愛と情は違うものだと思う。両方が一緒に存在することもあるし、個々に存在する事もあると思う。
友達は、今の年になって、「自分が美しいと思う人」以外にはもう絶対に愛さないと断言した。愛が芽生えるのは、何かに対して、自分が美しいと思うところがある人なのだという。それに対して、体も心も自分の好みではなく、なんのとりえもないのに、好きである状態はあるのではないか?たとえば、自分の思うようにならないどうしようもない子に対する親の愛情というのは何か?というと、それは「情」だと言った。そうなのかもしれない。彼は情は時間ではぐくまれるものと言った。確かにそうかもしれない。私はそれに、最初に愛が入ったときの愛の深さをかけ算したものだと思う。親に全く会ったことのない子が親を求めて、何十年ぶりに会って、この人が親だと確信したときに喜びを感じるのは、自分の求めていた親という像に対して美を感じる時は愛だし、何十年と自分一人で育んだ気持ちは情である。何とも思っていなかった隣人に対して、突然恋をするときは、その隣人に対して、隣人の何か、または、出来事に美を感じたとき、愛だし、それが持続した場合、それに情が加わるかもしれないし、情だけが残るかもしれない。しかし、たいてい、情は何かが起こった時、または、困った時に改めて確認するものではないだろうか。親に対して普段何も感じていなくても、たとえば、親が倒れたときに強烈な情を感じてしまうとか。熱烈な恋をした相手を冷静に見られるようになった自分を自覚したとき、でも、別れられないと感じるときとか。
友達も言っていたが、そういう人が自分の相手について、不満を言っている場合は、8割方、情が残っていて、不満をいいつつも、聞いている方が同意をすると「でもね」という言葉が返ってくる。それは、自分に対する不安もあるだろうが、やはり、情が残っているのだとおもう。
やっかいなのは後の2割である。本当に、心の底から嫌いになって、情も残っていない状態の人間というのは、やりきれない。しかし、本人は、それ以上にやりきれない気持ちである。情が残っていて物理的にしんどい状態もかなりヘビーだが、情のかけらの残っていない状態は救いがない。