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 紫に染まる視界いっぱいの雲海。
 その彼方に、沈む陽がある。
 強い赤光。饅頭のように上下が少しつぶれた太陽。
 ミツ夫はそれを細目で眺めていた。
 円盤の小さな外殻の上、素顔にマントにコート姿のまま彼は両手を枕に横たわっている。円盤のデバイスによる透過線処理のため、肉眼はおろかレーダーに見つかるおそれも無い。一人だけの空間。気流が静かに機体を揺らす。

 地球に来て、何よりも感じたのがこの空気の変化だった。勿論、純化学的な意味に於いて、その外気に差異があるはずもなかった。しかし、それでも、何かが違う。両肺一杯に吸い込むこの気息の感覚は、間違いなく十数年ぶりのそれだ。
 地球。故郷の町。故郷の言葉。
 それらに触れたとたん、ミツ夫は自らの意識の一部が変調をきたしていくのに気付いた。圧倒的なその存在の前に、この十数年の記憶が、まるで偽物のそれのように遠いものに感じられた。そこに混乱を覚える。もうしばらく。もうしばらくこうしてしいなければ、心は平静を取り戻せない。
 ……目を閉じ、開けば、そこに小学六年の自分が立っているような錯覚。嫌なことがあるとよく、こうして、意味もなく何時間も空中で居眠りをしていた。バッジが鳴り、慌てて目を覚ますと東京湾の沖まで流れされていたり……。


 だが、今、彼は眠らない。
 興奮しているから、というのもある。しかし、それだけでは無い。やらねばならないことがある。それが分かっているからだ。そう。時間は、多くは残されていない。ミツ夫はそれを知っていた。


