MORIVER'S SWEETEST DIARY (46) 更新日記 (46)

5月 14日(木) またはじまったよ/EVA小説リンク/WITH/ブックマーク
5月 16日(土) 試写会/ロミオ&ジュリエット/セブン
5月 18日(月) 辞書の危機/セブン追記/鬱?
5月 22日(金) 「朝の風景」/セブン台本発見
5月 24日(日) 人間失格
5月 25日(月) リンクをいくつか更新/渇きの海
5月 26日(火) 課金


1998年5月 26日 (火)  プロバイダーのサービス期間がすぎて、従量制に切り替わっていたのをその ままにしていたため、課金がものすごい額になっていた。あほらしくて実に言 葉も無い。今日もまた雨。 (23:08)
1998年5月 25日 (月)  雨、のち晴れ、そして雨。 ***  これまた10ヶ月ぶりにDeep・Eva Linkを更新する。今更ではあるが、何も しないよりかはマシだとも思ったからだ。その裏にはせっかく書いた自分のも のを読んでもらえたら、いいな、という自分勝手な気持ちがあるのを、ここで 正直に告白しておく。  リンク願いをもらってそのままになっていたのを何ヶ月もたって、こんな形 で実行するのは失礼な行為だとは分かってはいるが。などとぶつぶつ言うのも それこそ昨日言う「自己嫌悪による自己イメージの防御」という卑劣な言い訳 であることは分かっているのだが。やっちまったよ。ちょこちょこ訂正はして ゆくつもりである。  同時に、一から始めるエヴァンゲリオンの一部も少々修正。しかし、我なが らリンク先も含め、最低限にまとめただけあってあまりいじるところは無い。 ちょぴり自慢。  パーリタのリンクも一つ追加。  なんとか本編も更新したい。こちらは去年の10月以来停止したまま。 ***  2001年宇宙の旅、でも有名なアーサ・C・クラークの書いたSF小説、 「渇きの海」を読む。月面観光船が、月の流砂に沈み、それをどうサルベージ してゆくか、そして船内でのパニックをどう沈めるか、というサスペンス仕立 てになっている。なんと出版は1961年。アポロもまだ月に着陸していない頃の ものだ。しかし、その描写はかなり細かく、今読んでも遜色が無い。  面白いのは何と言っても、その砂に埋まった船内での様子、である。  まだ30をすぎたばかりの若いキャプテン、そのキャプテンが密かに思いを 寄せているガイドの女性、たまたま乗り合わせていた宇宙開発の生きた英雄で ある提督、理知的な客、パニックになる客、UFOが自分をおっかけてきてい るといい出す客。  ただ救助を待つ間のパニックを防ぐため、提督とキャプテンは「娯楽委員 会」なるものを結成し、乗客につねに何かに意識がいくようにしむけるよう、 組織してゆくくだりに新鮮さを感じる。  白紙の手帳を使って、トランプを作りポーカーに興じさせたり、船内にある 小説本を集め、朗読会を開いてみたり、はたまたなぜ月に来たのか、を詰問す る擬似法廷をつくりあげたり、次々と計画を実行してゆく様はアメリカ教育の 一端を垣間見たようで実に興味深い。  企業では計画の推進を図るため「プラン・ドゥ・チェック」というプロジェ クト推進方法を徹底させると言う。「計画・実行・検証」の3段階をしながら、 再び計画を建て直し、目標を達成させるというものだ。  本書の中で、提督とキャプテンが次々と新しいプランをたてては「乗員の意 識の結束による、パニックの防止」という目標を達成してゆく手際には関心さ せられる。ある意味危機状態での行動計画の教科書のように思える。もっとも、 娯楽をこのように計画的に行っていくという感覚自体がどこかキッチュで面白 いという部分もある。これはクラーク自身の性質、なのだろうか。読みながら、 ボーイスカウトや臨海学校などで行うレクリエーションの様を思い出していた。  実はこのリクリエーションというのが僕は苦手だった。わりと一人遊びして も不満は無いの自分なので、集団でやる遊びの計画というのに関心が薄い。そ んなものを立てる役割を与えられたら本屋で、その手の本を買ってきてしまい、 寒い計画をたててしまう気がする。酒でも飲んでてよ、なんて言ってしまうか もしれない。それで自分は隅っこで疲れて眠っていたり。いよいよ寒い。  だがとりあえず、今回、本の朗読でもよいんだという事実に、少しほっとさ せられた。設定として乗客がかなりソフィストケイトされた人たち、だからこ そ通じるのかもしれないが。マンガでもよいわけだし。公開討論というのも面 白そうだ。ありがとう、クラーク先生。ボーイズ・ビー・アンビシャス。 (5/26 1:59)
