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夜が訪れようとしていた。
ミツ夫は、窓枠に両手をかけて表を眺めていた。眼下には小さな駐車場が見える。その向こうに住宅街の町並みが広がり、さらに遙かに黒いビルのシルエットがあった。赤い陽の最後の光が今、消えようとしている。空の半分は紫と白に染まり、天頂へと濃い藍色がつづいていく。灰色の薄雲がそこに浮かんでいた。
通り向こうの国道から、自動車の行き交う音が小さく聞こえてくる。遮断機の信号音も聞こえた。そして列車の走り抜ける音。
鼻孔をくすぐる僅かな埃っぽい都会の空気。乾いた冬の風。
それがミツ夫の故郷だった。
背後から大きな鼓笛の音がした。やかんの蓋が鳴っている。その前に立つトレーナーの女性……パー子が、コンロのつまみをひねる。カチリと響いた。
ミツ夫はあらためて室内を見回す。六畳間の床には暖色系の絨毯がひいてある。その下は感触からして畳のようだった。正面の開け放たれたドアの向こうに玄関が見えた。右手には本棚のような長い黒のラックケースがあり、その上にテレビがあった。スイッチはついていない。ラックケースの脇にはVHSのビデオテープが積み上げられていた。
目の前のこたつ台の上には、直径三十センチ程のケーキが置かれている。ホワイトクリームをベースにしたシンプルなケーキだ。スポンジケーキの台に手作りらしきデコレーションがほどこされている。ケーキの中央には大きなチョコレートづくりの家が置いてある。
視線を上げると、鴨居の上の所に大きな紙の垂れ幕があり、太字のポスターカラーペンで書かれたらしき字でこうあった。
『ミツ夫さん、初ボーナスおめでとう』
そしてハートマーク。
パー子が黒塗りの漆器のトレイの上に湯気の立つ二つのマグカップを持って部屋に入ってくる。
「紅茶、飲むよね」
ミツ夫は軽くうなずいた。
彼女は薄いブルーのトレーナーを着ている。フレームレスの眼鏡をかけた瞳がミツ夫の方を向く。
「座って」
笑顔で彼女は言った。ミツ夫は寒い風が入りだしていた窓をがらりと閉めてその場に腰を降ろした。コートは既に脱いでいる。黒のタートルネックセーターにクリーム色のコットンパンツをはいていた。地球に降りてから用意した服だった。
パー子はこたつ台のテーブルの前に正座してミツ夫と向かい合う。両手で台の上のマグカップをつかんでいる。そして口を開いた。
「……なんか変な感じね」
彼女の言葉にミツ夫は少し笑った。
「そうだね」
「なんか……何から言えばいいのかな」
顔をちょっとうつむかせて彼女が言う。まとめこぼれた髪が少し彼女の頬を覆った。
「多分、僕が話すべきなんだろうな」
ミツ夫が壁によりかかり右足を立てた格好でつぶやく。ごうと列車が走る音がまた、遠くで聞こえた。
「そして多分……まず謝るべきなんだと思う」
彼女の顔がちょっとあがる。少し眉を寄せていた。
「バードマンの事は、聞いている。もう何年も地球には来ていないってことも」
ミツ夫は立ち上がった。そして落ち着き無く部屋を歩き出す。みし、とカーペットの下で畳が鳴る。
「色々あったんだ。僕も詳しいことは知らない。ただ……結果的に君たちを見捨てるような格好になったのは確かだから」
部屋の中央にある蛍光灯の紐を軽く彼は叩く。ぶらぶらと白いプラスチックの先が揺れる。
「とどのつまり地球は辺境なんだ。少なくとも扱いにおいてはね。勿論彼らだって責任を感じていないわけじゃない。だからこそ僕らもずっと本星にいられたのだけど……」
それからミツ夫は一呼吸置いて、言った。
「ブービーのことは三日前に初めて知った」
***
看護婦は目を覚まし、慌てた。窓の外が暗くなっている。
どのくらい眠っていたのだろう。
腕時計を見る。よかった。ほんの十分ほどであったようだ。
