事件は解決しない…
殺人事件が発生し、被疑者を特定し、犯行が立証され、長〜い裁判の末、刑が確定すれば、その事件は解決した事になるのでしょうか?
これだけでは、単に事務処理が終了したに過ぎないのではないでしょうか?
もしそうだとすると、何が終わっていないのか…。
関係者の心の中に残ったわだかまりが整理されていないのではないでしょうか?
被害者の遺族の方や、親族、友人、知人、事件に関わった多くの人々の中に事件の惨忍さと犯人を憎む気持ち、どこにもぶつけることのできない鬱憤を解消させるにはどの様にすれば良いのでしょうか?
誰かが悪いことをした。
それに対して、誰かが罰則を与えた。
罪人は、刑に服す。
その繰り返しの中に何が残るのでしょう。
憎しみと悲しみだけではないでしょうか?
遺族の悲しみを消すためには、被害に遭った方を元通りに蘇らせるしかありません。
しかし、それは不可能なのです。
とすれば、どうすれば…。
我々にはどうする事もできないのです。
二度と同じ様な事件が起こらない様に願うしかありません。
しかし、犯罪は繰り返し行われます。
いくら、重い罪であっても、それを公衆に知らしめても、犯罪はなくならないのです。
「自分が一番大事で、他人がどうなろうと構わず、利益のためならどんなことでもする」という人はいると思います。
私もその一人かも知れません。
しかし、どんなことでもというのは問題なのです。
世の中には守らなければならないルールがあり、それに違反した者は、それに対する罰則を受ける。
田んぼのかかしに慣れてしまったすずめが近づいて行く様に、罰則に慣れてしまった人々は、罪を繰り返す。
罰則に慣れるというのは、言うまでもなく法律に詳しくなるという事で、人々はそれを逆手にとっていろいろと悪さを働きます。
法さえ守れば、何をやっても良いと勘違いをしているのです。
人類が誕生してからの長い年月を考えれば、法律というルールができたのは、ほんのごく最近の事です。
もちろん、法律がなかったときにも、殺人は行われていたでしょう。
しかし、法律ができた現在(いま)でも、殺人は行われています。
殺したくなる相手、殺さなければならない状況、そんなことは通常の生活ではお目にかかれないので、私には理解できないですが、想像するに、罪を犯す側にも相当な勇気と行動力がなければならないのではないかと思います。
何もそんなものに力を注がなくても…と思ってしまいます。
どうして犯罪が行われるのか、何故人は人を殺すのか、様々な場所で様々な人が研究し、そのメカニズムを解明しようとしています。
しかし、現在のそれらの研究は犯人探しに活用されるだけで、犯罪をなくそうとする方向には向かっていないのではないでしょうか?
犯罪心理学や、プロファイリングなど最近になってよく聞く言葉ですが、犯人さえ見つかればそれで良いのでしょうか?
確かに、犯人を探し出すことも重要なお仕事ですが、犯罪に対する抑止力を考えて行かなければ、同じ事を繰り返すにすぎません。
真っ当な生活をしている人が突然事件の渦中へと引きずり込まれ、マスコミはこぞってその事件を取り上げ、被疑者にはプライバシーが守られ、被害者にはそのプライバシーのかけらもなく、何が正義で、何が悪だか分からなくなります。
やはり、これではいけないと思います。事件が解決し、また次の事件を追って…というのは、犯罪の捜査を行う人たちにとってはそうかも知れませんが、身内を亡くしたものにとっては決して終わる事はないのです。
事件は解決しない…。
そんな想いで見つめる人が世の中にはたくさんいると思います。
僭越ながら私もその一人です。
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