−第一章−
「バカシンジ!!!」 聞きなれた金切り声に僕は目覚める。 強いシャンプーの匂いがした。 目を開けると、ベッドの脇に少女が立っている。耳元でそろえた赤毛のショートカット。その青い瞳が僕をにらむ。 「ようやくお目覚めね、バカシンジ」 僕は彼女を知っている。 「なんだ、明日香か」 僕は言う。 「なんだ、とは何よ」 腰に手を当て、彼女は叫んだ。 「このアタシがわざわざこうして起こしに来てやってんのよ。感謝の言葉の一つも言うべきじゃない?!」 肩にかけた赤いランドセルが揺れている。背の高い明日香はとても小学生には見えないけれども、れっきとした僕の同級生だ。そして、僕の幼なじみ。惣流・明日香・ラングレー。それが彼女の名前。 「もうー、ほら、さっさと起きなさいよ」 明日香が僕の毛布をつかんでひっぱる。 「あっ」 まずい。僕は思わず声を上げた。 「……」 明日香は口をぱくぱくさせながら、顔を赤くする。見られた。僕の背中に彼女の蹴りが入る。スカートが大きく舞っていた。 「エッチ、馬鹿、変態、信じらんない!!」 「しょうがないだろ、朝なんだから」 僕はそう言って毛布をたぐりよせる、うずくまる。 むちゃくちゃだよ、明日香は。いつもはそんなこと何でも無いみたいなこと言ってるのにさ。 でも、また、このことでいじめられるんだろうな。 叫び続ける明日香の声を聞きながら、僕は知らず沈んでいた。 明日香のかくも執拗な攻撃が始まったのは、六年に上がってすぐの頃からのことだ。その前からも何かと僕を責め立てるのが日常だったけれど。今のそれはスケールが違う。 例えば、あれは、二週間前の昼休みの事だった。トイレ帰りの廊下で、明日香を筆頭にした数人の女子に僕は突然、取り囲まれた。 ハンカチを手に立ちつくす僕に、いきなり明日香はこう言ってきた。 「シンジ、セックスって何か知ってる?」 僕は唾を喉にひっかけ、咳き込んだ。 明日香の後ろに控えた女子が忍び笑いをしている。 質問しているんじゃない。僕をからかっているんだ。 僕はいきなりだったせいもあってとっさには何も答えられず、う、うん、と、しどろもどろにうなづくことしかできなかった。 「へーえ、知ってるんだ。じゃあ、言って見なさいよ」 「い、言うって何を?」 「だから、セックスが何かって、ことよ」 「何って……せ、性別のことだろ」 「そーじゃなくって」 両手を腰にあてたいつものポーズで僕を見下ろしながら彼女は言う。彼女の方が身長が少し高い。殴り合いをしてもきっと負けそうな気がする。 「……だから、その……精子と卵子がくっついて……」 「あんた、バカァ?」 「じゃ、じゃあ、何だって言うんだよ」 むきになって声を張り上げてしまう。ちくしょう。 「決まってるじゃない」 明日香は勝ち誇った笑みを浮かべて言った。 「英語よ」 三日前には、やはり明日香以下女子軍団に図書準備室に閉じ込められ、「よく分かる性」という低学年向けの絵本を無理矢理朗読させられたりもした。 「これで分かったでしょう?」 図書棚用の梯子の上に座った明日香は、腕を組み、嬉しそうな笑みを浮かべて僕に言った。 だけど、僕は明日香には逆らえない。 なぜかって。 それはつまり、僕は、明日香のことが好きだからだ。 明日香にこんな気持ちを抱くようになったのは、そう昔のことじゃ無い。 気がついたら僕と明日香は一緒にいた。幼稚園に上がるまでは本当に兄妹だって思っていたぐらいだ。家もマンションの隣同士で、遊びに行っては、よくそのまま同じ布団で寝てしまったりした。お互い、家も自由に出入りしていたし、ただ廊下を挟んで二つの部屋がある、というぐらいにしか思っていなかった。 小学校にあがってからは、少し様子が変わった。何より、両親の態度が違った。それまで一緒にしてた朝食が別々になった。後で聞いたら、あんまりにも一緒にいすぎるのに心配して、親同士で話会い、けじめをつけようということになったらしい。 でも、そんなことをしなくっても、僕らはお互いが少しずつ違う人間なんだって分かってきていた。お風呂に入って、明日香が僕のおちんちんをじっと見て、どうして私には無いのかな、と文句を言った時、僕には何も答えられなかった。 後で、母さんにそのことを言ったら、それはシンジが男の子だからだよ、と簡単に返された。その時、母さんは少し怒っているように見えた。僕は、なんだかいけないことを聞いたような気がして、すごく不安になったのを覚えている。 運動会でも体育の時でも明日香はいつも張り切って走り、他のついずいを許さない。テストをやれば明日香はいつも満点。僕はたまに、という程度だった。明日香のお母さんの口癖は頑張りなさい、ってやつで、実際、明日香はいつも頑張っていた。 僕の母さんは、あんまりそういう事は言わない。失敗したって、いつも笑って僕の頭をなでてくれるだけだ。 ささいなことかもしれないけど、そんな風に僕と明日香は離れていった。それでも毎朝一緒に登校はしていたし、時には朝御飯も我が家で食べてゆく。明日香のお母さんからは一緒にドイツ語を学んだりもしている。 でも、はっきり分かっていた。 僕は明日香にかなわない。 それでいいと思っていたし、おかしいとも思わなかった。 ……あの時までは。
