魔法少女と戯れる日々 01-01
2000-01-19
「オイ、どうしてくれるんだよ!」鈴木が居酒屋のトイレで用を足してテーブルに戻ってくると、新人の田中が若い男に胸ぐらをつかまれているのが目に入った。男は茶髪で鼻にピアスをしており、肩口には十字架のタトゥーが彫られていた。男とその連れが夜通し街を徘徊しているようなうさんくさい連中であることは一目瞭然だった。
「ススス、すいません!」
田中の声はビクビクと震えていた。田中は色白で小柄ないかにも弱々しい男だった。
「すんませんで済んだら警察はいらんねえんだよ!」
男はそういって田中を突き飛ばすと、田中は音をたてて床の上に転がった。「本当に、ゴ、ゴメンナサイ! このとうりです!」
それでも田中は必死に男に謝り続けた。「ほう、じゃあここで俺に向かってきっちり土下座してもらおうか」
男はそういって田中の顔面を皮のブーツで蹴り上げた。田中の小さな口からはうっすらと血が流れた。「そうだそうだ、土下座しろよな!」
男の連れは全員残酷な薄笑いを浮かべながら男をはやしたてた。それに対して、周りにいる鈴木の会社の同僚や居酒屋の店員は、男たちを恐れて誰も田中を助けようとはしなかった。無抵抗な田中は、何度も足で踏みつけられ、その度に細身の身体からうめき声をあげた。奇妙なことに、鈴木はその光景に胸を躍らせていた。もちろん、田中が大勢の目の前で男にいたぶられるのが楽しかったわけではない。彼の心の奥底にある得体の知れない何かが、こんなチャンスはめったにない、と解放の喜びに身を震わせていた。
「ちゃんと両手をつけよ!」
田中は後頭部を足で押さえつけられて屈辱的な土下座を強要されていた。鈴木はもう我慢ができなかった。彼は男の肩に手をかけた。
「オイ、何があったが知らんがもういいだろう」
「お前誰だ? その汚い手を離せ!」
男は乱暴に肩を左右にゆすって鈴木を振り放そうとした。しかし、鈴木はなかなか手を離そうとはしなかった。
「うぜえんだよ!」
鈴木の顔に痛みがはしった。男が鈴木に拳骨をくらわさたのだ。フラフラと後ろによろめきながら、彼は自分の顔に触れた。鼻からは血が流れていた。彼の心臓は興奮に高なった。これこそが彼が待ち望んでいたものだった。その時、何かが彼の中で開放され、恐ろしいほどの快感が一瞬にして彼の全身に行き渡った。彼は指についた血を舌でなめると、満足そうにニヤリと笑った。「なにをヘラヘラ笑っていやがる!」
男はもう一度鈴木をなぐりつけようとした。しかし、鈴木にとって男の攻撃はスローモーションのように見えた。彼はいともたやすく男の手を払い、男の鼻にあるピアスに指をかけた。
「ギャアァァァ!」
居酒屋の中には男の絶叫がこだますると、血のついたピアスが床に転がった。男は必死で鼻を押さえた。間髪を入れずに、鈴木はその部分に向けて情け無用の一撃をくらわせた。次の瞬間、鈴木の意識は徐々に遠のいた。鈴木は暗闇の中に放り出されていた。そして、しばらくすると暗闇は徐々に明るさを増した。彼は周りを見まわした。驚くべきことに彼は空を飛んでいた。眼下には広大な森林が広がり、日没に照らされ、目に見えるもの全てが薄暗い赤紫色に染まっていた。
そのまましばらく飛行を続けると、突然周りの景色が一変した。地面はひどく踏み荒らされ、ところどころに黒い煙が上がっていた。どうやらここは戦場のようだ、と彼は考えた。戦場にはおびただしい数の死体と残骸が転がっていた。彼方には切り立った崖が見え、そこには石造りの巨大な砦がそびえていた。砦の前方には河が流れ、そこから少し離れたところで、鎧に身を固めた兵士で編成された大軍が、砦を取り囲むように陣を張っていた。
大軍の上空にさしかかると、一本の矢が彼をかすめた。下に目をやると地上の兵士が彼に向けて弓を引いていた。彼は速度を上げた。もうすでに夕闇は深まり、視界はかなり悪くなっていた。そう簡単に当たるものではない、と彼は心の中で思った。しかし次の瞬間、どこからともなく火の玉が打ち上げられ、彼の姿は夕暮れの空にはっきりと照らし出された。当然のことながら、矢の攻撃は激しさを増した。彼の視界が大きく揺らいだ。矢が一本彼に命中したのだ。痛みは全く感じられなかったが、彼の飛行は大きく乱れた。
彼は鳥ではなかった。それは巨大なコウモリのような姿をした怪物だった。彼はその目を通して外部の様子を眺めていたのである。怪物は砦に向かって懸命に飛行を続けた。その間矢は何度も怪物に命中し、翼を動かすたびに怪物のどす黒い血が空中に飛び散った。怪物はなんとか地上からの攻撃に耐え、砦の付近にたどり着いた。矢はもう怪物に向かって飛んではこなかった。砦の周囲には奇妙な力が働いており、飛んできた矢は急激に力を失い、下方の闇の中に落下した。
砦の頂上には蒼い鎧を身にまとった女と、馬のような姿をした2本足の巨大な戦士が立っていた。女は若々しく美しかったが、疲労のためか、その顔は少しやつれていた。
