“無関心”というエスノメソドロジカルな手続きは、日常的諸活動を、実践的に刻々と達成されるものとして研究することによって、c)・d)という事項を準備するのである。

 形式構造の取扱いに関するエスノメソドロジーと構成的分析とのもう一つの対照的な点は、次のような性格づけをすることによって明確になるだろう。それは、構成的分析の立場に立つ者が、形式構造に関する自分たちの説明は、調査研究のテクノロジーと理論に目標を与え、顕著な業績を供与するものであると勧告し、またそう理解するのは、自然言語への精通としてである、という性格づけである。構成的分析学派が、そうした勧告を達成することを構成的分析の際限ない課題であると理解するのは、自然言語への精通としてなのである。形式構造に関する構成的分析的説明は、かくして徹頭徹尾、実践的な達成物なのである。自然言語は、メンバーによる談話やメンバーの行為、領土の変動と配分、相互行為の関係などの秩序立った個々の部分に関する自然言語による公式化として、構成的分析に、そのトピック、環境、資源および成果を供与するのである。

 エスノメソドロジーの立場からすれば、形式構造の説明を行うそうした営みは、実践的な社会学的推論という現象を包含している。そうした営みが専門家集団のメンバーの独占物でないことは明らかである。本章の残りの部分ではそうした現象について詳しく検討し、メンバーによる公式化という営みを検討することによって、日常的な諸活動の形式構造を産出し認識するさいにメンバーが用いる方法について見直すことにしよう。

現象

 メンバーの談話を使用する、あるいそれについての研究が行われるという理由で、研究者は、その研究関心の中で、その談話を明らかにしようとする関心を変わることなく示すだろう。それゆえ例えば、インタヴューを受けた人の「彼女はここではそれが好きではなかったので、我々は引っ越したんだ」という言葉は、研究者に、その発言に関して「“彼女”とは誰か」「“ここ”とはどこか」「“我々”とは誰と誰をさすのか」といった名義づけを行わせるような機会を与えるだろう。論理学や言語学における多大な学識は、そうした言葉を、指示詞、自己中心的事項、見出し的表現、臨時的表現、索引、転換詞、代名詞、そして談話中の再帰代名詞などと呼んできた。こうした用語のリストの最初はこうである──“ここ、いま、これ、あれ、それ、彼、あなた、そこ、そのとき、すぐに、今日、明日”。

 我々は、次のような現象についての観察から始めようと思う。それは、誰もが常にそうした発話を、修復のための実践の機会として取り扱うという現象であり、またそうした実践が研究活動に固有なわけではなく、自然言語のあらゆる使用者にも備わったものであるという現象であり、さらには、ある研究が何についてのものかを知らなくても、それを明確にし、翻訳し、置き換え、あるいは別の方法で修復する必要がある用語をリスト・アップできるという現象であり、また、何らかの研究をしようとしまいと、他者の同様な関心がどれほど広範なものであるかを知ろうと知るまいと、そうした用語は探し出され、それらの用語の修復があらゆる実践的目標に対して提案され提示されるという現象である。様々な研究者がそれに関与している論理学や言語学における多大な、そして古くからの学識は、そうしたあまねく普及した業績の大きな流れの中の小さな支流なのである。

 我々は、一つのテキストから出発する研究者は──いかなる研究者も、素人であろうと専門家であろうと、論理学や言語学に無知であろうとなかろうと──その中で生起するそうした用語を明確にする営みに自らが従事していることに気づくということを、事実として扱う。そうした事実は何によって構成されるのだろうか。この論文で我々は、そうした事実を何によって構成したいと望んでいるのだろうか。

 もし、何人かの主婦がいつであれ一つの部屋に入れられ、誰もが同じ場所に行き、そこを掃除し始めたとすると、人はその場所が確かに掃除する必要があったのだと結論するだろう。一方またある人は、その場所と主婦に関しては何かがあり、それが掃除をする機会をどの主婦の場合も一致させたのだと結論するかもしれない。その場合、掃除という事実は、汚れがある証拠ではなく、それ自体一つの現象なのだと言えるだろう。

 見出し的表現は、いつ果てるともなく全く同じようなやり方で研究され取り扱われてきた。そのやり方は無邪気なだけでなく、むしろ興味深いといえるほどであり、一見、先行研究を無視しているかのようである。そうした学問上の学識は、そうした修復的な仕事がいかに昔から行われているか、という証拠を提供する。およそ紀元前 300年の文献の断章である Dissoi Logii"は、「私は入門者である」という文章に注意を喚起する。というのはこの文章が難しいものだからである (16)。問題は、一つの文章が場面によって真理の表現にも虚偽の表現にもなるということである。つまり、もしAがそう言ったときには真理であるが、Bがそう言ったときには虚偽である。あるいは、もしそれをAという状態からAが言ったときには真理であるが、別の状態からAが言ったときには虚偽である、といった具合である。

 こうした文章が提起する問題に対して、これまでずっとプログラマティックな解決策が用いられてきた。つまり、“私”を適当な名前に置き換え、日付を加え、話者が入門者であるかどうか顧慮しながらその状態を特定する、といったことから始めるのである。途方もない量の研究が、そうした現象について行われてきた。

 そうした研究については、これに続く節で簡潔にその特色を記述する。

見出し的表現の特徴

 見出し的表現についての認識は、最も古い文献に見られるだけでなく、論理学の全歴史にわたって多くの研究者の業績において見出される。大哲学者はみな、それについて論評を加えている。パースとヴィトゲンシュタインを例にとって考えてみよう。パースは、通例、現代論理学・言語学が見出し的表現に関心を向け始める先駆けとなったと言われる人物である。またヴィトゲンシュタインは、彼の後期の研究が哲学者たちの言説を見出し的表現として検討し、しかもこうした現象を修復という考えを持たずに記述したものであると読み解かれたとき、その研究は、見出し的現象に関する証拠立てられた、広範な、透徹した観察の一大集成をなすものであることがわかるだろう (17)

 我々は見出し的表現を特徴づけるために、論理学や言語学の用語を借用する。エドムント・フッサールは、表現について次のように語っている。(i)ある表現は、その表現を用いた者の生育歴や目的、発話の状況、それまでの会話の流れ、話し手と聞き手の間にある実際の、あるいは潜在的な相互行為の関係などについて、必然として、何か知っていたり仮定したりせずに、聞き手がその意味を決定することはできない (18)。(ii)バートランド・ラッセルは次のように指摘している。表現を含む記述が当てはまるのは、その記述を用いたときの一つの事柄についてだけであって、別の機会にその表現を用いたときには、また別の事柄を示すことになるのだ、と (19)。(iii)彼は言う──そうした表現は、明白な言明をするために用いられるにもかかわらず、真理かどうかその価値が変わるように思われる、と。(iv)ネルソン・グッドマンはこう書いている──発話のそれぞれは、一つの言葉を構成し、ある特定の人物、時間、場所について言及するのだが、その言葉のレプリカによって名指されてはいない何物かをも名指しする、と (20)。(v)表現の外延は、その使用者によって異なる相対的なものである。(vi)表現の使用は、その言葉がかかるところの客体との関係に依存する。(vii)時間に関する見出し的表現にとって、時間とはその表現が指示するものに妥当する。(viii)同様に、空間に関する見出し的表現が指示するのがどんな場所であるかは、その表現が話された位置に依存する。(ix)見出し的表現とそれを含む言明は、所与の会話において自由に繰り返されるわけではない。そうした表現のレプリカが、すべてそうした表現の翻訳になるわけではないからである (21)

 論理学者や言語学者は、日常的な会話をその構造的特質において再発見しようとする明示的な試みの中で、頑固な障害物としてのこうした表現に直面する (22)。見出しという障害物は、探究が何を達成しようとしたものであっても劇的なものである──メンバーの探究が、実践的会話を目指したものであっても、いくつかの選択可能な意味の決定可能性や公式化、あるいは事実、方法的手続き、または“文化的同胞”間の合意を目指したものであっても、である。方法論的な研究が見出し的表現の修復を目指しているかぎり、見出し的表現の特徴は常に専門家がその研究を続ける動機づけになってきた。事実、ある学問の営みから(どの学問でも)、その従事者がこうした障害物を除去しようとする作業は──そうした作業があらゆる学問で行われるという理由で、またその各々の方法において (23)──どの学問においても、実践的な研究活動の現実的な状況は、研究者に、見出し的表現を修復しようとする試みの機会と動機づけを際限なく与え続ける。かくして方法論的研究は(それがどの領域で行われようとも、素人によるものであろうと専門家によるものであろうと)事実上ひとつの例外もなく見出し的表現の修復に関与することになるのであり、またそのさい彼らは、研究目的として客観的表現と見出し的表現とをプログラム上妥当な形で識別し、見出し的表現に対してプログラム上妥当な形で客観的実体性を付与することに固執しているのである。自然言語と実践的推論の形式的特性に関するこうしたプログラマティックな研究において、見出し的表現の諸特性は、研究者にその修復行為の機会を動機づけながら、依然として執拗に不可避的で、かつ修復不可能なものであり続ける。