当日、山はひどいどしゃぶりだった。 僕らは麓にある、新箱根資料館の一角を借りて雨宿りをしていた。 突然の豪雨に、先生達は学校やら地元の気象センターやらとの連絡で忙しくしている。けれども、僕ら生徒にすれば何もすることが無い。 全校遠足で児童数も多く、五年以上はレストハウスから、表の天井つき駐車場のへと方に追いやられていた。 ビニールの簡易レインコートの中に身を包みながら、僕はぼうっと降り続ける雨を見ていた。目の前の灰色に染まった芝生の広場の風景は寂しげだったが、決して、汚くは無かった。 僕らは「季節」というものを知らない。僕らが生まれる少し前に起きた『セカンド・インパクト』という南極での大爆発。それ以降、この国にはそういうものは無かった。地軸が曲がり、太陽に対する角度が変わったからだと大学教授の母さんは教えてくれたけど、それがどういうものなのかは正直よく分からない。 ただ、いつも日は暑いし、時折こうした激しい雨が降る。 小さい頃から、僕はこの雨が大好きだった。雨は全てを洗い流してくれる。そして力強い。 そういえば、小学校に入ったばかりの頃は明日香と二人でよく雨の中を長靴にコート姿で走り回っていた。水たまりに足を踏み入れ、泥がどれだけ遠くまで飛ぶかを競ったたり。すべって転んで尻餅をして、パンツまで泥だらけになって、母さんに叱られたりして……一緒にお風呂に入らされて、そこで騒いでまた叱られて……。もう、全ては昔のことだけど。 ふと我に返って見回す。同じ班の相田ケンスケは、電子手帳のゲームに夢中になっている。いつ見てもケンスケは新作ゲームを持って来ている。どうやってそんなお金を手に入れるのだろう。 同じ班の男子で、もう一人、鈴原トウジというのもいるが、姿は見えない。多分、妹の所に行っているのだろう。トウジの妹は生まれつき体が悪いらしく、学校へもたまにしかこない。今日は全校遠足だというので張り切って来たというのに、こんな状況になって。ほんと大変だと思う。 「碇君」 少しぼうっとしていたのかもしれない。突然かけられた声に僕は少し驚いた。 横を見ると髪の長いお下げの女子がいた。両手で大きな黒いファイルを抱えている。 「委員長」 僕は言う。クラス委員の洞木さんだ。 「ねえ、明日香どこ行ったか知らない?」 大きな瞳で彼女は見つめてくる。 「明日香?」 「そう。先生からクラスの点呼を頼まれてて。明日香にも手伝ってもらおうと思って探したんだけど、その明日香の姿が見えないの」 「……トイレじゃないの」 「そう思ってさっき見てきたんだけど。どこにもいないのよ」 心配そうに委員長が辺りを見回す。委員長は三人姉妹の真ん中だって聞いているけど性格はどちらかというと長女みたいな感じだ。責任感というやつがとりわけ強い。5月の運動会のクラスリレーで僕が転んで膝を擦った時も、文句も言わず、保健委員でもないのに手当してくれたりした。 「碇君、悪いんだけど一緒に明日香を探してくれないかなあ」 「……うん」 ともかく委員長には借りが沢山ある。それに僕も何だか明日香が気になってきた。 ふと表を見ると、雨足はさらに強くなっていた。 新箱根資料館は、旧上野科学博物館の別館として5年前に開館、恐竜の化石と仏像の展示がメインという少し変わった作りで有名だった。 フロアは複雑に入り組んでいて、かつ、やたらと大きい。生徒には迷子防止のため電波発信機つきのIDカードを渡されていたが、アスカのカードは集合場所の荷物置き場の上に置かれたままだった。 僕は恐竜フロアに、委員長は仏像のフロアに別れてアスカを探すことにした。人気が無く、暗めの照明の下で並ぶヴェロキラプトルの化石のレプリカはいかにも不気味だった。 「明日香ー」 こわごわと僕は名前を呼んでみる。 返事は無い。 マイラサウルスの卵の展示室を抜けると、三階まで吹き抜けのフロアに出る。そこにはブロントザウルスの骨が組み立てられていた。立ち止まって少し見上げていると、突然、皮膚と肉が骨格を包んだ。呆然としていると、10秒ほどしてまたそれは白い標本に姿を戻す。ホログラムらしい。 「なんだよ」 びっくりした自分に少し腹が立って、つぶやいたその時、フロアの隅で物音を聞いた。何かが硬い床に落ちた時のような響きだった。 ブロントザウルスの台をぐるっと巡ると、また奥に続く通路があった。その向こうに床にうずくまる人影を見つけた。 「明日香?」 僕は走る。なんだろう。何があったんだろう。 足音に気付いたのか、人影が振り向いた。赤毛のショートカットのその顔は確かに明日香だった。だが、そこには滅多に見ない表情……目をうるませた、ほとんど泣き顔……が浮かんでいた。 「なんだ……シンジか」 弱々しい声を上げて明日香が顔を戻す。 肩で息をしながら近づくと、床の上に授業用の赤いノート端末が置かれているのに気付いた。その脇にはRAMディスクが三枚、無造作に散らばっている。 「何やってるの?」 「……ペンペンが」 ぼそりと彼女が口を開いた。 床の端末を覗き込むとディスプレイの中のウィンドウの一つに小さなペンギンの姿が浮かんでいた。他にもウィンドウが五つほど開いており、中はプログラム言語らしき文字で一杯だった。 「なにかあったの?」 彼女は無言で、床に置いたディスクの一枚を端末に差込み、数度キーを叩く。ビープ音が鳴って、ウィンドウの一つが赤く染まる。 「……死にそうなの」 まるで明日香自身がそうであるかのような口調に僕は、不安というより……何故かどきどきしていた。 明日香の隣に座って、モニターに映るペンギンを僕は見た。確か前のクリスマスの時に父さんがアメリカ土産として買ってきてくれた電子ペットソフトの一つだ。僕も最初、猫を飼ってみたけれどもすぐに面倒になって「冷凍冬眠状態」つまり、終了させてしまっていた。電子ペットとは言え知能は三歳児ぐらいはあるし、熱狂的なファンがいるとも聞く。だが、本当のペットを育てるのと同じぐらいまたその飼育は大変なのだ。 明日香がクリスマス以来ずっとペンギンを育てているのは知っていた。けれど、まさかこんな所にまで持ってきているとは……。 