現在小学校では,人間関係などに関する道徳教育をしているようです.うちの小学校では「ほほえみ」というテキストを使っています.その中の一つを参観日の授業の資料としてつかいました.著作権問題があるかもしれませんが,本文が無ければその感想もわけがわからないので一応まず以下に掲載します. やくそくげんまん 「えりちゃん,今日,一緒に帰ろう」 ある日,あいちゃんが声をかけてきた.私は 「うん,帰ろう」 と答えた. あいちゃんとなかよしの春ちゃん,エミちゃんと四人で帰った. 「えりちゃん,明日の学級会でわたっしらと同じほけんがかりになろうよ.」 とあいちゃんが言ってきた. (ほけんがかりは二年生のときにやったし,本当は他の係の方がいいなあ) と思ったけれど, 「うん,べつにいいよ.」 と返事をしてしまった.
あいちゃんが, 「いっしょのかかりになるんやから,これからも四人で遊ぼうね.ほかの子と遊んだらあかんで.」 と言い出して,みんなでやくそくげんまんをした.
「ただいまあ.」と,いつもより大きな声で言ったら,お母さんが 「何かいいことでもあったの.」と,せんたくものをたたみながら聞いてきた. 「うん.今日はあいちゃんたちといっしょに帰ったんや.楽しかったよ.」 四人でいろんな話をしたことややくそくげんまんのことも話した. 「へえ,そうなん.よかったね.」
「そで,ほかの子とはもうあそべへんの.」
「どうなん.」 お母さんは手を止めて,私をじっと見つめた.
テキストはこれしかのっていない. これを子どもに読ませた後,まず,登場人物の整理として,誰が出てくるかという質問をし,「あいちゃん,えりちゃん,春ちゃん,エミちゃん,おかあさん」と黒板に貼った.次に,1番目の絵のなかでえりちゃんはどれか?という質問をした.これは一番右側のこどもだ.2番目の絵に出てくるから明確である.次にあいちゃんはどれか?ときいたら,多くの子ども達が,一番左だといった.先生はこれにたいして,「どうかなあ,他の3人はどれがどれかわからへんのとちがうかな?」といった.確かにそうだ.主旨としてはそうだと思う.私も先生は正しいと思う.でも,子ども達は直感的にこの絵をみて一番左があいちゃんだと思った.この時点で子ども達は,この文章をみて,あいちゃんのイメージをかなりふくらませていたことになる.先生が思っているより,子ども達は鋭くこの話を受け止めたのだ. 実は私はこの話を参観日の前に読んでいた.子どもの教科書だから,他の話も全部読んでいたのだ.確かにこういった人間関係はどこにでも存在するが,これは子どもには難しいのではないか?まだこういった人間関係を意識できないのではないか?それとも文部省はこういった関係が生まれる前に,こういう教育をすることでおおごとになることを未然に防ぐようなねらいがあるのか?などと考えていた. しかし,この授業の最初に多くの子ども達が最初の絵をみて「一番左があいちゃん」といったところで,彼らはものすごく敏感にこの話を受け止めたことがわかった.子どもおそるべし.侮れない. 最初の「うん,べつにいいよ」の文からえりちゃんはどう感じたと思うか?という質問に対して,子ども達は先生に質問されて,ある子は 「本当はいやだったけど,友達にいわれてことわれなかった」 とこたえ,また,ある子は 「本当はいやだったけど,友達にのけものにされるのがこわかった」 などといった.ところが,ある子は 「去年もほけんがかりやったから最初は他のがいいとおもったけど,去年やったから勝手がわかっているし,またやるのもいいかと思い直した」 とポジティブにとらえた. 私はこの答えをした子は「あいちゃん」だ.と思った.あいちゃんが悪いとは思わない.悪気はないし,どちらかというとこういう子がリーダーシップを掴むものだ.現在の日本の社会ではこういう子が求められていて,かつ,現実にこういう子がリーダーシップをとり,大きな仕事を成し遂げるものだ.(後から息子にきいたら,やはり,この子はクラスでもリーダー的存在でこの子と仲良くなれることを皆憧れているという) しかし,たぶん,この話の主旨(理想論)はそういったことを賞賛するものではない. この日本の現状と理想論とのギャップがわかった上で理想を論ずるのはいいが,やみくもに「よいことは良い」というのはもしかしたら危険かもしれない.現実とのギャップに苦しむことがあり,へたな生き方をしてしまう子は,「それは正しくないから」といって,イバラの道を進むことにもなりかねない.ただ,そのイバラの道だからといってその子にとってそれが不幸とも限らないが.本当に理想がとおって,そういった少数派の子もいることが社会に認めらる,あるいは,世の中にはいろいろなひとがいて,それらが皆市民権を得ることができれば良いと思うが,(まさにこの「ほほえみ」の主旨がこれだ)それはそれで人間の本能的なもの,日本の文化とのギャップからうまくいかない可能性がある. この後の先生の子ども達への質問は,最後に,おかあさんに「どうなん」といわれ,あなたならこの先どうするか?という質問だった. これに対する子ども達の答えもいろいろだった
