http://www.rapidnet.com/~jbeard/bdm/exposes/graham/general.htm
ビリー・グラハム 全般的な教義/活動
ビリー・グラハムは75歳で、パーキンソン病にかかっている。それ
は進行性の神経病で、自動車の運転も、手で書くこともすでにできな
くなっている。彼は年間1億ドルの福音伝道帝国「ビリー・グラハム
福音伝道協会(BGEA)」を率いている。BGEAは、1991年には1億
200万ドルの収益があった(グラハムは現在、年に10万1250ドル
と、3万3750ドルの住宅手当をもらっている)。また、BGEAは、ノ
ースカロライナ州のアシュヴィルにある1500エーカーのトレーニン
グセンター“入り江”を経営している。入り江は1987年に始めら
れ、宿泊所と9歳から15歳の子供向けの入り江キャンプがある。
1992年には、そこで約4000人の成人が、グラハム式の福音伝道の訓
練を受けた。1993年には6000人の訓練者が期待されている。
グラハムは、伝えられるところによれば1億人以上に説教し、その
うちの、正確には287万4082人が、“イエス・キリストを自らの救済
者として受け入れる”ところまで行ったと主張している(93/11/15
Time誌)。ジョージ・ブッシュはグラハムを“アメリカの牧師”と
呼び、ハーリー・トルーマンは彼を“偽物”、売名家と呼んだ。パッ
ト・ブーンは彼を“イエス以来の最も偉大な男”だと見なしている。
ボブ・ジョーンズ3世は、グラハムは“他のどの今生きている人より
もキリストの意図を傷つけた”と言う。誰が正しいのだろうか? 以
下を読んで、あなた自身で判断してください。
ノーマン・ビンセント・ピールは、“クリスチャン”心理学を偽教
会に持ち込んだのみならず、視覚化、多神教、人間の可能性、積極的
告白、積極的思考、等のニューエイジとオカルト教を唱道したという
責任がある。かつて、33階級のメーソンであるピールは、フィル・ド
ナフュー・ショーについてこう語った。
「再び生まれる必要はない。あなたは神への道を持っている。私も持
っている。私は神道の神社に永遠の平和を見出した。」(神道は古代
東洋宗教で、先祖崇拝と神秘主義が融合している。) 彼は処女懐
胎を信じる必要性もないと言った。
ピールの間違った教えは、グラハムにとっては、見たところほとん
ど関係はない。「今日のためのバイブル」に、グラハムが1966年12
月6日に全米教会会議のスピーチで言った内容が引用されている。
「私は、ノーマン・ピールとルース・ピール以上に、神の王国に貢献
した人を知らないし、私の人生に励みとなっているものを与えてくれ
た人はいない。」(Hayes Minnick BFTレポート#565 p.28)(多
分ビリーは、ピール以上に、キリストの意図に対して邪悪なことをな
した人はいないと考えられる、と言いたかったのではないか。)
グラハムは、彼が行ったニューヨークシティー大集会のうちの一つ
で、ピールに祝福を与えることを許したことがあるくらいで、さら
に、400名の新しい“改宗者”の名前を、ピールのマーブル協同教会
に贈った。
ノーマン・ビンセント・ピールの最も“成功した”protgs??は、ロ
バート・シューラーである。シューラーは、「人は、自らの個人的な
罪を認める必要は“全く”なく、悔い改める必要も“全く”なく、自
らをはりつけにする必要も“全く”ない」と説く。シューラーは、イ
エス・キリストの福音の完全なる否定以外の何物でもない、自己を称
揚するちょうど反対の哲学を説いている。
(「自己尊敬――新しい改革」参照。その中で、シューラーは「イエ
スは彼の価値を知っていた。彼の成功は、彼の自己尊敬を高めた。彼
は、彼の自己尊敬を神聖にするために十字架で苦しみ、あなたの自己
尊敬を神聖にするために十字架に耐えた。十字架は、自我の旅を神聖
にするだろう(マタイ16:24参照)」と言う。)
グラハムは、この背教者を同様に、「ロバート・シューラーは、私