「ちょっといい?」 明日香がこくりとうなずいた。素直過ぎて気持ち悪いくらいだ。 キーボードやマウスパッドに合わせて動くはずのポインター自体の動きがおかしい。それにこの指先の感覚。なにか妙に冷たい。指先を見ると少ししめっている。 「もしかして雨に……」 明日香が首を縦に小さくちょっとだけ動かす。 反応はにぶいけれども「ペンペン」は死んではいない。ウィンドウの一つはハードディスクのディレクトリーを表示させていた。スクロールさせて見て驚いた。ほとんどメモリー容量の限界までプログラムファイルが埋められている。こんなになるまでどうやったら育てられるって言うんだ。相当長い間つきっきりで育てていたに違いない。 「どうしよう、シンジ……」 明日香の言葉に僕は体を熱くしていた。 『どうするって、明日香がどうしようも無いものを僕がどうできるっていうんだ』 しかし、その言葉を言うことは僕にはできなかった。本当にそうなのか? 本当にどうしようも無いのか……。とにかく。何か考えよう。何か言わなくちゃ……。 「さ、さっき、委員長が明日香のこと探していた」 バカ、そんなことじゃないだろう。もっと他に……。 「心配してた……僕も……」 明日香は無言でマウスパッドに右手の人差し指を乗せて動かす。ビープ音がまた小さく響いた。 「そうだ」 考えより先に声が出た。明日香が振り向いた。目元が少し赤い。僕はまた動揺した。その目はとても優しく見えた。そしてなぜだか綺麗に見えた。 「なによ」 明日香が言う。 「ケンスケがさっき、電子手帳使ってた。その、それで何かバックアップとかとれるかもしれないし……あいつコンピュータにも詳しいから……」 明日香が何かを考え込むかのように下を向く。 「そうね……このディスクじゃ容量足りないけど……何かメモリーになるものがあれば……」 「いけるよ!」 僕は単純に嬉しくなってそう叫んでいた。おかしな反響がホールに広がる。 「ケンスケを呼んでくる。そうだ。委員長も。明日香、待ってて」 そして駆け出した。 そうだ。いける。大丈夫さ。 その足は不思議なくらい軽く感じられた。 「うわ。なんだよこれ」 端末の前に座ったケンスケは眼鏡の調子を確かめながら声を上げる。明日香はさっきよりずっと強気の表情で……つまりいつもの顔で……ケンスケをにらみつける。 「とにかく、ケンスケ、様子は……」 「あ、ああ……でもこんな大量のデータ入るかなあ」 電子手帳を広げてノート端末と細いケーブルで繋ぐ。 「明日香、大丈夫?」 委員長の言葉に隣を見ると、明日香の顔が少し赤くなっているのに気付いた。 「少し熱がある……」 額に手を当てていた委員長が心配そうにつぶやく。 「大丈夫よ。それよりアンタ早くしなさいよ」 「なんだよ偉そうに。こっちだってやりかけのゲームのデータ消去してまで協力してるってのに」 「ケンスケ頼むよ」 僕は手を合わせた。ケンスケは渋々電子手帳のタッチキーを叩く。 しかし、すぐに手を放しノート端末のモニターの方をのぞき込む。 「どうしたの」 僕の声にケンスケが首を横に振った。 「やっぱ駄目だよ。メインデータを細かく分割して移送しようと思っても電子手帳の容量じゃ限界がある。分散してディスクに保存するってのはもう惣流が試したんだろ?」 「そうよ。だから基本システムは入らないから記憶部分だけを小さくファイル形式にまとめれば……」 明日香が目をまばたかせながら辛そうに言う。 「でも、このタイプの電子ペットは最初もっている基本プログラム自身をどんどん書き換えてゆくんだ。もう今更メモリーデータだけ切り離すのは無理だよ。丸々このまま転送しなくちゃ……そう、もう一台の端末を用意するとか」 「この博物館のコンピュータを使わせてもらえばいいじゃない」 委員長が声を上げる。 「これからか? 第一、そんなの許可が降りないよ」 「そうだ。携帯電話で学校か家のコンピュータに送るのは?」 僕のここぞとばかりの発言にケンスケは溜息をついて見つめ返す。 「そんなことしたら犯罪だよ。ウィルス法ぐらい学校で習ったろ? 自己増殖能力のあるプログラムは通信回線に流しちゃいけないんだ」 「なによ。私のペンペンがウィルスだって言うのぉ?」 立ち上がって、明日香はケンスケの首に手を伸ばす。 「ちょっと、明日香、止めて」 「うぐ」 おかしな声をケンスケが上げ始める。まずい、明日香は本気だ。 「やめっ……」 僕も間に入りケンスケの体を引き剥がす。ケンスケは肩で息をしていた。 「ったく信じらんないな」 「ごめん」 なぜか僕が謝ってしまう。 「とにかく、法律上は電子ペットもウィルスの一種に入るんだ。直接の有線ケーブルを通してしか移動できないようになってるの。第一こんな所まで持ってくるのが非常識なんだよ」 「そうよ、明日香、なんでこんな所にまで……」 さすがに委員長の言葉には明日香も堪えたらしい。 「……ペンペンにも山、見せたかったから……」 いつになく神妙なその態度にケンスケも返す言葉も無く眼鏡のブリッジを押し上げる。 「ケンスケ、頼む……」 僕はまた手を合わせる。 「ま、一応、やっては見るけどさ……」 ケンスケはそう言って床の上にあぐらをかいた。 廊下の向こうではブロントザウルスがまた骨になっていた。 30分後、養護の先生から解熱剤をもらって委員長が戻ってきた時、明日香の端末は104回目のビープ音を鳴らして完全に沈黙した。後に分かったことだが生活防水仕様のその端末は、突然の豪雨に水滴の侵入を許し、結果、回路を8ヶ所もショートさせていた。 「一応、基礎データだけはここにあるけど、どうする?」 ケンスケが電子手帳の画面に映った卵から孵ったばかりのペンギンを差し出す。