安堵の息をこっそり洩らし、彼女は傍らの心電図のモニターを見つめた。緑色のグラフは正常値を示している。念のため、メモリをいじって十分間の記録を呼び戻してみたが問題は無いようだった。
彼女は向き直り室内を見つめた。
さほど大きくは無い個室だった。
部屋の中央に小さいベッドがあり、生命維持装置からのカテーテルや点滴のチューブがそこに伸びていた。
シーツからのぞける腕はびっしりと焦げ茶色の剛毛に覆われている。手の平は驚く程に白い。
看護婦は丸椅子から立ち上がり、そのチンパンジーの顔をのぞきこんだ。少し口から唾液が漏れている。傍らの台からピンク色のタオルを取り出し、そっと口回りを拭いた。そして少し笑顔を彼女は浮かべる。
静かに彼女はチンパンジーの鼻の下に顔を寄せた。息が頬にやわらかくかかる。うん。彼女は離れて『彼』を見つめた。生きてる。
彼の目は固くとじられている。皺のある顔を眺めてから彼女は再び腕時計を見た。
その時、枕元のインターフォンのランプに赤い光が点った。彼女はスイッチを押す。
『交代よ』
小さな声が聞こえた。
「はい」と彼女が答えると回線はすぐにぷつと切れた。
あいかわらずビジネスライクな人だな。無意識に肩をすくめてからベッドを見ると彼の目が開いているのに気付いた。今のやりとりで目を覚ましたのか。
喉の気管につけられた呼吸器がこうっと鳴る。
それから彼の右の瞳がウィンクするように瞬間、閉じた。右腕がゆっくり動き、親指と人差し指で喉の前で何かをつかむように輪っかを作った。
看護婦は笑顔で、同じように右手の親指と人差し指で喉を摘んでひっぱりだすかのように輪を作る。簡単な手話はこのセンターに配属された時に習っていて知っている。それは『好き』という意味だった。
「ありがとう」
そう言い、彼女は右手で左手の甲を軽く叩き、拝むような仕草を見せてからまた笑った。彼の唇の端がわずかにいたずらっぽく曲がる。瞼を数度しばたかせていた。
看護婦は笑顔のままクリップボードを両手で抱え、鍵の無い扉を開けて部屋を去ろうとした。するとガサリという音した。何かの感触を足に感じた。下を見るとセロファンに包まれた大きな花束がそこにあった。
彼女はしゃがみ、持ち上げる。
誰からだろう。セロファンの内を探るが、カードも何も無かった。花のことは詳しく無いが、これだけのボリューム、五千円以上はしそうだ。彼女は考える。ってことはいつもの人じゃ無いわよね。
振り向き、看護婦はベッドを見る。彼は既に眠っていた。心電図の規則的な電子音が室内に静かに響く。彼女は扉の脇のスイッチを切った。部屋は薄暗闇に閉じられた。
***
「……話はした?」
パー子の声。
「いや。眠っているようだったから……ちょっと顔を見ただけで去った」
ミツ夫は蛍光灯の明かりを見つめたままで言う。
「……もうここ二年ぐらいはずっとああなの……でも、それでも最近は大分……あ、そうだ」
突然彼女は立ち上がる。そして、テレビの横の壁を占めた棚をさぐりはじめた。そこにはハードカバーの本や雑誌やらが隙間無く並んでいた。やがて、彼女はその雑誌の一冊を抜き出した。
「見て」
ミツ夫は受け取る。横文字の雑誌の表紙の内から、一匹のチンパンジーがこちらを向いて不敵な笑みを浮かべていた。日付は六年前のものだった、『キャプテン・ハム以来の英雄』とのキャプションがある。
「フィールズ賞……知ってる? 数学のノーベル賞。その候補に、ブービーが上がった時の写真。もちろん、偽名を使っての論文活動だったんだけど、それを書いたのがチンパンジーだって分かって大騒ぎになってね。この時が一番いい時期だった……」
「『天才チンプの誕生』、か」
つぶやくようにミツ夫はキャプションの下の副題を読む。
