付録(1) コンドルセの生い立ち

 マリ=ジャン=アントワーヌ=ニコラ・カリタ・ド・コンドルセ侯爵は1743年にフランス、リブモンに生を受けた。地方貴族であった軍人の父とは早くに死別し、病弱であったため、幼少時には女児の姿で敬虔な母と聖職者の伯父に育てられた。11歳のときイエズス会による教育を受けさせられたが、そこでの体験が後の猛烈な反教会権力、反宗教教育の思想を育てたともいわれている。
 彼は14歳になってパリのコレージュ・ド・ナヴァールに入学し、その数学的才能を一気に開花させた。彼の家族は家の伝統に従って軍人になることを望んだが、それに反発して科学アカデミー入りを目指すようになる。ダランベール(Jean le Rond dユAlembert, 1717-83)と知り合い、その庇護の下で65年に『積分論』を出版、67年に『三体問題論』68年の『解析論』で科学者としての地位を決定的なものとし、69年に26歳で科学アカデミーに迎えられた。当時のこのアカデミーの終身書記(secr師aire perp師uel)は数学者のフシ(Fouchy)であったが、ダランベールの画策もあって、老年の彼はコンドルセに助力を求め、17世紀後半のアカデミー会員のエロージュ(頌辞)の執筆を依頼した。その短期間にまとめられた膨大な成果が今度は数学のみならず諸科学全般についての彼の博識さを科学アカデミー会員全員に知らしめることになり、30歳の時に終身書記補の地位につくことになった。
 コンドルセにとっての数学と自然科学の師は間違いなくダランベールであるが、政治思想上の師は改革者テュルゴ(Ann-Robert-Jacques Turgot,1727-81) である。彼はリモージュ知事時代にダランベールを通じてコンドルセと知り合い、彼が大蔵大臣に就任した74年にコンドルセを造幣局総監の要責に任命した。テュルゴはフランス絶対王政の「社団」的編成を批判し、王権を頂点とする中央集権的な統一国家へフランスを改革していこうとしていたのである。コンドルセは90年までそこに在籍したが、彼が実際に活躍したのは、テュルゴ失脚までの二年間に過ぎなかった。彼はその後再び科学アカデミーの「エロージュ」執筆に精力を傾けると共に、アカデミー・フランセーズにも立候補し、82年に38歳で会員に就任した。彼が「社会数学」の理念を練り上げていったのはその頃からのことである。社会数学に関する論文、著書はこの時期に集中している。
 1789年に革命が勃発すると、彼はパリから立法議会に選出され、シエース(Siey峻)らと「1789年協会」を結成する。そして、1792年には引き続き国民公会議会に選出される。そこで彼は「革命議会における教育計画」で公教育の理念を歴史上初めて高らかに宣言し、憲法委員会委員として「ジロンド憲法草案」を起草した。しかし、ロビスピエールらが率いるジャコバン派の台頭によって引き起こされた党派抗争に破れ、逃亡を余儀なくされることになるのである。彼は隠れ家に潜み、遺著『人間精神発達史』となる草稿を書きつづり、追われる身での唯一の心の慰めとした。そして、彼は八ヶ月の逃亡生活の後に逮捕され、翌日牢獄で原因不明の死を遂げた。1794年のことであった。


