鬼子母神
こどもの神様として祭られるインドの伝説の神
小さい頃読んだ絵本に鬼子母神の話が切り絵で載っていた.切り絵の印象が非常に強く,今でも鬼子母神が泣きながら我が子を探す顔が脳裏に焼き付いている.以下にあらすじを.
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昔インドに女の化け物がいた.彼女は夜な夜な村の子供を一人ずつ食べていた.村人たちは子供を食べられまいとしっかり戸締まりをするのだが,彼女の前では無駄なことだった.毎晩,村人たちはびくびくしながら夜を過ごしていた.彼女には100人のこどもがいて,とてもかわいがっていた.毎日100人の一人一人にご飯を彼女が匙で与えていた.それを見たお釈迦様が,彼女がまた,村に子供を食べに行っている間に,使いのものに100人のうちの一人の子供をさらわせた.彼女はその夜も一人の村の子供をたべて,帰宅したが,帰ってみると子供が一人いない.彼女は探し回り,狂ったように泣き叫んだ.そこにお釈迦様が現れ,彼女に
「おまえは100人も子供がいる.そのうちの一人がいなくなっただけでも,とても悲しいだろう.村の一つの家庭には子供は数人しかいない.その一人が奪われた親の悲しみはどんなものだろう」
とさとした.以来,彼女は他人の子供でも優しく接するようになり,ついに鬼子母神として,子供の神様となった.
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というお話である.おやばかページを書いておきながら,実は私は子供があまり好きではない.自分の子供は大切だし,世界で一番かわいらしいと思うのだが,他人の子供はどうみてもかわいいと思えない.といって,他人のこどもをむげに扱うわけでも殺してしまうわけでもないが,どうしても,心の底から「かわいい」と思えない.世間一般のイメージとして,女の人は子供が大好きというのがあるらしいが,うそである.確かに世の中にはそういう人も多い(子供を連れていると身にしみて感じる.女子高生なんかが,全く他人の私たちにちかよってきて,「かわいいー,かわいいー」を連発するのである.また,私の親ばかのページなんか自己満足で終わると思っていたら,どういうわけか,このページに訪問してくださる方が多い)のは確かだが,そうでないひとも結構いるし,だからといって,その人が子供につめたいかというとそうでもない.上の鬼子母神だって,心の底から他人の子供も自分の子供と同じくかわいいと思うようになったのではなく,他人の心の傷みと,子供の大切さを心から理解したというだけである.私も子供を産んで〜は,子供の事故や事件を聞くと,涙が出てくるくらい心が痛むようになった.でも,現実に他の家の子供をみてもかわいいとは思わない.
今回は自分では「私冷たい人です」と告白しちゃった気分である.でも,そういう人はたくさんいる.子供が好きになれないからといって,その人を「あいつは冷たい女だ」とおもわないであげてほしい.逆にいうと,私は犬といっしょにそだっただけあって,犬については思い入れがあり,どんな犬をみてもかわいいとおもう.ひいては,どんな動物をみても大抵かわいいとおもう.しかし,動物が嫌いな人をみても,その人が冷たいとは思わない.
記憶
覚えていること.
「か」の項で過去とくりゃ,次は「記憶」である.記憶があるからこそ,過去が存在する.記憶から消し去られた時点で過去も消える.つまり,忘れ去ることで,過去を清算することができるのである.
一般に記憶力が劣っている人というのは色々な方面で損をするとされている.私は自慢ではないが,記憶力だけは一般に比べて非常に劣っている方である.学生の時はこれで本当に苦労し,結局大学は記憶を必要とする文化系の科目の極力ないところへ進んだ.理系でも記憶力というのはあるにこしたことがなく,今でも仕事で苦労しているのはいつも記憶を必要とする場面である.仕事は極力集中してあるひとつを片づけるようにしている.記憶が過去だと言ったが,そういう意味では,私はしょっちゅう,少しずつ死んでいる.
年のせいか,ついさっきやったことまで忘れていることが多い.12時にたべた昼食の中身を13時に忘れていることもよくある.人の顔も覚えにくいので,とても失礼なことをしてしまったりもする.
人は一晩にいくつか夢を見るといわれているが,ほとんどは記憶に残らない.これが,夢が現実でないことの大きな証拠だともいえる.覚えな
くてもいいことはおぼえていなくていいんだとおもう.
覚えていたくないこと,忘れてしまいたいことほど,忘れられないのはなぜだろう.多分,他の人もそうなんじゃないだろうか.そう考えると,私は得な体質なのかもしれない.その類の記憶の消去もひとより少しばかり早いから.