(01-Oct-97 追記)
--- 昨日、こんなお便りをいただきました。 ---
こんにちは笹井さん、
「Mバーンがどうしてなくなっちゃったか」を知りたいとあったのでメイル送ります。
あれはそもそも東に見せる爲の実験設備ですから、壁の崩壊と同時に廃止が決まったようです。
私は86年からベルリン、フランクフルトで働き、丁度壁の崩壊の頃ベルリンに住んでました。その後、ベルギーのブルージュでも半年位働いて日本に帰って来ました。仕事はガストロノミーです。
ベルリンを立つ前にポツダム広場を冩眞にとり、さああと一週間で出發だと云ふ矢先、壁の崩壊でした。すぐに同じ場所へ行って冩眞を取りました。使用前使用後のような感じです。勿論壁の上にも登りましたよ。
今はこんな店やってます。もう1年以上何にも替えていないひどいホームページですが・・・
笹井さんの東の旅行記を読んでたら急に懐かしくなり思わずメイル書いています。
私は87年にドレスデン、ライプツィヒへ行きました。
その頃は暗かったですよ、町中。冬のせいもありますが。
--- もとの旅行記に戻る ---
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この後、シャルロッテンブルク宮殿へ行こうかどうか迷ったが、閉館時刻まであまり余裕がないのであきらめる。代わりに、有名なデパートKa De Weへ。たしかにでかい。これまでドイツで見たデパートというのは、日本で言うデパートとスーパーの中間くらいの感じであったが、ここは正真正銘のデパートである。とりわけ食品売り場が面白かった。ハム、ソーセージ売り場がいくつも、延々と並ぶのはこの国ならでは。ワイン売り場の「宝物庫」には、戦前もののワインも数本ある。中身が生きているかどうかは別として。後で読んだ話によると、このKa De Weは、ロンドンのハロッズとともに、日本のデパートの手本となったそうである。納得。
明日はもうライプツィッヒへ向かう。結局、エジプト博物館もペルガモン博物館も、はたまたシャルロッテンブルク宮殿もサンスーシー宮殿も、見ないままに終わってしまった。
第5日 4月12日(木) ライプツィッヒへ。
3たび、フリードリッヒシュトラーセ駅の検問所を越えて東側へ。今日は市域の1日ビザではなく、普通のDDRのビザを取る必要がある。ホテルの予約時に聞いていた通り、バウチャーを見せてお金を払うと簡単にくれる。もっとも、緊張緩和以前でも、西側の人間が東へ旅行するのは金さえ払えば容易であったとのこと。
ここから東側のSバーンに乗り換えて、長距離列車の出る駅(複数)の一つであるリヒテンベルク駅へ。余談になるが、DDRで長距離列車(Sバーンもそうかな?)を運行していたのはもちろん国有鉄道であるが、その正式名はDeutsche Reichsbahn。「ドイツ帝国鉄道」という、およそ社会主義国らしからぬ響きの名前である。きっと、戦前からの名称なんだろう。通称はDR。余談のついでに、当時の西ドイツ国鉄はDeutsche Bundesbahn(訳せば、「ドイツ連邦鉄道」)で、通称DB。こちらは、ドイツ再統一からだいぶ経ってからDRを吸収し、更に民営化され(この順序はよく覚えていないが)、今はDeutsche Bahn AG(ドイツ鉄道株式会社)という名になった。通称はDBのままで変わらず。但し、駅の看板や車両に書かれた「DB」ロゴの書体が少し変わった。以前のやつは日本文字フォントで言うところの明朝体のような書体、今のは同じくゴシック体のような書体である。
さて、ほどなくリヒテンベルク駅へ着いたのはよいが、ホームはすでに人で溢れている。まずは「非・指定席車両」の在り処を調べんと掲示板を見ると......何と「全車指定」と。話が違う! でも今更どうしようもないので、開き直って1等車の列に並ぶ。列車が入線し、皆が乗り込む。2等車の方はとりわけすごい人で、少々殺気立っている。1等車はまだまし。西側(DB)ではコンパートメントの入り口に、席ごとの「指定席予約あり」の札が表示されるので、それが無ければ「空席」とわかるが、こちら(DR)ではそういうシステムを採用していないので、どの席が「予約済み」でどの席が「未予約」なのか、知る術がない。かと言って廊下に立っていても通行の邪魔なので、適当に座る。そのうちほぼ満席になり、いつ「本来の予約客」が来ないかと気が気でなかったが、結局ちょうど満席のまま、誰も来なかった。ついでに、検札に来た車掌さんもまた、何も文句は言わなかった。同じコンパートメントの他の客はみなちゃんと指定席券を持っていたが。
途中、石炭の露天掘りをやっているらしい風景なんかは初めて見るものであったが、その他の森や農地の景色は西側と変わらず。(あたりまえか。)街の建物が全般に煤けて見えるのは予想通りというべきか。乗り合わせた若夫婦らしきカップルの男にカタコトのドイツ語で聞くと、ちょうど復活祭休暇でツヴィッカウに向かうとか。今から思えば、この時期に列車が超満員になるのは当たり前なのだが、当時は「復活祭」がこれほどまでに特別な一斉休暇の時期とは知らず。このため、後日プラハでもう一度苦労する。
3時間程でライプツィッヒへ到着。懐かしい(?)石炭の臭いがする。大阪近郊の僕の通った小学校では、僕が2年生の時まで石炭ストーブをたいていた。石炭はDDRの貴重な自給エネルギー元であるが、純度の低い褐炭質なのでススもよく出るとか。今更ながら、街の雰囲気が全体に煤けている訳に今一度納得。さて、予約したホテルは駅前の重厚な建物である。ちょっと高かったが、目玉が飛び出るほどの値段でもなかったし、第一、前述の通り選択の余地は無かった。
