16-Jul-97 記 思い出し旅行記、東西両独とチェコの旅(90年4月) はじめに ごく最近になって、娯楽としてのインターネットを見ることを始めた。ほどなく辿り着いたIsarさんのMunichlifeのページの「旧東独地方旅行記」を読んでいたら、なぜか急に自分の旅行のことを思い出した。今日読んだのはドレスデンの話。私もドレスデンには行ったが、それは95年、在独生活3年目の復活祭休日の折り。今日急に思い出したのは、もっと前の90年4月、3度目のドイツとその周辺の旅行である。その時はドレスデンは素通りしてしまったが、ベルリン、ライプツィッヒ、プラハを訪れ、ミュンヘンで締めくくった。そうだ、私もこの時の旅行記を書いてみよう。 なぜ今、その時の旅行記なのか。少し思い出してみたい。89年秋、ゴルビー旋風のもと東欧一帯に「民主化」の波(その結果がほんとに「民主的」な社会につながったかどうかはまた評価の分かれるところであるが)が押し寄せ、11月9日、あのベルリンの壁が破れた。そして翌90年4月、まだDDR(ドイツ民主共和国)という国はもちろん存在していて、半世紀ぶりの自由選挙と、その後の連立工作・組閣の動きに沸き立っていた。その半年後の再統一を予測する人はまだ少数派であった。.....とまあ、いろいろ書いたが、とにかく当時のDDRは日本の新聞や本で読んでも、一言でいって、明るかった。その雰囲気に触れたくて、かの地へ旅行を思い立った。八重洲ブックセンターにも(東京になじみのないかた、ごめんなさい)立派な「ソ連・東欧コーナー」があったようなちょっとしたブームだったから、要はミーハーである。実はもう一つ、緊張緩和以前からの願望もあった。バッハが活躍したライプツィッヒの地を一目見たかったのだ。そんな訳でこの時の旅行と相成ったが、その後の変遷がまた急速かつ極端なだけに、この短い特別な期間の体験と記憶は貴重だと思った。それで、もう7年以上経った今になって、おもむろにこのテーマで拙文を書いてみることにした。 ......なんて感じで、ちょっと大袈裟に始めてしまったが、ここから先は単に個人的思い出を忘れないうちに記録しておきたいと思って書くだけの、軽いミーハー旅行記である。ついでに、一人称代名詞も「私」から「僕」に変えようか。 ところで、当時も今も、僕は普通のサラリーマン技術者である。その僕が、この連休でも何でもない時期に2週間の休暇を取って旅行に出かけてしまったというのは、90年当時の日本の常識からすると、ちょっと珍しいことではあったと思う。そして、その後もクビになることもなく、それどころか逆に念願叶ってその会社の在ドイツ子会社に出向までさせてもらっているのだから、世の中にはなかなか懐の広い会社もあるものだ。それとも僕がよほど強運なのか。
成田正午ころ発のアエロフロート便で発つ。30過ぎの堅気(?)の夫婦が旅行するのに「アエロフロート」というのは、この頃ではすでにちょっと珍しかった。とはいえ、IATA系航空会社の格安券はまだ20万円以上していたのに対し、このアエロフロートは12万円程で、最初のホテル一泊まで付いている。それに、ベルリンへの接続はこれがベスト。もう一つの理由は、単に僕が珍しいヒコーキ(イリューシン62)に乗ってみたかったからである。成田からの乗客はほぼ100%日本人であった。 4月だというのに真っ白な、初めて見るシベリアの景色は印象的だった。8時間程でモスクワに着く。乗ってきたヒコーキは給油の後ロンドンへ向かい、ベルリンへ向かう僕達は乗り換えとなる。その昔、「ソ連上空でヒコーキから写真を撮ってはいけませんよ!」とか、「間違ってもモスクワ空港でカメラを出したりしてはいけませんよ!」なんてことが、少なくともガイドブックには書かれていた。ところが、一部の乗客が写真を撮っても乗務員はお構い無しである。よって僕も、珍しいソ連製ヒコーキの並ぶモスクワ空港では写真を撮りまくる。果ては空港内で、自動小銃を肩にもってはいるものの全然緊張感を感じさせない兵士の姿まで、遠くから写真に撮ってしまった。これも先客がやっていたからこそできたことではあるが、いかに当時の雰囲気が開放的であったかの証の一つと言えよう。その後92年に再度モスクワ経由便(今度はアエロフロートではない)でヴィーンに向かった時は再び、「写真を撮るな」と、どこかの添乗員が言っていた。 乗り換えたヒコーキはツポレフ154である。図鑑で見て知っていたやつ。当時のモスクワ・ベルリン間は、ソ連とそのNo.1同盟国の首都同士ということもあり、100人以上は乗れる中型旅客機が日に何便も飛んでいたが、なぜかこの便の乗客はとっても少なかった。日本人が他にいたかどうかは記憶にない。