−1−
星野スミレは獄中にいた。
眼前に見えるものは、灰色の黴の生えたコンクリートブロックのみ。
両足を両腕で抱え、唇をふるわせ、彼女は見上げる。高みに小さな明かり取りの格子窓がある。差し込む夕日。壁に映る光。
赤い。夕暮れの赤。
彼女はうつむき、裾のすり切れたスカートをそっとつまんでたぐりよせる。そして、視線をゆっくりと周囲に巡らせた。
牢獄はさほど大きくは無い。六畳ほど、だろうか。その中にスミレを含め、四人の女がいる。もっとも、その内の一人は泥でよごれた赤いカーディガンを顔にかぶせたまま、微動だにしなくなって久しい。
スミレの右隣には、小柄な老女が一人いた。吐く息が白い。
その老女がスミレの視線に気付いた。
どうしたの、と老女は言う。
いえ、とスミレは答える。しかし、老女の視線は強く……そして優しかった。
「思い出していたんです」
牢に響かないように。残り二人には聞こえないように。注意して、小さく、スミレはつぶやく。
「……どうしてなのか……昔の事ばかり思い出されて……」
その声が少し涙混じりになる。そんなスミレの腕に、老女が片手を添える。
「何を思い出していたの?」
老女は尋ねる。
スミレは再び見上げた。日は紫へと変化しつつあった。見覚えのあるあの色。別れの色だ。
「……馬鹿みたいですよね。思い出なんていっそ無いほうが……」
必死で苦笑するスミレに老女は横に首を振った。
「違うわ」
老女は口元に皺をよせながら笑顔で言う。
「昔、私がまだ小さい頃、古いジプシーからこんな言葉を聞いたことがあるのよ」
スミレは二度まばたきをして、彼女の言葉を待つ。
「思い出すことには、ちゃんと意味がある。思い出は、今、あなたが求めている記憶、とね。私もそう思うわ」
「……」
「あなたは何を求めているのかしら」
スミレは思った。別れの色……その時私は何を思っていたのか。何を感じていたのか。
「私は……」
言葉を、思いをつむぎ出す。老女の笑みが力強いものに思える。大丈夫。言える……そしてこれは嘘じゃない。
「希望を……」
言えた。全身から熱が発せられたような感覚を覚える。その瞳に揺るぎはない。
だが、その言葉と同時に、牢獄の扉の向こうから、軍靴の音が聞こえてくる。複数いる。鍵束がいやらしい金属音を立てていた。
ごとり。
錠が回った。
入口近くにいた二人の女は互いに手を握っている。
「時間だ」
扉から現れた黒軍服の男が告げた。
とたん。
「へぷしゅ」
くしゃみの音。源は、赤いカーディガンのかかった女の顔。
その場の全員の動きが止まる。数秒の間、沈黙が続く。
耐えきれなくなったのか、入口の二人が落ち着きなく周囲を見回し始める。答えを求めているのだ。
そして、それは現れる。
「もう一度です!」
若い明るい男の声が響き、時は再び動き始める。
「すいません」
カーディガンの女は上半身を起こし、力無い口調で言った。
スミレは肩に残っていた緊張を解き、笑みを浮かべる。振り返り、そこにあるパナビジョン・カメラと、その隣に鎮座する髭の男の姿を見た。赤いキャップを外し、癖毛を片手でかき回したつつも、男の、その口元は悪戯っぽくゆがんでいる。
「熱、あるじゃないですか」
入口近くにいた二人のうちの一人が、大声を張り上げる。
カーディガンの女が、片手で違う違うと合図を送る。
「しばらく、休憩!」
赤いキャップの男が立ち上がり叫ぶ。
「大丈夫です」
女の反論が聞こえたが、男は憮然とした表情で無言の返事を送る。
スミレもその女の元に行き、大丈夫なの、と声をかけた。
「見てくださいよ」
隣の女の言葉に従い、スミレは横たわる女の額に手を当てる。熱い。
「心配しなくていいから。体は大事にね」
騒がしくなった周囲の音の中、スミレはそう言って笑顔を見せた。
***
結局、撮影は中断。これを機会にと照明監督が、ライティングの組み直しを主張したので、休憩は数時間に延長された。
スミレは一人、スタジオを出る。
東京郊外の、ここ緑山第三スタジオ近辺にはまだ緑がかなり残っている。十二月も終わりの今、木々の枝は寂しげだが、足草は意外に健在だ。それに今日は天候もいい。風は微風、都会特有の灰色がかった青空もこんな日には不快に感じられない。