本当の初期画面のやつだった。 「……いい」 明日香の返事に、ケンスケはキーに数度触れた。ペンギンはコールドスリープ状態に入り、次に「解凍」するまではいつまでも眠り続けることになる。事実上の終了。ジ・エンド。 「ま、惣流もプライドの高いヤツだからな。自分のミスで死なせちゃったというのがショックなのは分かるけど」 「なにも寝込まんでもええのにな」 三日後、ケンスケとトウジはそう言って空席になった明日香の机を眺めていた。 明日香はあの遠足から帰ってから風邪を悪化させ、以来ずっとベッドにいる。僕もこの三日は珍しく朝早く目覚め、明日香の家に様子をうかがいに行っていた。 昨日の夕方、明日香の部屋を尋ねた時には一応ベッドから起きあがって、卵雑炊を食べていた。 うまい言葉も見つからず、かといっておばさんが出してくれた麦茶に手を出す気にもならず、机の椅子に座って明日香がぼんやりと少し冷めた雑炊に口をつけるさまを眺めていた。 「寿命だったのかもしれない」 明日香が突然、口を開いた。 「……いろいろおしゃべりするとね、ペンペンが返事してくれたんだ。何でも話ししたりして……」 僕には答えが見つからなかった。 「早く大きく育って欲しくて、眠る時間も削ってずっと起こしていたのが悪かったのかもしれない」 「……」 「私のせいだもんね」 レンゲをそっと碗の中に明日香は置いた。カチリと陶器と陶器がぶつかる音がする。 「……きっと……」 僕は、必死に言葉を探す。 「でも、きっと……ペンペンはその……」 駄目だ。何を言ってもいい加減な答えにしかならない。どうすればいいのか分からない。 沈黙が長く続いた。遠くで救急車の音が聞こえる。居間からテレビの声もした。僕にはじっとうつむいているしかできない。 「……ありがとう」 ぽつり、と明日香が言った。 僕は無言で麦茶のコップに手を伸ばした。そして、その時、自分は情けないやつなんだと、僕ははっきりと悟った。そうだ。このままじゃいけない。 明日香の白い横顔を見ている内に、僕はある感情に押しつぶれそうになる。なんとかしたい。僕は明日香の為に何かしたい。でも何もできない。苦しい。笑って欲しい。声をかけて欲しい。バカにして欲しい。そして……できれば少しほめて欲しい。 ……いや、そんなことはどうでもいい。もう少しだけこうして一緒にいたい。空になったコップの底を見ながら、僕は気付いていた。 つまり。 つまり、僕は明日香が好きなんだ、と。
「そりゃ!」 明日香の声だ。 「うわあ」 僕は慌てて腰に手を伸ばす。なんとか、ブリーフの縁だけはキャッチできた。しかし体育着の下は膝までずり落ちてしまっている。 「ちっ」 背後で明日香が舌打ちした。Tシャツに今時珍しい緑のブルマー姿の女子達がその後ろでまた忍び笑いをしている。 教室前の廊下先にはケンスケとトウジの姿もあった。呆れた顔をしていた。僕は慌ててズボンを引き上げる。 「な、なにするんだよ」 恥ずかしさと情けなさで耳を熱くさせながら僕は反論した。限界だ。 「なーによ。アンタがぼうっとしているから、ちょっと気合い入れて上げただけじゃない」 「そ、そんな。お、女がすることじゃ無いだろ!」 「前時代的ー。今時そんなこと言ってるからチョコの一つも貰えないのよ」 明日香が両手を外人みたいに開いて言う。いや、実際1/4外人だからそのポーズも決まっている。くやしいぐらいに。 「う、う、うるさいなー。ほっとけよ」 明日香とその後ろの女子軍団をかき分け、トウジとケンスケの側を僕は大股歩きで過ぎてゆく。 「おい待てよシンジー」 ケンスケの声も無視して僕は階段を降りる。 「センセも難儀ちゅうか、つくづく哀れなやっちゃなあ」 トウジがにやにやしながら僕の左に隣にやってくる。 「ところでシンジ、さっきのは本当か?」 右脇にケンスケが現れる。 「なにが?」 ズボンの調子を確かめながら僕は答える。 「チョコだよ、チョコ。おまえ、もらわなかったの?」 眼鏡のブリッジを押さえながらケンスケが尋ねてきた。 「……眼鏡のフレーム、緩いならいい加減修理すれば」 「ごまかすなよ。なあ、どうなんだよ」 「そんなもん、あるわけ無いだろ」 僕は歩行ピッチを上げる。そう。あるわけ、無い。 「ほえー。センセがのう。これは意外やったなあ」 トウジはしつこく追ってくる。 「てっきり惣流も、シンジにはいつも、上げているもんだと思ってたよ」 またケンスケだ。……何をそんな嬉しそうな顔してるんだ。 「去年のバレンタイデーの時だってもらってないよ。もういいだろ」 吐き捨てるように言って僕は、まぶしい校庭に走り出た。その日差しは肌が痛い程に強かった。 そうなんだ。去年、それまでは義理でという事でもくれたバレンタインデーのチョコレートを、明日香は完全に無視してくれた。もっとも僕だって「どうしてくれないのか」なんて聞けるはずも無い。 そして一年が過ぎ、先月2月14日を迎えた時もやはり明日香からのチョコは無かった。その上、今度は見せつけるように僕の父さんには義理チョコを渡していた。 実を言えば何かの間違いで、誰もいない所で本命チョコの一つも用意してくれているのかとも期待していた。だが、さっきの明日香の一言でそれも単なる幻想だと思い知らされた。 だったら。だったら、どうして毎朝起こしに来たりするんだ。どうして期待させるようなこと……。 ……母さんか父さんが何か頼んででもいるのかな。それともつまんない同情でもされているのか……。いや……もうどうでもいいや……。 明日香は僕をおもちゃみたいにからかっているだけなんだ。客観的にみたらそういうことなんだ。 そうさ。 ……ちくしょう。 