なんとも下手くそなドイツ語の機内放送に大受けしていたのは、後から聞くと、西ドイツの学校の先生達の、モスクワでの視察だか交流だかの帰りの一団であった。 現地時刻の20:00頃、東ベルリンのシェーネフェルト空港着。入国・通過ビザの手続き(ホテルは西ベルリンに取っていたため。東側のホテルを日本から予約するのはまだ容易ではなかった。)、空港連絡バスでの東西境界越え検問、等は緊張緩和以前に書かれた「地球の歩き方」の説明から何も変わっていなかった。ただ、検問はなんとも面倒臭そうに、いい加減にやっているように見える。もう何も厳しく取り締まる必要はなくなっているのだが、規則はそのまま残っているので、仕方なくやっているのだろう。バスターミナルからはタクシーでホテルまで行く。さほど腹も減っていないので、近くのインビス(こういう単語は、当時まだ知らず)で軽い夜食を済ませて寝る。
今日は忙しい。 これまた「地球」に書いてあった通りの、フリードリッヒシュトラーセ駅の検問所を越えて行く。東ベルリン市域の1日ビザの制度も変わっていない。しかしながら、強制両替は既に廃止になっていて、そのことを知らない我々は一生懸命銀行を探してしまった。そうして辿り着いたブランデンブルク門。ホントに壁が5mばかし破れていて、人々はIDカードを「ちらっ」と見せるだけでにこやかに通り過ぎてゆく! テレビの特別番組で見た通りだ。思わず僕もここを通ってみたかったが、当時この「仮設検問所」は、東西両ドイツ国民にのみ開放されていて、外国人達は従来通りの指定検問所へ回らねばならなかった。 例によって「地球」の地図はいいかげんで、チェコ大使館がなかなか見つからない。結局、お巡りさんに聞く。ちょっと前だったら、「DDRの警察官に道を聞く」なんて尻込みしたであろうが、この時は不思議なくらいためらいを感じなかった。これもまた、「開放」から間も無い当時の独特の雰囲気のせいだったろう。そう言えば、ドイツに住むようになってからも、お巡りさんに道を聞いた記憶はあまりない。お巡りさんの評判は東洋の某国ほど悪くはないみたいだが。 少々時間はかかったものの、無事チェコのビザを取得し、今度はライプツィッヒのホテル予約の為、国営旅行社の本店へ行く。ガイドブックには「国営旅行社」と書いてあるが、現地名称は「Reiseb*ro」すなわち単に「旅行事務所」である。他に民営の旅行会社がある訳でもないので、このように一般名詞がそのまま固有名詞化してしまう訳か。なるほど! かの「旅行事務所」は、東ベルリンの中心地、アレキサンダープラッツの駅前一等地にあり、外国人専用のホテル予約カウンターは、日本式に言う2階にある。客は大していないのだが、一人の客に大して職員があっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、ほとんど進まない。どうやら、言われるように「お役所的に、もしくは意地悪くのんびりやっている」わけではなさそうだ。コンピュータ予約システムなんてものは当然ないばかりか、各地のホテルとの電話連絡さえなかなかうまく行かない。道理で時間がかかる訳だ。その理由には納得はするが、他人事ではないので気が気でならない。もうすでに午後遅い時刻であり、いくら次の客が待っていても、時間が来れば「本日終了」になるのは火を見るより明らかなので。(西ドイツだってそうなんだから。) それでも何とか、順番が回ってくる。まだ真面目にドイツ語を習う前ではあったが、ホテル予約の希望くらいは言える。が、返って来た返事は「ライプツィッヒは満室!どこも空いてないよ!」と。一瞬というか暫くの間、目の前が真っ暗になる。えーっ、今回の第一目的地なのに。瞬間的に頭をよぎったのは、朝一番の列車でライプツィッヒに向かい、その日の夜行で西ドイツへ抜けること。最悪の場合そうしようか、と。ところが、しばらく呆然としていたら、「でも明日の朝速くもう一度来てみなさい。多分(vielleicht)あるから!」と言っているみたいだ。そんな事ってあるの??? ちなみにvielleichtという単語は、通常「たぶん」という意味に習うが、実は「ひょっとしたら」という程度のかなり期待の薄い場合にもしばしば使うということは、ずっと後で習った。さて、激しく落ち込んでいた僕に対し、生来楽天的らしいカミサンは、「ああ言っているんだから、あしたまた来ようよ!」と、意外と平然としている。とにかく今夜はどうすることもできないので、ちょっと気を取り直して、オペラかコンサートを探すことに。結局、シャウシュピールハウス(注: 直訳すると「演劇場」だが、実はベルリンのこの名の建物はコンサートホールである。そう言えば、今住むフランクフルトのAlte Oper(旧オペラ座)も、今は中はコンサートホールになっていて、オペラをやる劇場は別にある。どうでもいいけど。)で、まあまあ好みのコンサートがあり、そこへ。でも今となっては、どの楽団が何の曲をやったのか、全く思い出せない。なお、コンサートの前に町中のセルフ食堂で夕食をとったが、巷に言われているとおり、あまり美味いものではなかった。
