「長い長い夢の終わりで」
半年前にいただいたお手紙は、まだ、大切にしまってあります。
きれいな文字を見ると、私を呼ぶ貴方の声までも聞こえてきそうで、いつも、顔が熱くなってしまいます。
お手紙には、三年に渡る旅を、ここ、アグストリアで締めくくられるとのことで、私にひさしぶりにあうのが楽しみだと、…あります。
私は、お兄様と一緒に、アグストリアに行くことを決めました。
「レンスターに未練はありません」
と、強いふりをしていたけれど…
バーハラでお別れをしてから三年…いつ、おいでになりますか?
私は今年、二十歳になりました。「ナンナ!」
呼ばれて、ナンナはハッとした顔で声の方を見遣った。
「お兄様」
「…何回呼んだと思ってる」
デルムッドが戸口で呆れていた。
「エスコート役を待たせるとはなかなか大した貴婦人になったね」
「…」
ナンナは黙って立ち上がり、差し出されたデルムッドのひじに腕をからめた。
「今日は…半分は、君のお披露目だ。
元気がなくなる一方の君に、アレスもリーンも心配している」
道々、そう言われて、ナンナはうつむいた。
「…リーフ王子のことか?」
と言われたが、ナンナはふるふるとそれを否定した。
「…ふぅん」
デルムッドは、それ以上のことは聞かなかった。ナンナがいったい何を考えているのか、それは勘ぐったりしない方がいいことなのかも知れない。大広間に出る前、階段の踊り場に、一枚、絵がかかっているのが見えた。
ここに来たはじめのうちは、一日でも眺めていた大きな絵。
ノディオンにヘズルの血をもたらしたという聖女の姿。何も知らない侍女から、自分はこの絵の女性によく似ていると言われた。
自分にも似ていると言うことは、母にも、似ていると言うことなのか。
ラケシスの娘というだけで、城の中には手放しで歓迎してくれる人間が大勢いた。
「…では、アレス様のお后になりますか」
と、当然のように言われた。アレスにはすでにリーンがいると言うことを知っているにも関わらず、である。
これ以上、ナンナを「自由」にさせられない。アレスとリーン、そしてデルムッドは話し合った末、何回か、彼女をアグストリアおよびその近隣のやんごとないあたりに披露させようと、舞踏会などを催したが…ナンナはがんと、いずれの求愛にもなびかなかった。
美貌を鼻にかけて、と、揶揄する者も多かった。
ナンナがノディオンに来てから三年。昔を知る向きは、ラケシスが再び戻ってきたようと、歓ぶ。
ダンスに誘おうとする、どの手も断って、ナンナは、バルコニーに出た。
柔らかい風が、母のまねをして伸ばした髪を、遊ぶように揺らしてゆく。
今夜は月夜。
「…」
自分にも聞こえない程小さい声で、その名前を呼んだ。その時、自分の名前が呼ばれた。
しかし、その声の調子が、あまりにも、その時思い出していたものと似ていたから、ナンナはゼンマイのきれたからくり人形のように突然、といった風に振り向いていた。
「!」
自分を呼んだ人物は、逆光になって顔までは分からない。
「隊長が、呼んでいます」
声はそう言った。
「…はい。わかりました」
ナンナは、ただそれは似ているだけであって同じではないと分かると、また、それまでのように神妙な面持ちになった。
影が手を差し出す。隊長と言うのはデルムッドのことで、今彼はアレスが再構成しつつある新生クロスナイツの隊長に任じられている。いずれそれを立身出世の足掛かりとせよ、との、アレスの慮りにほかならない。
新生クロスナイツは、アグストリアを中心に、全国から志あるものをつのって構成されている。
今日の社交会にも、選ばれた何名かが出席を許されていた。
「ナンナ、どこに行ってたんだ」
デルムッドが仏頂面をしていた。
「外の風にあたっていたの」
「何だ、また逃げ出したのかと思った」
彼はそう混ぜ返して、
「ま、こいつらにダンスのやり方でも教えてくれよ」
と、その数人の部下をさした。自分をつれてきた人物は、横1列に並んだその端にいる。明かりの下で見ると、声だけで自分が思い浮かべた姿と、やはり違っていた。
…トラキア半島では見なれているけれど、ここに来てからはとんと見かけなかった、赤みがかった金髪。顔は…人並みよりすこしいいぐらい。背はナンナょり頭半分高い、いわゆる中肉中背。