「ただいまー」 反射的言ってしまってから僕は気付く。 「……ったって誰もいない、か」 卒業も近くなって、学校の授業も昼には終わる。この時間にはまだ父さんも母さんも帰ってはいない。 何か食べるものは無いかと冷蔵庫をはぐるとミートソースの缶を見つけた。幸いスパゲティーの麺もある。鍋に水を張り火を付け沸騰するのを待つ。その間にミートソースの缶を開け、皿に移してレンジで暖める。水が沸騰すれば塩をひとつまみ入れ、麺を入れる。 後はゆで上がるまで10数分、することは無い。 リビングに行ってBGM代わりにとテレビのスイッチを入れた所で、玄関のチャイムが鳴った。 壁のモニターのスイッチを押すと明日香の姿が映った。 「シンジ、いるんでしょ。お昼食べに行こう」 その時、怒りに似た感情が僕をつつんだ。なんだよ。なんなんだよ。 「……家で食べるから、いい」 そう言って、僕は無造作にスイッチを切った。 玄関の方から扉を叩く音が聞こえた。 僕はリモコンを手に取りテレビのボリュームを上げる。軽快な音楽が鳴り響く。 キッチンに戻ると沸騰してお湯がこぼれそうになっていた。差し水はできないので少しだけ火を弱める。菜箸で軽くかき混ぜ、一本を取り出してみる。 そして、軽く噛む。 もうちょっとかな。 残ったパスタを元に戻した所で誰かが僕の肩を叩いた。 「うわ」 ふりむくと頬に、爪のとがった人差し指が刺さる。 「へへん。ひっかかった」 タンクトップにホットパンツ姿の明日香が意地の悪い笑みを浮かべてそこに立っていた。 「よくも無視してくれたわね、このバカシンジ」 そしてデコピンを僕に決める。結構痛い。 「な、なんで」 「バーカ、ベランダからあんたの部屋づたいに決まってるじゃない。ちったあ部屋、片づけなさいよ。サッシの所とか埃たまってたわよ」 小姑みたいなこと言う。あれでもトウジやケンスケの部屋に比べれば綺麗な方なのに。……そうでは、なく。 「なーに、スパゲティ? ミートか……まあいいわ。昼食代浮いちゃったし」 明日香はためらい一つ見せず冷蔵庫に近づき、中から「Teao」のペットボトルを取り出しラッパのみし始める。 「明日香!」 渾身の力を込めて僕は言う。そうだ。もうこんな風に都合のいいように振り回されるのはご免だ。僕だって……プライドがある。 「なによ」 緊張感の無い声。いささか脱力する。 「は、話しがある」 くそ。また、どもっている。冷静に。落ち着け。 「うん」 きょとんとした目で見つめてきた。可愛いかも……いや、駄目だ駄目だ。 「あっ!」 明日香が立ち上がる。 「え?」 振り向くと鍋からまたお湯があふれていた。 「ちょっと、茹ですぎじゃない? これ、あんたが食べなさいよ」 すたすたとコンロに近づき、中を一瞥し、明日香は言う。 無言で僕は鍋の中身をパスタごと流しに捨てる。 「もったいないわね」 無視して水を張り直し、二人分の麺を入れた。 よし。決意もあらたに振り向くと、今度は彼女はリビングに移動していた。 「……」 しばらく立ちつくしていたが、それでも僕はあきらめはしない。言うんだ。きちんと。……何を? 「……なにしてんの?」 明日香は背後の僕にちらっと視線を送ってまたテレビの方に目を戻す。手には持参してきたらしきポテチがある。 「明日香……僕は……」 鼓動の高まりを感じながら僕は口を開く。 「……ちょっと待って」 顔を動かさずに明日香が言った。 「……私に先に話させて」 え? テレビから笑い声が聞こえた。そして軽佻な音楽。 「明日香……」 彼女のポテチを取る手も止まる。 「あんたが悪いんだからね」 つぶやくように明日香が言う。 「分かってるわよ。でも、はっきり今は聞きたくは無い……それにもうすぐこんなのもおしまいだから」 ビニールががさがさとこすれる音がする。 テレビはCMに変わっている。 「もう、終わりだから……」 明日香が顔をそむける。それから突然立ち上がった。 「私、帰る」 「ちょ、なんだかさっぱり分からないよ」 思わず明日香の右手をつかんでしまう。 「離しなさいよ!!」 強烈な力で僕の腕ははねとばされた。 そのまま明日香は小走りに玄関に向かって消えた。 一人取り残された僕は呆然とただその場で立ちすくむしか無かった。 数十分後、二枚の皿にスパゲティをよそったが、結局、明日香は戻ってくることも無かった。 そしてその晩、明日香は家出した。 「明日香、見つかった?」 洞木さんが息せき切って玄関にやってきたので僕は驚いた。 そして初めて僕は明日香が行方不明になっていることを知った。もう時刻は11時を回ろうとしている。明日香のおばさんが心配して洞木さんの家に電話をかけ、それで慌ててここへ飛んできたのだという。 「シンジ、心当たりは無いの?」 玄関先まで出てきた母さんがそう尋ねるが僕にも訳が分からない。 「そんなこと言っても……第一まだ家出と決まったわけでも無し」 「でも、明日香、すごい悩んでいたみたいだったし」 洞木さんが唇に両手を当てながらそう言った。 「悩むって何を」 「ほら、明日香のドイツ行きの話し……」 「ドイツ!?」 僕の言葉に洞木さんが大きい目をさらに大きくした。 「じゃ、碇君聞いてないの?」 首を縦に小さくふり、傍らの母さんを仰ぐ。母さんは少し苦しそうな顔をしていた。 「……知ってたの、母さん?」 「ええ。明日香ちゃん、卒業式が終わったらお母さんと一緒にドイツに行くことが決まってるのよ」 「どうして……」 「明日香ちゃんのお父さんとお母さんは相談してしばらく別々に暮らすことになったのよ」 「……なんだよそれ」 訳も分からず怒りがこみ上げてくる。母さんにも、明日香にも、明日香のおじさんやおばさんにも……そして自分にも。 