荷物を置いてすぐ街中へ。ライプツィッヒは結構な大都市だが、例にもれず観光対象は小さな旧市街に集まっている。で、まずは何といってもトーマス教会へ。言わずと知れた、バッハが後半生を過ごした場所。通りの角を曲がって、写真で見慣れた教会の姿が見えると、感激と、興奮と、緊張が。中に入って見回すと、床の一部に立派に花が飾られたところがある。バッハの墓標らしい。上のステンドグラスを良く見ると、ここにもバッハが。聖書上の聖人でない人もステンドグラスの図柄になることがあるとは知らなかった。もっともここでのバッハは特別扱いなのかもしれない。しばらく感慨にひたったのち、何か演奏会もしくは音楽礼拝の類はないかと掲示板を見渡したが、特に見つからず。
このあと、向かいのバッハ博物館を見て、ツーリストインフォメーションへ。もちろん、演奏会情報が目当て。すると、ゲバントハウス管弦楽団の特別演奏会という名目で、「マタイ」を、それもトーマス教会でやると書いてあるではないか。しかも今日と明日。すぐさまチケットはあるかと聞いたら、「前売りの残券はもう返した。当日券は、xx時以降に教会事務所で売る」とのこと。また少し街をぶらぶらして早めに教会事務所の前へ行ったら、すでに相当の行列ができているので加わる。自分の番になるまで、売り切れはしまいかと気が気でなかったが、なんとか無事チケット入手。これは予想以上の成果(?)ということで、始まる前から至って満足。それにしても、どうして教会の掲示版には出ていなかったのだろうか? それとも見落としたのかな? そんなことはないと思うが。
一旦ホテルへ戻り、少し休んで万全の体調で本番に臨む。といっても、こっちは聞くだけなのだが。演奏中は、とにかく自分が、この場所で、この時期(受難の金曜日の前日)に、このメンバー(ゲバントハウス管弦楽団+トーマス教会合唱団)によるマタイを聞いている、というだけで舞い上がってしまって、どんな演奏だったとか、どんな雰囲気だったとかいう記憶が全く無い。ただ一つ覚えているのは、僕達だけではなく周りの聴衆も「宗教行事に参加している」というよりは「演奏会を聞きにきている」という雰囲気の方が大勢であるように感じた。このあたり、以前の旅行のおりにミュンヘンでクリスマスのミサにお邪魔した時の雰囲気とはちょっと違う。半世紀に渡る「非宗教化政策」の結果か、それとも旧教と新教の違いか、はたまた観光客ばかりだったためか。それにしては、日本人観光客は思いのほか見かけなかったが。
第6日 4月13日(金) ライプツィッヒ
昨日「マタイ」を聞いてしまったが、本当の「聖金曜日」は今日である。しかも因果なことに、13日である。朝は前日の調べに基づき、もう一つの有力教会であるニコライ教会の、音楽礼拝にお邪魔する。要は「音楽」が目当てなんだが、不謹慎ながら教徒ではない僕達にとって、周りの人達が何度もひざまづいたり十字をきったりするカトリックのミサに比べ、立ったり、座ったり、歌ったりだけでいい新教の礼拝は、比較的違和感が少なくて気楽である。なお、この教会は、前年秋の民主化運動の原動力の一つとなった、月曜デモの発祥の地でもある。
礼拝の後はまた街中をぶらぶらする。旧市街の中は結構きれいになっていたが、少し外れると随分荒れた建物が多い。「これが実は平均的なDDRの街の姿か。確かに巷に言われる通りだ」と初めて実感する。西ドイツでは、古い建物でもこまめに補修して水色、黄色、ピンクといったきれいな色を塗り直している場合が多いが、こちらでは窓や扉も荒れているし、壁に色を塗ったような気配もなく、すべて煤けた感じだ。もともと経済的に余裕も少ない上、自分の持ち物ではないとなると、誰も家に手をかけないのはむしろ当然か。
午後は再び、トーマス教会で「キリスト臨終の礼拝」にお邪魔する。とにかく「その瞬間」に、し〜んとする中、鐘が静かに鳴ったことを微かに覚えているが、ほかにはあまり記憶がない。
今日はホテルのレストランで久々にまともな夕食を取る。「聖金曜日」だったことも殆ど忘れていたか、はたまた全然気にしていなかったか、ごく普通の食事をした。どうせ自分はキリスト教徒ではないわけだし。(キリスト教徒は一般に、この日は肉食を避け、魚を食べるらしい。もっと真面目な教徒は、毎週金曜日にそうするとか。仏教の世界ではどちらも「生き物」なんだけど。)ワインリストにはDDR産のワインもいくつか出ているので、「話のタネに」と注文する。恥ずかしながらこの時まで、DDRでもワインを作っているということを知らなかった。というのも、内陸気候でブドウ作りには向いてなさそうな気がしていたもので。食事は十分おいしく、サービスも感じがよく、かつまた値段は至って妥当であった。
この食事の会計で、ちょっと妙な経験をした。勘定は東マルク建てである。このころ、公の両替所での西マルクと東マルクの交換比率はすでに1:3であった。(もっと昔は、公には1:1だったと言う。)たまたま十分な東マルクを持っていなかった僕は、「西マルクだといくら?」と聞いたところ、「同じだ」という。「でもここのホテルのフロントで両替すると1:3ですよ」と言うと、「じゃあ、今替えてくれば」と。こうして、結局はフロントで1:3で交換した東マルクで勘定を支払った訳である。後で考えてみたのだが、どうやら当時も「DDR政府の建前としての公式レート」は1:1であって、かつ闇両替撲滅のために「実勢レートに近づけた、旅行者向け特別公式レート」が1:3であった、ということらしい。
--- つづく ---
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