借り受けたLLサイズのスタッフ・ジャンパーの中で軽く腕を組みながらスミレは近くの森へと足を運ぶ。
なつかしさを感じる。
思い出、か。
緑山第三スタジオはまさに思い出の場所だった。
十三年前、彼女が十一歳の時、彼女は「バードマン」とここで初めて出会った。やはりこんな風に撮影の空き時間を一人で過ごしていた時の事だ。
今に至るまでそうだが、スミレは映画の仕事が一番好きだった。テレビ、ラジオ、スチール、コンサート、めまぐるしい仕事の中で、ゆっくりと自分の時間がとれるのは映画のこうした待ち時間だけだった。共演者やスタッフと話をしたり、たまった宿題を教えてもらったり、遊んだり……そして、時には一人で物思いにもふけったり。
仕事をもらうようになって、その時既に三年以上もたっていたが、忙しくなったのは彼女が十歳になったあたりからだった。連続ドラマがヒットし、CMに出るようになり、レコーディングをし……全てが急激に変化を続けていた。楽しくもあった。しかし、同時に何かをどこかに置き忘れてしまったようにも感じていた。その何かって何なんだろう。スミレはあの日、とりとめも無く、思いをめぐらせていた。
そう、あそこだ。
スミレは立ち止まり、木陰の傍らにある古いベンチを見つめた。色ははげ落ちているが間違いない。青地に塗られた木製の長椅子。背もたれに、雪印のロゴが入っている。簡単にジャンパーの袖で埃を払って、彼女はそこに腰を下ろした。
あの時、背後で物音がして彼女は振り返った。彼女は怖いというより「やっぱり」という感情でいっぱいだった。
事務所の人は何も言わないが、時折ファンレターに強迫まがいの文章がまぎれ始めているのをスミレは知っていた。手紙が時折開封されているのを不思議に思って、休憩所に使っている事務所の会議室をこっそり抜けだしたことがある。そして、スタッフルームの会話に耳をすました。
『人気がでればやっかみも増える。今後は特に気をつけて……』
そんな声が聞こえた。もちろん、他にも色々。
再びそっと会議室に戻り、ボール箱に入ったファンレターの前に座る。しかし、その手紙に手を伸ばす気にはもうなれなかった。そこには全て自分に対する悪意が込められている気がした。いや、私が見た手紙は全部事務所の人が用意した偽物で、本当は私のことを世間の人は皆責め立てているんじゃないのか。そんな思いでいっぱいになった。そしてそれは、その後も心の奥にしこりとなって残り続けていた。
だから、その時森の中から聞こえたその音にも「驚き」はしなかった。そうだよ。急に人気者になったりちやほやされたり、そんなのばっかりなんておかしいもん。きっとね、ここでその「ツケ」が回ってきたんだ。
森の奥を凝視しながらスミレはそう思った。
音が大きくなる。そして梢の間から人影が現れた。背が高い。それが第一印象だった。二メートル以上あるんじゃないだろうか。肩幅も広い。その両肩にはマントのようなものがかかっている。顔は……顔は見えない。目の辺りまでを大きなヘルメットだかマスクのようなもので隠している。以前、テレビ映画で見た特殊部隊の隊員をスミレは連想した。
「やあ」
人影は言った。そのあまりに唐突で親しげな物言いにスミレは一瞬言葉を失った。業界で、親しげな言葉を連発する人は多いが、それはいつもどこか「型通り」すぎている。子供心にも、それが単なる社交辞令だということは分かる。しかし、今、目の前の男のそれはどこか違った。
男は、ずんずんとスミレに近づいてくる。彼女は何かの芝居の一部に自分が組み込まれたような錯覚を覚えた。「ドッキリカメラ」とかいうやつかな、とも思う。が、男の立ち居振る舞いには「本気」の雰囲気がにじんでいる。圧倒的存在感とでも言うのか。もしかしたら物凄い俳優さんなのかもしれない。
「ふうむ」
男はむき出しの顎を右手でさすりながら、残った左手で腰の辺りから何かを取り出した。三十センチほどの銀色の細長い円筒状の物だ。マイクかな。スミレは無言でその動作を見守っていた。
「よし。まあ、合格だ」