「とにかく探しに行こう」 僕は靴を履いて表に出ようとする。 「ちょっと待ちなさい」 母さんはそう行って部屋の奥に消える。そしてすぐに片手に携帯電話を持って戻ってきた。 「これ、持っていきなさい。ちゃんと連絡するのよ」 僕は渡された電話を少しみつめてから、大きくうなずいた。 「そういえば前にもこんなことあったね」 夜の公園を一巡りした後、洞木さんがそんな事を言った。 「前?」 「ほら、去年の箱根山の時」 「ああ」 忘れてはいないが、あまり何度も思い出したくも無かった。明日香へのあんな気持ち、気付かなかった方がよかったんだ。自分の事を好きになってもくれない人を好きになったところでどうしようも無いじゃないか。こんなの……不毛だ。 『そう……まだ、こっちにも連絡は無いから。うん。今日はお父さん遅いみたい。危ないないから、あんまり遠くまでいかないで、どこかで見切りをつけて帰ってきなさいよ』 電話で連絡し終え、僕は溜息をつく。 洞木さんと僕はドリンクの自動販売機の前のベンチに座って休憩していた。夜蝉の音がうるさい。 「明日香、どこ行ったのかな」 カルピスの缶をにぎりしめながら洞木さんがつぶやく。 「……洞木さんはいつ聞いたの?」 「うん?」 「明日香が、その、ドイツへ行くという話し」 「うん……おとといに。なんか深刻そうな顔してたから尋ねてみたらお母さんと一緒にドイツのリュッセルブルグに行くことが決まったって……明日香、碇君には話して無かったんだね」 僕は昼間の明日香の態度を思い出していた。あの時言いたかったのは多分、このことだったのだろう。でも、『僕のせい』って何だったんだろう。 「明日香……なんでああなのかな」 突然そんな言葉が浮かんで口をついた。 「僕には明日香の気持ちがわかんないよ。気まぐれで自分勝手で、強引で……なんで僕をわざと困らせるようなことばっかり……」 遠くで車が走り抜ける音がする。 「明日香は碇君に、甘えてるのよ」 その言葉に僕は洞木さんの顔をみた。正面から照らされる自動販売機の明かりに照らされて白く光って見える。 「甘えてる? 僕に?」 「ああいう乱暴なやりかたでしか碇君に甘えられないのよ。……そうでもしないと碇君は自分のことなんて無視するだけだからって。そう言ってた、明日香」 「でも何で僕に……」 洞木さんが僕の方を向く。 「本当に分かって無いの?」 険しい表情を浮かべていた。こんな怖い顔の洞木さんを見るのは初めてだった。 「分かるわけ無いよ」 目を合わせているのが苦しくなって僕は正面の自動販売機をにらみつけた。そして地面にあった空の緑茶の缶を右足先で軽くこずく。数センチ揺れて止まる。 「明日香は碇君の事が好きなのよ」 「え?」 気がつくと足下の缶が横倒しになって前へと転がっていた。無意識の内に蹴ってしまったいたのだろうか。 「な、だ、だ、だって、どうして?」 「知らない」 洞木さんは立ち上がり、転がった空き缶を拾うと、自動販売機の隣にあるくずカゴに捨てた。 明日香が。僕を? 分からない。理解不能だ。どういうことだ。 「そんな、そんなはず無いよ。だって明日香は……」 とそこで僕は言葉を閉じた。 何かが頭に浮かんだのだ。 「裏山だ」 僕の言葉にあっ、と洞木さんも声をあげる。 「行こう」 そして僕らは走り出した。 学校裏の林を抜けると小さな丘がある。そこを僕らは「裏山」と呼んでいた。そこには樹齢千年はあると言われる大きな楠木がある。 その幹にもたれかかるようにして明日香は座っていた。 「明日香ー!」 洞木さんが叫ぶ。僕は彼女の後を息を切らせながら追う。 明日香がこっちを向いた。満月の白光のせいで辺りはわりと明るい。名の知らぬ小さな白い花がぽつぽつと咲いている。 勢いの込んだまま、洞木さんが明日香にしがみつく。 「ヒカリ」 明日香も両手を彼女の体に回した。 僕はそれをじっと黙って眺めていた。 明日香の側には、紺の大きなスポーツバッグと、赤い端末のディスプレイのかけらがあった。あの、ペンペンを飼っていたノート端末の一部だ。明日香の風邪が直った後、洞木さんと三人でこの楠木の根本深くにそれを埋めた。新しい端末は明日香のお年玉貯金を切り崩して購買部で購入した。そう言えば僕も少しお金を貸していたことを今になって思い出す。 「ちょっと深くに埋めすぎだったわね」 明日香はかけらを眺めながらこともなげに言う。 「心配したんだから」 体を離した洞木さんは少し目元をこすっていた。 「明日香」 僕は大きな掘り返しの穴を見つめていた。確かに相当深い。 「聞いたよ。ドイツのこと」 「……うん」 風がそよいだ。草が音を立ててなびき、頭上の木の枝が騒がしく揺れる。 「その……大丈夫だよ」 何が。自分の言動に自信が持てなくなる。何を僕は言いたいんだ。 「……ちゃんと毎朝起きれると思う」 明日香が吹き出した。 「うぬぼれんな」 そして彼女は立ち上がる。 「さってと。おなかすいちゃった。お昼も食べ損ねたし」 「帰って来れるんでしょ?」 洞木さんが尋ねる。 また風が来た。 「あったり前じゃない」 そう言って笑うと、明日香は左肩にバッグをかけ、右手にディスプレイのかけらを持って丘を駆け下りて行った。小枝がざわめく。 フクロウがどこかで鳴いていた。