向こうも、隊長の妹が自分を見ているとわかったのだろう。ブルーグレイの瞳がわずかに輝いて、彼はナンナに軽く会釈した。
「どうも」
と口の奥で声を出す。
ナンナもいつまでも子供ではない(そうしていたかったが)。何のために彼等がここにいるか、彼女には見え見えな程わかっている。
その人物の手を引いた。
「この曲に付き合って!」「…取りあえず、僕は幸運なのでしょうか」
と、人物は言った。ステップを間違えたふりを足でも踏んでやろうかと思っていたナンナだったが、そんなスキなどないほど、人物の振る舞いはそつがなかった。
「隊長の妹さんと踊るなんて、後でみんなに思いきり喧嘩を売られそうです」
「自慢じゃないの?」
「こんな無愛想な男に、貴女はもったいなさすぎます」
人物は言った。深い何かを持った瞳。一瞬吸い込まれたような気がして、ナンナはぽかんとする。
「…曲が、終わりますね」「ああ、アンディのことか」
デルムッドは、読んでいた本をぽい、と、放り投げるようにおいて言った。
「アレス陛下(そう言う呼び方には少々の揶揄があった)のお母上が来た時についてきた侍女の一人が、こっちで結婚しててうまれたんだってさ。
こういうのもなんだが、真面目すぎてたまにつまらない男だ」
「そう」
ナンナは、それだけで興味を満足させたようで、さっきデルムッドがおいた本をとった。
「…お前の好みにあいそうなのを選んだつもりだったけど、あたったかな?」
「好み?」
ナンナが顔を兄に向ける。
「ああ、リーンがそう言うからさ、あんまりうわっついたところのないのを見繕ってつれてきてはいたんだ。
ふうん、まさかアンディとはねぇ」
「…」
ナンナは一気に面白くなくなった。自分が人間扱いされていないように感じた。
「別に、私、あの人と友だち付き合いする気はないの」
「…ダンスに誘ったのはどっちだい」
「とにかく、もうよけいなおせっかいはしないでって、あの二人にもそう言っておいて」
ナンナは中っ腹に本を閉じた。
「あのヒトにも、会うつもりはないから」しかし、そういえばいうほど、えてして周囲と言うのは楽しがるものである。
リーンは特に興味津々だった。
「わかってないなぁ、ナンナは」
と言う。
「みんなナンナが好きなんだよ?」
「好き?」
「そう。クロスナイツのみんななんかもうメロメロなんだから。お城のみんなも、みんな美人だってナンナをほめてるし」
「…私はこの顔しか持ってないもの」
「とにかくさ、ナンナに幸せな顔しててほしいのよ。
ここに来てからずっと思いつめた感じなんだもの」
リーンは立ち上がって、暇を弄ぶようにたたん、と足をならした。
「誰か、忘れられない人でもいるの?」
と言われて、ナンナは、瞬間浮かんだ面影を振り落とすように、かぶりをふった。しかしリーンにはお見通しだったらしく、
「嘘」
と笑った。
「顔に出てるよ」
と、ナンナの鼻先に指を出す。ナンナがぱくぱくとなにか言う努力をしていると、リーンは
「大丈夫。それがだれかはさすがの私にも分からないから」
と言った。
「でも、アレスと言っていたのはね、ひょっとしたらリーフ様の事があるんじゃないかなって」
「…」
『半年ぐらい前』、のことである。レンスターから全国に親書がとどいていた。
リーフと、半島出身の王妃との間に、世継ぎの王子がうまれた、とのことであった。
「あんなに仲が良かったのに、ナンナがレンスターに残らないって言ったから、リーフ様大分驚いておられたと思う」
リーンは言って、飲んでいないナンナのお茶を入れ替えた。
「うーん…」
唸ってみる。
「いったい、誰がナンナをここまでなやませているのやら」
「そんなたいしたことじゃないわよ」
「でもねぇ」
言いかけたとき、窓の下から声がした。
「ナンナさーん」
軽い呼び掛け。二人は思わず窓をあけていた。お仕着せの数人が見上げている。
「…クロスナイツの人たちだわ」
とリーンが言う。
「王妃様も御一緒ですか」
「ナンナさん、町に出ませんか?」
「町?」
ナンナは言葉を返しながら、そのクロスナイツのなかに礼の人物がいるのを見た。
「わかりました。しばらく待って」ナンナもリーンも、町に出るのはひさしぶりだった。町育ちのながいリーンは、もの慣れたふうに往来を歩く。騎士を数人従えた町娘二人に若干の訝しい目は注がれるものの、それが現在のノディオン王の妃と従妹とは、話には聞いていたとしても気がつくまい。