1998年5月 24日 (日)  雨である。  昨日までの晴天ぶりが嘘のようにまた、どしゃぶりである。  バイトを探そうとフロムAを買って、履歴書の下書きなどをしてみるが落着 かない。「術後」の経過を見てからとも思うのだが、家にいてもついごろごろ してしまうだけなのだ。たまに教科書を開いてもみるが、落ち着かず、パソコ ンを立ち上げ、メールを書いてもみても文章がのらない。  小説も書いて見る。こちらは思ったよりまだ書ける。ただし、どんどん自分 の世界へトリップしてしまうので、現実の全てのことにいらいらが生じてくる。 なんでこんなになってしまうのか。かといって、現実に適応すると、再び世界 に戻るのに苦労する。  本棚から岸田秀の「ものぐさ精神分析」がおちてベッドの上にのっかってい た。ぱらぱらと開くと自己嫌悪について述べている章があった。いわく、自己 嫌悪ほど卑劣なものは無い、という。現実の行為に対するエクスキューズをた だあたえているものにすぎないものだ、と。太宰治の「人間失格」が例に出さ れていた。岸田氏にはその気持ちが分かるだけに許せない気持ちもひとしおの ようである。この章の最後の言葉は激しい。  『奥野健男氏によれば「この作品は、ある性格をもって生まれた人々の、弱 き美しきかなしき純粋な魂を持った人々の永遠の代弁者であり、救いである」 そうだが、わたしに言わせれば、「人間失格」は、この上なく卑劣な根性を 「持って生れ」ながら、自分を「弱気美しきかなしき純粋な魂」の持ち主と思 いたがる意地汚い人々にとってきわめて好都合な自己正当化の「救い」を提供 する作品である』  と、その後新聞を読むとこの太宰治の「人間失格」についての草稿が見つか ったという記事が載っていた。なんでもそれは、作品についてのメモや省略さ れた場面についての原稿の集まりらしく、原文と照らし合わせると、今まで自 伝的と言われていたこの作品も、かなり恣意的に作戦を持って描かれた作品で あることが分かるのだという。  やはり、どんなに自伝的と言われるものであっても、作者と作品はイコール では無いということなのか。否、自分を描こうとしても自分にはならず、自分 を描かないでも自分が出てきてしまうのが、作品と自分との関係と言うべきな のかもしれない。  であるから、この日記の記述も信用してはならないのである。どれが、真実 かなどと言うことは確かめようも無いのであるから。  それはそれとして、このように偶然に開いたページと、今日の出来事が偶然 にもつながっているということはまま、あることである。「共時性」というほ ど立派なものではないと思うが、一つの視点を持って世界をみると、意外なつ ながりが濃く、目の前に広がって見えるのも真実だと思う。  たとえば、社会科でGNPについて学んだその日、家に帰って新聞を読むと、 意外に多くのGNPという文字が広がっているのに気づき驚くということがあ る。流行に関してもそうだ。雑誌などで、はやりの服はこれだ、というものを 見てから街に出ると、なるほど、たしかに着ている人が多いと気づかされたり もする。  人間は普段実に多くの身近なものを無視して生きているという証拠だと思う。 だから、逆に妙に全身の感覚がぴりぴりしている状態だと、全てのことにメッ セージが隠されているような感覚に襲われてしまう。それは実にオカルト的感 覚なのだが、今日はなにかそんな感覚でいっぱいで、その重さに息苦しい感じ を覚えている。  雨はまだどぼどぼ降っている。  今日は昼すぎから6時頃まで眠ってしまっていた。  人間、失格。 (21:05)