 こうした“方法論的”な関心は、学問の領域に限られるわけではない。会話をする者はみな、自然言語の欠陥について関心を持っている。メンバーは自然言語の欠陥が、指示詞や代名詞、時制などの一般的使用法において広く生じるものと見ている。メンバーはその欠陥を、自然言語の使用において他のメンバーが語彙が少ないという事実のせいにする。そうした関心は、次のような広く普及した勧告と平行したものである。言葉や発話、会話は明確にでき、また見出し的表現の諸特性に存する他の欠陥も“見出し的表現の状況”について言及することによって修復できるという勧告である。(すなわち“コンテキストの決定可能な妥当性”についてのよく知られた勧告である。)

 より明白に言えば、我々は、率直な方法論的意図を持った会話という営みに特別な注意を喚起する、ということである。我々は、会話をする人が、会話の流れの中で、そしてまたその会話の認識された特徴として、彼らの会話を公式化しているのを見出す。会話の中の公式化は、次の節で詳細に論議される。

会話の特徴としての会話の公式化

 会話をする人の間では、ある会話がその当事者に対して“自己説明的な対話”という会話自体の持つよく知られた特徴を呈示することは、会話というもののごくごくありふれた特徴である。メンバーは会話のある部分を、当の会話を記述し、説明し、要約し、会話の主旨を述べ、ルールと一致しているか注意を促し、またルールからの逸脱に言及するといった機会として取り扱う。すなわち次の会話に見られるように、メンバーは、会話のある部分を、その会話を公式化する機会として使用するのである。

A:連邦政府があの男の殺人に関与したり、計画したりするなんてことがあると思うか。
B:いいや。
B:そうなると国家の問題だからな。
A:〔この事について聞かせてくれないか。〕
B:君は全然批判的ではないんだね。
A:ウェストモアフィールドのことではね。
B:陸軍のことだよ──つまり──最近の作戦についてさ。
A:もちろん僕は批判的だよ。
B:〔おや、でも君はそんな様子を見せないじゃないか!〕

JH:事務所にそういう仲間がいるなんて素晴らしいじゃないか。
SM:〔君は我々に出て行ってくれって、そういう言い方じゃないけど出て行ってくれって言いたいんだろう。〕

HG:私は質問を回避するような人間の事例が欲しいんだ。私を助けると思って、質問を回避してくれないか。
NW:〔まあ、どうしましょう、私、質問を避けるなんてあまりうまくありませんよ。〕

(精神病の入院患者は、職員にハリー・スタック・サリヴァンの著作について彼が発見したことを話していたが、興奮のため疲れて小休止を入れた。)
職員:〔そうした感じをいつ頃から感じていましたか。〕

ボストンの警察官が自動車に乗った人に対して:〔スパークス・ストリートはどこかとお尋ねでしたね。ええ、いま言った通りですよ。〕

 以上の引用は、次のような論点を描き出している。つまり、会話において何が起ころうとそれに応じて、会話をする人にとって、彼らが何か他のことをしているということ自体が、その会話の特徴であるということである。つまり彼らが行っていることというのは、自分たちが−何を−しているか(あるいは何について話しているか、誰が話しているか、自分たちが誰か、どこにいるか)を−あれこれの−言葉−で−言い立てること、なのである。

 我々は、自分たちが−何を−しているかを−あれこれの−言葉で−言い立てる、という営みを、公式化と言うことにする。我々は、一つの公式化を明示するのに、一つの文章を、ハイフォンではなく、かっこで括ることによって識別することにする。先にあげた会話において、会話者の一人が行う公式化は、かっこの中に現れている。

 我々が特に関心を持っているのは、次の二つの現象である。(1)我々は公式化という営みについて次のような観察を提出する。公式化の営みは、会話者によって、それが行われる当の会話の構成要素になっている特徴として実践されるのみならず、そのようなものとして認識されてもいる。我々はこのことについて、次のような言い方をする──公式化が行われるということは、会話者にとって“その会話において提示される”ということに他ならない、と。(2)我々はさらに次のような観察をも提出する。公式化は、会話の確認された特徴として、会話者の報告やコメントに利用できるということである。こうした言い方をして我々は、公式化が行われるということは“当の会話に対して提示可能”である、と言う。

 先にあげた会話はその各々が、第一の現象の例を提供している。第二の現象は、我々がそうした会話を報告し、各々において公式化という作業が行われていることに注意を喚起しているという事実に見出せる。公式化に関する次のような諸特徴を指摘するため、かっこが用いられる。

 1.何よりもまず、公式化とは説明可能な現象である。すなわち(a)それはメンバーが達成する現象であり、(b)メンバーによって観察可能である。そして(c)メンバーがそうした現象を行い、それを観察することができるという理由で、それは報告可能なのである (24)。(d)そうした現象は、前出のようなかっこが括られた文章をメンバーが用いることによって行われ、報告可能となる。(同様にそれは、原稿や、発話、図形などでも行われる。つまり、環境として特殊な、記号的な表示によっても行われる。)(e)かっこで括られた文章は、万国共通の企ての一側面である。最後に(f)そうした文章は、話者があれこれの言葉で言える以上のものを意味している。

 2.以上の諸特徴はすべて、実際の相互行為での差し迫った必要から実践的に達成されるものである。

 3.実践的−達成−としての−説明可能な−会話が、その作業にのみ/全体として存在し、またその作業からのみ/全体として成立するということを強調するため、〔 〕という表現は“すること”で始められる。接頭辞としての“すること”はまた、説明可能な会話のこうした働きがメンバーの働きであることを強調するためにも使用される。すなわちこうした働きは、自然言語への精通と本質的な結びつきを持つのである。

 我々の記述は、これまでは素人による作業から選んできた。かっこで括ることとその効果は、社会科学者の作業にも同様にあてはまる。もし我々が、社会科学におけるトピック化された実践──つまり、社会科学の従事者が、データ収集や調査デザイン、記述の妥当性、証明のルールといったもののテクニックについて話すという実践をかっこで括るとすれば、我々はその場合、こうしたトピックがその説明可能なテキストとなるための作業がいかなるものかを問うことになるのである。例えば、言語学者は“フレーズを構成するものを使ってある文を文法的に説明すること”について話す。その文章に注解のマークをつけ〔フレーズを構成するものを使ってある文を文法的に説明すること〕とかっこで括ることによって、我々はいまや次のような問いに直面したことを理解するにいたる。──“フレーズを構成するものを使ってある文を文法的に説明すること”が、そうした作業の説明可能なテキストとなるための作業とはいかなるものか、という問いである。この事例で用いられたかっこづけの妥当性は、我々が次のように問う事例のそれと同様である。──つまり、〔チェスのルールに従ってチェスのゲームをすること〕が、そうした作業の説明可能なテキストとなるための作業とはいかなるものか、と問う事例である。

 もし我々がそうした作業による適切な注解としての説明可能なテキストについて話すとすれば、我々は次のような問いを発することになる。──〔カクテル・パーティで邪魔をされずに話すこと〕という表現が、その適切な注解となるための作業とはいかなるものか。あるいは〔自由にグループを作りながら、ほぼ同じ人数になるようにすること〕が、その適切な注解となるための作業とはいかなるものか、という問いである。次の図はこうした関係を表すものである。


  “すること”は、                    記号で表された事項が
    ||  その説明可能なテキストとなるための作業を示す。 |  |
    ||                          |  |
    || (矢印は記述的表現におけるこうした部分を示す。) |  |
    |└───┐           ┌──────────┘  |
    └┐   ↓           ↓             |
     |  すること 〔ルールにのっとってチェスをすること〕   |
     |               ┌─────────────┘
     ↓               ↓
    すること 〔統一性を保証するため調査スケジュールを調整すること〕