***

 「クビ、ですか?」
 青年はそう言って隣の白ワイシャツの男の顔をみつめた。
 「須羽君。君が、そう、悲しい顔することは無いさ」
 男は笑って手にした大ジョッキに口をつける。中身は既に半分空いている。
 須羽と呼ばれたその青年は自分のジョッキを静かにテーブルの上に置いた。こちらはまだ三分の二も減っていない。そして、つと、彼は視線をそらす。
 六時を迎えたばかりの居酒屋はまだ客影もまばらで、目に付くのは慌ただしく行き来する数人のはっぴ姿の店員ばかりだ。青年は無意識に首元のネクタイをゆるめていた。何故か、息苦しい。
 「須羽君?」
 男が再び青年の名を呼ぶ。青年はまだ感情を整理しきれていない。困惑の表情を崩せぬまま向き直る。
 「はい」
 「……確かに君との研修の最後にする話にしては少々縁起が悪かったかもしれない。しかし。君にはちゃんと聞いて欲しいと思う」
 男は再びジョッキをあおった。そして一気に残りを流し込む。
 「クビと言っても、名目上は自主退社だ。退職金も出る。問題は無いさ」
 「……結構、無情なものなんですね」
 青年は下唇を噛む。それは彼の感情をこらえる時の癖だった。そして舌で上の歯の裏を舐める。とにかく、彼は落ち着きたかった。五月の新人研修以来、この上司とは他の誰よりも長い時間を過ごしていた。部署巡りに出された際にも彼への一日の最後の報告は欠かさなかった。青年にとって、それほど本意でもない入社だったが、それもこの人のせいで全ては変わった。少なくとも社員としての自分は、彼の子であるとも考えていた。
 それが、今、こんな形で別れを告げられることに、青年はとまどいと共にわずかな不快感……裏切られたという感情……を拭うことができずにいた。
 「ある意味当然の結果だ。私が人事にいたら同じ事をするさ。有給ぎりぎりの長期休暇、それももっとも大事な契約の時に、だ。対象者リストの筆頭に乗ったとして文句の言える立場じゃない」
 「でも、それは娘さんの……」
 「もちろん、それはある。だが、私はついて行かないこともできた。結局の所、手術するのは医者だ。私じゃ無い。全ては分かっていたことだ」
 「……じゃあ、あなたは、自分から会社を捨てた、と言うんですか?」
 青年はじっと、手にしたジョッキの中の泡を見つめて言う。自分でも少し声が震えているのが分かった。
 「あるいはな」
 男の答えに、青年はにらんだ。ここまで正面きって男の顔を見るのは初めてだった。男の目は険しかった。何かが、固い殻のようなものをそこに感じた。去年木曽川で釣った鮎を青年は思い出す。川縁で串刺しにされ、火であぶられると薄い白い膜がその瞳を覆った。あの目と同じだ。
 二杯目のジョッキが届く。
 「確かに。私は間違ったのかもしれない」
 男はジョッキに手を伸ばし、口をつける。だが、今度はほとんど中身は変わらない。元々、それほど酒を飲む人じゃない。晩酌に一本あければそれで充分とも常々言っていた。
 「……僕は……私は、どうすればいいんですか」
 青年は言う。こんな弱音は男から常々禁句とされていたものだが。もう構いはしない。
 「どうもしない。君は君で今のままで、いや、今以上にあそこで頑張ればいい」
 「あなたがいないのに、ですか。あなたが捨てた会社に、あなたの教えてくれた生き方で残れ、と言うんですか」
 「俺が教えたのは生き方じゃない。単に常識として伝えただけだ。それは今でも間違っていない、と断言できる」
 軽く笑みを浮かべ、ジョッキを掲げ男はおどけた調子で答える。青年は、その姿に次第に怒りを覚え始めていた。
 「こう言いましたよね。目先の仕事にとらわれるな。自分が会社の一部では無く、窓としてあるように振る舞え、と」
 「そうだ」
 男が頷く。
 「そして、こうも、です。仕事を覚えるのでは無く、仕事を知れ、と。その為に遠回りしても、会社にはそれだけの懐がある、と」
 「ああ」
 「どうやったら、その言葉を信じることができるって言うんですか」
 青年もアルコールに強い方じゃない。興奮し、体が熱い。言葉を選ぶ余裕も無くなってくる。我ながら青臭いセリフだと思いながらも、今更、訂正する気にもならない。目の前のホッケに箸を運ぶ。そういえば、この人と来るといつも最初はホッケだな。
 「一つ言えることは、だ」
 男が一度大きく息を吐き、続ける。
 「正論というのは、正論が故に問題なんじゃない。正論が簡単にまかり通ると思うことが問題なんだ」
 青年には返すべき言葉が浮かばなかった。ただ、何かが心の中で崩れてゆくのを漠として感じていた。


***

 電話は三度目のコールでつながった。
 『はい。須羽です』
 中年女性の声が答える。聞き覚えのある声。母の声だ。
 『須羽ミツ夫君のお宅ですか?』
 声を変えたミツ夫が尋ねる。
 『はい、そうですけれども。どちらさまですか』
 変わらずのどこか少女らしさを残した口調。しかし、その響きには過ぎた年月の跡がはっきりと感じられた。ミツ夫は続ける。
 『ミツ夫君の同期で、第三中学の卒業委員をやっている**ですが、ミツ夫君はご在宅でしょうか?』
 『あら。すいません。ミツ夫は今年から一人暮らしをしていまして』
 『ああ、そうですか。実は、急で申し訳無いのですが、来月、内輪でクラス会を開く計画がありまして。それで慌ててクラス会の出席の確認をしているところなんですが』
 『うーん、それなら、ちょっと待っていただけます。今、ミツ夫のアパートの電話番号を教えますから』
 『お願いします』
 そして、「くるみ割り人形」の音楽が鳴った。まだ、この曲を使っていたのか。ミツ夫は少し驚いた。確か、ミツ夫が地球を去る一週間前に父が買ってきた留守録付のコードレスホンだ。その待機音が存外騒がしく、失敗だよ、と妹のガン子が愚痴っていたのを思い出す。
 ややあって、母が電話口に戻った。
 電話番号が告げられ、ミツ夫はそれを反復して見せる。
 『あと、できれば、今更ですが葉書も送りたいので住所も教えていただけますか』
 『ええ。……いいですか?』
 母の声をぼんやりとミツ夫は聞いていた。名付けようもない感情の固まりがミツ夫の内から沸いてくる。
 『それじゃあ……』
 切られる。
 『あ、それと』
 とっさにミツ夫は言葉を続けていた。
 『……それと、ミツ夫君は今、お勤めなんですよね』
 『はい、四月から品川の製薬会社の方に』
 ミツ夫は目を閉じる。その母の嬉しげな響き。笑みがそこに見える。しかし。その瞳に映っているその姿は自分のものではない。けっして。
 『そうですか』
 沈黙は1秒程の間に過ぎなかった。
 『ありがとうございました』
 ミツ夫はそれだけ言った。
 『はい、どうも。ごくろうさまです。それじゃあ』
 そして回線は切れた。発信音が後に残った。