さて、
「あれから、お友達と喧嘩しました?」
ナンナに聞かれて、アンディは一瞬間があってから
「幸いにも」
と言った。
「ぼこぼこにされました」
「ま」
「当たり前ですよ、ナンナさんと踊ったのに格別に嬉しそうな顔もしないんですから、この男は」
アンディの横にいたものが、彼の首を腕で抱え込んだ。
「別に、言いふらす必要もないよ」
「バカ。わかってない、お前全然わかってない」
「クロスナイツ隊長ががだぞ、たったひとり大切にしている妹に、わざわざ相手を見繕うっていうんだ、そのオメガネにかなったんだぜ? 嬉しそうな顔できないのかよ、お世辞でも」
「嘘はつきたくない」
アンディは機嫌を悪くしたようだ。
「あーもう」
団員は焦れったいように後ろ頭をかいた。
「じゃあ、言うよ。
アンディ、その役かわってくれっ」数日後。
デルムッドが持ってきた辞令の写しには、アンディを特にナンナ付きとする旨が書いてあった。
「そう警戒する顔しないでくれよ」
と、苦虫を噛み潰したような顔のナンナに言う。
「それに、まんざら知らない仲じゃない。
ほら、エヴァリン、いるだろ」
「ええ。楽しい人だわ」
「あれの兄貴」
「まあ」
それだけで、ナンナは少しだけ落ち着いたようだ。エヴァリンはアグストリアに来てからの学友の一人であった。
「でも、エヴァリンは何も言わなかったわ」「ええ、妹から見て、兄はほんとにぱっとしませんし」
エヴァリンはうふふふ、と笑った。言われなければそはうとは気が付かない程、兄とは似ていない、黒髪と灰色のひとみに銀の艶を持ったなかなかの美少女…クロスナイツにも、ファンが多い。
ここは図書館。城の中で一番日当たりのいい場所にたてられたここには、大陸中の文献が収容されていて、かつての王の博覧さが伺える。
「ナンナ様に紹介しても、無駄なだけと思いますから」
「そうかしら」
ナンナは、本をめくりながら、そう答えた。
「そうですよ。ほんとに兄は朴念仁で、ウイットがなくて、」
「おまけに気も付かないし愛想も要領も悪い」
「そうそう、愛想も要領も…って、
お兄ちゃん!」
「大きな声を出すのは止めなさい、エヴァリン。図書館なんだぞ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はーい」
言って、エヴァリンは、ナンナに向き直った。
「ほら、ね? おまけにお説教が大好きで」
しかしナンナは、本のページに顔を埋めるようにして笑いを堪えていた。
「ナンナ様?」
「ご、ごめんなさい」
アンディがあらわれたタイミングのよさと、兄妹のやりとりに、ついナンナは笑いを催していた。
「だって、私とお兄様じゃ、こんな会話にならないもの」
「そりゃ、うまれる前から兄妹ですから」
エヴァリンはまたうふふ、と笑った。
「で、お兄ちゃん、何か用?」
「お前にじゃないけれどね」
実は。アンディは、手に持っている書類を見せた。
「この度、ナンナ様の身辺警護を仰せつかりました」
と、その書面の内容を改まった口調で要約して言う。
「エヴァリン、お前も学友として正式に仕えるようにいわれているから」
「え?え?」
エヴァリンはナンナと兄とをかわるがわる見た。ナンナは
「ええ、そのことならもう兄から聞きました。
よろしくお願いします」
と、あっさり言った。
「お互い、いらない雑音が多いところで、仲良くしましょうね」
「ナンナ様、そういうおっしゃりようは誤解を招きますよ」
アンディは渋い顔をした。エヴァリンはそれもさておき嬉しそうではある。
「これでナンナ様とずっといっしょかあ、楽しそうだわ」ナンナに、アンディのような護衛がつけられたのにも、歴とした理由があった。
デルムッドは、新トラキア王国宰相補佐官ジャンヌから来た書簡に頭をいためていた。
…アトラ様は、今だナンナの存在について快く思っておられません。お子さまもあってお後が安泰になったからこそ、のちのちの問題の種になりそうなことは処理為さりたいおつもりの様です…
「兄妹みたいに育ったからこそ、後になって分かるっていうもんなんだな、きっと」
デルムッドはわかっているように呟いた。