 かっこについての最後の注意。かっこを使うことは、注解という実践が相互行為の企ての側面であることを我々に想起させる。知性的な企てと組織化された日常的諸活動の個々の現れは、不可避的に、競争関係にある話し手によってのみ、かつ排他的に行われ、自然言語における個々の記号的表示を通してのみ、かつ総体として、話し手はそうしたことを行い得るのである。注解という企ては実践的に達成されるものである。それらはほとんど無限の多様性をもつ現象である。というのは、“社会的事実の世界”はメンバーによって達成されるものなのだが、注解という企てが“社会的事実の世界”によって指示されるその方法において多様だからである。実践的達成物として注解の企ては、組織的協定のもつ膨大な多様性と同じほどの多様性をもつ。なぜなら、組織的協定もそうした達成だからである。

 公式化をすることは、その場面場面に応じて、メンバーによる計画となったり、強制された行動となったり、達成となったり、個々のエピソードの無視となったり、あるいはまた絶え間のない環境となったりする。そうした作業は特別な環境にのみ限定されるわけではない。一方それはまた、ルーティンとして生起し広範囲に行われる。メンバーとは、公式化を行い、それを確かなものにし、修復したりしながら、こうした作業について特別な知識を持ち、感受性豊かで、かつそれに熟練しているものなのである。

説明可能な形で一定の会話をすること

 我々は、見出し的表現の諸特性に対する修復として、公式化というメンバーによる作業が広く、しかも執拗に行われているという事実を特徴づけるため、主婦のアナロジーを用いた。しかし先にふれたように、公式化が注解行為を構成するという理由で、また記号による表示として示されるという特性──つまり、それが合理的な談話を達成するために話し手によって用いられる特性──は、見出し的表現の特性であるという理由で、公式化を行うことがそれ自体、本質的にメンバーに対して不平、欠陥、トラブル、修復への勧告といったものの慢性的な源となっているという事態を確実なものにしているのは、当の自然言語という資源なのである。(356-357 頁参照。)

 我々は、決定的に重要な現象とは次の事柄だと考える。──すなわち、いたるところで、執拗にメンバーは問題を孕んだ特徴に対する修復として公式化を行う。問題を孕んだ特徴とは、見出し的表現の諸特性が客観的表現と見出し的表現とを実際の状況で識別し、また見出し的表現に対して実質上、客観的表現の性質を付与するという目的を満たすというメンバーの試みを余儀なくさせる、ということである。我々の観察は次のようなものである。メンバーの間で、修復的公式化とは、妥当な主題、妥当な問題、妥当な方法を、また実践的な談話と推論の形式構造を研究する中で確保される知見を得、達成するための、圧倒的に擁護された方策である。またメンバーによる修復的公式化の擁護は、ちょうどメンバーが圧倒的に知識を持ち熟練している実践によって成し遂げられるのであり、そうした実践は、公式化がそれによって説明可能な形で理解可能で、明確な、型にはまった談話が行われることになるその仕掛けなのではないという事実を話し手が保証し、また話し手に対して保証するものなのである。そうした実践は次のような現象であると考えられる。

 1.数え切れないほどの会話活動が存在し、それらを会話的現象として名指すのに使用可能な名称も数多く存在する。人々はそうした名称を知っており、それらの名称について言及することができ、それらの名称を用いて要約したりできる。しかし、そうした活動の流れの中では、それらの名称はそれほど使用されない。実際のところ平凡な、しかしほとんど理解されない現象がいくつかの事例を構成し、その中で〔あれこれの言葉を使って人がしていることを言うこと〕を行うさいにそうした活動が、それと分かるほど不調和になったり、退屈なものになったり、あるいは無能の証拠や邪な動機づけなどを与えたりするのである。

 2.日常的会話には驚くほどの話題の一貫性があるが、にもかかわらず会話者が話題を公式化するのは非常に特殊な事例である。そうしたことは滅多に行われない。いかなる場合においても、そうしたことは十中八九行われないというのみならず、行われてもおそらく修復不可能なほどに不確かなものとなるだろう。そして誰かが話題に関した話をしても、会話の中に話題という名称が挿入されることはないだろう。

 3.会話者が妥当なテキストにタイトルをつけたり、そうしたテキストが話題にされないまま妥当なテキストを探したり、思い出したり、認識したり、提出しようとするのは、日常的会話においてごくありふれた達成──それは会話者に対して、会話をする能力があることのごくありふれた証拠を提供するものだが──として起こることである。そこでは、そうしたことが成功するかどうかは話題の曖昧さや目的、探究のルール、妥当性のルールといったものに左右され、また妥当なテキストの保管や回復という作業は、こうした曖昧さをそのデザインの本質的特徴として調和させるということなのである。

 4.もう一つの現象は以前行った研究の中で記述されたものである (25)。学生たちは次のようなことをするよう求められた。日常的な会話をしている人々が話していてふと耳にしたことがどんな内容だったかを書くこと、またそのとき、実際の会話者が話している事柄をその横で書き取ることである。会話をしている人々が実際何を話していたかをあれこれの言葉を使って言うという課題をすでに課されていた学生たちは、すぐにその課題を満足させるような作業とは、先の課題の特徴を、達成する見込みがないほど精密化したものだと理解した。どうにかして彼らはすぐに、課されていた課題──“会話者が話している文字通りのことを、それをまるで知らないかのように話すこと”──それ自体が誤っていることを理解した。誤っているといっても、それは書き手が会話者の話している事について知らないとか、理解できないとか理解しないとか、あるいは書き手がそれについて話すさいに十分な時間や紙幅やスタミナ、あるいは英語の語彙がないという意味ではない。そうではなく、

...私は彼らに、不可能な課題を引き受けるよう要求した。すなわち、そうした指示は本質的に不完全なものであり、たとえどんなに慎重にあるいは精密に書かれようとも、その不完全さを修復することは不可能なのである。私は彼らに、会話への参与者が話すのに用いた方法を、次のようなルールとして公式化するよう要求した。──会話への参与者が言ったことを言うために、それをフォローする手続きのルールとして、また、いかなる緊急の状況、想像力、展開にも耐えるようなルールとしてである。...〔これは次のような課題である〕──彼らに“より多く”を書かせることを要求する課題であり、彼らが次第に難しく、そして最終的には不可能であると分かるような課題であり、さらに、その課題を遂行する当の手続きによって、その課題のもつ特徴が精密化していくような課題なのである。

 我々は、こうした現象が次のような観察に対する予防薬を提供するということこそが、こうした現象のもつ決定的重要性であると考える。その観察とは、メンバーが〔我々の会話活動が説明可能な形で合理的であるという事実〕を実行しているのは、そのメンバーにとっては、会話の公式化という作業においてではない、ということである。その二つの活動は同一のものでもなければ、交換可能なものでもないのである。

 我々はまた、公式化を行うことが“状況づけられた”ものであることにも気づいた。この表現は次のような意味である。公式化が行われる場合、そこで言及される時、場所、人──つまり、どこで、いつ、誰が、どれぐらいといったことについて、具体的で、定義され、明確で、決定づける特定化──は、説明可能な現象として不可避的に修復の余地なく行われるということである。またそれは、公式化のもつ状況づけられたものという性格を規定する特殊なルールをメンバーが使用するということだけでなく、会話の中で公式化がどんな働きをするかを発見するためメンバーによって使用可能な特殊なルールを誤用するということをも意味する。その場合公式化という事実は、公式化を行う人々にとって、公式化を行うことがその作業について定義可能であるということを意味しない。そうではなく、公式化の誤用の場合、公式化を行うことはその人が冗談を言ったのだとか、頑固なのだと理解されるということを意味するのである。

 要約すれば、会話そのものに対して公式化を行うことは、会話者に対して〔我々の会話活動が説明可能な形で合理的であるという事実〕という方向づけを指し示す。公式化を行うことは、それによってそうした事実がそれ自体として行われ確立されるような、そうした型にはまった方策ではない。公式化を行う者は何をしていることになるのか、という問い──それはメンバーの問いであるが──は、メンバーが、公式化が何を提示しているかを調べることで解決されるものではなく、公式化という行為が本質的に文脈依存的性格を形づくるその実践に従事することによって解決されるのである。会話において公式化を行うことに関するごくごく簡単な考察でさえ、我々に──それが素朴な話者であれ、熟練した社会科学者であれ──次のような現象についての再考を促す。つまり〔我々の会話活動が説明可能な形で合理的であるという事実〕を実践するという会話中の現象について、である。