「あなたがいなくなってから一年ほどした頃かな。ブービーがさかんに本を読み始めてね。すごい勢いだった。私がとっておいた小学校の時の教科書とかノートとか貸してあげたんだけどそれでも気が収まらなかったらしくて、ずっと図書館に入り浸って……」
パー子はミツ夫の隣に立ち、一緒に雑誌をのぞき込んでいた。かすかなな香水のにおいが彼の鼻をかすめる。
「ほら、ここ」
彼女は手を雑誌に伸ばし、ページを繰る。そして一つのページを指さした。
見ると、そこでチンパンジーとパーマンセットを付けたもう一人のチンパンジーが互いに握手してカメラ目線で笑顔をふりまいていた。
「おかしいでしょ」
パー子がのぞき込むようにミツ夫の顔を見る。その笑顔にミツ夫もつられて笑う。写真の下には『巨頭会議』とある。
「自分一人での勉強に飽き足らなくなったのね。パソコンを買い込んで、こつこつ論文を仕上げていって……ほらコンピュータを使えば誰だか分からないじゃない。それに文章だけ見たら誰も相手がチンパンジーだとは思わないもの。実際、IQも四〇〇近くあったみたい。二十代用のテストを買ってきて試したことあったんだけど、ページを繰るのと用紙に書き込むのがほとんど同時で、私も、ミ……」
そこで突然、何かに気付いたかのように目を開き、彼女は言葉を切った。顔をうつむかせる。そして続ける。
「みんなも、本当に……読んでるのかって……」
沈黙が訪れた。
車の行き交う音、遮断機の音、列車の音がかすかに聞こえた。隣の部屋からはテレビ番組の音も小さく聞こえた。
ミツ夫は静かに雑誌を閉じると、目を伏せたパー子を見る。
「僕は……」
静寂の中で声を上げたその時、玄関のチャイムの音が鳴った。ミツ夫は扉を見た。ノックの音がした。
「はい」
パー子は両手で一度、鼻頭を押さえてから玄関に向かった。扉を開ける。
くたびれたグレーのスタッフジャンパーを着た三十がらみの男がそこにいた。小脇に小さな黒いバッグをかかえている。彼はその中から小さな紙を出してパー子に話かけた。彼女は一瞥し、あ、はい、と言って振り返り、玄関から離れる。そしてミツ夫の近くに戻ると笑顔で「集金だって」と告げた。
それからパー子は、テレビ下のラックの、上から二段目の小さな引き出しを開けると中から封筒を取り出した。そこには、「新聞代」と書かれていた。彼女はふっと息を吹きかけ封筒を膨らませ、中身を確認するとそれを持って玄関に戻った。
集金の男は紙幣を受け取り、お釣りの小銭を彼女に渡す。それからミツ夫の方を向いて軽く会釈した。ミツ夫もぎこちなく、小さく頭を下げる。
じゃ、どうも、と声があがり、扉は閉じられた。
ミツ夫は、手にした雑誌を元に戻そうと本棚を探る。コンピュータ雑誌や、タウン情報誌、コミック雑誌になどに混じってファッション雑誌もそこに並んでいた。どこに戻せばいいのか逡巡していると、横からパー子が雑誌を取って、棚の一番端にすっと差し込んだ。そして彼女は笑った。ミツ夫は苦笑しかえす。視界の端に、梁の上にある垂れ幕が入った。『ミツ夫さん、初ボーナスおめでとう』。『おめでとう』。おめでとう。
「それで、なの」
「え?」
突然のパー子の声に、ミツ夫は振り向く。
彼女は目を大きく開いて、何かを伺うかのようにほんの少しだけ首を傾げて彼を見つめている。視線は強かった。
「ブービーのことで、それで、地球に戻ってきたの?」
その言葉にミツ夫は、すぐに返事はしなかった。ケーキを載せたテーブルを回り、再び窓際に戻った。ポケットに両手を入れて、言葉を探るように宙を少し見る。それから言った。
「そうだ」
パー子の顔が曇る。
「それって……」
「待って。最後まで聞いて欲しいんだ。……いい?」
しばしの間。
「いい?」
再び彼は問う。
「いいわ」
彼女が答えた。
***
「もー。ほら、しっかりしなさいよ、須羽君」
混濁した意識の向こうから声が聞こえた。聞き覚えがある声だ。
「須羽君、大丈夫かい」
課長?