***



 「あれえ、須羽君、こんな所でどうしたの?」
 居酒屋のトイレから出ると背後から声が聞こえた。
 振り返ると、研修で一緒だった総合職の女性社員がいた。そのいささか面長な顔に見覚えがある。
 「あ、うん。ちょっと……そっちこそどうしてここに?」
 「みんな来てるのよ。一応、研修の打ち上げは明日だけど、有志で簡単な飲み会をね。須羽君も誘おうと思ったのに、すぐいなくなっちゃったから……何、向こうのテーブル?」
 「そうだけど……」
 口ごもる青年に、女は笑う。
 「邪魔しやしないわよ。……やっぱり、彼女?」
 「そんなんじゃ……大原課長とだよ」
 「課長と? ああ、須羽君、研修の時も一番かわいがられていたもんね」
 「別に……」
 「ふうん、そっか。でも、なんか、課長も大変みたいだね」
 青年は少し顔をこわばらせた。さっきの口ぶりではまだ誰にも伝えてはいないといった様子であったが。
 「……なにが?」
 とりあえず探りを入れてみよう。
 しかし、返ってきたのは全く別の答えだった。
 「知らないの? 課長、離婚したんだって」




 席に戻ると、大原課長は二杯目のジョッキを空にしようという所だった。見回すと周囲の客もぼつぼつと増えている。幸か不幸か、同僚達のテーブルはここからは見えない。
 「すいません、ちょっと遅くなって」
 「いいさ」
 課長は、笑う。
 その時、青年には同僚の存在の事を告げられなかった。言いそびれたというより、隠しておきたかった。先程までの不信感は薄れ、代わって、疑問を追求したいという気持ちが高まっていた。もう少し、邪魔されずにいたい。
 「……それで、これからどうするんですか?」
 青年はタラノメの天ぷらをつゆにつけながら尋ねる。
 「うん? うん……古い友人が、小さいが会社をやっていてね。以前、設立の時にも、誘われていたんだがその時は断っていて……。こんなことになってからというのも何だとは思ったんだが、向こうも歓迎してくれると言ってくれてね」
 「そうですか」
 聞かなければ。青年の心の思いは膨らむ。しかし、正直に答えてくれるだろうか。そうだ。もし、そうしてくれたら……。
 「友人というのは小学校の時の同級生でね。その時のまま成長したような奴なんだ。その頃から、頭はとびきりによかったが、その反面、夢見がちというか、言うことはいつも大きかったな。まあ、子供というのは大概そういうものかもしれないがね。実際、私もそうだった。……それも、女房と知り合ってからは、何故かがちがちのリアリストになってしまったがね」
 三杯目に手を伸ばす課長を横目に青年は決意する。聞くなら今しかない。
 「それで……奥さんや子供さんは何て……」
 言ってからすぐに青年は後悔した。課長から瞬間笑みが消えるのが分かった。店内のざわめきが大きくなった気がした。店員が注文を復唱している。
 「妻とは別れた」
 自嘲混じりに課長は言った。奥の部屋から歓声が聞こえる。青年は無言でいた。
 「……リストラのせいじゃない。むしろ逆だ。離婚のせいで踏ん切りがついた。不思議だが、別れると決まったとたん、会社に対する執着も一緒に消えてしまったんだ」
 『なんか奥さんの方から一方的に言われて、家庭裁判所とかにも呼ばれたって。召喚状って言うの? それを課長の机で見たって言う人がいるのよ』
 先の女性社員は話してくれた。にわかには信じ難かったが。しかし、全ては事実なのか。
 「じゃ、娘さんは……」
 「向こうが連れて行く、そうだ」
 男の笑いに力は無かった。
 「でも……」
 常に自信たっぷりで、仕事に対して哲学を有し、笑みを絶やさぬ家族思いの男。それが青年の知る大原課長の姿だった。では、彼は今どこへ行ったのか。その彼を信じた自分は何だったのか。怒りは無いが、とまどいは大きくなるばかりだ。
 「面接の時の事を覚えているかな?」
 「はい」
 小さく青年は答える。
 「あの時、君は言ったね。『自分は普通でいたい』と。それを聞いてね、私はおかしかったんだよ」
 青年は無言で男を見据えた。
 「同じだったんだよ。君と同じように、私も『自分は普通に仕事をしたい』と面接で言ってね。そして採用された。その後も同じだ。君に言った通りのセリフを私は聞いたんだ。『君は普通なんてものがあると思うのか』、とね。私は答えた。『無いんですか?』と。そう、同じだったんだ。何もかも」
 「僕には分かりません」
 青年は言う。その言葉が彼にとっての精一杯だった。次の句は継げなかった。
 「その時、私に尋ねた人が、今の社長だった。当時はまだ今の私と同じ、課長だったがね」