1998年5月 22日 (金) 「朝の風景」  昨日の早朝、4時10分のことだった。  僕がパソコンに向かって、たまっていたメールの返事を書いている時。「お らぁ」という男の叫び声に続いて、ごっ、という鈍い音が表から聞こえた。そ の声と音にはなにか不気味な響きがあった。  記憶が浮かぶ。いつか見た、新橋駅で、若い男がサラリーマン風の疲れた男 の耳をめった内に殴り付け、そこから血がたれていた光景。そして、都営浅草 線の三田駅で、チーマーっぽい男が酔っ払い風の男を背負い投げでコンクリの ホームに頭からつきおとし、周囲に響き渡った低い衝突音。  パソコンの電源もそのままに、僕は表へ出た。空は薄く青白く、表は朝を迎 えようとしている。音のあったらしき方向へきょろきょろしながら歩く。駐車 場が二つ。隣には最近改装工事を終えたばかりの妙に小奇麗な児童公園がある。 その入り口には、青い石の魚の車止めが6本立っている。その傍らに横たわっ たスクーターがある。メット入れの部分が開いており、中から封筒や工具、タ オルといったものが散らばっていた。封筒には卒業証書とあった。朝もやが周 囲に立ち込めていた。  家に戻る。時刻は4時14分。少し考えてから、家の裏手にあるアーケード 商店街の中に入り、その出口の先、私鉄の駅の前にある交番へとかけていった。  交番には顔の長い、比較的若い夏服の警官がいた。  息が少し荒くなりそうなのをごまかしながら、冷静に、淡々と近くの公園で スクーターのメット入れのところが壊され、中身が散らばっていること、その 直前に男の声が聞こえたことを告げた。警官は、市街地図を広げ、その公園は どこにあるのかと聞いた。公園の位置も知らないのかと内心思いながら、その 場所と自分の家の位置を示す。彼は、メモ用紙にその公園の名前と僕の名字を 書き留め、「もう少ししたら交代の者が来るからそうしたら自分が見に行く と」言った。去り際にもう一度僕の名前を尋ねてきた。そうです、と答え、僕 はとぼとぼと家に返った。  それから少し眠った。7時すぎに朝起きると、母が「パンが無いからコンビ ニで買って来てくれ」と言った。しぶしぶ立ち上がると、上の妹が「私は、午 後ティ、ストレート」と言い、下の妹が「わたしは500ミリのペットボトル のお茶ね」と言った。  俺は使い走りじゃない、と叫んだもののその声は無視され、母から千円をあ ずかり、しぶしぶ表へ出た。  途中、公園の前を通ると、倒されたスクーターは立たされていたが、ちらば ったものは依然としてそこにあった。しかし、少し一個所にまとめられている。 そのそばでは、竹箒を持った作業服姿の初老の男が表情の無い顔で、地面を 黙々と掃き続けていた。僕はつまらないものを見た、と思い、その場を離れた。 ***  コンビニに行ってグリーンのプラスチック製の買い物を腕にぶらさげ、午後 ティとおーいお茶のペットボトルと菓子パンを3つそこに入れた。  レジには白い半袖のワイシャツを着た髪を3分の1ほど茶色にした女子高校 生が、おにぎりを一つとお茶を買っていた。一円玉を含む小銭を出して彼女は 支払いをしている。ぱりっと真新しく、アイロンのかかったそのワイシャツを 通して白いブラジャーの後ろのラインが透けていた。彼女は去り、僕も支払い を済ませる。表に出ると、彼女は友人の女の子が運転するママチャリの後輪の でっぱりに足を乗せ、立ち乗りの状態のままゆるやかな坂を下っていった。高 くなった太陽の日差しをあびて、ワイシャツの背中は白く強く輝いていた。 ***  「セブン」の完成台本前のスクリプトをネットでみつける。  http://geocities.datacellar.net/SoHo/Museum/9187/seven.txt  全体的に完成作品より長い。ミルズと出会う前のサマセットと街の描写が長 い。ラストの部分も映画とは少し違う。どことなく小説的な匂いを感じた。最 初の方と最後の方だけ、全体の3分の1ほどだけ読んだがそこから浮かび上が るのは実にオーソドックスが画面だ。映画のあの色合いの一部は確かに監督の ものだと思った。しかし、この落ち着いた丁寧な描写のあるスクリプトも悪く ない。映画版が好きな人にも一読してもらいとも思う。  ほかにもDrew's Scripts-O-Rama Indexからは、いろいろな映画の台本なリ ンクがされていた。この手のリンク集はアメリカには結構あるようである。日 本ではこの手のものが少ないのが残念だ。 (5/23 1:45)