…アトラ様がおいでになっても、お子さまがお有りでも、私が見受ける限り、リーフ様のお心がかわったとは思えません。
その態度があまりにはっきりなので…よけい、アトラ様のお心も休まらないのだと、思います。
こちらでも、鋭意事態を把握し、対処致しますが、どうか、お妹様の事、くれぐれも…
「…」
デルムッドは、憮然そうに、書簡をしまった。
アトラなる新トラキア国王妃が、遠いこの場所ノディオンにいるナンナに、狂おしいまでの猜疑心と嫉妬の感情を抱いているらしい。今だ執心であるからこそ、リーフが国王権限をもって、ナンナを公称愛人として迎え入れないとも、限らない。一度失ったものを再び取り戻そうとするそのリーフのこだわりは、レンスターという土地に関して実証ずみだ。
そこまで望まれていながら、ナンナがその求婚をどうして容れなかったのか、デルムッドはわかったようなわからないような気持ちでいた。
そういうナンナを、クロスナイツとはいえ一介の平凡な騎士アンディに任せると言うことに、不安がないわけではない。(戦いに関する経験は、確実にナンナ方が上だし)ただ、アンディならば、何があっても、ナンナに対してよけいな感情を持つことはないだろう。アンディをナンナ付きにした日に、エヴァリンから話をきいたことだし。「ナンナ様、町に出ましょう!」
エヴァリンが言った。昼下がりと言うには、やや過ぎた時間か。
「でもエヴァリン、修行はいいの?」
エヴァリンは、魔法についてはほぼ不毛と言うべきアグストリアでマージとしての修行をおさめた希有な逸材だった。今でも、その魔力を高めるための修行に勤しんでいる。
「おやすみを戴きました。私、これでいても優等生ですから」
エヴァリンはくす、と笑った。
「兄が一緒なのがちょっとつまらないですけれど、ナンナ様が城下にでられる条件ですからね」
「私は気にしないで、他のお友達といったら?」
「私はナンナ様と行きたいんですよ」
「…エヴァリンったら」
ねだるような物言いにナンナはくすす、と笑ってしまった。
「仕方ないだろう。ナンナ様を城の外にお出しする、それが条件なのだから」
アンディが言った。
「よんどころない事情があるんだ」
「そのよんどころない事情は聞かせてくれないの?」
「オシャベリなエファには教えない」
「ひどい、おしゃべりなんて!」
「これは最悪、ナンナ様のプライドを損ねかねない事情だ。おまけに、『吟遊詩人』とあだなされてるお前なら、まっ先に飛び付きそうだしね」
「あたりさわりないところでいいからさ」
「ダメ」
「お兄ちゃんのケチ!」
「ケチでけっこう」
「まあまあ、二人とも」
ナンナは二人の間でなだめるような声を出した。
「ケンカしている暇があったら、町に出ましょうよ。
私はアンディが一緒でも、全然かまわないから」そして。
町には夕闇がせまろうとしていた。人が少なくなった町に、アンディの、ややいがいがした雰囲気の声が響いた。
「エファ、今日のお前にはほとほと愛想がつきたぞ、バカ!」
「バカはないわよ〜、話の途中で帰るなんてことは吟遊詩人に対して一番失礼なんだからね!」
「日が落ちるまでが門限なんだ! 暗くなったら、いくら町の中でも、何があるか分からないんだから!」
「アンディ、エヴァリンを怒らないで」
二人の後を小走りになりながら、ナンナが言う。
「そうはおっしゃいますが、ナンナ様」
「お願い」
「…はい」
アンディは、しぶしぶ、というていで口をつぐんだ。エヴァリンがつい、と横を向く。残照を背負って、ノディオン城が路地の向こうに見える。
「お兄ちゃん、こっちが近道!」
そして、二人の手を引いて、ぐい、と路地に突っ込んでゆく。
その時、行く手と背後とで、ざざざ、と足音。
「!」
三人はだ、と足をとめる。
「エファ、ナンナ様を間にするんだ」
「うん!」
ナンナを壁に押し付けるようにして、二人はその前にたった。じわじわと、男達が迫ってくる。隠さない、あからさまな殺気。アンディは持っていた剣を抜き、エヴァリンは魔法書のページに手をからめた。
「その女を我々の手に渡せば、怪我なく帰れるぞ」
「そんなことできないわよ! ナンナ様は大事なひとなんだから!」
「エファ、よけいなことを言うな!」
「訳知りなのよ、この男達、隠しても無駄だわ!