目が覚めて時計を見ると朝の6時だった。 カーテンを開くとまだ表は灰色の朝靄につつまれている。サッシを押し開けると少し冷たい空気が頬をなでた。深呼吸してみる。気分は悪くない。 「早起きは三文の得、ってか」 気になって、隣のベランダの方を見た。惣流家とは一応ボードで仕切られているが、留め金はもう何時の頃からか分からない昔に外され、押せば簡単に人一人通れるだけのスペースができるようになっている。 明日香の部屋の方を見てみるがカーテンがかかっていて中はうかがえない。当たり前か。まだ眠っているのだろうか。 考えてみるとこのサッシを開けるのも久しぶりだ。鍵はかけて無いが、エアコンが始終かかっているので特に開く用事も無かったのだ。 そう言えば、明日香が埃がどうとか言っていたっけ。 かがみ込んでレールを見ると、確かに埃やゴミやらが硬くなってこびりついている。所々さびてもいる。考えて見れば生まれてこの方、ずっとこの部屋で過ごしてきたのだ。そして、それは明日香も同じだった。 今日の卒業式が終われば明日香達はもう午後にはここを出る。生まれて育った場所を離れるのだ。旅行などでは無く、何年も。もしくは永久に。 僕は床に座り込んだまま動くことができなかった。 もしかして自分はひどい間違いをおかしているんじゃ無いのか。 そんな気持ちが僕の体を縛った。 明日香はいなくなるんだ。 このまま。もしかしたらもう二度と会えないかもしれないんだ。 本当に後悔は何も無いのか。 僕は自分でも馬鹿みたいだ、と思いつつ床に頭を置いた。すると涙が出てきた。それは留まる事を忘れたようにあふれ続けた。 明日香。 僕は名前を心で呼んでみる。 明日香。 もう二度と呼ぶことは無いのかもしれない。 そして、鼻水まで出てきて、そんな自分が情けなくなったその時、僕は「それ」を見つけた。 式典が終わり、賞状入れの円筒ケースと、学校で使用していたゴム印や体育カード、そして例のノート端末等が体育館の入口でクラス毎に配られる。 あちこちで涙ぐむ親たちの姿も見えたが、卒業生の大半はすました顔をしている。ほとんどがそのまま中学で顔を合わせるのだ。もちろん、例外はいるが。 校庭隅の銀杏の木の下、明日香の回りにはクラスの女子が集まっていた。その中でも特に洞木さんはハンカチをずっと握りしめたまま明日香に何かを話し続けていた。当の明日香は笑顔を崩さずにずっといる。 「いけすかんヤツだったけど、おらんようになるかと思うとやっぱ寂しいもんかもなあ」 トウジが賞状入れで肩を叩きながらそんなことをつぶやく。 「まあね。性格はともかく第三小学校の誇る美少女ナンバーワンであったことには間違い無いしね」 ケンスケはここぞとばかりにビデオカメラを構えて、女子の様子をディスクに収めている。 「センセは惣流に、お別れはせんでええんか?」 「そうさ。最後のシーンを俺がちゃんと撮ってやるからさ。どかーんと最後に一悶着やってこいよ」 僕はふっと大きく鼻で笑った。 「なんや。行かんのか? 一応、最後のけじめぐらい……」 トウジの言葉を遮るように、僕は手にした荷物一式を押しつけた。 「シンジ?」 ケンスケがファインダーから目を離す。片手で僕はそれを無理矢理戻す。 「ばっちり撮っておいてくれよ」 呆けた顔つきの二人に背を向け、女子の集団の方に大股で僕は歩いていく。 「明日香!」 僕は叫ぶ。 集団の一部が開き、明日香の姿が現れた。 「なによ」 眉間に皺を寄せて明日香は僕をにらむ。でも僕はそんなことは気にしやしない。 「委員長、これ、ちょっとお願い」 明日香の持っていた荷物を洞木さんに渡すと僕は右手で、明日香の左手をつかんだ。 「ちょっと、シンジ!?」 「じゃ」 回りの女子達に空いた左手で挨拶すると、僕は、明日香を引っ張って校門へと向かう。 「シンジ、なに、ちょっと腕が痛いー!」 「丘へ行こう」 僕は前を向いたまま言う。 「丘?」 「そう」 僕は立ち止まり明日香の方を向いた。 そして、手の力を少しゆるめた。 「駄目かな?」 あくまで強気の姿勢を崩さす僕は尋ねる。 「いいわよ」 明日香の手が僕の手を握り返してきた。 「いい天気ー」 手をつないだまま僕らは丘を上ってゆく。 見上げる空は青くどこまでも澄んでいた。 風も涼しい。明日香のショートカットが柔らかにそよぐ。 「で、なんなのよ。珍しく強引にさ」 楠木の木陰に入るや否や、明日香はそう言って僕の手を離した。 「渡したいものがあって」 あくまで僕は冷静だった。 「へー。あんたにしては気が利くじゃない」 僕はブレザーの内側に手をのばし、それを取り出した。 「……それ」 明日香の顔つきが瞬時にこわばった。 「今朝、机と壁の隙間に落ちているのを偶然、見つけたんだ」 僕の手の中には20センチ四方の緑色の包みがある。それは赤いリボンで十字で縛られ、金色のシールが一枚張ってある。 「最初何かと思った。見たことも無い包みだし。で、これを見てまず驚いた」 シールには【St.Valentine's day】とプリントされている。 「ほんとにびっくりした。多分、明日香からなんじゃないかと思ったけど、自信は全然無かった。だって、明らかにチョコなんて渡さないって態度だったし。でもとにかく確かめなくちゃ、と思って開いたんだ」 僕はリボンを外し、包みを開く。 透明なアクリルケースがあり、その上に「封筒折り」に畳まれた便せんが載っている。 「広げるね」 確認を取るように僕は言った。 明日香は黙ってうなずいた。顔に表情はまだ無かった。 「それで、読んだ。そしてもっと驚いた。それはつまり……書いてあることにもすごく驚いたし」 明日香の顔は下を向いていて見えない。 「それよりももっと驚いたのは最後にあった日付だった」 僕は手紙を丁寧に広げて伸ばす。そしてそれを読み上げた。 「2011年2月14日」 手紙を持った手を下ろし、僕は明日香に告げる。 「去年だ。それ以来、どうしてか分からないけど……いや、多分僕が気付かずに机の物をどかした時、落ちたんだろうけど……ともかくこれは、机のわきの隙間の中でずっと眠っていた。