1998年5月 18日 (月)  ・・・・・。 ***  MSIMEがいよいよおかしくなった。前々から調子がおかしかったのだが とうとうツールバーが表示されなくなった。ATOKはもとより動かない。こ のままでは、漢字変換ができなくなる日も近いに違いない。だとしたらページ の更新はおろかメールの返事も掲示板もひらがなとカタカナでやらねばならな くなる。まずい。  そのうえ、どうもさいきんなにかとメモリーがたりない、というひょうじが でて、おちてしまうことがおおい。まえは、エディターのファイルをいくつも たちあげ、どうじにブラウザのひとつふたつひらいてもへいきだったのに。い まは、エディターを3つひろげただけでうごかなくなる。いったい、ぼくのパ ソコンはなんにメモリーをついやしているというのだ? ウィルス? こわい。 ***  テレビ版「セブン」を見返す。やはり最後のセリフ「生きてゆくさ」の後の 「この街で」は付け足しであったよう。  英語のセリフを聞く限りでは"alive....I'll be alive."もしくは"I want... I'll be alive."と聞こえる。もっともさらによく聞くとaliveではなくaround とも聞こえてくるのだがこれでは意味が分からない。  勢いあまってセブン関連のページをinfoseekで探してしまう。しかし、どれ も感想文以上の域を超えるものではなくそれほど面白くない。  英語だが  http://us.imdb.com/M/title-exact?Se7en%20%281995%29  は面白かった。「trivial」の項目や「version」の項目には裏話や、脚本の 段階であった他のバージョンやカットされたシーンについての説明がある。  特に、サマセットがバラ壁紙を切り取って持ち歩いているというシーンは編 集段階でカットされているとか。また、ラストのバージョンとして、ミルズが ジョン・ドゥとやってからサマセットをも傷つける、とか、サマセットがかわ りに撃つとか、いろいろあった紹介してあった。  今日も少し見直していていろいろ気づいた点があったのだが、長くなるので ここでは控えることにします。とにかくモーガン・フリーマンが恰好いい、と いうことは再認識。かく年を取りたい。 ***  またしても鬱気味。いけませんね。 (5/19 0:51)
1998年5月 16日 (土)  昨日は、大学の時の先輩であるU氏と、CM試写によるアンケート調査の集 まりに行っていた。一応3000円もらえたのだが、その後で飲んで全部使っ てしまった。よいのか悪いのか。 ***  妹が借りて来た「ロミオ&ジュリエット」を見る。  セリフはシェークスピアの台本そのままであるが、映像と演出は現代劇風に なっているところがミソだ。最近では舞台ではこのような試みが多いと聞くの で、さほど違和感は無い。原作の内容もよく伝わってきた。本屋で戯曲の方を 立ち読みでちょろちょろと読んだが、ほぼ忠実に映画化しているのには驚いた。  ラスト、ロミオはジュリエットの許婚の男を殺してしまうシーンが原作には あるが、戯曲の解説によればそのシーンは上演の際にカットしてしまうことも 多いのだと聞く。実際、その方がテンポが出てよいとも思う。また、ジュリエ ットの後追い自殺のシーンにも、原作では回りに人が大勢いるのだが、映画で は二人きりのまま心中となっている。これも、まあこれでよいのであろう。  正直、原作がそうだからしょうがないのだが、「つっぱしった若い二人の 恋」という感じでやや私などは感情的においてけぼりにされてしまうのだが、 意欲作ということで買いたい。  古典をよみがえらすという作業は面白そうだ。古典というからには、やはり 時代の波を超えて訴える力がそこにある、というわけで。古典の解釈とはつま りその時代性を超えたものを読み解く作業でもある。  同じようなことは歴史ものにも当てはまる。歴史もの、時代物は日常とは違 う世界の話なのに、それが観客の感情を許すのはやはりそこに人間としての普 遍的ななにかが込められているからだと思うのだ。もっとも、その普遍的なな にかとは、男はスケベだ、とか女は意地悪いとかろくな真理ではないかもしれ ないが。   ***  今日はテレビでデヴィット・フィンチャー監督、ブラッド・ピット、モーガ ン・フリーマン主演のサイコサスペンス映画「セブン」が放映されていた。  かなり好きな作品なのだが、吹き替えで少し印象が変っていたのが残念だっ た。