     付録(2) 18世紀における統計的思考・確率論 

 コンドルセが社会数学を構想するにあたっては、テクニカルな数学理論の発展と、数量的に社会を記述しようとする統計的思想の発展の二要素が不可欠であった。前者は社会数学の方法論を、後者は統治のため数量的に把握されるべきものとしての「社会」という概念を導入する役割を果たしたといえるだろう。
 前者の数学理論に関しては、主にフランスを中心とした確率論の発展があげられるだろう。パスカルとフェルマの往復書簡におけるゲームの賭け金の分配問題の解法が、確率論の始まりとされている(1)。しかしそれからしばらくの間、確率論の応用の主要なテーマは、偶然の支配する賭け事のようなゲームの問題に集中する傾向にあった。これは、確率
i
論のその他の領域への応用に必要な定理や法則といった数学的手段が殆ど整備されていなかったためでもある。
 確率論を社会の現象に直接応用しようとする試みは、18世紀初頭に盛んになりはじめた。まず、ヤーコブ・ベルヌーイ(Jacob Bernoulli,1654-1705)はいわゆる「ベルヌーイの定理」が証明されていることで有名な『推論法』(Ars conjectandi , 1713)の第四部において、法賢慮(法学)や政治、市民経済に確率論を応用することを提案した。その提案は実行に移されることなく『推論法』は未完に終わったが、このベルヌーイの定理の証明が、確率論の応用領域の拡大に大きく寄与することになったのである。ヤコブの甥であるニコラス・ベルヌーイ(Nicolas Bernoulli, 1687-1759)は『法律の問題に応用される推論法試論』( Specimina Ariis conjectandi, ad quaestiones Juris applicatae. )(バーゼル、1709)という論文を著し、その中で失踪者の死亡宣告をいつ出すか、終身年金の金額の決定、海上保険や富くじの問題などへの確率計算の応用問題を示した。コンドルセも彼等の業績に言及し、特にニコラのものについては、「法賢慮(jurisprudence)の問題に確率計算の応用という概念を与えた最初の論文」であり、「計算を用いずに同様の問題を解決しようとすることで、法律家たちがどれだけ多くの重大な誤りを犯しているか」を示す重要な成果であると評価している(2)。
 一方、応用領域の問題とは別に確率論のテクニカルな側面での発展について取り上げると、先のベルヌーイの他、18世紀前半にはド・モアブル(A.de Moivre,1667-1754)やモンモール(Montmort,1678-1719)などの貢献があったが、コンドルセにとって最も重要だったのは、ラプラス(Pierre-Simon Laplace,1749-1827)による1774年の論文だろう。そこには「ベルヌーイの定理の逆」であるところの「ベイズの定理」が完全な形で定式化され、証明されていたのである。コンドルセにおけるこの定理の重要性については本稿の第二章で詳しく論じた。
 次に、統計思想に関して影響を与えたものについて述べると、17世紀イギリスに由来する政治算術の発達があげられるだろう。それは、合理的な政治的統治のための基礎知識として、数、重量、尺度といった数量的表現を用いて国土、住民の数、産業など、国力を構成する要素を数量的に把握する試みであった。「政治算術」という名称を与えたのはウィリアム・ペティ(William Petty,1623-1687)であるが、ジョン・グラント(John Grant, 1620-1674)も、各年齢における人間の死亡率などを求める研究(3)でそれに類する統計的な大量観察を行ったことで知られていた。
 この政治算術は18世紀中頃にはフランスに紹介され、知識人達に最新の有益な知識として受け入れられたのだった。『百科全書』(Encyclop仕ie)にも、『百科全書(事項別配列)』(Encyclop仕ie M師hodique)にも「政治算術」についての項目があり、コンドルセ自身の記述も見られる(4)。
 このような成果を受けてコンドルセの思想は準備されていったのであるが、ここで注意しておきたいのは、彼の「社会数学」が単なる数学--確率論--の社会現象への直接的な応用では無いということである。すなわち、たとえば天文学においては天体の運行を調べることが目的であり、数学はその目的を充分に果たすための手段にすぎないように、社会や人間の振る舞いについて考察することが主要目的であり、確率論はその手段でしかないような応用科学--社会数学--を作り上げようとしていたのである。ゆえに、あくまでも確率論の有用性を示すための例として法律の問題を扱ったニコラ・ベルヌーイの研究とは、一線を画していると言えよう(5)。また、「社会数学」は理論面においてラプラスの確率論での成果に多くを負っており、ラプラス自身1780年代には社会領域への確率論の応用に関する論文を書いているのだが、ラプラスをそういう方向に向かわせたのは他でもないコンドルセであった。従って、それ以前のラプラスにもN.ベルヌーイと同様のことが言えるのである。


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(1)これは、「二人が対戦し、定められた得点を先にとった者が勝ちと決める。もし、この二人がゲーム を最後までやりおえないで別れなければならないとすると、二人は賭け金をどのように分配すればいいの だろうか」というものである。
(2)ホuvres, t.I,p.497.
(3)『死亡表に関する・・・・自然的および政治的諸観察』(Natural and Political Observations....made upon the Bill of Mortality)訳書あり「...」部分には106個の見出しが入る。
(4)Encyclop仕ie M師hodique, t.I,pp.132-136.原文の抜粋がRashed,op.cit.,p.137にみられる。
(5)Rashed,op.cit.,pp.35-38. トドハンター、上掲書、邦訳、182ページ。   



      付録(3)

 参考までに、第二章の第三節の「選挙理論」でとりあげた

 1 正しくない(誤った)決定がなされない確率
 2 正しい決定を得る確率
 3 正しいにせよ、誤っているにせよ、何らかの決定を得る確率
 4 未知の得票差により下された決定が、誤っているよりはむしろ、正しいであろう確   率
 5 既知の得票差により下された決定が正しいであろう確率(6)
 
