孤独

周囲に頼りになる相手が一人もいないでひとりぼっちでいること

私はさびしがりやさんである.しょっちゅう孤独を感じるし,いつでも誰かにいてほしいと思う.その反面,何かアクションを起こす時は,周囲のことを考えずに一人で好き放題やりたいというわがままさんでもある.

孤独を感じている人に話を聞くと,「たまには側にいてほしい」とか,「家に帰ったら誰かにいてほしい」「夜誰かにいてほしい」「誰かにご飯をつくってほしい」「たまには愚痴を聞いてほしい」「誰かに勇気づけてほしい」といったことを良く聞く.それは一日中感じているものではなくて,一日のうちの何割か,又は,一ヶ月のうちの何割か,といった具合だ.私自身をフォローするわけではないが,1年を通して四六時中ずうううううっと一緒でいたいというわけではない人がほとんどである.例外的に恋愛まっただ中で他に何も見えていない状態の人がいるが,この人は,孤独を感じているという範疇には入らないので除く.(孤独を感じるのはネガティブな思考で,恋愛で特定の人と四六時中居たいというのは,アクティブな思考だと思うからです)また,上記の考えは「たまには誰かの側にいてあげたい」「誰かが帰宅したとき家にいてあげたい」「夜誰かの側にいてあげたい」「誰かにご飯をつくってあげたい」「たまには愚痴をきいてあげたい」「誰かを勇気づけたい」から誰かと一緒にいたいという話もあまりきいたことがない.(この話も恋愛中の人は除く.孤独から解放されたい理由のはなしだからです)

孤独を感じる瞬間というをきくと「他人が誰かと仲良くしているところをみたとき」「映画館やコンサートに一人でいくとき」「夜ごはんをたべるとき」「寝るとき」「何かいやなことがあったとき」などである.こういうのが積み重なって,お嫁さん探しになるのだろうか?ちょっとひいてみると,これは,子供がお母さんを欲しているのとあまり変わらないかもしれない.ただ,みんなオトナだろうから,お母さんにはできないこともするということが加わるのだろうが.もしかして,孤独って,小さいころのお母さんの思いでが強く関わってでてくるものなんだろうか?

実は私が孤独を感じる時は上記ではなく,家族といるときに一番孤独を感じる場合が多い.たとえば,姑と夫と息子が一緒にいると,四六時中いっしょにいる私ではなく,新鮮な姑,夫に息子が非常になつく場合が多い.で,血縁3人組で大いに盛り上がっている.私はじゃまなので,ちょっと遠目でにこにこしているか,家の用事をしに席をはずすか,または,「みていてあげるからどっかにいっておいで」と親切な言葉をかけられて退場するかである.だから,嫁は姑との同居を拒むのだ.自分の居場所のない場所というのはとてつもなく居づらく,また,孤独なものだ.

私には年の離れた姉が居た.彼女は私が生まれるまでしばらく一人っ子だったせいもあり,強烈なおかあさんっこである.いまだに二人は仲がいい.つまり,実家でも私は実家をでるまでずっと,自分の居場所のない家に住んでいた.そのおかげで外に友達がたくさんできたので,それはそれで悪くない生活だったのだが,やはり,孤独を感じる瞬間は自分の母親が自分にしたことに影響するのだろうかと思った.

孤独から解き放たれる時というのは,結局,孤独を助けてくれる他人を得ることではなく,自分が充実するかどうかかもしれない.現に,孤独を感じない時というのは,そういう時ではないのだろうか?

確かに,いやなことがあったときに,誰かが側にいてくれて,その話を聞いてくれたら,そのときは満足かもしれない.でも,それはいやなことを克服したことになるだろうか?家に帰ってご飯ができていたら便利かもしれない.でも,それは家政婦がほしいということなんじゃないだろうか?

自分の孤独の克服のために,他人を利用したいと切望し続けるより,まず,他人に何かしてあげることを考えなくてはいけないと,自分に言い聞かせている.でも,私は最初にかいたとおり,わがままで自分が一番かわいいのでなかなかそれが実行できない.そんなだから,いつまでたっても,私は孤独なのだ.