空を飛ぶ怪物は最後の力をふりしぼって頂上に向けて舞い上がり、ついに力尽きて石畳の上に勢いよく落下した。蒼い鎧の女は急いで怪物に駆け寄った。怪物の全身には何本も矢が突き刺さり、翼は落ちた衝撃で折れてしまっていた。女はひざまずいて怪物の血まみれの身体を優しくそっと抱きしめた。怪物はしばらくの間何かをいいながら身を震わせたが、やがて息絶えた。すると、鈴木の視界は徐々にかすみ、そしてまたもや彼は暗闇の中に放り出された……「オイ鈴木! しっかりしろ!」
暗闇は徐々に明くなり、鈴木の耳に声が聞こえた。夢の中の情景は彼の記憶の中から一瞬にして消え去った。目を開けてみると、会社の同僚である山形が、がっしりとした腕で、彼を揺さぶっていた。「ううっ……」
「良かった、やっと気がついたな。主任、やっと鈴木が目を覚ましましたよ」
鈴木が意識を取り戻すと山形が後ろにいる女性に振りかえった。「鈴木くん大丈夫?」
山形の後ろでは、おしゃれな赤い丸眼鏡をかけた寿主任が、心配そうな表情で鈴木をのぞいていた。「え、ええ…… 大丈夫です…… でも何がいったい……」
鈴木はようやく口を動かした。「なにいってやがる。全部お前がやったんだぜ。お前が変な奴らと大暴れしているっていうから、残業そっちのけで主任と2人でオフィスからかけつけたんだ」
鈴木は周囲を見渡した。周りのテーブルとイスは倒され、当たり一面はひどく散らかっていた。茶髪とその仲間たちはもう居酒屋にいなかった。山形の説明によれば、鈴木は男たちを叩きのめして居酒屋から追い払い、その後意識を失って倒れたということだった。
「ああ…… そういやあ、ふざけた連中だったな……」
鈴木はようやく殴りつけた茶髪のことを思い出すとむっくりと立ちあがった。「さっきここの店員さんが教えてくれたんだが、お前がブチのめした連中は、ここら界隈ではけっこう有名な奴らだったらしいぜ。まあしかし、奴らも今夜は喧嘩を売る相手をちょっと間違えたみたいだな。ここに来る途中、そこの角でそれらしい男たちとすれ違ったが、みんな口や鼻からダラダラ血を流して顔面に大あざをつくっていたよ」
「ざまあみやがれだ……」鈴木は手でスーツのほこりを払った。「ああいう連中はいつか徹底的にやってやらんとな……」
「しかし、しばらく用心したほうがいい。ああいう輩は執念深いぜ」
「望むところだ……」鈴木は冷たく笑った。「もう一度ズタボロにしてやる」
「鈴木さん、どうもさっきはありがとうございました」鈴木の横では田中が彼に向かって丁寧に頭を下げていた。
「気にすんな……」
お前を助けるためだけに暴れたわけじゃない、と鈴木は一瞬いいかけたが、それをいうのはやめておいた。彼は田中に興味をはらわずに黙って腕時計に目をやった。終電の時間はとくに過ぎてしまっていた。周りには鈴木・山形・主任・田中の4人以外に会社の同僚は誰もいなかった。終電の時間がぎりぎりに迫っていたので、主任と山形が他の連中を帰らせたのである。しかし田中は一人だけ、せっかく助けてもらったの無責任に帰ることはできないといって、まだ居酒屋にとどまっていた。
「さて、ところで主任、鈴木に中断された残りの仕事どうします?」
山形と寿主任はともに開発課に属し、次の月曜日が締切の大がかりなプロジェクトに一日中かかりきりで、この数週間はほぼ毎日のように終電まで残業をしていた。
「さあ、どうしよっかな……」主任は背の高い山形を見上げながら、細くて長い人差し指をあごにあてた。「いいかげん今日はもう疲れたわね。もう私全然集中力なしよ」
「今夜徹夜しようがなにしようが、どっちにしても土日出社は確実ですからねえ……」
山形は両手を広げてお手上げというそぶりをした。
「そうねえ…… 今日はもういいっか。全員帰る方向は一緒だし、今日はさっさとタクシーで帰ってゆっくり寝るのが一番いいかもね」
「タクシーで帰るんなら、今日は俺が全部払いますよ。主任と山形には迷惑かけたし……」
鈴木は少し申しわけなさそうにしながら、彼らの会話に口を挟んだ。「なにいっているのよ鈴木君、別に気にしなくてもいいわよ。私も山形君も今日は終電を逃すかもしれない覚悟でオフィスで働いていたんだから。田中君は新人だから払わなくていいとして、私と鈴木君と山形君の3人で割ったらタクシー代もそんなにかからないでしょ」
「でも主任…… やっぱり悪い気がするし……」
「なにいってるのよ、困ったときはお互いさまよ」
「主任、あの〜、鈴木がそういってくれるなら、俺は一銭も払いたくないんですけれど……」
「ちょ、ちょっと、みなさん待ってください! 僕も払います! もともと騒ぎを引き起こされたのは僕ですし……」
4人はしばらくのあいだ話し合い、最終的に鈴木が4分の3を、寿主任が残りの4分の1を負担するということで折り合いをつけた。