 の数学的表現について、ラシェド氏の解説に依拠して、略記しておきたい。上の5個の確率を、1から順にそれぞれP1, P2, P3, P4, P5 とおくと、それぞれの内容は独立ではないので、
 P1 = P2 + (1- P3)
P2 = P3 × P4 (7)
 である。また、nが投票者の人数で、qが多数派の得票数、vが各投票者の判断が正しいものである確率、eがその逆の確率だとすると(v + e = 1)、
m
P2 = Σ nCkvn - k ek
k =0
また、決定が誤っている確率は P3 - P2で求められるわけだが、この値は次のようになる。
m
P3 - P2 = Σ nCken - k vk
k =0 (8)

 また、m = n - q とおくと、ベイズ-ラプラスの定理の応用より、

 P5 = vq em = vq- m
vqem + eq vm vq- m + eq- m


 とおけるのである(9)。
 このように式で表せば、一見同じことを言っているようにも見える2番目と4番目の確率(P2とP4)が違うものであることがわかるだろう。
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(6)Essai sur lユapplication de lユanalyse, pp. xviii-xix, xxi-xxii
(7) ibid ,pp. xix-xx
(8)Rashed,Condorcet, p.72
(9)Essai sur lユapplication de lユanalyse, p. 10. , Rashed,op.cit., p.73.その他、以下のものも参考に した。トドハンター『確率論史』安藤洋美訳(現代数学社、1978年),p.305 .


      付録(4)

 本稿の第二章第三節3の「複数候補からの一者選択」の議論を補完するものとして、命題の組み合わせ方に関してコンドルセが論じている部分を取り上げる。
 コンドルセは言う。「今までの理論をより複雑な提案(proposition)の場合に応用するには、全ての提案は単純な命題(proposition)の系に還元されるのだということと、その命題にについて討議するときに形成されうる意見の全ての数は、その命題とその逆命題から出来る組み合わせ(combinaisons)の数に等しいことを認めねばならない。」(10) すなわち、討議されるべきある複雑な内容の提案がn個の命題に分解されるとすれば、ぞれぞれの命題1つについて賛成か反対かの2通りの意見(avis)が考えられるので、n個の命題全部だと、nP2 = 2n通りの意見の組み合わせがありうるだろうというのである。
 例えば、ある提案が次のような三つの命題に分けられたとする。「商業活動における規制は全て正しくないものである。」、「 一般法により課される規制は正しいものでありうる。」、「特別令により課される規制は正しいものでありうる。」(11) このそれぞれの命題について賛成する立場と反対する立場があるだろう。それぞれに賛成する命題をA, Aユ, Aユユとおき、反対する命題をそれぞれ、N, Nユ, Nユユ とすると、次のようになる。

 A 商業活動における規制は全て正しくないものである。
 N 商業活動における規制には正しいものもある。
Aユ 一般法により適用される規制は正しいものでありうる。
Nユ 一般法により適用される規制は正しくないものでありうる。
Aユユ 特別令により適用される規制は正しいものでありうる。
 Nユユ 特別令により適用される規制は正しくないものでありうる。(12)

 すると、AかN、AユかNユ、AユユかNユユの三ペアのうちから一つずつ選ぶことになるので、理論的には23(つまり8個)の意見が考えられることになる。列挙すると、それらは、(1)A Aユ Aユユ (2)A, Aユ Nユユ (3) A Nユ Aユユ (4) A N Nユユ (5)N Aユ Aユユ (6) N Aユ Nユユ (7) N Nユ Aユユ (8) N Nユ Nユユである。だが、ではこれらの八個から一つの意見を選べばいいのかというと、この例ではそうではない。それが成り立つのは、三つの命題が互いに独立な内容である場合だけである。上にあげた三つの命題の内容は互いに関連しているので、意見(1),(2),
(3)は内容的に矛盾してしまい、投票の対象からは省かねばならない。また、この場合、特別令で適用される規制(一番恣意的である)が正しいということになれば、一般法で適用される規制(特別令によるものよりは恣意的でないとされる)も正しいことになる、というのが前提であるから、(7)は省かれる。そして一般法と特別法による規制以外はここでは想定されていないので、(8)は無意味な意見でしかなく、やはり省かれる。よって、実際に投票にかけるのは(4),(5),(6)だけで良いことになる(13)。 
 従って、投票者の判断ミス以外に誤りの元が存在しないようにするため、実際の場面では、意見を構成する命題の内容を検証してみて、矛盾している意見は省く作業を怠ってはならないのである。
iv
 ここで彼は、確率論を導入する。コンドルセによると、一般に投票者がm + n人で投票者が正しい判断をする確率がv、誤った判断をする確率はeのとき、既知の得票数mにより多数決で得られた決定が正しい確率Pは

