20-Jul-97 記 思い出し旅行記、東西両独とチェコの旅(90年4月) 第7日 4月14日(土) プラハへ。 朝のガラ空きの中距離列車でドレスデンへ向かう。コンパートメントの壁のポスターに、「Musik hren, nichts stren」(音楽が好きなら、どうぞお聞きなさい。でも他人に迷惑かけないで。)という標語とともに、ウオークマンを聞いている人の顔の絵が。日本ではシャカシャカいう音にいつも腹をたてていたので、思わず苦笑。でも日本で当時、この手のポスターを見た記憶がない。最近(97年現在)でこそ、「車内での携帯電話の使用はやめましょう」の張り紙は見るが。 ドレスデンからは、ベルリン始発の長距離列車へ乗り換え。こちらもガラガラ。なにせ、連休の真っ只中なので。よくあるパターンで、列車は何カ国かの車両の混成。なんとなくスイス国鉄の車両に乗る。列車はずっとエルベ川沿いに走る。国境手前の最後の停車駅を過ぎたら、まずDDRのパスコントロールが、ついでチェコ側のパスコントロールが来る。程なく国境を越えて最初の駅へ。機関車の付け替えとかで、結構長時間停車する。隣のホームには、なんかロシア語の書かれた車両があったり、行き先表示板には「ワルシャワ」なんて書かれていたり。さすがに東側の大動脈幹線だ。 チェコ側に入ると、なんか雰囲気が違う。車窓の街が明るい。まもなく、建物の壁が、西ドイツによくあるように、黄色やピンクのきれいな色に塗られているからであることに気付く。そのうち「団地」の類も見えてくるが、ベルリンはともかく、ライプツィッヒから来た目にはとても「きれいに」見える。それまでは日本の教科書の記述の「東ドイツは、東側の経済の優等生」という先入観があったので、チェコはもっと貧しい国だと思っていたが....ちょっと違うみたいだ。 昼過ぎにプラハ本駅へ到着。まずはホテルを確保しなければ。ところが、早速困難に出会う。とりあえず荷物をなんとかして身軽になりたいのだが、コインロッカーが小さくて、スーツケースが入らない。(西ドイツでは十分入ったのに。)荷物預りのようなものも、どこにあるのか全く見当がつかない。だったら人に聞けばよさそうなものだが、時々そういうことが全くできなくなってしまうのが僕の悪いクセである。結局、駅でカミサンに荷物番をさせて、一人で街中のホテル紹介所へ行く。 まずはチェドック(国営旅行社)の案内所へ行くが、「もうどこも満室。1泊300ドルのインターコンチだけ、空いている」と言われる。もう一軒の案内所、プラゴトゥールなるところ(若者向きの安宿を紹介する、と書かれている)へ行くと、もっとひどくて、窓口に「No more room!」なんて張り紙が出ていて、がらんとしている。「この際、300ドルでも仕方ないか」と思ってチェドックに戻ると、「もう売れちゃった」とのこと。 がっくりして表に出たら、「民宿の客引きのおばさん」が寄ってくる。最初はうさんくさそうに思って敬遠したが、周りをみると何人もいて、あちこちで「商談成立」している。次に声を掛けてきたおばさんなんかは、最近泊まったという日本人の名刺をみせながら売り込んでくる。人もよさそうだし、今から何も見ないで夜行で西ドイツへ抜けるのももったいないと思い、ついて行くことにする。もう一組の客候補のドイツ人カップルは車で来ていたので、まずはカミサンの待つ駅へ。でも結局は荷物ともども乗れそうにはなく、再度カミサンを置いてきぼりにして、ドイツ人カップルの車で、おばさんと4人で「民宿」へ向かう。市の中心から15分ほど走ったところは近代的な団地。かつて子供部屋であったらしき部屋に案内され、「これなら上等」ということで商談成立。確か一人1泊18ドルとかだったように記憶。 今度こそカミさんを迎えに、ドイツ人カップルの車で駅まで戻ってもらい、今度はタクシーでカミさんと荷物を持って「民宿」へ。タクシー代はおばさんが払い、その後も特に請求されなかった。きっと、一人一泊18ドルもらえば「そんなの誤差範囲」ということだったのだろう。結局、ドイツ人カップルの方とは商談成立しなかったとみえて、その後見かけなかった。 この間の会話は、おばさんのカタコト英語と僕の片言ドイツ語のちゃんぽん。真面目に習う前だった僕のドイツ語のほうが、まだ少しはましだったような気がする。2回目に家に着いた時は、ダンナとおぼしき、とっても優しくて善良そうなおじさんもいた。「腹へってないか?」「実は朝飯以降何も食ってなくてハラペコ」なんて具合になって、お茶を入れてくれたり、パンを切ってくれたりで、感激。みんながみんな、こんな人達ばかりではないだろうから、運がよかったのだろう。それこそ、着いていった先がタチの悪い連中だったら....と考えると、ちょっとぞっとしなくもない。後で思うと、ちょっと不用心だったかな、とも。でもまあ結果的には良かった。