 公式化を行う者が何をしていることになるのかという問いは、メンバーが、公式化という行為が本質的に文脈依存的性格を形づくるその実践に従事することによって解決されるのである、と先に我々は提案したが、そのとき我々は何を提案していることになるのだろうか。〔我々の会話活動が説明可能な形で合理的であるという事実〕という表現が、そうした事実の適切な注解となるための作業とはどのような種類のものなのだろうか。

説明可能な形で合理的な会話の形式構造:その“装置”

 我々は会話者の作業から次のような事柄を問うことを学ぶ。〔説明可能な形で合理的な会話〕を行うという実践を構成するのは、いかなる種類の“装置”なのか。例えばそうした営みが“文脈依存”しているその状況についての公式化をせずに〔我々の活動が説明可能な形で合理的であるという事実〕を実践したり、認識したりするための営みは存在するのか。〔我々の活動が説明可能な形で合理的であるという事実〕が、一つの説明可能なテキストとなるための作業とは何か。〔会話の個々の断片が、明確で、意味の取り違えがなく、曖昧でなく、単一であるということが、コンテキストにおける談話を用いる会話者の能力によって保証されること〕が、そのことの適切な注解となるための作業とはいかなるものか、といった事柄である。

 我々がそうした問いをするのは、会話者にとって問題を孕んだものとなっている現象から学んだからである。つまりそれは“時”“場所”“人”といった事柄──例えば、会話をする者があれこれの言葉を使って、誰が、どこで、いつ、いつから、どれくらい前から、どれくらい多く、誰と、何を、といったことを言うところの事柄──が、文脈依存的な現象である、ということである。より精確に言えば、それらは本質的に文脈依存的な現象なのである。

 「文脈依存的な現象」という言い方をすることによって我々は、次のような特徴を持った特殊な営みが存在するということを意味する。(1)そうした現象は、メンバーが〔妥当な時、場所、人という事実〕を実践し、認識するとき、彼が行っていることを構成する。(2)いま、どこで、誰と、いつから、どれくらい長くといったことを公式化しようとしまいと、そうした現象は行われる。(3)そうした現象は、〔客観的で、明白で、一貫した、適切な──合理的な──言語という実践〕が、適切な注解となるためのメンバーによる作業を形づくる。そして(4)以下に述べるような制限(本質的なという形容詞をつけよう……)を満たすことによって、そうした現象は最初の三つの基準に合致する。

 1)それらの現象はメンバーの不平の原因である。それらは欠陥を持っている。それらは障害物であり、トラブルであり、矯正すなわち修復行為の妥当な根拠である。

 2)それらの現象は次のような意味で修復の余地がない。つまり修復を達成するのに採用されるどんな方策も、その特効薬の中に修復が求められた特徴がそっくり保存されているという意味で、修復不可能なのである。

 3)それらの現象は不可避的であり、逃れることができない。それらを使用しないですむ避難所はないし、執行猶予も、時効もなく、世界中どこにも憩える場所はないのである。

 4)プログラマティックな考えが、それらの作業を性格づけた。

 5)こうした考えは“平明な話されるルール”として使用できる。そのルールは、あらゆる実践的目的に対して、妥当な記述、妥当な説明、妥当な同定、妥当な特徴づけ、妥当な翻訳、妥当な分析といったものの説明を用意する。

 6)“実践的論理学者による研究においては”それぞれの領域での理想形の「貧弱な対応物(あるいは親類縁者?)」という但し書がつけられている。見出し的表現は客観的表現の貧弱な対応物であり、常識的知識は学問的知識の貧弱な対応物であり、素朴な生活者の実践や知識は、生活者の仕事、実践、知識に関する専門家の実践や知識の貧弱な対応物であり、カルヴァン・N・ムーアの記述法は、本格的な論理学における舞台装置、カテゴリー、分類項目、集合などの貧弱な対応物であり、また自然言語の形式構造は人工言語の貧弱な対応物である。“貧弱な対応物”を我々は次のように理解する。それは“我々を困惑させるが必要な障害物”であり、“弱小版”“否定的現象”“祝福され得ないもの”“醜い似姿”であるが、大学に行って教育を受けた親類縁者(客観的表現etc.)の主張を保証するため、メンバーに頼られてもいるのである。理想的論理は学問の独占物ではないし、またその貧弱な対応物も街角にだけころがっているわけではない。常に相手との関係において、この両者は膨大な多様性の中で利用可能である。というのは、それらは会話と同じほどありふれたものだからである。メンバーが常識的知識と学問的知識との皮肉な対照化をするということを理論づけたとしても、その両者をその対照点を使って探し出し、報告することは難しい。

 7)メンバーは、特有な実践のもつ以上6項目の特性を自分たちが認識しているということに同意している。彼らはまた“状況の不変の構造”としての実践的活動の“意味”を一つ二つ見つけ、理解し、位置づけ、名づけるために──すなわち公式化するために──こうした特性を使うということにも同意している。

 以上の諸々の制約を満たす限りで、談話という実践は、会話の個々の断片に逃れがたく結びついており、またそのようにして談話という実践は、会話の秩序立った個々の断片として容赦なく展示され、立証される。そうした制約を満たす限りで、談話という実践はまた“(会話を)産出するコーホートからの独立性”“システムからの人の出入りに対する不変性”“万国共通性”といった特徴を開示する。それらはメンバーの方法に、不可避的に使用される方法としての説明可能な性格を付与することによって不変性という特徴を開示し、またその方法を用いて、会話の諸事項は、連結された事項として、すなわち引継ぎ、関連性、推論、ほのめかし、引照、証明といった関係にある事項として、さらに言えば、事項、階級、セット、集団、群の集合として見出され、産出され、同定され、認識されるのである。

 メンバーは、メンバーの実践において〔不変であること〕を行う様々な方法を発見するためにこうした制約を使う。メンバーがそうするので、我々も同じ方法でそうした制約を使おうと思う。つまり、もし我々がそうした実践を〔実践的目的に対する自然言語の合理的な妥当性〕を実践し認識するメンバーの資源と見なすとすれば、談話という実践が満たさなければならない制約として使うのである。そうした制約は、実践の性格を規定し、それによってメンバーが見出し的事項すなわち“実践的会話”において談話という合理的な会話を達成し認識するのである。

 そうした実践とは何か (26)。もし我々が見出し的表現のリストについて、そのリストがどれほどの長さになるかを問えば、何かを学ぶことになる。この問いに答えるためには、我々は見出し的な言葉のリストを得る手続きを必要とする。そうした手続きは容易に使用できる。なぜなら我々は次の事柄に気づいているからである。つまり(原文で)348-349 頁で言及した見出し的表現の諸特性のどの“項目”も、またそれらのいかなる組合せも、処方として──会話の実際の機会、実際の発話、あるいは実際のテキストを探究する処方として読めるということに気づいているからである。

 こうしたことが行われるとき我々は次のような事柄を観察する。──現実のどんな機会でも見出し的な言葉が探し求められ、そして見出し的な言葉が供与されることになるだろう。現実のテキストの中で言葉の数がいくつであっても、そのテキストはメンバーを供給するだろう (27)。テキストを持たない現実的な機会もメンバーを供給するだろう。見出し的な言葉のリストにあるどのメンバーも、レプリカを探し出すための処方として使用できる。そのリスト上のメンバーのどのレプリカをリストアップしても、それはさらなるメンバーを探し出す妥当な手続きとなる。あるメンバーを見つける手続きはどれも、それらがメンバーであるような言語のすべての言葉を見つけだすのに適切なものであり、“すべて”を含むものである──すなわち、それらがメンバーであるような言語のすべての言葉を探しながら、我々はメンバーの“すべて”の使用を探り、また使っているのである。見出し的な言葉の“一つのリスト”、“どのリストも”そして“すべての”リストはいずれも、“一つのリスト”、“どのリストも”そして“すべての”リストの個々のメンバーとして同一の特性を呈示する。見出し的な言葉の諸特性のリストから得られたどの特性、あるいはそのどんな組合せを使っても、それで探し出されたテキストは、どれも例外なく、そのリストにメンバーを供給するだろう。いかなるリストもそうであるように、見出し的な言葉のどんなリストも無限に拡張することができる。より多くのメンバーを見つけ出し、それらを諸特性のリストに追加する手続きはどれも、その手続きが見つけ出すメンバーと同じ特性を呈示する。見出し的表現の諸特性のリストはどれも無限に拡張することができる。“言葉”についてどんな考えを抱いても、それは“表現”や“発話”について抱く考えと同じである。最後に、以上の諸特性は次のような操作をしても不変である。つまり、リストのメンバーを探し出したり、認識したり、収集したり、数え上げたり、それで文章を作ったり、翻訳したり、同定したり、個々の証拠を矛盾しないようにしたり、計算したりしても、その特性は変わらないのである。