 P = vmen/(vmen + emvn)

 である(14)。
 従って、先ほどの意見(4) A N Nユユ (5)N Aユ Aユユ (6) N Aユ Nユユにそれぞれ賛成する人数を
x , y , zとおくと、命題Aが正しい確率P(A)は、Aを支持する意見(4)にのみ正しい判断をする人々が賛成する場合を考えればよく、また、命題Nユが正しい場合の確率P(Nユ)とも等しい(この場合、一般法による規制が正しくないのなら、全ての規制は正しくないから)ので、

 P(A) = P(Nユ) = vxey + z/(vxey + z + ex vy + z)  
 
 である。同様の手順により、

 P(Aユ) = P(N) = vy + z ex /(vy + z ex + ey + z vx) ((4)を支持する人のみ正しくない)
 P(Aユユ) = vyex+ z/(vyex + z + ey vx + z) ((5)を支持する人のみ正しい) 
 P(Nユユ) = vx + z ey/(vx + z ey + ex + z vy ) ((5)を支持する人のみ正しくない)(15)

 そこで、コンドルセは意見(4),(5),(6)が正しい確率はそれぞれ

 v3x + z e3y + 2z, v3y + 2z e3x + z , vx + 2y + 3z e 2x + y

 と、している(16)。
 ここから彼は、例えば、意見(4)が多数の得票を得て、それが三者のうちで一番「正しい」ものであると決定できるためには、普通の多数決の時のように x > y, x > z であるだけではだめだと結論するのである。(4)が正しいためには、上の三つの値の内で、v3x + z e3y + 2z のvの指数が一番大きくなければならない。そのための条件は3x + z > 3y + 2z かつ3x + z > x + 2y + 3zである。よって、この場合、3x + z > 3y + 2z かつ3x + z > x + 2y + 3z が満たされているときのみ意見(4)を選ぶことが出来るとコンドルセは言うのであ
る(17)。
 これは、いささか繁雑だが、普通の多数決の方式で三者のうちの一つを選ぶと、「実際には少数派の意見」を選ぶことになってしまうことがあるということを、なるべく数学的な方法で、彼なりに示そうとしている例である。数学的に分析していくことで、選挙方式の不完全さにより生じる「誤り」の影響力を無化させる解決策を見つけだそうとしていたのであった。純粋に選挙の実用的な側面から考察していこうとしたボルダとの違いであ
る(18)。
 

(10)Essai sur lユapplication de lユanalyse, p. xlv.
(11)ibid.,p.113.
(12)ibid., pp.113-14.
(13)ibid.,p.114.
(14)ibid.,p. 10.
(15)ibid.,p.115. (括弧内は引用者)
v

(16)ibid.,p.115. 現時点での著者には、この値がどのように導かれたのかがよくわからない。 例えば意見 (4)が正しい確率などは、積P(A)・P(Nユ)・P(Nユユ) から求めているのだと思うのだが、そうだとすると 分母が処理出来なくなってしまい、コンドルセの言う値とは一致しないのである。
(17) 18世紀の人間コンドルセは、選挙で選ばれるのは単純に集団の多くの好みを反映したものではなく、 「正しい」ものでなければいけないと思っていることを改めて留意しておいて欲しい。よって、「実際の 多数派」の意思が支持するところではないものを選んでしまうということは、彼においては「正しくない もの」を選んでしまうことにもつながるのである。
(18)Rashed,op.cit., p. 81.



































vi



      付録(5)