など. 私はこの子たちが大人になるなら,日本はまちがいない!と思った.いろいろな意見がある.これが正しい.ここで,たとえば,先生が「正解は○番でーす」などといったらダメだと思った.たとえば,文部省側は何かを指導するために正解を持っているのかもしれないが,正解はないのだ.この子達はそれぞれ正しい.そして,他の子たちは,そう思う他の子達の意見を尊重してあげてほしい.そうせざるを得なかった子たちの気持ちをわかってあげてほしい. この意見を自由にだせたこのクラスは本当にいい子達に育っていると思った. さて, この話はたぶん,元々の主旨は現在の派閥問題への提起だとおもう.弱いものは派閥に加わらなくては強くなれない.政党政治だってそれに似たようなもんだ.よっぽど強くないかぎりスタンドアローンは弱い.結局それが国を構成するもとだったりする. しかし,これら派閥のために闘争やあほらしい戦争が起こる.一人一人はいい人なのだが,派閥によって大きな影に支配されるのだ. また,このあいちゃんのような人に声をかけられると
などのいろいろな考えがえりちゃんの頭には浮かんだと思う.私もこういう場面によく直面した.特に女の子の友達関係というのはこういうのが多い.○○ちゃんとはあそんじゃだめ,とか.そういわれたのに○○ちゃんと話をしているのを見られて翌日から自分まで虐められたり,無視されたりとか. 実は大人社会でも平気でこんなことあるのよね.仕事関係でもそうだし,政治でもそうじゃないですか? しかし,この話は別の見方すると,結婚制度への問題提起にも通ずるとおもう. 「私とつきあうんだから,絶対他の人とつきあっちゃだめよ」 が結婚制度だ. そういうことが必要な時代もあっただろうし,今でもそれが必要な人もいるだろうが,そうでないひとの方が本当は現在はかなりいるとおもう.しかし,どっちかというと必要でもないのに,それを利用している人もいる.かなりいると思う.実際話をしていて「別に主人のこと愛しているわけでもなんでもないけど,安定した生活が欲しかったし,そのために努力してきたんだし」結婚したという人の話もきいた.逆もいる.「金だして生活させてやっているのだから,ちゃんと家事をして子どもを育てて欲しい」という男もいる. 結婚制度では,その約束を破ったら名誉毀損的に損害賠償対象となる.「名誉毀損」つまり「うらぎったわね.」「世間に顔向けできない」といった不都合はもちろん法的に保護されるべきものだ.しかし,恋愛で結婚した人はそういったこととは関係がないはずである.純粋な恋愛というのは「愛している人と少しでも長く一緒にいたい」という発想から結婚しているはずであり,自分が相手を愛しているから結婚したのであり,相手に愛を強要するものでもなく,世間体のためでもないはずである. 愛しているがゆえの独占欲もある.ただし,現在の浮気等に対する世間の見方は独占欲に対する保護ではなく,二股(またはそれ以上)という世間一般の道徳に反する行為について「婚姻を存続しがたい事由」となって損害賠償が求められる.「損害賠償」ということは,法律が「それは悪い」と認めたことになる.二人に婚姻関係がなく,単に友達同士ならそういうことにはならない.友達が3人いても4人いても100人いても,損害賠償を払う必要はない. このほほえみの話では「友達同士だけで遊ぼう.他の子と遊んじゃだめ」という自分たちで作った法律で自分たちを固めようとしている.女の子同士となれば,恋愛でなくとも,たとえば「私たち親友ね.他のこと遊んじゃいやよ」という純粋な独占欲からそうしたことを要求してくる子がいる.(頻繁にいるはずだ.私も何度もそういわれた.しかも,他の子とちょっと遊んだだけでみんなの前でわんわん泣かれたこともある.) みんなで仲良くしたい子もいるはずだ.そうでない子もいるはずだ.どちらの気持ちも尊重するべきだとおもう.自分の気持ちだけが正しいとか,法律でこうだから,これのほうが絶対正しいとかはあり得ない.お互いの問題はお互いのみぞ知ることであり,第三者が知り得ることではない.お互いが解決するものだと思う.(とはいいつつ,民事訴訟って難しいものだと思います.) 「家庭を作り上げて,子孫を繁栄していく.豊かな氏,家を造る」 といったこれまでの概念はこれからも残るのだろうか? 恋愛で結婚し,そういった概念がないひとのある程度の割合の人が,離婚し,その率がお見合いなどで,最初から上記家庭製造にターゲットをおいた人の離婚率よりもかなり高い現状.私の友達でも離婚問題でたいそう苦労している人がたくさんいる.なぜ苦労するか?それはお互いの気持ちの不都合よりも,自分と違った意見の人を受け入れてくれない人が世間に多いことに原因があるとおもう. 先の子ども達の回答(実は手をあげて答えたのはほとんど男子だった.女子生徒は先生に「女子の意見もききたいな」といわれて後からでた意見がほとんどだった.)
を見ると,日本の未来は今とは違ったもの(当然よい方向)になることを確信している.この子達はちゃんと手をあげて自分の意見を述べた.そして,自分と違う意見だからといって,他の子がおかしいとは言わなかった.ただ,「自分はこう思う.あの子はこう思っている」それをちゃんと認め合っている.たぶん,この子達は,自分と意見が違うからといって,上記1番目の意見の子が2番目の意見の子を非難したりしないだろう.そういう子もいるとお互いが認めあえると思う. これは,お互いの意見をきかないとか,どうでも良いと思っているという冷たい関係ではない.そういう人もいるということがわかった上でお互いを尊重できているのだとおもう. 私が子どものころはそんなこといわれても,ただ,「みんながそうだから」とか,「とにかく今の状態をやりすごす」とか,そんなことしか考えられなかった.今でも「世間がこうだから」「法律がこうだから」「多くの人がこう思っているから」に縛られている. でも,これからは違う.未来は明るいと思う.
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