やっぱり俳優さんなのかな。合格か。スミレは訳も無く嬉しい気分になって笑みを浮かべた。すると男も笑みを返す。そして腰に両手を当て、バリトンの響きでこう宣言した。
「君をヒーローに……いや、ヒロインにしてやろう」
***
十三年。あの時まで生きた年数を越えた時間の流れ。しかし、こうして目を閉じて思い返して見ても、それはさほど遠い過去のようには思えない。色々あったはずなのに、思い出はそれら全てを飛び越えて、スミレの脳裏にささやいている。
思い出は、今、あなたが求めた記憶、か。
思考がふと、自分の心の奥へと沈んだその時だった。
背後で物音がした。
緊張がスミレを襲う。
何かを期待した。
腰が浮く。どうしよう。言葉が、なにも浮かばない。でも……。
振り向いた。
そこに彼女は人影を見つけた。
「こんにちは」
女の声だった。歳はスミレとさほど変わりはないだろう。クリーム色の感じのいいスーツを来ている。長くはないその髪の毛に小さな小枝が一本、ひっかかっている。この森を越えてやってきたのだろうか。
顔を落とし、少し自嘲した。まったく、馬鹿みたい。
「こんにちは」
スミレは挨拶を返す。せいいっぱい笑顔を彼女は浮かべながら。
「佐倉、さん?」
スミレは、女から渡された名刺を見ながらつぶやく。初対面の人間にはなるべく早い内に名前を呼びかけることに彼女はしている。正直、人を覚えるのは苦手だった。めまぐるしく周囲の人間が変わる生活をすごす内に、人に対して無関心を装うのが身についてしまったのか。だが、だからこそ、できる限り名前を呼び、顔を確認する努力ぐらいはしなくては、と彼女は考えていた。
「はい。主にファッション誌や経済誌に記事を書かせてもらってます」
人なつっこい笑顔で女は答えた。意外に整った顔つきだ。それに人に見られるのに慣れた顔つきだな、とも思った。モデル上がりか、芝居人か、それは分からないが。
染めたのでは無い、地毛らしきその赤毛もなかなか目を引く。大きなまっすぐな瞳には、物書きにありがちなどこか屈折した「おびえ」も見あたらない。一言で言えば、幸福そうな人。これだけそろっていると、普通、嫌みな気持ちを人に与えそうだが、ワインポイント、鼻が少々団子気味なのが、かえって妙な愛嬌さを彼女に加えていた。
「すいません。オフの時間に」
女は、スミレがしばし生んだ無言の時にいささか緊張を覚えたらしい。
「佐倉さん」
「はい」
厳格な教師を前にした生徒、といった面持ちで女は答える。その姿がどこか滑稽でスミレは内心、笑いをこらえながら言う。
「まあ、ここに座ってください。それから……」
その「間」に、女の閉じた唇に力が入る。
「それから、その小枝は落とした方がいいですよ」
「え?」
スミレの視線の先に気づき、慌てて、彼女は頭に手を伸ばした。そして、絡んだ髪から力任せに枝を外すと、照れた笑いを浮かべてそこを掻いた。がさつな中にも、どこか品は下がらないその態度にスミレは好意を感じ始めていた。
「テープ、使ってもいいですよね」
女の言葉にスミレは頷く。ベンチに二人並んで座りながら、遠くに見える撮影所の屋根を眺めて二人は、会話を始めた。簡単な近況の確認などから始まり、次第に話題は少女時代の思い出話へと移っていった。
「じゃあ、子供頃、その、自閉症気味だった、っていうのは本当だったんですね」
感心した、という口振りで女は言う。
「そう、それで、母が心配して児童劇団に入れたの。今でもそうかもしれないけれども、感情表現の訓練とか、人とのつきあいをするのに役立つからって、劇団に入らされる子供って、結構いてね。私もその一人だったというわけ」
「はあー。今のスミレさんからは信じられない感じですけれどね」
「私自身はそれほどよく覚えてはいないんだけれども、確かに小さい頃はぼうっと一人で何時間も部屋の窓の外を眺めて過ごしていた記憶はあるの。ううん、そういう所は今も残っているかな。ともかく、そうやって劇団に入ったのが小学校二年生の時」
「でもデビューは、四年生の時、ですよね」