チェコの普通の(ちょっと裕福めの?)人の家の中が覗けて、300ドルのインターコンチよりもずっといい思い出になった。 ちなみにこの初老の夫婦の住まい、築後10年くらいの鉄筋高層アパートの一室で、日本式に言えば2LDKながら個々の部屋は十分広く、日本で60平米のマンションに住んでいた僕らからみた印象は、まさに「豊かな住居」であった。面白かったのは、玄関で靴を脱いでいたこと。元々家がそういう作りになっている訳ではないので、玄関の「外側に」靴が何足か、無造作に置いてある。(ちなみに、ドイツ在住の日本人の多くは、玄関の「内側に」靴を並べる。)この家の人だけではなく、同じ階段の下や隣の家の人達も同様にしていた。きっと、カーペットを汚さない、足の健康に良い、等の理由で普及した「生活の知恵」なのだろうが、誰がどういうきっかけで始めたものなのか、興味をそそる。 さて、まだ夕方早い時間なので再度街中へ出て行くことに。高台にある団地のすぐ下に地下鉄の駅があり、それで8駅ほど行くと都心であることなどを聞いて、出かける。ところが、コルナ(チェコの通貨)の紙幣は持っていたが、コインは未入手。他方、キップは自動販売機のみで、コインでないと買えない。ちなみに運賃は1コルナ、当時のレートで約1/15マルク、即ち6円ほど。両替してもらおうと思って通りがかりの若い人にたのんだら、その人も両替するほどの小銭をもってはいない。結局、「あげるよ!」といって、2コルナくれた。なんと親切な。ちなみに、ここではパリと同じように、地下鉄を「Metro」と呼んでいる。 地下鉄の駅も車両も、十分に近代的である。ここでも、「チェコは貧しい、遅れた国」という日本での先入観の間違いを再認識する。都心に着いたころはさすがに暗くなっていたが、戦災を免れたといわれる旧市街一帯がナトリウムランプのオレンジ色に照らされて、それは何ともキレイな、幻想的な光景であった。旧市街を一回り散歩ののち、食事をしたかったが、どこも「予約無しではダメ」と言われ、結局立ち食いソーセージとビール(もちろん、ピルスナーウルクェル)で腹を満たして、団地の「民宿」へ戻る。このソーセージとビールが、またバカ安かったことを覚えている。とはいっても、これらを「安い」と感じるのは通貨交換レートの魔術であって、地元の人達の収入レベルからすると全く普通の値段に違いない。通貨交換レートが、身の回りの物価ではなく産業と経済の力関係で決まるという、西側先進諸国の横暴のなせる業ともいえよう。
今日は復活祭主日。昨日同様に地下鉄で都心へ出て、旧市街中心のティン教会へ。ここでも一番の目当ては、「復活祭主日のミサには、どんな音楽が入るのかな」である。でも結局、南独やオーストリアでよくあるような「音楽ミサ」(しばしば、モーツァルトやハイドンのミサ曲が演奏される)ではなかった。もちろん途中何度か、聖歌隊の歌や会衆の讃美歌なんかは入ったが。 続いて、すぐそばの旧市庁舎の塔に上り、有名な天文時計の仕掛けの出る時刻に見に行き、カレル橋を渡ってプラハ城へ、という感じで、ようやくまともに観光した。城内の大統領府の門の前の衛兵が、あまりにキレイに化粧しているみたい(?)で、かつ身動きしないものだから、しばらく生身の人間であることに気が付かなかったのもケッサクだ。 この日街中で随分見かけたのが、「吹き流し」とでも言おうか....何かの植物のツル数本で編んだ棒の先に、赤、黄、青、白、と色とりどりのリボンか細長い紙切れを付けた、まさに「吹き流し」のようなものを持っている人が多い。また、街の所々でそれを売っている。その後も他の地方で見かけたことがないところをみると、この地方独特の復活祭の風習か。それに比べると、「復活祭の卵飾り」はヨーロッパ各地でポピュラーだが、他とちょっと違った細かい幾何学模様の「チェコの復活祭の卵」はとりわけ有名であると知ったのは、随分後のことである。(フランクフルトの市庁舎前広場にも、季節になると「チェコの卵飾り売りのおばさん」が現れる。) 後日談だが、これら「吹き流し」と「卵」を買いそびれてず〜っと心残りに思っていた(そんな大したことか!)僕達は、ドイツ生活4年目の96年の復活祭休日にプラハを訪れ、ようやく手に入れた。ちなみに、それまで近くに住んでいながら行きそびれていたのは、ビザを取るのに平日にボンの大使館まで行かねばならなかった(と思っていただけ?)からである。それがいつの間にか、写真さえ持参すれば国境で取る事ができるようになっていて、そのことを聞いたのが95年後半になってからだったのだ。 またまた余談になるが、去年(96年)のクリスマス前にブダペストに旅行に行った僕達は、そのために平日一日会社を休んでボンのハンガリー大使館までビザを取りに行ったのだが、つい先日日本とハンガリーの査証相互免除協定が成立し、観光ビザそのものが不要になった。 旅行記に戻る。この日は早めに食事を確保し、夜の散歩を楽しんでいたのだか、ちょっと注意力散漫になっていたようで、ガラの悪い連中数名に囲まれ、いくらかの金を巻き上げられるめにあった。この「事件」以降、日本の外ではどこでも、周囲に少しは気を付けながら歩くようになった。