結論

 我々はここまで、メンバーが〔我々の活動は説明可能な形で合理的であるという事実〕を行っていること、およびその方法を見てきた。またそうした作業は、公式化をすることなしに行われること、明確にしなければならない言葉を、そうした言葉がすることをしないで済ますような公式化によって置き換えることはできないということ、それらは〔説明可能な形で合理的な活動〕をする“装置”として組織できること、そして〔説明可能な合理性〕という抽象的な現象は、素朴な生活者のみならずエスノメソドロジストにとっても使用可能であること──というのは“装置”とは(それがメンバーの“装置”であるという理由で)〔説明可能な形で合理的な活動〕をするため特に用いられるというあり方において、それによって産出と認識の装置として現象の一部分であるからである──を見てきた。我々はそのことに何らかの構造を与え、その明白さと、メンバーがそのことに対して驚くほどの関心を持ち普及しているということを、ともに呈示しようと試みた。

 1.活動、同一化、コンテキストの公式化を明確な形で提出する余地は、どこを探してもないように思われる。人々は〔我々がしていることをあれこれの言葉を使って言うこと〕の実践に、必然的に、方法的に、選択的に、巻き込まれざるを得ない。彼らは、例えば「これは結局、集団治療のセッションなのだ」とか「管理的役割からすれば、組織の規模と複雑さは増大しており、それゆえ組織を円滑に管理するのに必要となる条件もまた増大している」といったことを言うことに、必然的に、方法的に、選択的に、巻き込まれざるを得ないのである。

 社会秩序の問題への真面目な解決策として公式化を行う余地などどこにもないという事実は、社会科学において蔓延している次のような勧告に関係している。つまり、実証的な記述を達成したり、仮説の検証や正当化といった実践的な目的のために公式化を行うことができる、という勧告である。それによって公式化は、社会科学があらゆる実践的目的に対して妥当となる実践的行為の精密な分析を達成できるような資源として推奨されるのである。

 我々は誰かが言ったことの意味──つまり、所与の人物が次に言う言葉で意味すること、あるいは直前に言われたことで意味されること──を、会話の各々の断片に対する公式化を要求する手続きを使うことによって見出すことができないということが、会話世界における特有のトラブルだ、と言っているわけではない。そうではなく、公式化は“意味ある談話”を一義的に決定できるようにと勧告される限りで、“意味ある談話”はそうした意味を持ち得ないがゆえに、そこに何がしかの不都合が生じると言っているのである。つまり、我々がそうした手続きの支配を受けるような言語を構築しない限り、談話は意味あるものにはならないし、またそのことが“意味ある談話”あるいは“意味ある行為”ということでもないのである。我々はこう言っているのである──人々が会話や他の日常的活動の流れの中で秩序立った仕方で行為するために関わらなければならない一組の事象とは、彼らの役割関係を公式化したり、その成果をシステマティックに求めることが常に可能であること、あるいはそう言うことである、などと我々は推測すべきではないということである。なぜなら、もしそうしたことを行う余地がどこにもなければ、日常的活動は不可能であるか、あるいは日常的活動の必要条件が、いついかなる場合でも、妥当であり妥当でなく、説得力がありながら混乱しており、誤りながら正しいといったことになるから──すなわち、公式化可能であるための必要条件は、ある状況下でも別の状況下でも、分離していても組み合わされていても、いついかなる場合でも、あらゆる実践的な目的に対して当てはまるということになってしまうからである。

 2.我々はまず最初に、公式化が見出しに付随する難点を救済することができるという考えに対して注意を促した (28)。我々は、公式化にはそうしたことは不可能で、見出しはその難点から逃れる必要などないということを理解した。我々はまた、申立てによると修復されるべきであるという言葉の特性は、いたるところにいきわたっているということを見てきた。またそれゆえ、人はそうした特性のどれ一つとして救済の必要などないという事実を歓待しなければならないのである。

 3.専門的社会学の成果とは、構成的分析の規則としての、実践的活動の社会構造の合理的な説明可能性を公式化してきたことである。先に我々が述べたように、構成的分析の公式化によれば、日常的活動の社会構造は次のように理解される。それは、日常的行為、談話、領域の配分あるいは産出コーホートが変わっても不変な一つ二つの事柄についての信念などに関する画一性、社会的標準化、反復性、再構成可能性、典型性、分類可能性、報告可能性といった諸特性から成るものである。構成的分析の理論化に用いられる実践的なテクノロジーは、パーソンズやラザースフェルドの研究やシステム分析のRANDテクニックにおいて神格化されて使われている。我々は、そうしたテクノロジーの実践者が、構成的分析の実践は、メンバーの成果であると主張しているのを観察する。我々は実践者から、そうした規則を現実場面での形式構造のデモンストレーションに適用するには、メンバーの能力を要するという事実、およびそうしたことがいかにして行われるかを学ぶ。我々はまた、構成的分析の手続きと成果における各事項が、メンバーに対して曖昧にしか知られていない“状況”を分かりやすく呈示するようにしつらえる、ということを観察する (29)。手続きにおける各事項と成果における各事項は、いかなる場面で使っても、メンバーに、不可避的で修復不可能な曖昧さと、同じく不可避的で修復不可能な妥当性との組合せを提供する。我々は実践者から、本質的な曖昧さと妥当性との組合せは、メンバーの産出や評価や認識に対してメンバーにのみ使用可能であるということを理解させられる。要約すれば、我々は構成的分析の実践者から、公式化に関する我々の知見が構成的分析にも敷衍できるということを学ぶのである。

 公式化は、構成的分析にその注解として敷衍されないし、また分析の経験の一般化でもない。ましてや公式化は、専門的社会学者の実践の一般化などではない。それは次のようなやり方で敷衍できる──〔構成的分析〕を行うことはメンバーがすることである、といったように。それはまた、〔我々がしていることをあれこれの言葉を使ってとりたてて言うこと〕あるいは〔意味されたことを言うこと及び二三のよく吟味された言葉で言われたことを意味すること〕あるいは〔見出し的表現という邪魔物を細胞となるタイトルから取り除くこと〕あるいは〔見出し的表現の集合において現実のメンバーのシステムの地図を作ること〕あるいは〔E.S.Rの研究から方法論的パラダイムを抽象すること〕あるいはまた〔体系的に考えること〕といったものと同様である。〔構成的分析〕を行うことはメンバーが行うことであるがゆえに、我々が公式化について観察することは、専門的社会学者が〔構成的分析〕をするという実践においても同様に観察されるのである。そうした作業の中で我々は、メンバーが、日常的活動に関する文脈に依存しない記述、妥当な教訓、明瞭な逸話、説得力ある諺、正確な定義を、あるいはまた自然言語の営みに関する文脈に依存しない公式化を、注意深く構築していることを理解する。我々はまたその中で、メンバーが自然言語を実践する能力を使って〔適切な証明〕〔客観的な記述〕〔一定の手続き〕〔明確な、一貫した、説得力ある、妥当な知識〕〔測定可能な会話〕といったものの実践と認識を確かなものにしようとしていると理解する。そうした作業の中で我々は、専門的な社会学者がメンバーの能力とは共同による達成物としてのこうした注解を保証するものなのだと主張しているということを理解するのである。

 専門家による注解という達成の装置は、前節で〔実践的目的のための合理的な談話〕を行うメンバーの装置として述べられた実践によって、最も生の部分においてのみ記述される。そうした注釈がどのようにして行われるかは、素人、専門家双方の社会学実践者によって供与されたエスノグラフィックな観察をこえて明らかにされることはなかった。例えば〔客観的な社会学的公式化〕〔確実な知識〕など、いかなる種類の企てが、会話的達成としてあるのかは、知られていないのである。