シートが見えた。車の座席。白い綿地のカバーがかけられている。その向こうに、こちらを向いたスーツを着た中年の男の顔がある。だが、視界はぼやけて判然としない。
「……ここは」
須羽と呼ばれた青年は半身を起こした。
「タクシー。今、須羽君のアパートに向かっている途中」
強い女の口調に気づき彼は傍らを仰ぎ見る。居酒屋で一緒にいた同僚の女性の一人だ。そうだ……結局、課長も交えて一緒に飲むことにしたんだっけ。そして……。
「今、何時ですか」
喉が、痛い。
「まだ八時十五分前。ずいぶん早い一次会だったわよ」
女は言いながら、コンビニのビニール袋を青年に差し出す。彼はそれを見て、急に胃の中の騒ぎに気付いた。しゃっくりがこみ上げる。ビニールに顔を入れるが唾以外は何も出ない。
「……ごめん」
「いや、私がつきあわせてしまったのが悪かった」
再び課長の声がする。
「いえ……」
うまく言葉が出ない。頭が重い。こめかみの奥に鈍痛を感じる。
「全く、どうしたの。いつもはこんなになるまで飲まないのに」
どうした。どうしたのかな。どうしたんだろう。
どう……。
体から力が抜け、再び茫洋とした闇に捕らわれ始める。何かがひっかかる。何かを忘れている。
「……あ……コンタクト……落とした」
青年のつぶやきに、どこかで誰かが溜息をついていた。
ま、いいか、鞄の中に眼鏡もあるし……。
いいか……。
***
「十二年……十二年だ」
ミツ夫は、背を壁に預け、絨毯の上に置いたマグカップをいじりながら話を続ける。パー子は、テーブルを挟んだ向こう側で、やはりカップを持ちながら彼を見つめている。
「僕はその間一度も地球に帰ることは許されなかった。僕だけじゃない。地球から来た仲間は全員そうだった。それでも……最初の数年は、コピーロボットを使って、ほんの短い間だけどそれを代わりに地球に送ることも出来た。メッセンジャー役としてね。中学の入学式の時の記憶は、間接的に、僕にもある。……君の制服姿も覚えている。……君が首の赤いリボンをしきりに直していたことも」
彼女の顔に微笑が浮かぶ。ミツ夫もそれに答えて微笑む。しかしそれは一瞬で真顔へと変わった。
「だけど、あの日……二年目の初めの頃だった。事情が変わった。最初はルームメイトから聞いた。ただの噂話だとその時は思った。でも……それは事実だった」
彼はカップに口をつける。ぬるい紅茶が食道を通過し、喉の奥がごくりと鳴る。
「僕らはホールに集められた。普段は食堂に使われている所だけれども、その時はスツールも片づけられ、地球から来た全員に、見たことの無い星系の同期生が幾らか混じって……総勢三〇〇人はいたと思う。そして数回しか会ったことの無い僕らの管理官……結局、マスクの下を見たことは無かった……その彼は言った。地球を含む幾つかの惑星に対する干渉を今後、無期限に留保する、とね」
「……どうして?」
彼女は尋ねた。
「分からない」
彼は答えた。カップを床に置く。
「ただ、他星への干渉は微妙で、それは刻一刻と変化する社会状況に対応しなくてはいけない。彼らは極端に相対的観点を保持しようとするんだ。対象とする社会の個別的形態発展を最優先とし、そこに生じる差異と同位性から、エントロピーに対置するガイア的生命活動の本質を探求することが目的で……」
パー子の目が瞬間、傍らの時計に向けられる。
「つまり……とにかく評議会が……僕らの知らない上の誰かがそう決定したんだ」
ミツ夫は続ける。
「僕らは選択を迫られた。今までの一切の記憶を消去し、地球に帰星するか。それとも、ここに留まり本星で予定通りの過程を履修し続けるか。大多数は後者を選んだ。勿論例外はいた。僕はそうしてルームメイトを一人失った」
パー子は無言だった。
「でも……僕は残った。全てを、積み上げた全てを捨てて白紙に戻すことは無意味だと思った。帰るならば、それ全てを無し終えてからだと思った。ただ……僕らにはもう地球と連絡する術が無かった」
彼は立ち上がった。背中を向けた。窓の外を見た。そこには自分の顔があった。表情は無かった。
「恨まれても当然だとも思う。それでも……だから僕らは必死になった。僕らは常に試され、選別されて……。それだけが、僕らにできる唯一のことだと信じて……」
そしてつぶやいた。
「ごめん」
沈黙。
最初にそれを破ったのはパー子だった。
「……どうして謝るの」
語気は荒かった。
「あなたが謝ることは無いじゃない。何も悪いことはしていないんでしょう。だったら『ごめん』なんて言わないでよ」
ミツ夫に言葉は無かった。
「そうでしょ?」
数秒の間の後、彼は答える。
「……そうだ」
「そうよ」
パー子も立ち上がっていた。そして彼に近づいてゆく。
「帰って来たんじゃない。こうして帰って来たんだから、それで……」
声がとぎれた。
「違うの?」
「七日の猶予がある」