90年当時、プラハからミュンヘンへ向かう列車は極めて少なく、朝早い(8時頃?)列車を逃すと次は昼過ぎで、それだとミュンヘンに着くのも相当遅くなってしまう。よって早起きして朝の列車に。今日は復活祭月曜日で、ドイツの普通の勤め人にとっては連休最終日である。列車は「満員」という程でないが、そこそこ客が集まってきているのもそのためか。 朝から何も食べていなかったので、食堂車で簡単な朝食を取る。ヨーロッパでの列車の旅行はそこそこ経験していたが、食堂車に入ったのはこれが初めて。実はその後も今日まで、食堂車を使ったことがない。ドイツに住むようになってからは、ついつい車ばかりになってしまうせいもある。たまにはのんびりとした列車の旅行もしてみたいものだ、と常々思ってはいるのだが、すっかり「行き当たりばったり旅行」のスタイルが染み付いてしまったので、結局は車になってしまう。 さて列車は、プラハから2時間程でビールで有名なプルゼーニュに着く。最初の計画ではここにも少し滞在してみたいと思っていたが、ベルリンでの行列やプラハでの宿探しで「勝手のわからない土地の旅行」に相当疲れていた僕達は、そのままミュンヘンへ直行することに。またもや後日談であるが、ここプルゼーニュも96年の復活祭の折にはきっちり訪れた。もちろん、ピルスナーウルクェルの工場見学とビヤホールも。 手持ちのキップはプルゼーニュまでだったので、車掌さんから国境駅までのキップを買い足す。これはコルナ建てで、例によってウソみたいに安い。ここから先は、相当のローカル線の雰囲気である。いつしか非電化区間となり、かつ単線となる。随分走って昼すぎになったころ、パスコントロールが来て、程なく西ドイツ側の国境駅、Furth im Waldに到着。なんとなくほっとする。 すぐにDBの車掌さんが検札に来る。「この車両は1等だよ!」と車掌さん。(高いけどいいの?、との意味に受け取った。)2等車両も決して満席ではなかったが、今更荷物を持って引っ越しするのも面倒で、「いいですよ。ミュンヘンまでいくらですか?」と、僕。結局、Furth im WaldからミュンヘンまでのDBのキップは、ベルリンからFurth im WaldまでのDRとチェコ国鉄の通しキップより高かった。 この後はうつらうつらして、15時ころミュンヘン到着。この街へ来るのは「3回目」ということもあり、一段とほっとする。ここだって遠い異国なのに、不思議なものだ。同時にどっと疲れが出て、とても安ホテルを探し回る元気は無く、駅構内のInter City Hotelに泊まることに。
ここから後は、なんの変哲もない普通の旅行となる。よって、この旅行記の趣旨としてはあまり重要でないので、簡単にとばす。 少しは勝手のわかる街は、本当に気楽だ。昼間は英国庭園の池で、ガンやカモの親子連れなんかを眺め、夜は初めてミュンヘンのオペラを見る。以前に来た2回は、売り切れだったり、めぼしい公演がなかったりで、チャンスがなかった。とは言っても、今日は大劇場の方ではなく、宮殿の中にある小劇場。出し物は、これまた舞台では初めて見る「セビリアの理髪師」。
昨日まではいい陽気だったのが、今朝はみぞれが降っている。実はまだ行ったことのなかったアルテピナコテークやら、ドイツ博物館などを回る。夜はまたオペラ。今日は大劇場の方で、「サロメ」。
朝のルフトハンザのヒコーキでフランクフルトへ。昼ころ、アエロフロートのモスクワ行きに。夕方モスクワにて、コペンハーゲンから来たらしいアエロフロートの成田行きに乗り継ぐ。翌朝成田着。これまでで最も長いヨーロッパ旅行だった。
最初に書いた通り、この旅行記は7年前の記憶を頼りに、このたび書いてみたものである。実はさすがに4月の何日に出発したかまでは覚えていなかったので、当時のアルバムをちらっと見たりはしたが、その他はすべて記憶にあった。他方では、つい数週間前の週末に何をしたか、なかなか思い出せなかったりするだけに、この7年前の事をよくも覚えていたものだと、我ながら不思議にすら思う。それだけ印象が強かったのかな、なんて思ったが、よく考えてみると、ドイツ転勤以前の4回のヨーロッパ旅行のことは、どれもよく覚えている。 ここまで個人的追想に付き合ってくださったかた、どうもありがとうございました。もし本文中の記載に間違いや疑問点を見つけられたら、おしらせ下さい。
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