「その前からぽつぽつ小さい仕事はあったの。でも、その劇団の上の人が、今はじっくりレッスンを受ける時期だって言って、そう、練習という形でちょこちょことお仕事が入るぐらいで。後は大体、お芝居の稽古とかボイストレーニングばかりして過ごしていて……」
「そして、連続ドラマの準レギュラーとして……ええと、二クール目の十四話からですよね。最初は本名で……」
「そう、<鈴木伸子>」
スミレが笑う。
「地味な名前でしょう? 私たちぐらいの年代になるともう『子』がつく女の子なんて少数派じゃない。だから、子のつかない名前にすごくあこがれて……そう、佐倉さんのマミ、みたいな名前とかね」
「そしてその時の役名で使った<スミレ>がそのまま芸名になった、と」
「そう。<星野>というのは劇団長の人が昔使っていた名前で……ちょっと前時代的響きがある秘密はそこにある、と」
再び笑う。しかし、それはすぐに真顔に戻す。
「でも、別に<伸子>って名前が嫌いだったわけじゃないのよ」
「はい。確か、おばあさんの名前からとったとか」
「そう、お父さんのお母さん。……小学校にあがるまでは、父も事業が今ほど軌道にのっていない時期で、家も留守がちで……母も体が弱かったから。生まれてすぐからその祖父の家でやっかいにもなっていて。その際、前年に亡くなっていた祖母の名前をいただいて」
「結局、そのおじいさんも亡くなられて、お父さまが後に相続して……世田谷でしたね」
「そう。死んだ祖父の家に戻ったのとドラマをやっていた時期は大体同じ。部分改築したりしているけれども、小学校の時から私の部屋はそのまま残ってるし。今も時々帰るから……まあ、つまり実家ね」
「まあ、そうやってデビューした後は、もう仕事仕事でまっしぐらで来て……スミレさんは仕事の中ではどれが一番、こう、やっていて楽しい、というか、充実感があります?」
「難しい質問ね」
「あ、すいません。ちょっと失礼な言い方ですよね。仕事はどれも……」
「いいのよ。ううん、そうだなあ。やっぱり、何で一番評価されたいか、と言われたらやっぱり、芝居だな」
「女優・星野スミレでいたい、と」
「そうね」
「この間の舞台見ました。マイ・フェアレディを現代風に新解釈したという。最後、教授の元を結局、彼女は去ってゆくっていうのが驚きで」
「あら、でも舞台のマイ・フェアレディはもともとそういう話なのよ。ヘプバーンの出た映画は、ハリウッドだから、ハッピーエンドになっているけど……あれだって、見ようによっては必ずしも戻ってきたとは言えないでしょう?」
「やっぱり、ああいう場合は、男の元には戻らないというのが普通だと」
「そうね。私はそっちの方が何となく納得がいくわね」
「はあー、結構、そういう所はさばさばしているんですねえ」
しきりに女が頷くのを見て、スミレは吹き出す。
「佐倉さんはちょっと役者には向かないわね」
「ど、どうしてですか?」
「顔に書いてあるもの。『噂のスキャンダルの真相を知りたい』って」
「はは……やっぱり、ばれちゃいますか」
スミレは笑顔を崩さず頷く。そんなこと、彼女が現れた最初から分かってる。さもなければスタジオ敷地内にわざわざ森をくぐり抜けてまで忍び込むわけがない。連日連夜、自宅や事務所に人が張り付き、結局、スタジオ近くにある小さなペントハウスにこっそり隠れ家をこしらえてもらったほどだった。
「……でも、正直私は違う、と思ってるんです」
「どうして?」
「確かに、スミレさん程の人気のある人が、わざわざ話題づくりの為に、スキャンダル情報を流すのはおかしい。撮影が始まってすぐに、それも共演者の男優さんと噂になるなんて、できすぎている。そんな安っぽい手段を使う必要がどこにあるのか。だからこそ、逆に信憑性がある……でも……」
「でも?」
「根拠は何も無いんです。これは、あくまで私の勘、というか……ただ信じたいだけなのかもしれないかれども……スミレさんには、みんなが知らないような誰かずっと思っている人がいるんじゃないかって……」