 男は皿に残った最後のタラノメを口に入れた。青年もまた、つゆに浸かったままの天ぷらを見た。濁ったその天つゆに自らの顔が映っている。表情は読みとれなかった。
 「楽しかったよ。仕事を持って初めて自分は『目』を持った、と感じられた。映る景色全てがクリアに見えてきた。同時に自分の限界も分かった。しかし、それは嫌な気持ちじゃ無かった。むしろそういう自分を素直に受けれられたことが嬉しかった。おそらく、君も同じことを感じたと思う」
 大原課長は、カウンターの上で手を組んだ。目が遠くを見つめる。それから口が開いた。
 「君は今、誰かつきあっている子はいるのかな」
 「え?」
 青年は狼狽した。冗談や気まぐれで聞いているのでは無いことは分かる。迷う。今まで誰にも言わなかったことだ。そしてこれからも、とも……。だが、青年は答えた。
 「はい」
 「そうか。なら、もしかしたら分かるかもしれない……」
 カウンターの奥からテレビの音が聞こえてくる。入口の方で店員が客席の案内する声があがる。
 「私が妻と会ったのは大学の時だ。語学クラスの同級生。試験勉強を一緒にやっているうちに、というやつさ。別に、世間にあるような、三角関係がどうというのもまるで無かった。お互い卒業して就職して、さあこれからどうするかと考えた時、結婚というのが自然に出てきた」
 ミツ夫は無言でジョッキに口をつける。ビールは少しぬるくなっていた。
 「しばらくして娘も生まれた。俺は仕事に夢中だった。次第に評価もされ、給料もあがる。伊豆に十和田湖と近場が多かったが家族旅行も楽しかった。忙しくもあったが、自分のやっていることに迷いは無かった。……しかし、妻は違ったんだ」
 青年はつゆに浸かったままのタラノメを食べる。そして噛む。甘みと苦みが広がる。男は続けた。
 「……彼女はいつも迷っていたんだ。俺は気付かなかった」
 そして課長は一回、鼻で笑った。
 「全ては流れるように、自然に、問題なくと思っていたのは俺だけだったんだ。彼女は何も言いはしなかった。いつも俺に無言の支持をしてくれていた。それを俺は勘違いしていたんだ。呆れるよ。俺は家庭に仕事の悩みを持ち込まなかった。その代わりに俺は家での悩みも知らなかった。知ろうともしなかったんだ」
 「……それは、とりかえすことはできないんですか」
 青年のつぶやきに、課長は笑顔で首を横に振る。
 「とりかえすも何も。最初から何も無かったんだ。俺は無邪気に彼女を信じていた。いや……ただ自分の都合のいいように思いこんでいた。俺だって、結婚の時には迷ったさ。どうして結婚するのか、とね。しかし、結婚しない理由も思いつかなかった。だから結婚した。そうして、手に入れたものを、あたかも自分が苦労して選択したかのように思いこんでいた。……俺はただ与えられたものを受け取っていただけだった。そしてそれを失うのが怖くて、家庭を見ることができなかったんだ」
 「分かりません。……それがどうして離婚なんですか」
 「それを彼女が望んだからだ」
 男は言った。硬い笑顔がそこにあった。
 「仕事もそうだった。俺は与えられただけだった。与えられたものにすがるだけで、根本的な意味で、自分からは何も選んではいなかった。与えられた中でしか何もできなかった。それに気付いた時、俺は家庭へも仕事へも執着ができなくなっていた」
 「……でも、あなたは僕に仕事を与えてくれた」
 「そう。だから、君には選んで欲しい。そのために、俺は今、話すんだ」
 奥のテレビからニュースのオープニング音楽が聞こえた。
 「同じ過ちは犯して欲しくない。俺は最後に妻が望んだものを与えた。そして同時に会社にも求められるものを与えた。娘の事故で、病院にかけつけたのも、それが最後の努めだと思ったからだ。もう、離婚は決まっていたからな。……人員整理のリストに上がっていたのは分かっていた。俺には敵も多い。後は引き金を引くだけだった」
 7時のニュースです。アナウンサーが告げた。
 「全てに納得しているとは言わない。与えられたものを守るのもまた、大切だ。そんなことは分かっている。何かが間違っているのかも、とも思う。だが、彼女は俺が必要とする程俺を必要とせず、会社もまた俺が必要とする程俺を必要とはしなかった。それは事実なんだ。だから俺は全てを捨てる。……もう一度、何かを選ぶために」
 「選ぶ……」
 青年は考えていた。課長が何を言いたいかは分かる。だが、分かりたくも無かった。そうだ。自分には何かを選ぶなど、できはしないのだから。ただ、守るだけしか無い。それしか無い。