昨日の職員の言葉を頼りに、再度東ベルリン市域の1日ビザを取って「旅行事務所」へ向かう。すると、案ずるよりナントカで、あっさり「ありますよ!」と。不思議だ。で、いきなり元気になる。結局ベルリンの観光をまだ全然やっていないので、当初予定を1日ずらして、翌々日から2泊の予約を取る。あーよかった! 今(97年)となっては記憶も怪しいが、確かDM(西ドイツマルク)払いのバウチャーを購入させられたように思う。 続いて同じ建物の地上階の鉄道切符売り場へ。こちらは「外国人専用」ではなく、長蛇の列が出来ている。でもガイドブックによると、東側ではキップを買わずに乗ることはご法度で、列車に乗ってから買うことは出来ないとか。ちなみに西側でも、地下鉄や近郊電車では「ご法度」である。よって、なすすべもなくひたすた並ぶ。結局2〜3時間ほど並んだろうか、ようやく順番となる。ライプツィッヒに寄って、ドレスデン、プラハ、プルゼーニュと回ってミュンヘンまでのキップが欲しいと言うと、ここでは西ドイツ区間は売れないという。よってプルゼーニュまでのキップを買う。とにかく「安い」と聞いていたので、迷わず1等のキップを買った。この旅行の前にも後にも、1等車なんて乗ったことはないが、後述の通りライプツィッヒへの列車ではこの「1等」に救われた。このあと、ガイドブックのおススメに従えば、隣の「指定席券売り場」に並び直して指定券を買った方が無難らしいのだが、いい加減並び疲れたのでやめにする。トーマスクックの時刻表によると、僕達が乗ろうとしている列車は「全席指定」ではないことになっていたので。 次いで、プラハのホテルの予約ができるかな、と思ってチェドック(チェコの国営旅行社)の事務所へ。これは都心にはなく、Uバーンで数駅離れた住宅地(高層アパート街)の一角に。でもここではホテルの予約はやっていないとのこと。当時の「東側」の民間向け通信・コンピュータ事情を考えると当たり前だったかもしれないが、そこまで気が回らなかった。 そういえばUバーンのキップだが、駅によってはちゃんとしたキップ売り場の窓口がなかったりする。その場合、ホームに降りる階段の所なんかに簡単な販売機(?)があるのだが......これが何ともシンプル。箱にお金を入れて、キップを手で引っ張ってちぎるようになっているだけ。お金を数える仕掛けなんてどこにもなく、お金を入れずに勝手にキップだけちぎることも簡単。僕はこれをみて「こちらの人達はみんな正直なんだなあ」と、いい方に解釈したが、見方によっては「監視国家だからみんな恐くて無賃乗車なんかしないんだ」とネガティブに受け取る人もいる。たぶん、どちらも本当なんだろう。 ここまでで、午後も結構な時間になってしまった。ここから西側の観光地に戻っても遅くなってしまうので、近くの動物公園へ。「ツォー駅」で有名な西側のベルリン動物園とは別物。ガイドブックによると、ここにはソ連から贈られた珍獣バイカルアザラシがいるらしいのだが、見つからず。でも、結構いろんな種類のガン・カモ類(要するに、ガチョウやアヒルの祖先にあたる野鳥)が放し飼い状態になっていて喜ぶ。実は僕達はガン・カモ類を見るのが大好きなのだ。 この動物公園の周囲もまた、典型的な(?)戦後の庶民住宅地らしい。5階建て〜10階建てくらいのアパートが並び、ちょうど日本の昭和40年代〜50年代前半に建てられた巨大団地に雰囲気が似ている。確かに味気はないが、一戸々々がそこそこ広そうで、少なくとも外見で見る限りは日本の庶民の住宅よりは快適そう。そうではない、と訴えるTVのルポ番組も随分見たが。いずれにせよ、日本のマスコミではさんざん「貧しい、貧しい」と宣伝されてきた東独のイメージとはちょっと違う。団地の中のスーパーなんか、営業時間は西側よりちょっと長めで、逆に便利そう。もっともこれは、労働時間が長いことと、共働きが常識であることの裏返しかもしれない。ひとつだけ「やっぱり貧しい」と感じさせたのは車くらい。有名なトラバントやその同類しか見当たらないし、それぞれ相当くたびれている。でも、車の中はみんなきれいにしている。「10年待ってやっと手に入れた宝物」だからか。 今日は西側へ戻って夕食を取る。値段も高いが、質も良い。「社会主義の理念」は応援してやりたい僕だが、この事実はなんともしがたい。
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