他人と交渉を持つときに,尽くすべき敬意表現と,越えてはならない言動の壁
上記語意は,三省堂の国語辞典が出典である.後記「越えてはならない言動の壁」というのは,礼儀というよりは,思いやりに属し,前者とは区別されるものと思われる.前者は学習により習得し,後者は気持ちの現れと思われる.ここでは前者の話をしたい. 中学の漢文の先生は満州上がりで,昔風の方だった.中国の話を交えながら独特の語り口で漢文を説明してくださり,私は漢文の時間がとても好きだった.今でも中国のお話などは好きである.その先生の話で最も印象に残ったのは,漢文の話ではなく,手紙の礼儀の話だ. 卒業生が何かをお願いするため,その漢文の先生に手紙を送った.しかし,その手紙は礼儀がなかったというのである.切手はマージンの白い部分が切り離されずそのまま貼ってあった.中身の便せんは1枚しか入ってなかった.用件しか書いてなかった.接頭句,接尾句さえもなかった.そして,先生は怒って,その手紙は無視したというのだ. それを聞いたとき,私はなぜ先生が怒ったのかわからなかった.私の元にそういう手紙が来たとしても怒らず,手紙の内容について,そのまま差出人のために働いたのではないだろうか?その授業では漢文の授業はさておき,手紙の礼儀の話となった.そこで,私は初めて礼儀というルールを知った.そして,そうしないと怒る人が世の中にはいるのだということを知った.最初に「拝啓」をつけなくてはならない.時候の挨拶をつけなくてはならない.ボリュームは2枚程度にしなくてはならない.最後に,「かしこ」「敬具」をつけなくてはならない.切手はきちんと切って貼らなくてはならない.(これに至っては,私は子供のころ,切手のマージンの白い部分がいっしょにはってある手紙を受け取ったとき,切手シートの中でも一番はじっこのめずらしい部分がついてきたと喜んだものだった.) そういうルールを最初に作ったのだ誰だろう?そのルールにみんなが従い,そして,それに従ってないと,本当に感情的に腹が立ってしまうようになったのはなぜだろう? 敬語表現もこれに近いものがある.そういう敬語を知らなければ,使われなくても腹がたたないだろうに. 他人同士はお互いを知り合っていないため,そういう言葉表現などで,敵意がないことや,敬っていることを表現しなくてはならないのである.確かに,お互いにルールを知った上で,明らかに挑戦的に「あなたのことをばかにしてますよ」という言い方で礼儀のないことをされると腹が立つ.しかし,相手が知らない場合,こっちが勝手に怒るのは変な話ではないだろうか?それとも礼儀は知っているもの勝ちか? 中高のクラブ活動では最初にはいった新人は小学生のときに,どれだけ大人にそういうことを教え込まれているかで,先輩に気に入られるか否かが決定する.それは,決定する側の先輩もまた,子供であり,ルールを知っている立場で,ルールを知らないものが,自分のルールにあてはまらないことに腹をたてるのである. 社会人には社会のルールが求められる.知らなかったではすまされない.しかし,知らない人には怒る前に教えてあげるのも社会のルールだとおもう.一方的に怒って,手紙を無視するのはよくない.さらに,そういうのがつもりつもって,「あいつはだめなやつだ」というレッテルを貼ってしまうのもやめたい.自分の気分を害されることをされたり,いわれたりしたら,まず,その人にそれを告白するべきだとおもう.「拝啓」や「敬具」のような,とってつけたような敬語表現をしておけば安心かもしれない.しかし,それは単なる記号による表現でしかない.礼儀はお互いの心を合わせるためのツールでしかない.ツールを持っていない人には,直接的に心をあわせようと,本音の言葉をかけたほうがいい.礼儀の本来の目的に戻って考えるべきである.
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