が彼の靴のひもをかがんで解く価値もない、神の偉大な人間である
(ヨハネ1:27にある、イエスについて洗礼者ヨハネが言った言
葉!)」と言って是認している。グラハムは、1969年、シューラー
に、シューラーが“パワーの時間”というテレビショーを始めるよう
にアドバイスした。グラハムは、シューラーの1000回目の記念番組
(89/4/2放送)に自ら出演し、20年前、いかにグラハムがシューラ
ーを励ましたか述べた。そのとき、グラハムは、「ボブ、君の礼拝を
テレビ放送することを考えたらどうだ?」と言った。
グラハム・クルースエイド(※クルースエイド:文字通りには「十
字軍」。キリスト教信仰復興運動)との協力は、自動的に信仰の原則
を否定してきた人たちとの親交を必要とする。例えば、グラハムは有
力な“不信心者”を彼の改革運動の教壇に有しているだけでなく、ロ
ーマカトリックの新しい“改宗者”と共に、正式の関係にあるカトリ
ックの法廷弁護士の法律顧問を、少なくとも1972年から有してお
り、この新しい改宗者を、彼ら自身のカトリック教会に、後続のため
に差し向けている。実際、グラハムは、広範囲な宗派の支持(例えば
全キリスト教会的支援)が得られることを確信しなければ、一つの市
の中でさえ、改革運動を維持しようとはしないだろう。そうなると、
この問題はビリー・グラハムのキリスト教の信憑性以上のもので、そ
れよりも、グラハムとグラハムの組織と関係するものは何でも、“他
の福音――ある場合はローマカトリックの福音で、ある場合は現代的
な福音で、そしてなおある場合は福音でも何でもない――を信じる人
たちとの、宗教的な目的のための連帯”であるという事実である。
(R.J.シーハン,「C.H.Spurgeonと現代の教会」pp.97-98)
長年にわたって、カトリックの指導者たちは、ビリー・グラハム・
クルースエイドに恐れるものは何もないことを学んだ。カトリックの
指導者たちは、グラハムの改革運動を、信仰を実践していないカトリ
ック教徒を回復させ、改宗者をローマカトリックに獲得するためにさ
え利用している。“キリストを受け入れよ”、“信仰の歩みを進め
よ”“今夜キリストのところに行きなさい”というグラハムの呼びか
けは、一般的すぎて、カトリックの指導者たちは、自分たちのサクラ
メント(※神の恩寵(おんちょう)の印として神聖と考えられる宗教
的儀式;カトリックでは「秘跡」といい,洗礼(baptism) 堅信
(confirmation) 聖体(the Eucharist) 告解(penance) 終油(extreme
unction) 叙階(holy orders) 婚姻(matrimony)の七つをさす)の福音
をその中に挿入することができる。そして、グラハムがカトリック教
会と活動していて、ローマカトリックに関してどんな警告も決して発
さないという事実は、人々に、グラハムはローマカトリックの神学を
受け入れているのだという考えを持たせる。カトリックの聖職者たち
は、質問する人に対しては、単に、「人は洗礼の時に再び生まれ、ミ
サ、家庭でのつとめ、ロザリオなどのあらゆる種類の宗教的活動を通
して、福音伝道大集会に参加することでさえも、キリストにおいて何
度も新しくされる」と教えている。(ウィルソン・ユーイン「福音伝
道者ビリー・グラハムの、ローマカトリック教会への同化」
pp.38-39)
「何かの説明不可能な理由で、あるいは神秘的でさえある理由のため
に、ビリー・グラハムは、ローマカトリックの神学的・道徳的・精神
的な魂を認識することができない。同様に、彼は、全バチカンシステ
ムの歴史的な性格を把握しそこない、もっと悪いことに、それを無視
することに決めてしまった。その代わりに、ローマ法王庁に魅かれ、
感銘を受けて、ついに尊敬して従うことに決めた。結果は、神の言葉
の真実と、ローマカトリックの完全な暗黒との間の違いを理解すると
いう、彼の側の悲惨な失敗となった。」(ユーイン,p.22)
92年9月にオレゴンエリアのポートランドで行なわれた「ビリー・