ミツ夫は言った。
***
『彼』だ。
青年は跳ね起きる。
「なに?」
同僚の女性が驚いた顔つきで彼を見ていた。そこはまだタクシーの中だった。
「……今、どの辺ですか」
「すぐ近くよ、あなたのアパートの。三丁目、でいいんでしょう」
窓の外を見た。第二京浜に入っている。
考えろ。青年は右手の親指と人差し指でこめかみを押さえながら思う。タクシーが右にウィンカーを出した。駅前に入ろうとしているようだがよく見えない。そうだ、眼鏡。
座席の隙間を漁ると革の鞄が見つかった。
「あ、そこ入ると一方通行で抜けれなくなるんで、ここで……」
目を細めて必死に様子を探りながら言ったが、同僚の彼女は憮然とした面持ちで首を振る。
「いいのよ。課長も私もこのまま中原街道の方に出るんだから」
反論のしようも無く、彼はとりあえず鞄から眼鏡ケースを取り出した。中を開けてかけて見ると、関節のネジがゆるんでいるのに気付いた。
「ねえ、須羽君、せっかくここまで来たんだから、私と課長にお茶ぐらい御馳走してくれるわよね」
「え?」
どんな形相をしていたのか、自分では分からなかったが、それは彼女を狼狽させるに充分な面持ちであったらしい。
「あ……いや、冗談よ。……大丈夫?」
のぞき込むように彼女は青年に言った。
「……平気さ」
だが口に出したとたん、彼はそれは嘘だと気付いた。心臓の鼓動が高まるのを感じた。そう……そうだ。くそ。このままずっと眠っていれば……無駄か。
ウィンカーが再び機械音を鳴らしている。路地に入り込む。何十メートル先に、アパートの明かりが見えた。二階の右角の部屋の窓。
「あの……そう言えば今日、お袋が来ているかもって……」
自分でも訳が分からないまま、咄嗟にそんな事を言っていた。
タクシーは停車した。エンジン音の中、彼は財布から五千円札を一枚抜き出そうとしたが、それを助手席の課長は片手で押しとどめた。
「相乗りなんだから。それに最初の飲み代も払わせてしまったし……」
「……ありがとうございます」
「じゃ、ね。気を付けて」
二人とも何か察してはいるのだろう。青年はそれ以上何も言えず、黙って頭を下げた。
そして車は去った。
彼は見上げた。階段に足を掛けようとしたが、持ち上がらなかった。思った以上に酔いは深いらしい。畜生。彼は眼鏡の具合を直すと、スチールの手すりにもたれるようにして一歩、踏段に足を乗せた。
***
ミツ夫は、表で車の止まる音は聞いていたが、意に介する様子を見せなかった。だが、パー子の視線は何度かドアの方へと向けられていた。
「僕は……僕らは、彼らの予想を裏切り、見せつけなくてはいけなかった。そして……やった」
彼がふりむく。
「僕らはやったんだ。それが三日前のことだ」
パー子を見つめた。彼女の唇は強く結ばれていた。
「一週間後、つまり、七日後に最終口頭試問が残ってはいるけれど、それは最後の意思確認のための挨拶、儀式みたいなものにすぎやしない。事実上全ては、終わった。そして解放された。僕は、センターに行った。地球に関する記録はそこのメイン・ライブラリにしか無かった。……そして知った。ブービーのことも、みんなのことも」
視線を彼女はそらしていた。彼は近づく。
「僕らに初めて休息が与えられた。自由な、自分だけの時間を。皆、思い思いに散った。それで……僕は『ここ』に来た」
***
行かなくちゃ。
嫌でも。行かなくちゃいけない。歩かなくちゃいけない。
冬の風が頬を叩く。
足下だけを見て。一歩。また、もう一歩。
とにかく。進め。進め。進め。
***
ミツ夫はパー子の二の腕を両手でつかむ。
「途中、テレビで君を見た」
彼女は目をしばたたかせうつむく。
「君の顔を。君の声を聞いた。何度も確かめた」
手に少し力がこもる。
「僕は気付いた。つまり。僕は……」
ノブの回転音が響いた。
***
開いた。唾を飲む。喉が鳴った。
***
静寂の中、ドアが開き、そこから男が現れるのをミツ夫は見た。
男はグレーのスーツを来た痩身の若者だった。シルバーフレームの眼鏡をかけている。髪は汗で濡れ、風に少しばらけていた。
男が紅潮した顔を上げる。それから体を扉の枠に半分預けた格好で室内を見わたした。
「コピー?」
ミツ夫は言う。玄関から冷たい空気がゆっくりと忍び寄ってきた。列車の音が小さく聞こえる。
パー子はミツ夫に背を向けていて、表情は分からない。彼女もまた玄関の男を見ていた。彼女の右手は自らのトレーナーの胸の辺りを、何かすがりつくようにつかんでいる。
「コピーか?」
もう一度、ミツ夫は声をかける。
「僕だよ。帰ってきたんだ」
スーツの男は無表情だった。
「……分からないのか。僕だ。ミツ夫だよ」
「違うよ」
男の声が返った。
潤んだ目が、レンズの向こうで細まる。
そして男は、これ以上無いというぐらいはっきりとした口調で告げた。
「僕が『ミツ夫』だ」
つづく