 4.構成的分析の研究を検討することによって我々は次のことを学ぶ。それは、実践的達成としての日常的活動の合理的な説明可能性は、構成的分析の実践から成る、とメンバーによって説明されるということである。そうした作業から我々はまた、そうした説明がそれ自体その実践的達成の特徴を保証しているということを学ぶ。さらに彼らの実践から我々は次のことをも学ぶ。つまり、構成的分析の実践における形式構造──この論文の前半部分(「実践的行為の形式構造へのエスノメソドロジーの関心」)で述べたような意味での形式構造──は、メンバーの自然言語の実践における形式構造であって、構成的分析の方法に使用できるものではないということである。我々は論理学的な証明という意味での“不可能性”を議論しているわけではないし、構成的分析についての非原理的な説明をしているわけでもない。我々はまた、構成的分析への一つの態度や立場あるいはアプローチを勧告しているわけではない。我々はまた、形式構造が訓練不足、習慣的選択あるいは既得の関心といったもののゆえに構成的分析に使えないと言っているわけでもない。最も強調したいことは、我々は、助言や賞賛あるいは批判をしているのではないということなのである。

 そういったことではなく我々は、一つの現象としての使用不可能性に注意を払っているのである。我々はそれについて次のような観察をする。それは、使用不可能性という事実は、構成的分析の実践には左右されないということである。と言ってもその現象が、どのようにしてか構成的分析の努力を否定するということではない。形式構造を利用することができないということは、構成的分析の実践が、他ならぬ形式構造の実践から成るという事実によって避けられないものになっている。形式構造を利用できないということは、構成的分析が行われるその実際場面に左右されることのない不変の特徴であり、例外も時効も、救済や修復の余地もない。またいかなる場面も、それが一時的であろうと持続的であろうと例外とはならない。その使用不可能性は、社会学するのが誰であろうと──あるいは、同じことだが、談話の仕方を知るのが誰であろうとその人々によって、異議なくというにとどまらず満場一致を要求する形で、報告可能であり保証され実行され認識されるのである。

 メンバーの自然言語の実践における形式構造は、構成的分析の方法には利用できないという事実が、実践的な社会学的推論の研究を成立せしめる。エスノメソドロジカルな研究は、そうした利用不可能性を、構成的分析のあれやこれやの“断片”を位置づけ、その成果がいかにしてメンバーにとって説明可能な現象となるかを精査にかけるために使用されてきた。こうした研究を利用することができるということが、この本において示されている展望や視座とは別の方途が存在するという事実を成立せしめる。というのは、構成的分析の形式構造は構成的分析には使えないものの、他の用途にとっては、すなわちエスノメソドロジーにとっては使用可能だからである。もっともそのことは、形式構造を使用できるのがエスノメソドロジーだけなのかという問いに比べればそれほど興味深いことではないのだが。

補遺:注解についての覚書

 以下は、観察可能で報告可能な理解、すなわち説明可能な理解をするための様々な方法るついての事例である。それらは日常場面の報告から収集されたもので、そこでは人々が、話す方法を知っている者としてお互いを認識し理解するのと同一の方法で、彼らが単にあれこれの言葉を使って言える以上のことを意味するという実践に一致協力して従事している。

 事例はトピックとして“注解の実践”を明らかにすることを目指したものである。前述の定義は、コレクションを拡張し組織化するという我々の関心──すなわち、探究、発見、除外、タイトルづけといったことに役立つよう、弱いルールとして用いられる。それはさしあたり弱いルールとして読めるだろうか。もちろん我々は、事例を収集するさい、もっと精確な定義がねらいとされるような事態にも直面した。そうしたねらいは自然言語の研究を真剣に受け取ってほしいと願う人々には慣れ親しんだものである。もちろん我々も、そうしたねらいを甘受する。しかし、注解が関わっている場面では、我々はそうしたねらいをあまり真剣には楽しめない。というのは、そうした注解を研究しているとき、また注解の実践について学んだ事柄からしても、そうしたねらいは興味深いものではないということを学んだからである。むしろ、そうしたねらいは達成され得ないということこそが興味深いことなのである。我々はいくつかの事例からこのことを見ることになるだろう。さらに弱い定義が、それを使用することによって、またそれが資源であるような達成を目指して、強固な定義を目的として公式化するのに用いられるということは、かなうことのないもう一つの望みなのである。あるいはうまくいっても、次のような形で──つまり、ある者は認識された自然言語への精通とみなされるような、ある種の熟練を獲得するという形で──かなう望みである。そして、それはそれで興味深いことである。さらなる特徴は、ねらいが達成され得ない、その個別的な、一定のあり方によって規定され、また以下の特徴に付加される。注解の実践の限定性は、定義の欠如、弱さ、緩やかさに関わりなく研究に使用することができる。我々にはそれが、反復する“論理的”な特徴であることがわかる。我々はそれに魅かれているし、どこであれそれを追求しているのである。

 おそらく、注解の実践は個人固有のものである。──まだ決定されてはいないが。どのケースでも、事例は、その産出が一致協力による実践的達成物として組織化されるさいのいくつかの違った方法を描写するために選択されたものである。例えばリチャーズの注解は、既に−理解−されているテキストが一定の意味に到達する未知の方法にわたって注解されるような一つの方法を構成する。そこでは、一定の意味へと到達する過程でどのような意味に行き着いても、そうしたからといって、その方法についてはいかなる説明も要求されないし、それらによってなんら規定される必要もない。この主題的な特徴の二つのバリエーションは、モックアップの事例において用意されており、そこでは定義が、より強固な定義の最初の近似物において使用されている。

 モックアップ(実物大模型)。プラスチックのエンジンを買ってきて、自動車エンジンがどう作動するかを説明することは可能である。プラスチックのエンジンは、自動車のエンジンの諸特性をそっくり保持している。例えば、ピストンがクランクシャフトと連結されてどう動くか、点火時期の順序がどうなっているか等を、モックアップは示して見せるだろう。ピストンの動きを再現するため、ユーザーが指でフライホイールを回さねばならないというのは、後でみるように興味深く、また関連性を持つ。

 そうしたプラスチックのエンジンを、事象の観察可能な状態の説明と呼ぶことにしよう。我々はそうした説明の特徴について、以下のような観察を提示する。第一に、それが現実の状況における特徴を精確に呈示すると規定するまさにその方法において、そしてそれが観察可能な状況におけるいくつかの関係と特徴を精確に呈示すると規定するまさにその方法において、それは同時にその状況のいくつかの本質的な特徴について、特定的に、また故意に誤った規定をする。第二に、故意に誤った規定をするとき、それは、その説明がそうした状況に関する一つの説明として扱われるとすれば、そこには故意に誤った規定が存在するに違いないということを規定するのである。第三に、こうした誤った規定により、説明の使用者は、その説明を、彼がその呈示に使いたいと思った状況の“相似物”であると言う。第四に、その説明──プラスチックのエンジン──が誤った規定をする様々なあり方についての知識は、ユーザーにとって、それを現実の状況の説明として使えるようにするさいに統制をすることになる考慮すべき事実である。第五に、モックアップ──プラスチックのエンジン──は、その個々の事象の全体性および現実の特徴において、それらがいかなるものであろうとも、またどのような使われ方をしても、ユーザーにとっては一貫して、現実の状況の中で実践的行為を導くという位置づけをもつものとして理解される。ユーザーが現実の状況とうまく折り合いをつけなければならないときには、たとえモックアップが現実の状況の中で何から構成されようとも、そうなのである。第六に、モックアップの妥当性とその正確な使用を自分自身で決定するとき、こうした意図的な使用はユーザーの選択以外の何物でもない。最後に、モックアップが誤った規定を行うことになるその現実状況の特徴に、その使用者がいつ直面しようとも、その現実状況に充分な権威づけを行うために、そしてまた訂正したいと思うような衝動が起こらないような形でモックアップを成立させるために、モックアップの使用はユーザーの自主的な意志を伴ったものになっている。

 第一の相似物において使用される定義は、リチャーズの注解とモックアップに似ている。なぜならそれは、その明瞭さがいかに達成されるかを特に説明しないまま、談話の認識された明瞭さを達成するもう一つの方法を供与するからである。