グラハム・クルースエイド」は、グラハムのローマとの妥協の良い例
である。オレゴンの「カトリック・センチネル(カトリックの番
人)」(1992.4.24)に、“ビリー・グラハム・クルースエイドに新
参加のカウンセラー”と題された記事があった。「センチネル」は、
1万人のカウンセラーが、必要なクラスに出席することが予想されて
おり、ローマカトリック教会はそのうちの6000人を提供するのを目
標に定めたと報じていた。さらにその記事には、(“意思決定者”に
ついて)「カトリックの洗礼を受け、カトリックの方を好むと表明し
ている人たちが、クルースエイドの一部である地方教区に向かう予定
である」と述べられている。
カトリック教会との親交は、クルースエイドにおける単なる世俗性
ではない。92年9月13日、「オレゴニアン」には、「7000人以上の
若いキリスト教徒が、土曜日の夜にポートランドのメモリアム・コロ
シアムで行われたグラハム・クルースエイドのパワー・サージ・ユー
ス・ラリー(力のうねり若者大集会)に参加した。アンプの音を大き
くし、ライトを弱めて、若いTシャツとジーンズの群衆が、賛美歌で
梁を振動させ、鼓動するロックビートに乗って盛り上がった。
このクルースエイドが終わった後、92年9月25日の「カトリッ
ク・センチネル」は、グラハムに好意的に書いていた。
グラハムの人々へのメッセージは、神と、自分たちの教会に戻るこ
とである。グラハムは、「ローマカトリック教会が、私たちがどこへ
行こうと、今、私たちに協力してくださっていることを大変うれしく
思います」と言って、カトリック教会に特別な称賛を捧げた。
グラハムは、道徳的な問題については、真のキリスト教徒の立場を
とることは難しいと思っている。前述のポートランドでの92年9月の
クルースエイドで、グラハムは、同性愛は罪であると宣言したが、そ
ういう機会はそれが唯一のものだった。彼は、来るオレゴン州全体の
レファレンダム(92年11月)についての彼の立場について質問され
た(そのレファレンダムは、同性愛は異常であると宣言し、通れば、
政府が同性愛を支持することを禁じるものである)。グラハムは、聖
書からの明快な答えを出すというよりも、政治家を演じた。
「その問題のどちらの側も、激しい議論をしていて感情的だと思いま
す。私はここにいる間は、国家・地域政治には入らないつもりであ
る。神はその人の民族的政治的背景や社会的志向が何であろうとも、
人々を愛してくださっている。キリスト教徒は、多くの問題について
相反する見解を持っています。問題の双方の側の人々は、互いに愛し
合わなければなりません。私は他のグループに反対することは決して
語りません。(92/9/22「ステーツマン・ジャーナル」)」
1年前、ABCの“グッドモーニング,アメリカ(GMA)”
(91/9/5)で、妊娠中絶についてのキリスト教徒の立場を聞かれた
時、グラハムは、次のように言った。
「キリスト教徒の立場というものはあります。しかし、それが何であ
るか私は言う準備をしていません。」
そして再び二週間後(91/9/19)、GMAでグラハムは、「しか
し、妊娠中絶が唯一の選択肢である場合もあります。」と発言した
(しかし彼は、「罪のないまだ生まれていない人間の生命を殺すこと
がOKの場合」とは言わなかった)。(93/2/22の「クリスチャン・
ニュース」で報道)
1948年、ビリー・グラハムは、「今年の8月、世界教会協議会
(WCC)のメンバーがコペンハーゲンを訪れるとき、世界教会協議
会が何をすることを期待しますか?」と聞かれた。彼は次のように答
えた。
「私は、彼らが反キリストを指名することを信じています!」
しかし早くも1966年、グラハムは、1961年のニューデリーでの
WCC集会に出席したことを自慢し、1968年のスウェーデンのウプサ
ラでの第4回集会に出席することを望んだ(実際出席した)。彼はす
べて出席したが、それ以来WCC集会は2回だけであった!