モーガン・フリーマンやブラッド・ピットの声はわりかし聞きなれている 分だけ違和感を覚える。  しかし、何より驚いたのは最後のモーガン・フリーマンのセリフだった。い ろいろあって失意な状態なフリーマン扮するサマセット刑事は、部長に「これ からどうするんだ?」と聞かれ「生きていくさ」と答える。字幕ではその後、 ヘミングウェイの言葉を引用して「世界には戦う価値がある」と終る。  セブンのノベライズを読んだ時、このサマセットのセリフには「刑事を続け てゆくよ」というセリフが追加されて、なんか嫌だなと思っていた。サマセッ トは退職間近な刑事で、刑事を辞めるはずだったのだ。そこで最後、その決断 は想像に任せるという形になっていてかえって余韻にひたれたのだが、あんま りはっきり「続ける」と言われると面白く無い。  ということでノベライズにはあまいいい印象は無かった。けれども。吹き替 えを聞くと、サマセットはこう言っているのだ「生きていくさ。この街で」と。  これはあきらかに刑事を続けることにしたというセリフだ。なにしろ「刑事 をやめて田舎で畑でも耕しながら生きてゆく」と言う言葉があったぐらいだ。  きっと同じように、この吹き替えを見て驚いている人はいると思う。  すると一つ疑問に思うのはなぜ字幕はその最後の重要なセリフを抜いたのか ということ。私の見落としだったのだろうか。しかしビデオでも借りてみたし、 そのラストについては人とも話したことがあるので、かなり注意深く見たつも りだった。  もしかしたら字幕の人も最後のこのセリフは会えて書かない方が余韻が残る と考えたのかもしれない。だとしたらすごい解釈だ、とも思う。  もう一つ、テレビ版で不満なのはやはりエンドクレッジトが無いことだ。た だでさえ時間を延長しているのだから仕方がないのだろうが、せっかくのデヴ ィット・ボウイの曲も、上から下へずたずたに切り裂かれたフィルムによる独 特のクレジットも無いのは、さすがに余韻がそがれる。なにしろ、映画が終っ たと思ったら高島忠男のドアップである。ブラッド・ピットでは無いが一瞬殺 意を感じた。もちろん、私は引き金は引かないけれども。 ***  以下、少々ネタバレです。内容を知りたくない人は読まないように。  一緒に見ていた上の妹に「なんで犯人は殺人してたの」と聞かれた。映画を 見て分からないなら、分からないでいいよ、とつっぱねたい気分ではある。そ ういう無知に対する怒りが犯人の動機でもあるのだから。そしてそれはそのま ま原作者……脚本を書いたタワーレコードの店長、アンドリュー・ケビン・ウ ォーカーの主張ではある。  物語の後半、サマセット刑事は言う。「これはハッピーエンドでは終らない な」と。また犯人のジョン・ドゥは言う。「人に話を聞いてもらうのには、肩 を叩くだけでは駄目だ。ハンマーで殴って、初めて人は真剣に話しを聞こうと する。人々は理解しようとしないかもしれない。しかしこの作品(劇中では殺 人の意)を見て人々は考えるだろう。この行動の意味を」と。  これは巧妙に観客に語られた言葉にもなっている。作者は犯人の言葉を借り て直接観客に語り掛け始めている。暗示を観客にかけていると言ってもいい。  はっきり言ってこれは危険は演出だ。言いたいことはそうした台詞ではなく、 物語のエピソードを通して伝えるのが作劇の基本だからだ。ただ、この場合は エピソードの方がセリフのインパクトを超えているのでうまくいっている。た だセリフを理解しないと、物語もやや理解しづらいという欠点もあるが、テー マの関係上それはしょうがないのだろう。  さて、その犯人の主張。「その罪がありふれたものである、というだけで見 逃されている現実。それを人々に分からせる」ことが目的だという。そのため に、ブラッドピット扮する刑事に自分を殺させるようにしむける。自分は悪の 側にはいないと信じる、普通だと思っている、罪をおかさない人間だと思って いるようだが、果たしてそうかな、と。  このメッセージに対しては人の意見はかなり分かれるだろう。普通の人にと っては自分が犯罪を犯す側だと思うことは、精神的にものすごく苦痛な考えだ。 自分はそうではないと思うからこそ、人のおかした罪を強く罵り、軽蔑するこ とができるわけだから。  