 「課ー長!」
 明るい声がした。振り向くとそこに先の女子社員がいた。青年に向かって片手でピースをする。顔が大分赤くなっている。
 「みんな向こうにいるんですよ。一緒に飲みましょうよー」
 隣を見ると、大原課長は苦笑していた。いつもの顔に戻っている。それと同時に、さっきあったあの目の膜も消えていた。そうか。青年は理解した。ためらっていたのは、退社や離婚のことじゃなかったんだ。つまり……。
 「須羽君」
 傍らの空席に置かれた上着を手に取りながら、課長は言う。
 「今、私は子供のようだよ。世界は不安定に揺れ、境界はぼやけ、全ては灰色に染まっている」
 男は今まで青年が見たことも無い笑顔を浮かべていた。
 「だがね、さっき言った友人と話しているうちに、分かったんだ。……だからこそ、人はどきどきも、わくわくも、できるんだ、とね」
 青年は一瞬、うつむき、それから笑みを浮かべ顔をあげた。しょうがないじゃないか。僕は、僕の道をゆくしかない。
 立ち上がり、課長の腕を手に店の奥へとひっぱってゆく女子社員の背中を見る。さて、僕も行くか。ここの勘定はとりあえず僕が済ませて置こう。伝票を手に取り、カウンターの内側をのぞいた時、流し場の冷蔵庫の上にある、小さなテレビの画面が目に入った。