背教者のエキュメニカル・ムーブメント(世界教会運動)の指導者
たちとのグラハムの協力、彼らの“キリスト教の統一”の探求の基礎
となっている、「聖書にない立場」をさらすことについてのグラハム
の拒否、背教者の宗教指導者たちと協力したいというグラハムの意向
は、報道された、世界教会協議会の書記長コンラッド・ライザーとの
心からの談話の中でもう一度示された。
EPSの報道によれば、「ライザーは、彼とグラハムは親しみのある
非公式の幅広い範囲の会話をした、と報告した。グラハムは初期の
WCC総会に出席したことを思い出し、彼の現在の活動についてたく
さん話した、とライザーは語った。グラハムのアシスタントは後に、
グラハムと他の福音伝道者たちのきずなを発展させるWCCの努力が
続くことへの期待を表明した、とライザーは語り、グラハムが可能な
時にはいつでも、ジュネーブのWCC本部を訪問するように招待し
た、と報告した」と言う。
ビリー・グラハム福音伝道協会は、計画中の「巡回福音伝道者北ア
メリカ会議」が、ケンタッキー州ルイヴィルで、94/6/28から
94/7/1に開かれる予定であることを発表した。それには40以上の宗
派と組織が参加する予定で、グラハムは、“福音伝道者の新しい世代
が地平線に昇る。”と予言した。もしこの会議が、前の会議のパター
ンにならうなら、WCC-NCCの宗派、カリスマ派の運動、ローマカ
トリック教会を非常に押し上げることになる。グラハムの聖職者とし
ての地位が衰える年になって、グラハムは、神の言葉が間違った福音
を説く人たちと共に働く結果となるような、神の言葉に背く福音伝道
者の未来の世代を訓練することを非常に強調している。(1993年
9.10月「ファウンデーション」誌)
1952年とまた1958年に、ビリー・グラハムは間違った教義を説く
人たちと離れることについてのまともな声明を発表した。例えば、
1952年には彼はボブ・ジョーンズ・シニア博士に、「私たちの[ク
ルースエイド]委員会に、処女懐胎、身代わりのあがない、肉体の復
活を否定した人はかつていませんでした」と手紙を送った。1958年
には、グラハムは「エターニティ」誌で、次のように述べた。
「もし人がずうずうしくもキリストの神性や、キリストが肉体を持っ
て来られることを否定するなら、私たちは、幸運の祈願をすることさ
えないだろう。このように、聖書は、私たちの主イエス・キリストの
神性を否定する人たちから離れるべきであることを教えている。私は
彼を、反キリスト、十字架の敵として扱うつもりである。」
しかし早くも1963年、グラハムは合同メソジストの司教ジェラル
ド・B・ケネディを、グラハムのロサンゼルス・クルースエイドのチ
ェアマンとして迎えた。ケネディは、彼の本の中の一つに書いてい
る。
「私は、新約聖書に書かれた証言は、全体的に、イエスの神性につい
ての教義に反するものだと信じている。」
多分、最もドラマチックなのは、間違った宗教に関してのグラハム
の変化である。1948年、グラハムは言った。
「正教会が直面している重大な三つの脅威とは、共産主義、ローマカ
トリック、イスラム教である。」
しかし1973年には、グラハムは態度を変えていた。彼は、「共産
主義者毛沢東の“八つの訓戒は、基本的に十戒と同じである”」と言
い、ローマカトリックのミサを“とても美しいものだ”と称賛し(後
述の項目を見よ)、モハメッド・アリのイスラム教信仰は、“私たち
すべてが信じることが可能なものだ”と言った。