…トード、御身が業なす我を嘉せよ! サンダー!」
簡易詠唱が男の一人をしたたかに痺れさせた。しかし男達は、それに対して驚いたふうもない。問答無用の風情だった。小競り合いがはじまる。ナンナも、エヴァリンが護身用に持っていた銀のダガーを持って、男を牽制している。
「お兄ちゃん、傷薬もライブもないからね、怪我しないでよ!」
「お前こそ、前に出るなよ!」
そう言い交わしながら、三人は善戦した。しかし。
赤みを失う空が、アンディを焦らせた。油断をうった男が、彼に一発食らわせる。
「ぐうっ」
低く呻いて、アンディは身を曲げて倒れ込む。傷の衝撃に失神したらしい。エヴァリンはそれを横目にして、
「やっぱり、後一息で役に立たないっ」
と、魔力のなくなったページをやぶり捨てながら小さく毒づく。そこにも、一瞬のゆるみがあった。
「エヴァリン、後ろ!」
ナンナがいう間に、エヴァリンも峰打ちにされた。
「きゃあっ」
倒れ込むエヴァリンに、ナンナは駆け寄る。
「エヴァリン!」
うずくまったナンナを、男達が、息も切らせずに取り囲む。
「人より自分の心配をしたまえ」
「私をどうするの?」
「なんということはない、君を母上の元に返すだけだよ。
…アグストリアの女は、我々にとっては傾国の仇をなす危険な存在…」
取り落としてあったアンディの剣を、ナンナは拾い上げて構えた。男達の背後に、ノディオン城を真っ黒に陰らせながら、残照が消えてゆくのを、目を細めて見た。
「生まれがいたずらに高貴なだけで、君も所詮、そこらの売女とかわらぬ」
「…」
ナンナが、慇懃無礼なののしりに、眉根をしかめた時、
「がっ」
男は急に倒れ込んだ。
「!」
何がおこったのか、ナンナはすぐには分からなかった。
男達は、かすみのようにその姿を潜めた。
開けた視界。残照も消え果てた、路地の宵闇に溶けて、その立ち姿は深く青かった。
「…その少年達を、早く城に」門限になっても帰らない三人を心配して、城から捜索隊が出ていた。
ほうほうの体で城に帰ってきたナンナを、デルムッドは出迎えるなり、その片頬を張った。パチン、と景気いい音がする。
「心配させるな!」
それだけ、後はきびすを返されて、ナンナは呆然としている。
「兄上らしくなったではないか」
そう言われて、ナンナは、
「…はい」
と、頷いていた。頬の痛みが優しい。翌日。
「アンディ?」
クロスナイツ宿舎にナンナが顔を出した。エヴァリンが
「ナンナ様、来て下さったんですか?」
と目を丸くする。
「だって、私のせいでけがしてしまったのだもの。
アンディ、大丈夫?」
「大丈夫です、怪我はライブですぐなおるんですから」
アンディの姿は壁の向こうで見えないが、エヴァリンが
「大丈夫じゃないっ 失血寸前だった癖に! 寝てなさいっ」
と言うところを見ると、若干無理をしているようだ。エヴァリンに寝台に押さえ付けられながら、
「…恐悦です、こんなところに」
と、言った。
「ほんとに、こんな危険なところに」
とエヴァリン。
「危険?」
「そうですよ、ここには何か得体の知れないものが滾ってます! またおそわれちゃいますからね」
「…否定できない」
さしものアンディも難しい顔をした。そして、談笑の途中で、デルムッドが入ってくる。
「入るぞ。どうだアンディ」
「この通りです」
「血色はいいな。…面会だ」
「面会? …母さんかな」
「お母さんは『ああ、そう』で済ませたし…ちがうかも」
兄妹がぼそぼそやっている間に、存在感のあるものが入ってくる。アンディは、ぱく、と半分口を開けて、客人の存在感に圧倒された。
「君が、アンディか」
「は、はい」
聞かれるままに、そう答える。
「…貴人の警護をしていて、敵に襲われた場合、どう対処したら良いと思う」
「…まず、守るべき人を、なるべく襲われる可能性が低くなるように守ります」
「よかろう。
今回、妹くんと君とが、彼女を壁に寄せたのは正解だった。