 カメラは煙を上げる車の方へと駆け寄ってゆく。トレンチコートを来た人影が大写しになる。マスクをつけたその顔。
 『僕?』
 店内の喧噪の中にもかかわらず、青年はその声をはっきりと聞いた。
 『パーマン。パーマン1号です』



***



 目的のアパートはすぐに分かった。
 おそらく、ミツ夫が地球を去る前からあったであろう古風然とした建物だった。初めて見たはずなのに、なぜかなつかしさを覚える。
 スチールの外付け階段が正面に取り付けられ、二階へと続いている。その五号室に『須羽ミツ夫』の部屋があるはずだった。
 ミツ夫は、マスクの代わりに濃いサングラスをかけていた。その顔を、地上に消えかかった最後の夕日が照らす。両手をコートに入れたまま、ゆっくりと彼は歩み寄る。
 周囲に人影は無い。表通りからは距離がある、住宅街の一角。遠くの方で、列車が走る音がした。穏やかにそよぐ風。
 ミツ夫は階段を上る。一歩一歩。足下で金属音が鳴る。そして扉の前に立った。
 『須羽』
 プラスチックのネームプレートにはそうある。
 建物の古さに反して、改装をしたのか、玄関回りはひどく真新しいものに見えた。扉の横にある窓の中は暗い。誰もいないのか。
 少し考え、ミツ夫はノブに手を伸ばした。
 カチリ、と鳴る。
 ノブは何の抵抗も無く回っていた。
 彼はゆっくりと扉を引き開けた。

 室内は暗い。玄関の脇に流しがある。一応、キッチンになっているらしい。その奥に六畳ほどの部屋が見える。背中から差す淡い夕暮れの光が、室内に長い人影を作る。
 ミツ夫は扉の中へと足を踏み入れた。


 その時だった。
 すぐ右手に物音を感じた。床を踏むしめるような、ちいさなきしみの音。
 身構える。
 と。

 耳をつんざくような爆裂音が鳴り響いた。
 硝煙のきつい匂いが漂ってくる。
 ミツ夫は頭に手を当てる。そこには黄色と緑の五ミリ幅ほどの紙のテープがからみついていた。
 「おつかれさまー!!」
 からかうような、それでいて嬉しそうな女の声が聞こえる。
 キッチンの暗闇から人影が現れた。
 肌の白い、眼鏡をかけた女性の顔が浮かびあがる。
 「びっくりした?」
 彼女は笑っている。その手には円錐形の紙の筒がにぎられている。
 言葉も無く、ミツ夫は見つめ返した。
 女がいぶかしそうに眉をひそめる。長い髪を後ろで無造作にまとめあげている。大きめのトレーナー。ジーンズ。
 「ミツ夫さん?」
 ちょっと顎を引き、上目遣いに女は、わざとらしい程の怒った顔を作ってみせる。化粧気の無い唇を僅かにとがらせていた。
 「パー子?」
 やっとの事で、ミツ夫は言えた。
 瞬間に女の顔から表情が消えた。クラッカーを持つ両手が下がる。
 ミツ夫はサングラスを外した。視界の明るさが一段上がる。
 開いた扉から入る弱いオレンジの明かりの中で、ミツ夫は一歩彼女へ近づく。
 女は一瞬後ずさるような仕草を見せる。しかし、それはすぐに止まった。そして、彼女は立ちつくす。
 「……ミツ夫さん?」
 その声は震えていた。
 ミツ夫は返事も無く、ただ、彼女を見つめた。
 「ミツ夫さん」
 彼女の両手が慌てて口と手をふさぐ。一度、鼻をすすりあげる音がした。
 ミツ夫はうつむいた。サングラスを持った右手に力を込める。軽く下唇を噛み、それから顔を上げる。そこにわずかに笑みを乗せて。
 そして彼は言った。

 「ただいま」






つづく





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