 本稿第二章第四節「ベイズ主義的推論」で引用した『試論』序論の文章の部分訳を掲載しておく。
 未来の事象の確率を過去に起こった事象の法則から求める、という考えは、ヨーハン・ベルヌーイやモアブルには既にあったようである。だが、彼等はそのための手段について著作の中では何も言わなかった。
 ベイズ氏とプライス氏が、1764年と1765年の哲学的な書簡のやりとりの中でそれについてふれており、その問題を解析的に扱った最初の人はラプラス氏であった。
 基本的な問題は次のように要約される。もし、二つの相反する事象のうち、例えば一方が百回、他方が一回しか起こらなかったとすると、または、もし一方が百回、他方が五十回起こったとすると、その一方が他方よりも起こるであろう確率はいくつくらいか?
 この問題は、二つの事象が生起するそのたびに、それらの確率が絶えず同じ値をとる、と仮定している。即ち、それらの事象の生起を定めている未知の法則が不変のものである、としているのである。実際に、もしもこの条件が亡ければ、二つの事象にとって未来についての確率は、どの様なふうに過去の事象が継起していたとしても、変わらないものになってしまうだろう。
 だが、この計算は同時に、事象の生起において不変の法が存在する確率をも与えてくれる。そして、それは次のような結論を導く
 1)もし一方の事象と他方の事象が生起する回数の差が全事象の総数に比例するのであれば、それらの事象の生起する法則は不変であることについての確率は無限に増大する。
 2)もし反対に、その差が無いかまたは、常に同じ値であり、事象の総数に比例して増加しないのだとしたら、法則が不変である確率は無限に小さくなる。[・・・]
 結局、過去の事象が従ってきた法則に従って起こる未来の事象の確率を求めるためには次のものを考慮しなければならない。
 1)ある不変の法則に従って起こるという仮説に基づいた上での、その事象の確率。
 2)何の法則にも従わずに生起する場合におけるその同じ事象の確率。
 そして、これらの確率のそれぞれを決めるために用いた仮定(supposition)(つまり不変の法則に従うか、従わないかという仮定)とそのそれぞれの確率(1、2の確率) とを一つずつ掛け合わせたものの和を、二つの仮説(不変の法則に従う/従わないの仮定のこと)の確率の和で割らねばならない。[・・・]
 ここで与えられているものが真の確率(la vraie probabilit@)でありえないのは明らかだろう。例えば、一つの壺の中に100個の白玉と1つの黒玉が入っていて、我々は80回1つずつ白玉を、1回だけ黒玉を引いたとしよう。そして、毎回壺の中に引いた玉を戻すように心がけたとしよう。すると、次のことが明らかであろう。すなわち、もしも私が全ての玉の総数しか知らず、そこに100個の白玉と1個の黒玉があるとは知らなかったとしたら、確実な方法でそれを言い当てることは私には絶対に出来ない。そして、白玉と黒玉の個数の比に依拠しているところの真の確率をも知ることも出来ないのである。だが、私は以下のような一連の推測をすることは出来る。もしも101個の白玉があるのなら、1個の白玉を引く確率は1、確実である。もし、100個の白玉と1個の黒玉があるのなら、1個の白玉を引く確率は100/101である、というように。だが、これらの仮定の各々において、私が80個の白玉と1個の黒玉を引く確率は確実なものである。そして、その数(80個の白玉と1個の黒玉)こそが既に引かれた玉の数であるわけだから、それらのうちのある仮説が実現する確率とは、その仮説の下で80個の白玉と1個の黒玉を引く確率を、全ての可能な仮説それぞれの下で同じ数(80個の白玉と1個の黒玉)だけ玉を引く確率の総和で割ったものを得る。 実際に、ある物事の確率とは、その事象が起こる組み合わせの個数を全ての組み合わせの個数で割ったものなのである。ところで、この文では、各々の仮説の下で80個の白玉と1個の黒玉を引いた、という事象に呼応する組み合わせの個数は、80個の白玉と1個の黒玉を各々の仮説の下で引く確率、として表されている。そして、同様に、全ての仮説におけるその確率の総和は、全ての可能な組み合わせの個数に相当する。従って、各仮説の下で1個の白玉を引く確率とその仮説の(事前)確率を掛け合わせ、その仮説ごとの積の総和を各仮説が存在する確率を足し合わせた総和で割ると、白玉を一つ引く確率というものが得られる。と、いうのも、私は1個の白玉が引かれる場合の組み合わせ全ての個数を、全ての可能な組み合わせの個数で割ったものを得ることになるからである。
 この計算が依拠した原理は以上のようなものである。それより他には、玉の数が所与の数よりも大きく、その結果、白玉と黒玉の数の比は(所与の数における白と黒の比と)違うものであるということを仮定したのである。
 従って、我々がこの方法で得られるのは実際の確率(probabilit@ r仔lle)ではない。それは、平均的確率(probabilit@ moyenne)である。
 このように、全ての確率計算においてそうであるように、確率と事象の現実との間だけでなく、計算により与えられる確率と実際の確率の間にも、全く必然的関係は無い。しかしながら、この序論の始めに明らかにしたように、この類の(計算により与えられるような)確率の上にこそ我々の全ての知識が展開されるのであり、日常生活において我々を導いている全ての根拠(motifs)もその確率に依拠しているのである。その不確実さは恐ろしいものに思われるかも知れないが、それを知らしめることは有益であり、懐疑主義に、打撃を加えるための唯一の確固たる手段ですらある。懐疑主義は、蓋然性を計算の支配下に置くという方法を無視している限り超克され得ないものだったのである。(14)


(14) Essai sur lユapplication de lユanalyse ,pp.lxxxiii-lxxxvii.


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