だが」
「はい」
「敵は自在に動くだろう。しかし、常に、守るべき人との間に入り、敵に襲わせるスキを与えないことに留意すべきだった」
空に、くるくると、説明的な絵が描かれる。
「君は、彼女とは少し離れた場所で倒れていた。背後に気をつけていれば、自分の後ろを取られることもないのだ」
以上。話が終わって、しばらく静かになる。ややあって、エヴァリンが探るように声を出す。
「…あれだけで、わかったんですか?」
「ああいう卑怯じみた手には慣れている」
答えはあっさりしていた。そのあと、笑ったように見えた。
「とまれ、彼女を守ろうとした、この意志には評価すべきところがある。
とはいえ、適切な武器さえあれば、守る必要もなかった。彼女はあれでいて歴戦の勇者だ」
話すことはそれだけだ。客人は立ち上がる。デルムッドが先にたった。
「アレス陛下がお待ちかねですよ。それにしてもらしくないですね、なにも予告がないなんて」ナンナ達が取り残される。
「なんなの、あの人」
エヴァリンがぼつ、と呟く。
「知らないのか? あの人は」
「誰かはわかってるけど…イメージしていたのと違うな、冷たそう」
エヴァリンはそれだけで、興味をもう別のことにうつした。
「ほらお兄ちゃん、寝た寝た」
ナンナも立ち上がる。
「じゃ、アンディ…お大事にね。
また町に連れて行って」
部屋を出て、三歩先に、見なれた後ろ姿の見なれた歩調を思い出しながら戻る。
終始、自分を見なかった。「歓迎の舞踏会は、明日に決まったよ。旅でお疲れだろうからね」
デルムッドはそう言った。
「まあ、…俺と違って、昔なじみだから、いろいろ、懐かしい話もすればいいんじゃないの?」
「はい」
ナンナは、兄の方を見ずに言った。
「で、アンディとは結局どうなんだ」
実の所を知りながら、デルムッドは実に意地悪そうな顔で言った。
「…え?」
「いや、言葉どおり」
ナンナは、少しイヤそうな顔をした。
「兄様が思っている程進展していません。お生憎様でした」
「ああ、そう」
デルムッドは、予想どおりの答えだったらしく、とくに興味が無さそうな声を出した。さて、その夜。
「失敗、だったかな」
デルムッドは呟いていた。その横には、とうとうイザークから呼んでしまったエルナが、事後のうっとりとした顔で添っている。
「失敗?」
「アンディでは逆に食指が動かない、というか」
「…まるで、妹さんの隣をとっかえひっかえ、遊んでるみたいね、デルムッドてば」
「兄貴としては、これと見込んだ男と一緒になって、幸せになってもらいたいよ。なんたって、たったひとりの妹だ」
「まあ、憎らしい」
エルナはくすくす、と笑って、恋人の首に腕をからめた。そのまま、二人は自分達を思い立つままの成りゆきに任せる。
「妹は妹だろ、やきもちか?」
「でも、一緒に育ってないもの。ほんとは、だれともも一緒になってもらいたくないんじゃない?」
「そういう憎まれ口を言うのはこの口だな?」同じ頃。
ナンナの部屋からは、庭に挟まれた向こうがわの、客用の離れが良く見えた。
まだ明かりがついているが、その明かりの下で、客人は何を考えているのだろう。もう見たくないようにナンナはカーテンを閉めて、寝台に腰をかけた。
路地で再会した時、一瞬、夢かと思った。でも夢ではなかった。帰る道、一つ馬に乗って入場するまでの間、体温と呼吸がなつかしく、この身体にしみてきた。それを思い出すと、足から力が抜けてくる。
「…」
からだの熱さに逆らわず、寝台に突っ伏す。
まさか、自分をもう忘れてしまったと言うことはないだろう。でももう一度、ちゃんと顔をあわせたところで、以前ともに闘っていた頃のように、親しく接してくれるだろうか。
この三年の間に、自分はずいぶん変わってしまったと、ナンナは思う。得にこの半年の間は、手紙一つを頼りに待ち続けて、待ち続けて、傍目にはひどくあせって、やつれた面だちになってしまったかも知れない。