 

子供

1.自分とパートナーによって産出された人間 2.成熟していない人

田舎と都会では同じ年代の子供でも成熟度が異なると思っています.どっちがいいともいえませんが,都会は情報が多いので経験豊かに成熟するし,田舎は閉鎖社会(日本社会)独特の世渡り術を身につけて別の意味で成熟します.子供社会で問題になっているものにいじめがあります.都会の子供のいじめの問題が目立つような気がしますが,昔から田舎でもいじめは存在します.このいじめがあるか,ないかということが,その社会が子供かそうでないかに相関性があるような気がします.子供の社会ですが,田舎の子供はそれに耐えられるように小さい頃から鍛錬されていて,都会の子供はその鍛錬がなく,不幸なケースに陥っているように見えます.だからといって,都会の子供が弱いのではなく,別の意味で強い面を持っているので,その一面だけをあげてどっちがどうとはいえませんが.昔は都会と田舎の差が激しかったのだが,最近は,田舎も都会になってきたので,田舎でもいじめの問題は大きくなってきているのではないでしょうか?

どうして,日本社会ではいじめが存在してしまうのでしょうか?「これこれこうだからいじめる」といういじめる側の立派な理由は存在しているのでしょうが,それはきっと後からつくものであって,やはりいじめたいからいじめるのではないでしょうか?そう思ってはいないでしょうが,いじめの対象をさがしているのではないでしょうか?いじめる側には,全くいじめられたことがなくていじめの罪悪感のないタイプと,過去に少しだけいじめられたことがあって,その悲惨さをさけるためにいじめる側にうまくまわろうとしているタイプとがあります.どっちもどっちですが,ある一人をいじめることで,そのグループに連帯感や達成感が生じることもあると思います.大人になることで,そんなことをしても仕方がないこと,群で行動しなくてもあるパートナーといっしょになることや,もしくは自分だけで,一人立ちできるようになると,いじめに意味がなくなってしまい,自然に消滅します.いじめはいじめる対象が一人に限られ,派閥争いのように,グループ間に生じるトラブルはいじめとはいえません.それは個人のものではないからだ.一人を群でいじめる必要がなくなることと,大人になることは相関性ががあると思います.

みなさんはいじめらたこと,いじめたことありますか?いじめる方にはわからないかもしれませんが,いじめられた経験があると,そういうことはよくないと身をもってわかるいい面と,大人になってもいじめられた悪い思い出を引きずる,ひいては,どんなことに対してもマイナスに考えてしまうという悪い面があります.私は小さいころから,容姿,家庭環境(親のこと,家の商売のことなど),生活環境について,かなりこっぴどくいじめられました.つきとばされたり,いすにかみそりをおかれたり,物理的なこともありましたが,いっせいににらまれたり,悲惨な言葉をかけられたりといった精神的なことの方が後に残るようです.親と親密ではなかったし,親に心配をかけるのも申し訳なかったので,家では明るくしていました.いじめられたことが原因で涙をこぼすということはありませんでした.いじめられない時期もありましたが,その場合,子供特有の,他人の悪口をいったりすることはありましたが,集団で一人をいじめることはしませんでした.そういう意味では,子供のころ,変に大人だったかもしれません.

ところが,ここにきて,人をいじめはしないにしろ,別の面で私は自分がすごく子供じみてきています.こういうのを今はやりの「アダルトチルドレン」というのでしょうか?こだわらなくていいようなことにどうしてもこだわってしまったり,愛情を過剰に求めたり,すぐに泣き出してしまったり.10代後半から20代では,常に大人であろうとこころがけていました.大人とはなに? 我慢のできるひと.こどもじみただだをこねないこと.好きなことだけやるのではなく,義務を果たすこと.社会的に独立していること.安定していること.それが結婚という形にもなったとおもいます.そして,まるで,そんな自分を心のどこかで満足していたのでしょうか?しかし,本当にそういうのが大人でしょうか?たとえその定義があっていたとしても,そんな大人を目指すべきなんでしょうか?心の底から大人であれば,それもよかったのかもしれません.でも,私は本当は子供なのに大人のふりをしていたのです.それは,若いころ,子供をしていなかったしわよせかもしれません.

今は,自分が子供だということを認めた上で,とりあえず,自分の満足のいくことをしようと思っています.WEB ページはそんな自分の確認なのかもしれません.私はいじめはしたくないけど,やはり,仲間はほしいです.一人では寂しすぎて生きていけないのです.インターネットで,こうして,独り言を公開することで,仲間を確信したいのです.

そんな私のなかで,いまだに大人であろうと努力しているところが,一つだけあります.それは「できるかぎり,他人に優しくしよう」ということです.ただ,やたら,何かをしてあげるとか,ボランティア的なことでなく,相手に対して誠意をつくしたいのです.そりゃ,相手にむちゃくちゃ口の悪いことを言ったりもしますが,それが,相手にとって,全く役にたたない単なる悪口で終わるものだったら言わないようにとか,なるべく笑っていようとか,その程度なんですけど.本当に優しくなるためには,まず,自分が強くなることが必要ですよね.

 

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