 第一の相似物において使用される定義は次のような論文において行われる。──そこでは論文の冒頭で著者が、さしあたりはそのルーズさを許容してほしいという要請を付した定義を提出し、(どのような理由であろうと)その時点その箇所ではそれ以上厳密な定義をしない。しかし、もし読者がその定義の暫定的な性格を容認するなら、著者の議論は先に進むだろうし、後の時点で第一の定義の代わりとなる第二の定義を提出するだろう。  そうした定義に関する以下の事例は、さらに別の特徴を付加する。事例は次のような理由で選択された。すなわち、談話の明瞭さがいかに達成されるかが本質的に明らかにされないにもかかわらず、それが読者にとって、談話の明瞭さが達成されている証拠物件となっている、という理由である。

 以下の事例を“注解づけ”の第一の相似物における定義として考察しよう。

 私は、話し方を知っている人々──ある言語の話し手──について話したいと思う。彼らは、相互行為の実際場面であれこれの言葉を使って言い得る以上のことを意味するという種々の営みに従事している。私は注解づけという用語を使って彼らの実践を収集することにしたい。私はさしあたりこの定義を次のようなルールとして使用したい。つまり、それで証拠物件を探し出せるような妥当な現実場面を見つけだし、またそれによってその証拠物件が比較され、記述され、グループ分けされ、資格づけられ、表題をつけられたりするようなルールとしてである。より精確な定義は、我々の研究の目的として取り扱われるだろう。事例を収集するという企ての過程で、我々が話の中で使っている注解づけという用語についてより多くの事柄を学ぶようになったら、あるいは我々の関心事により明瞭な輪郭を与えられたら、我々は定義を次のように書き換えるだろう。すなわち、証拠物件から、またそれらに動機づけられた熟考から、それらの本質的特徴と特徴の間の本質的関連性とを公式化するような定義へと。こうした定義を使ってありうべき証拠物件を探しながら現実場面が検討されるとき、その定義は無限に特定化され自己没入的な深度にまで使用される。我々は、いかなる二律背反もその意味を妨げたり抑圧したりしないことにも気づいている。つまり、その反復の“深さ”によって混乱させられることもないのである。  文化人類学的引用。文化人類学者はフィールドから専門家集団へと自分のノートを持ち帰る。フィールドで時を過ごした後、彼には自分のテキストを専門家が受け入れてくれるような報告書へと書き直すという課題が待っている。例えばマニング・マッシュ (30)は彼のセミナーで大学院生に、評論とフィールドワークとが直列的な関係にあることを気づかせた。ある日、各自は順番に、それまで知らなかった社会の探検から戻り、自分が発見したことを筋道立った陳述の文章で報告しなければならない。文化人類学者は数カ月間、おそらく滞在の間中、自分の自由にならなかった言語を使う原住民、つまりその中で自分が決定的な意味でよそ者であったような人々から学んだ事柄を、詳細に書かなければならないだろう。彼は、自分のフィールドノートがどのように収集されたかについて何の説明もする必要がない。文化人類学者が、自分のフィールドノート及びそれがどのように収集され、拡張され、分析され、集成され、別の形で使用されたかといったことと、それらの環境の構成要素としてのフィールドの環境とを結びつけるのは、きわめて稀なことである。彼らがどのようにしてノートを同業の専門家に読まれることを意図して報告書に書き直したかということを報告することさえ、そう多くはないのである。にもかかわらず“こうしたことが行われる方法”は全員によって──書き手によって同業者によって──“書くこと”が行われ、報告書が読まれ論議される折々に臨時に説明可能なものとして扱われるのである。文化人類学的引用の使用が興味深くまた関連妥当な注解の実践であるのは、専門家の作業のそうした環境という点においてである。

 文化人類学的引用における報告の手続きは以下のようである。──文化人類学者は、テキストを“ライティング”と呼ばれる手続きを用いて報告書へと書き直しにかかる。文化人類学者は、原住民が本当に話している事柄をあれこれの言葉で最終的に言ったりはできないし、また言おうともしていないので、ライティングによって行われる普及した課題とは、調査対象となった原住民が彼らの言語で実際に扱っている事柄についての説明を提出するのであって、彼らが話しているであろうと推測されることについて説明をするのではない。このようなやり方で彼らは同業者に、明確に、彼らがかくかくしかじかと話していたと報告する。それゆえ例えば彼は、原住民について彼ら原住民の言葉で言及したり、そうした言葉を“用語辞典”という仕掛けを使って取り扱ったりする。つまり、彼は同業者に次のように勧告する──自分は、原住民の言葉を翻訳することによって、本当に話している事柄を言っており、原住民と彼らの営みを最終的な権威として扱っているのだ、と。原住民の営みは彼が書いた以上のものから成るであろうにもかかわらず、彼はそのことについては言えないし、それが不可能であるとも言わない。書き手は“原住民が本当に言っていること”をあれこれの言葉で詳述することに注意深くあろうと決心して、原住民が本当に言っていることを言おうとする。このさらなる“原住民が本当に言っていること”とは、原住民の語り手によるルポルタージュを専門家が言い換えたものとして報告書に組み込まれたもので、それは報告書のいたる所で注解されている。というのはそれが、書き手としてのまた読み手としての専門的な形で特定化されていない方法による作業を通じて、実際場面で使用できるからである。

 専門家が寛容する限りで、文化人類学的注解づけの実践は、文化人類学者に、自分たちを他の領域の専門家から区別するような実践と環境を提供する。専門家の学会は、能力ある読者とその種の書き物が注解づけられた明確に説明されないままの状況とを使用できるということから成り立っている。学会の構成員であることによって、意味の明確さと報告書の事実性とは、会話の状況、会話の装置、会話の“しかけ”と密接に結びついており、そうした場において、またそれらによって、推測として報告されたのではなく実際にあるものがあれこれの言葉で書かれたという“物言いに対する理解”がされたということになるのだろう。

 あなたが述べなかった出来事の証明とは、それによって明確な意味が会話の系列の中で発見されることになるような一つの実践を描き出すものであり、そのさいの関心の焦点は、出来事の産出における時間的順序と産出された出来事に関する説明可能な時間的順序との相違を利用することによって明確な意味を見出すことである。その実践とは次のようなものである──あなたは誰かと会話をしている。相手が笑う。あなたは一瞬驚く。というのは冗談を言った覚えがないからだ。相手が笑うのを聞いてあなたは、相手の笑いをあなたの機知を理解したものと性格づけるために微笑むが、しかしあなたは相手が笑ったとき、彼はあなたに、自分では要求していなかった“手柄を請求する”機会を与えたという事実を隠蔽するのである。

 ローズの注解.同業者であるコロラド大学のエドワード・ローズ教授は、周囲にある事物の明確な意味は、それらの系列から構成されるという特性を適切に使用する実践を報告している。彼は、自分が行っていたことの明確な意味を見出すために、その特性を以下のように使用している。

 ローズはそれまで訪ねたことのないある町を訪問したさい、空港で出迎えの人に会う。ローズが窓の外を〔見ている〕とき、彼らは車で宿舎に向かっているところだった。すなわちローズは〔前方をみること〕をし、それから車の移動に合わせて頭を動かし〔傍らを行き過ぎる何かをみること〕をしているのだ。ローズにとって問題なのは、彼が何をみているのかと尋ねるパートナーがいることだ。目立った物を〔前方に見る〕こと、そして〔行き過ぎる何かを見る〕こと及びそれらの一続きの配列が、出来事の重要な点であり、ローズの巧妙さを準備した場面設定である。〔窓の外の見ること〕をしながら、ローズは言う──「本当に変わった」。出迎えの人は、おそらく「火事であの区画が建て直されたのは十年前でした」といったようなことを言う。ローズは「本当に変わった」と言うことによって、それに対する返答の中に、あるいはその返答を利用して、彼、ローズが初めての場所で話すべき話題を見い出すのである。それを取り上げながら、彼はさらに、辻褄の合った理解可能な出来事を公式化する。それは、会話の流れの中で、認識可能で現実的で分かりやすく聞こえる特効薬として、彼ら二人の参与者が偶然作り上げた出来事なのである。──「そうですか。いったい、いくらかかったんですか。」