スミレは答えなかった。どうしたって答えは嘘しか言えない。誤魔化しの言葉を使うのは簡単だったが、目の前のこの女性の妙な率直さに、スミレは何かの形で報いたいと思っていた。いや、これが彼女の手法なのかもしれない。率直な人柄を演じて油断させ、スクープをものにしたいと思っているだけなのかもしれない。……しかし、女の言葉をそのまま借りるならば、スミレもまた彼女のことを「信じ」たかった。
「だって……今まで何度もそんな噂たってますけれども。回りの人に聞いてもみんな口をそろえて『それは違うよ』って否定なさるし……スケジュールも調べてみても、朝から晩までぎっしりじゃないですか。正直、とても一人の人間がこれだけのことを毎日続けられのが信じられないぐらいで……。とても、プライベートな時間なんて無い……」
「だから、映画の共演者とつきあうって可能性が一番高いんじゃない?」
女の勢いに負けて、スミレはついそう言葉をもらしてしまう。駄目だ。これ以上黙っていると本当の事を言いたくなってしまいたくなる。駄目。本当の事は誰にも言えない生き方を選んだのだから。そう……あの人の前でだけ、本当の自分でいればいい……そう決めたから。
「やめてください」
女が叫びに近い声を上げて立ち上がる。そして、二人の間に置かれたミニ・レコーダーのスイッチを切った。
「あ、いや……ごめんなさい」
レコーダーから手を離せないまま、彼女は地面を見つめている。
「おかしいですよね。スキャンダルのこと聞きに来て、それなのに、勝手に否定したりして……」
遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。それはどこか寂しげな響きにスミレは思えた。
「……でも……私スミレさんの口からそんなこと聞きたく無いんです。だって……」
「……とにかく、座って」
スミレは言う。女は何かをこらえるように下唇を噛んでいた。
「……本当に、あこがれだったんです。ずっと見ていて。作り物じゃなく、本当に、ちゃんと芯があって。そういうのあこがれだったんです。……今度のことで調べてみて、本気なんだって、芝居でも歌でも本気なんだって、私、確信できて嬉しかったんです。でも……ちょっと辛くも感じられて」
「……辛い?」
「……だって……悲しいじゃないですか。そりゃ、仕事が充実していればそれでいいって思う人は大勢いるし、それはそれで生き方なのかもしれないけれども……それでも、誰か自分のことを分かってくれている人が……いや、何も言わなくてもいいから、そばにいてくれたらって思いたいじゃないですか……私、スミレさんを見ていて、本当にスミレさんは誰も思う人がいないのっていうのが本当なら、悲しすぎるって……辛すぎるって思って……」
どう言えばいいのだろう。痛い。彼女が言っている言葉には嘘は無いと彼女は確信していた。いや、たとえ嘘であっても、それはスミレ自身の言葉として置き換えてもいいぐらい、痛みを感じるぐらい、「本当の言葉」に彼女には思えた。
「それで、そしたら、気付いたんです。スミレさんには、思っている人がいないんじゃない。いや、逆に思っている人がいるからこそ、他人が何を言っても平気でいられるんじゃないかって。それはきっと物凄い強い思いで、だからきっと……」
棒立ちになり、女はうつむきの姿勢を崩さない。スタジオの辺りが少し騒がしくなってきた。撮影再開の時間までには間があるが、気の早いスタッフ達が準備を始めたのかもしれない。
「本当の……」
スミレは言葉を選びながら、それは、必死に選びながら口を開く。
「本当のことは誰にも分からない。誰にも満足できる答えは無いし、たとえあったとしても、結局は、信じたいようにしか信じられないのかもしれない。伝えようと思っても言葉じゃ伝わらないのかもしれない」
ほとんどつぶやきのようなスミレの声に女が顔を上げる。
「でも、あなたがそう信じている気持ちを私は裏切りたくないと思う。これが私の本当の気持ち。……今は……いや、ずっとかもしれないけれども……これしか私には言えない」
スミレは立ち上がった。そして数歩進み、女に背を向けた。今の自分の顔を見られたくなかった。きっと、ひどい顔をしている。きっと、人の顔をしていない。
「これだけは信じて欲しいの」