「…はぁ」
でもきっと、それが、自分のためとわかってくれれば、彼はきっとそんな自分を許してくれる。ナンナはため息をついて、我が身を抱き締めた。身体の熱は今は奥底に一つにこごって、疼きはじめる。
寝台の帳をおろして、夜の衣装を脱ぎ落とした。今花開いたばかりの、二十歳の瑞々しい身体。
明かりを遠くにしたところで、部屋の中はなんとなく明るい、寝台の帳を抜けて、満月近い月の光がその身体を撫でる。目を閉じて、手探りで触れた自分の乳房には、しっとりと、吸い付くような質量がある。ナンナは一瞬、息をつめた。親指と人さし指で、その先をひねり上げながら、出そうになる声を、指をかんで堪える。
「…くぅ」
閉じた瞳の奥に、ふと、面影が浮かんだ。彼が自分に「触れて」くれる、そんな望み、思ったところでかなうことはないと、思っていた。自分達は、そうするには余りにも親しくなり過ぎた、彼を、一時は父とさえ呼んだのだ。
「でも」
わかってはいても、…いつも接するあの優しさで、扱われたい。ナンナは、閉じられたカーテンの向こうを、意識して見た。
「触れて、ください」
固くなった乳首の先を、指の腹でていねいに擦る。
「あ」
えもいわれぬ感覚が叫ぶように走る。羽根枕に身体をしずめるように預け、奥底の焦れたうずきを足を摺り合わせて押さえる。
「くうう、くぅ」
自分の出す声にあおられる。本当はもっと、声を出してしまいたい。奥底から、じわりと何か滲む感覚がして、身体伝いに指をはわせる。
全身がぴりぴりと震える。手をはわせ、指をしずめた先は、しっとりと潤んでいた。
こんな所にも、触れてくれるだろうか。自分にはまだ、そんな経験はない。口に出せなくても、仕種から滲むようなその微かな欲望を、察して容れてくれる姿と、察されて拒む姿とが、くるくると、回る。
『かくす必要は、ない』
覆うように、その存在が抱き締めてくる。指の先に触れる存在感を
「はうっ」
ひと撫でして、ナンナは高い声をあげた。勝手知った自分の身体のはずなのに、この芯の部分だけは、触れるごとに、自分を慕わしい程みだらに変えてしまう。
ただ、その相手が、自分以外には見えないだけ。ナンナは、膝を開いた。触れるか触れぬかの力加減で、まさぐる。
「ひぅ」
奥歯を噛み締めた声。背骨のきしみが促すままに、指で弄ぶ。足指に、力が入る。
「あっあ」
自分の湯ビスら、その先を許さない入り口が、ぴくりと、震える。その時がくれば、ここに…話にしか聞かないが…何かがくるのだ。
幻は、目を開けても浮かんでくる。その名前をかすかに繰り返しながら、切なくなるばかりの身体をよじる。
指が、その入り口のあたりに、ぴた、と止まった。その先の勇気は、でない。
「ここは、あなたに」
ナンナは、自分ができることに没頭する。隠していた部分をすべて、足を開いてさらけだす。背骨からのしびれが腰のあたりをとろけさせる。つまるはかりの一人の悦びに酔う。次女が側近いことも忘れて、ナンナは声をあげていた。それさえ、今の彼女には、いざ幻が現実になった時の予行演習なのだ。可愛い女に思われるための。
「ああ、…もう」
奥底がじんと震える。一瞬、前兆に似たものが昇ってくる。片方の指は秘密の入り口に、もう片方はしこるばかりの突起にあてがわれる。
「ああ………………あひっ………っあ」
暗い金色のぽやぽやとした茂みが、指の動きにあわせて濡れ、まとわりつく。秘密を隠すひだをわけ、外気にさらされて固く震える突起に、指がいじらしいまでの奉仕をする。背がそる。足指に力をいれ過ぎて、浮き上がった腰が揺れる。
「あうっ!」
絶頂の緊張は一瞬でとかれる。あの入り口は、そのとき、教えられてもいないのに、当てられた指の第一関節を、数回、せつなそうに締め上げる。
「……………ふっ……くふぅ」
ナンナは、うっとりとした顔で、羽根枕に頭を預けた。
離れの明りは、その頃、消えたらしい。
つづく。