今朝、僕が発見するまで、ずっとね」 僕は明日香の言葉を待った。 風は変わらずそよぎ続ける。 「わ、わた、わたし……」 明日香はうつむいたまま彼女の口が開く。それは今まで一度も聞いたことが無いひどく狼狽した声だった。 「知らなかったんだ」 僕は言う。 「知らなかったんだよ。だからここで書かれた約束のはずの去年の3月14日にも僕は返事ができなかった」 明日香はスカートのヒダを両手で強く握りしめていた。目は前髪に隠れて見えないが唇が強く噛みしめられているのが分かった。 「……一年遅れだけど……今からでも返事、してもいいかな」 僕も緊張してうつむきたくなる。でも今は、駄目だ。 明日香が小さくうなずくのが分かった。 「僕は明日香が好きだ」 僕は言った。何度も何度も今朝練習した通りに。 「僕は明日香が好きだ」 もう一度言った。何度でも言える。何度でも。 「僕は明日香が好きだ。これでまでも。これからも。ずっと僕は明日香が好きだ」 明日香は突然背を向け向かって走りだした。そして楠木の幹の前で止まり、そのままもたれるように体をそこに預けた。 僕は追いかけ、少し距離を置いて明日香を見守った。 しばらくして明日香は言った。 「こっちだって……」 顔は木の方に向けている。 「こっちだって、必死だったんだから。怖かったんだから」 言葉も無く、僕は立ち続ける。 「なのに……だから……」 ゆっくり僕は近づく。 「こんなの無いよ……ずるいよ……」 ちょっとためらってから、僕は彼女の肩に手を置いた。そのとたん、明日香は体をふるわせた。 「……だって、今日……もう、私ドイツ行っちゃうんだもん……こんなのずるいよ……」 涙が明日香の足下にぽたぽたとたれていく。 僕は明日香の体を腕ごと抱きしめた。 「シンジのせいなんだから。どんどん背とか大きくなってさ。前は私よりずっとちっちゃかった癖にさ。怖いじゃない。バカシンジの癖にさ。なんだか立派に見えたりしたら怖いじゃない」 明日香がうつむいたまま体の向きを替えて、僕の肩に顔を押し当てた。そして両腕が僕の体に回った。僕も同じようにした。 「大丈夫だよ」 自分に言い聞かせるように僕は言う。 「大丈夫。きっとすぐにまた会えるよ」 明日香の体の暖かさが僕の体を包んでいた。このままずっとこうしていれば何もかもうまくいって、ずっとずっと一緒にいられるような気がした。 「それまで待てる?」 顔を肩に押しつけたままの声で明日香が尋ねる。 「うん」 僕はうなずく。 「ほんとに?」 明日香が体を離した。額は幹とすれて赤くなり、目もどうしようもないぐらいに腫れてる。 「うん」 もう一度僕はうなずく。 「じゃ、証拠見せてよ」 そして彼女は目をつぶった。その頬には木の葉が二枚ついている。髪も汗と風でくしゃくしゃになっていた。 僕は彼女の頬に手を伸ばして、葉を落とした。それから髪を軽くとくようにしてなでた。そして、顔を近づけた。鼻息が唇の上に感じた。明日香は少し震えている。僕も震えていた。そして唇を重ねた。 最初は変な感じだった。僕は明日香を抱く手に力を入れた。明日香もそうした。そして顔を離す。ちょっと明日香の目が開く。でもすぐ閉じる。 もう一度キスをした。今度は少し長かった。それも終わると、僕らはずっと黙って木の下で抱き合っていた。本気で時間が止まって欲しいと願った。その為なら何を犠牲にしても構わないと思った。そうだ。他には何もいらない。 どちらからとも無く体を離した。 「行こう」 それも僕の言葉だったのか、明日香の言葉だったのかよく分からない。 手紙と包みをポケットにしまい直すと、僕らは手を繋いだまま丘を降りた。 学校には戻らなかった。 こんな顔の明日香をみんなに見せたくも無かったし、明日香のおばさんも式が終わり次第そうそうにマンションに戻って、そこで車を出して待っているはずだった。 荷物や何かは、トウジや洞木さんのことだから家まで持ってきてくれるだろう。無言で僕らは手を握りあったまま帰り道についていた。 家に近づくにつれ、僕らは少しずつ手をゆるめ、見慣れた通学路の時には完全に僕らは二人になっていた。 明日香が僕の顔をちらっと見て笑った。どうも僕も相当すごい顔をしているらしい。でも、きっと君の方がすごいと思うよ。そんな軽口を叩こうと思っている内にマンションの建物が見えて来た。 案の定、今日子おばさんは自家用車をマンションの前に出し、僕らの帰りを待っていた。トウジや洞木さんやケンスケの姿も見える。 向こうも僕らに気付いたようだ。僕と明日香は少し顔を見合わせて笑った。そのまま手をつなぎそうになったがやめた。やっぱりトウジたちの前では少し恥ずかしい。 そのかわり少し小走りに近づいた。 この泣き顔だけで何を言われたものか分かったもんじゃないが、そんなことはもうどうでもいい。 「明日香、シンジ君」 おばさんが声をかけてくる。 あれ、と思った。 おばさんの顔は怖いまでに辛そうに見えた。幾ら別れの時だからと言って、そんなに深刻な顔されるとかえって困る。 そんなことを考えながら回りのトウジたちを見ると、やはり同じような表情を浮かべていた。 なんだっていうんだ。 もっと明るく別れようよ。 そんな思いを込めて笑顔を見せた僕に、おばさんは言った。 「シンジ君。おちついてよく聞いてね」 「はい」 僕は余裕を作った笑みで答える。おばさんは続けた。 「さっき、お母さんが学校からの帰り道、対向車線の大きなトラックにぶつかってね……」 そして、僕は母の死を知った。
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