その題材となっているのは7つの大罪とは「大食」「強欲」「怠惰」「肉 欲」「高慢」「嫉妬」「憤怒」の7つである。「食や欲にふけること」「金や 権力を欲しがること」「なまけること」「性欲にふけること」「おごりたかぶ ること」「ひとをねたむこと」「怒ること」というわけだが。  なぜか映画ではこの具体的内容について「罪」だと主張していないのが面白 い。もちろん、殺されたのは悪徳弁護士だったり、薬中毒の男だったり、男を だます淫乱な女性であったりするわけだが。あんなむごい殺され方をして「そ の通り」とはもちろん普通は思わない。犯人はあくまで悪い人だ。そこで、 サマセット刑事と犯人が共に言う諸悪の根元は別にある。それは「無関心」と 作中で言われている。  「こつこつ働くより、ものを盗む方が楽だ。子供を育てるよりも殴った方が 楽だ。一番の解決策は目をつぶり、無関心になることだ。それは分かってる。 しかし俺はこんな街にはもう住みたくない。それだけだ」とサマセットは言う。  それに対してミルズは、「俺は逃げない」と言い切るが、結局は最後に殺人 をしてしまう。もちろん、それによって守るものも同時にあったわけだが。逃 げないでいられるほど、強くはなれないというもまた現実であったりする。  映画の中の登場人物のほとんどが疲れた顔をしている。サマセットを含め、 都会に越してきたミルズの奥さんも、事情聴取されるクラブの男も、刑事の上 司も、街の人もみな疲れている。そして最後には元気一杯だったミルズでさえ も疲れ果てる。しかし、その疲れの中で生きようとするサマセットは恰好いい。 セブンに共感するのはそんな状況を見つめてもまだ平気でいられる、という彼 の強さがそこに感じられるからだと思う。暗い現実を見るのは気が滅入ること だけどそれは現実にあるのだから、認めた上でなんとか生きていきましょう、 と。生きていきましょう。 (5/17 1:13)
1998年5月 14日 (木)  いけないいけない。  今日になってまた急に「面倒くさがり病」が出てきた。メールの返事も滞る。 いけません。ここ数日昂揚していたことの反動でしょうか。ただ、ここで何も 書かないでいると、怠けてしまうことが分かっているので無理にでも書いてみ る。って仕事じゃないんだから好きにすればよいはずなんですけど。なんか意 地ですかねえ。   ***  EVA小説ファンクション・ファイブという小説更新状況報告ページからリン クをしてもらう。以前からチェックはしていただいたのだが、更新がなく諦め てしたのこと。それにともないエヴァコーナーのアクセスカウンターが回り始 めました。やはりおそるべしエヴァ。  リンク集も整理し直さないといけませんね。動かした以上は油をささないと。 ***  妹はタイタニックを見て、突然ディカプリオ・ファンになってしまった。タ イタニックのサントラはともかく、「ロミオ&ジュリエット」まで借りてくる 始末。最近は他に、Eメール恋愛を描いたドラマ「WITH LOVE」の竹 野内豊にもはまっているらしい。たしかに洗濯機に洗剤をほうり込む姿も決ま っている。これでメールを始めようという人も増えるんだろうなあ。 ***  無意味にブックマーク公開。  Juntaro's Web  映画タイタニックに関する情報が満載。リンク集も豊富で便利そうだった。 ただ、パンフレットの補強の域を超えていないのが残念。  論語の世界  論語の全テキストとその解説文。ってこれ、岩波文庫の「論語」の全コピー であったりする。明白な著作権違反な気もするがこれがインターネットだ。僕 は保護します。だって、結局ネットでは読みずらいし(^-^; これで興味を持 って本を買う人がでればよいかな、とも。  ハイパーテキスト論語(非Frame版)  こちらは一応、ページ作者による解釈らしい。ちょっとアカデミックすぎる こだわりがありすぎて、かえって読みづらいような……??   TUI home page.  ウクレレ入門のあるページ。かなり実用的。これを見て私は初めてウクレレ の練習をまともにする気になった。もっとも、現在我が家のウクレレは弦が一 本外れている状態で要修理中。やれやれ。 (5/15 3:06)

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