とにかく。笑顔を見せよう。思いっきり。決意して彼女が振り向く。
「芝居の中に見える私も、本当の私なの。そして、そこに見える私が、みんなにとっての私なの。だから、生活の全てを隠しているからって、私が嘘をついているとは思って欲しくないの……そうじゃなくて、嘘をつきたく無いから、隠したいの……だから……」
そしてスミレは言葉をつまらせた。
不思議だった、ほんの数時間前までこんなこと状況になるだなんて考えてもいなかった。今、自分は大切な何かを失っている。そして同時に、確かな何かを得ている。そしてそれは、その何かはこれから時間をかけて深くに沈殿していく。それが分かった。
あの時と同じだ。「バードマン」が現れたあの時、スミレが感じていた、あの時の気持ちが再び繰り返されている。それは、確かにあのリフレインに違いなかった。
女は、またちょっとの間、下を向いていた。そこに何かを探すかのように。そしてそれはきっと見つかったのだろう。彼女は顔を上げた。
「私、結婚するんです」
女は言った。突然の言葉にスミレは少しとまどう。
「その人が言うんです。『僕は嘘は嫌いだ』って。でもこうも言ったんです。『でもそれが君のためならどんな嘘だってつく』って。きっと……きっと、そういうことなんだと思うから……」
スミレはふと心が軽くなるのを感じた。
「ひどい会話よね、お互い」
その言葉に、今度は女の方が目をしばたたかせる。
「無茶苦茶な事ばっかり言って。筋は通っていないし。論理のひとかけらも無いもの。……でも……」
スミレは自然に覚えた感情に従って、冬空を見上げて言葉を続けた。
「でも、ちゃんと解ってると思う。まるで、外国語同士でしゃべってるのになぜか、通じてしまうみたいにね」
「おかしいですよね」
女も苦笑を漏らしていた。何かが終わった、とスミレは感じていた。そう、もう終わったのだ。
「でも、こんな文章じゃインタビューには使えないわね」
スミレはスタッフ・ジャンパーのポケットに手を入れた。少し肌寒さを感じ始めていた。
「もう、いいんです。……どっちにしろ、これが私の最後の仕事になるだろうなって思っていたし。私……ずっと結婚するのが怖くて。昔からずっと、何かある度にその人に頼りっぱなしでいて……それを、結婚して、ずっと頼りっぱなしが続くのが嫌で、自分でも、一人でも何でもできるってことを、自分にもあの人のにもきちんと証明してみせたくって……だから……」
そこで言葉を切ると、女は照れ笑いを浮かべて頭を掻く。
「なに言ってるんでしょうね、私。こんなんじゃインタビュアー失格ですね。あーあ、やっぱりむいてなかったんだなあ。実を言うと私、国語、大の苦手だったし」
「そんなこと無いよ。仕事、私は続けた方がいいと思う。きっと、才能あるよ」
「……そうですか?」
「そうよ。だって、この私がこれだけ動揺してるんですもの。こんな思いするのが私だけなんて悔しいじゃない? もっと、こう狸なおじさん達をきりきりさせるようなインタビュアーになって欲しいと思うし、きっと、あなたならできると思う」
女は無言で苦笑いを浮かべるだけだった。
スミレは口とは裏腹に、別段彼女が仕事をやめて結婚したとしても、それはそれで構わないと思っていた。もしかしたらその方が彼女にとってずっと幸せかもしれない、とも。だが、女が、仕事を続け、またどこかで会うことができたならば。この業界のどこかで彼女が居てくれたならば。それはまた別の意味で素敵な気がしていた。
サイレンが聞こえた。歴史ある緑山スタジオ備え付けの非常呼集の音だ。女はちらりと左腕の時計を見る。その時、左手薬指にリングが収まっているのにスミレは気付いた。……どうして、今まで気付かなかったんだろう。
「撮影早まったみたいですね。私も、そちらのマネージャーさんに見つかる前に早く退散しないと。アポなしですから。ほんとつくづくプロ失格ですね」
スタジオを眺めていた目を戻し、女はベンチの上に残ったミニ・レコーダを拾い上げる。エジェクト・ボタンを押し、中からマイクロテープを取り出すとそれをスミレに差し出した。
「これはお返しします」
「仕事、本当にいいの?」