1.(原文の)348-349 頁で、見出し的表現の諸特性が詳細に論じられている。
2.E・デュルケム『社会学的方法の公準』(シカゴ:シカゴ大学出版.1938)
3.この特性は、次の論文において説明されている。──Don H.Zimmerman and Melvin Pollner, "The Everyday World as a Phenomenon," in Harold B.Pepinsky, ed., Studies in Human Infomation Processing (in press)
(4.原文参照。)
5.「際限のない課題」とは、区別と代替可能性とが探究を動機づけ、その結果がメンバ ーにとってさらなる言及と探究の根拠として認識され扱われるということである。メンバーが、「際限のない課題」とは、社会学的事実の「開かれた」性格について言及したものだと理解したり、社会科学の知識のもつ「自己浄化的」性質について、あるいは「問題の現状」、「蓄積された成果」、「進歩」等について言ったものだと理解したりするのは、この区別と代替可能性という点においてなのである。
(6.原文参照。)
7.すなわち、この論文が形式構造を達成として取り上げているという意味で、社会的に構成されているということである。
(8.原文参照。)
9.注6を見よ。
(10.原文参照。)
11.すなわち、誰もそれを求められないし、また他の注釈の実践においては、何か別のものがその事例となり得る、ということである。
12. これらの用語は、サミュエル・トーデスの次の著作に示唆され適用したものである。Samuel Todes, Comparative Phenomenology of Perception and Imagination : PartI:Perception," The Journal of Existentialism, 6 (Spring, 1966), 257-260.
13.このことは、いくら強調してもし過ぎることはない。我々がリチャーズの注解を報告するのに現在完了形を使ったため、あたかも我々の記述が、リチャーズの注解こそが明白な限定した談話が行われるさいのその方法を定義しているのであると勧告したように読まれる危険性がある。リチャーズの注解は、明白な、限定された談話が行われる方法の一つにすぎない。それとは違った方法が存在し、それらはリチャーズの注解とはまた別の注解の実践からなる。リチャーズの注解は、定義ではなく、洞察力あふれた事例として使用されたのである。
14. 以下の引用は、二つの構造的に区別された事例を提供する。(1)話者は、自分がその談話を引用した人が言ったこと及び意味したことから意味をつかむのみならず(2)談話の全体は、話者によって、次のようなことを示すものとして導入される──すなわち、その談話の話者は、直前の談話が意味している事柄を知っている、ということである。つまり、それが最初の部分として「私はあなたが意味していることを知っている」と言うことから生みだされるのである。

T:おまえの言うことは分かっているさ。僕らは、僕らは毎年こいつを経験してるもの。父さんは「贈り物はない」って言った。僕らはどういうことなのか、分析しようとしたけれど──
B:贈り物がないってことは、贈り物がないってことだろ? それとももっと多くの贈り物を意味するとでも?
T:いや、父さんは「贈り物がない」っていうその訳を教えてくれた。それで僕は、その理由についてまた尋ねたんだ。僕にはそれが父さんの本当の理由だとは思えなかったんだ、そうは思えなかったんだよ。父さんはこう言った、「さて、おまえは知ってるね、いかにクリスマスが、店という店がみんな、えーと、そうだな、クリスマスをダメにしてるかってことを。ダメにしてるんだよ、クリスマスは商売の道具になってるんだ。だからな、私はこうしたことに巻き込まれたくないんだ。だから私は今年、贈り物をあげないんだよ。」
J:「おまえはおまえの金を使って、おまえの本当に欲しいものを買うんだ。私は私の金を使って、私の本当に欲しいものを買うさ。」
T:でも僕らは、何かもっと深い理由があるに違いないって思うんだ。だって、ある人がクリスマスが商売の道具になってることに気づいたとしたら、その人はそうした考えに屈伏するなり、それを完全にはねのけるなり、贈り物をやらないのをやめるなりするに違いないだろ? それとも父さんは本当に物をやらない、とにかく人に物をやるのが嫌いな人だっていうことなんだろうか。
B:そうさ。
T:じゃあ、父さんは人に物をあげないためのインチキな言い訳をしてるだけなんだ。じゃあ結局、こういうことか、僕らは、これまであの言葉が、何か色々な理由の組合わさったものに違いない、父さんは本当はそれほどケチじゃないって思ってたってわけか。

15.ここでは“〜になる(become) ”ということの発展的な意味づけが意図されている。 それは、今はもう終わった過去における発展という意味ではない。“過程”を強調する ため、先の文章は次のように読むことができる。すなわち、「そうではなく、相互行為 の自同的な場面の一部になりつつあるという点で、話者の談話は、それ自体その相互行 為のもう一つの随伴性になりつつある、ということなのである。」 同様のことが“も う一つの”という表現についても言えるだろう。
(16.原文参照。)
(17.原文参照。)
18. 状況づけられた表現については、以下の著作において論じられている。M.ファーバー『現象学の基礎』(出版社、出版年その他は原文参照、以下同じ)。C.N.モハンティ『エドムント・フッサールの意味の理論』
19. バートランド・ラッセル『意味と真理への探究』。
(20. 原文参照。)
21. 見出し的表現に関するレヴューは、次の論文においてなされている。
Yehoshua Bar-Hillel, Indexical Expressions," Mind, 63 ns (1954),pp.359-379.
(22 .原文参照。)
23.読者は「あらゆる科学」という表現を次のように読むよう要請されている。──つま り、実践的活動の有効性の発見と評価を目指した探究、およびそうした有効性に関するメンバーの説明を産出しようとする探究は、すべて科学なのである。西欧世界で学問として教えられる科学のみならず、我々は“エスノ”サイエンスをも科学に含めて考えている。“エスノ”サイエンスについては、エスノ・メディシンやエスノ・ボタニーなど、人類学者たちが、確固とした現象と同様に、実践的活動の中で、あるいは実践的活動として効果のある膨大な数の経験的学問を記述してきた。例えば、アザンデ族の呪術、ヤキ族のシャーマニズム、水の呪術、天文学、錬金術、オペレーション・リサーチなどである。
24.公式化が報告可能であるのは、メンバーが公式化を行うことができ、またそれを観察 できるという理由からだけではない。メンバーが公式化を行っており、行われている公式化を観察しているという理由で、それは報告可能なのである。あるいは、メンバーが公式化を行っているとき、公式化がこれまで行われてきただろうものとして観察するという理由で、それは報告可能なのである。あるいはまた、メンバーが公式化を行っているとき、公式化がこれまで行われてきたはずだと観察するという理由で、報告可能なのである。決定的に重要な考えは“時制が変わった”動詞の使用可能性ではなく、そうした企ての時制的構造である。公式化の企ての時制的構造は、自然言語においてメンバーが行う時間への言及の使用可能性を含んでいる。
 文章構造の不格好さは、もしそれが、説明可能な企てとしてメンバーが行う公式化に 関する広範な、発展した、深遠な時制的“パラメーター”の妥当性と使用可能性の目印 になるのであれば、なにがしかの益があるかもしれない。説明可能な一瞥という時間的 パラメーターについてデビッド・サドゥノーの研究については、特に注意を喚起してお きたい。
(25. 原文参照。)
26.我々は、メンバーと協議することによって、これらの実践とは何かを学ぶよう求めら れているので、我々がこうした実践を位置づけるために用いる方法と、そうした方法が同一の制約を満たすということを位置づけるような実践とを要求しなければならない。こうした仮定を正当化し、我々の用いる方法がそうした必要条件に照らして妥当であることを示す議論は、次の論文において詳細に述べられている。──ハロルド・ガーフィンケル「実践的社会学的推論の実践および構造とそれらを説明する方法」(『エスノメソドロジーへの貢献』所収)
27.そのリストのメンバーは、そのリストの項目という慣習的意味を持つ。
28.我々は、実践的な社会学的推論の営みがいかに談話のもつ見出し的特性の修復を追求 しているかについて注意を促している。つまり、それらは本質的にそうすることを求めているのである。
29.我々はこうした考えを、1968年3月にハーバード大学で行われたヒューバート L. ドレフュスのセミナーでヴィトゲンシュタインとメルロ・ポンティについて彼が語った言葉から借用した。
30.私聞による。


*訳注

〔以上、Garfinkel,H.& Sacks.H. "On Formal Structures of Practical Actions" in McKinney,J.C. & Tiryakian,E.A.(eds.) Theoretical Sociology : Perspectives and Developments,(APPLETON-CENTURY-CROFTS,1970) pp.337-366.を訳出。〕

翻訳は、清矢良崇と阿部耕也とによって進められ、前半部分については二人の共同編集になる雑誌 "NOTES" に掲載された。



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