「もう記事にする気もうせちゃいましたし。いいんです」
だが、そこには少しためらいも感じられた。未練はあるのだろう。
「……一週間。一週間待てる?」
「え?」
スミレの言葉に、女はテープを持った手を少し下ろす。
「一週間後、ずっと空席になっていた、主人公の母親のキャスティングが決定されるの。記者会見は多分その三日後。その間、本読みがあるはずだから、空いた時間にその人を紹介してあげる」
「……いいんですか?」
「ただし、紹介するだけよ。向こうが断ってきたらそれでおしまい。下調べする時間も長くて二日しかないけど、それでもいいならね。どう?」
「や、やりますよ。もちろん。ああ、本当ですか? いやー、これ、ほんと、すごいですよー」
女は顔をほころばせながら、また頭を掻いていた。
スミレは右手を女の方へとまっすぐと伸ばす。
しかし、女の方はなぜだか顔を曇らせていた。
「握手。これから、長いつきあいになりそうだから」
明るくそう言ったが、女の態度は変わらない。
「……どうしたの?」
何だというのだろう。まだ、何か照れているのか……。
「あ、いえ……そうですね。握手しましょう」
カセットを左手に持ち替え、空いた女の右手が伸びる。スミレはその手をしっかりと握り、その上に自分の左手を重ねた。
「頑張ってね」
スミレは言った。だが、何かおかしい。不思議な感覚を覚えていた。手の先に何か一瞬、冷たい水滴が降り注いだような……。
女がスミレを見つめていた。大きな瞳が、さらに大きく見開かれていた。
「なに?」
スミレは少し不安を感じていた。何だろう。何かまずいことをしたのだろうか。いつの間にかサイレンも止んでいる。
「あの、その……はは、ちょっと緊張しちゃって」
しきりに頭を掻いているがその動作はどこかぎこちない。さっきまで感じられていた、同じ場を共有しているという感覚が失せて行くをの感じる。どうしたというのだろう。彼女はどこに行ってしまったというのだろう。
「……じゃあ、それは私が預かるから」
スミレはトーンの下がった口調で、女の左手に手を向ける。
「あ、はい。それじゃあ……」
カセットを受け取り、それをジャンパーのポケットに入れる間もスミレの困惑は続いていた。答えはない。女はミニ・レコーダーをショルダーバックにしまい、変わりに手帳とボールペンを取り出す。そしてその末尾の白紙ページに番号を走り書きして破る。
「これ、連絡先です。契約事務所じゃなく、私の携帯に直接つながりますから……」
「ねえ、一体何が……」
スミレは言う。女はちぎったページを差し出したまま、沈黙していた。スミレはそっとそれを受け取る。
「……今度なら、話してもらえる?」
何かあるのだ。それは分かる。しかも、それは多分、私の秘密と同じぐらい重要な……。そんなことに対して、話せと迫る自分はずるい、とも思った。しかし……。
「……さっき」
女の口が開く。
「さっき、テレビを見たんです。それで……」
「それで?」
何なのだろう。何なのか。
「……帰ってきてます。つまり……帰って……」
女は顔を下げる。
「すいません。今はこれ以上……」
女が抱えているものの重さを感じる。今は……ともかく信じるしかない。
「……また、会えるよね」
スミレの言葉に、女は顔を上げ笑み浮かべる。
「……はい」
それじゃあ、と付け加えて彼女は森へと歩む。スミレも背を向けた。戻ろう。やらなくちゃいけないことは沢山あるんだから。
「スミレさん!!」
声がした。振り向く。女が森の入口に立っていた。両手でメガホンをつくっている。
「大丈夫です! すぐ、分かりますから!」
何が。何が分かるって?
「それから!! 頑張ってください!! 何があっても、頑張ってください!!」
女の肩に下げたバッグが激しく揺れている。
「分かったから!!」
スミレも叫び返す。片手を振った。
「大丈夫だから!! 私、頑張るから!!!!」
mailto:MORIVER(moriver@geocities.co.jp)
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