もっと前の1966年には、グラハムは次のように言った。
「私は、自分自身が、ラディカルなプロテスタントよりも、カトリッ
クに近いことがわかった。私は、今日のローマカトリックは、二度目
の宗教改革を経験していると思う。」(66/5/24「フィラデルフィ
ア・イブニング・バラティン(会報)」)
グラハムによれば、この“宗教改革”は1978年までには終わって
いたはずで、そのとき彼はこう言った。
「私の信仰は、本質的に正教会の信仰と同じだとわかった。」
(78/1「マッコールズ・マガジン」)
グラハムの福音とローマカトリックの福音は、実際全く違わない。
1978年、「マッコールズ・マガジン」は、グラハム博士の“更新さ
れた”救済の仕方についての理解を報道した。
「私は、遠く離れた国の異教徒は、もしイエス・キリストが説かれた
福音を知らなければ、地獄へ行くと思っていた。もうそれは信じな
い。私は、自然を通して神の存在を知る他の方法があると信じる。」
もちろんこれは、間違った福音であり(ヨハネ14:6参照)、福音を
説く者をとがめるものである。(ヨハネ14:6;ガラテヤ1:8.9参照)
グラハムが、実際に地獄について何を信じているのかを知るのは難
しい。ひとつ確かなことは、グラハムにとってそれは、文字通りでは
ないということである。
「私に唯一確実に言えることがあるとすれば、地獄とは神からの分離
である。私たちは神の光、神との交わりから離れている。それは地獄
に行くことである。文字通りの火については、私はそれについて説教
することはしない。なぜなら、それについてはよくわからないから
だ。」(93/11/15「TIME」誌)]
1948年にはグラハムは、ローマカトリック教徒たちを“正教会が
直面している三つの重大な脅威”と呼んだが、今日では、グラハムは
ローマカトリック教徒たちと手に手を取って、全面的な協力者となっ
て活動している。彼は数多くのカトリックの賞をもらい、法王ヨハ
ネ・パウロ2世の大変な崇拝者・後援者の一人で、それは、法王に
“平和賞のプリンス”の賞を与えようという、1989年のカリスマ派
の計画を完全に支援していたことが、その証拠である(法王は却下し
た)。また、法王を“現代世界の最も偉大な宗教的指導者”“政治家
であり、牧師であり、福音伝道者”と呼んだことが、その証拠であ
る。
ここに、グラハムの法王への申し入れの簡略な歴史がある。
ヨハネ13世の死に際して、グラハムはドイツのボンからこう言っ
た。
「私は法王ヨハネを猛烈に尊敬していました。私は、彼がこの世界に
新しい時代をもたらしたと感じました。私は、枢機卿方が、ヨハネと
同じ路線を歩む新法王を選出することを望みます。もし枢機卿方が、
ヨハネに反対する反応をする人を選ぶなら、それは大変な悲劇となる
でしょう。」(63/2/2「ミシガンシティニュース・特報」;「シカ
ゴトリビューン」)
グラハムは、北米全土で行われたエキュメニカル・キー'73会議
で、ローマカトリック文学を推薦した。彼は特に法王ヨハネの伝記を
推薦したが、その中には、マリアと聖人への帰依、ミサの時のパン
(聖餅(せいへい))への崇拝、救済の手段としてのサクラメントへの
法王ヨハネの信頼の書かれた数百ページが含まれていた。グラハムは
この本を、“帰依の古典”と宣伝した。(86/2「ザ・ゴスペル・ス
タンダード」;「キー'73:会衆派リソースブッック」)
【1979年】
ビリーグラハムは、10/11のフィル・ドナヒュー・ショーに出演
し、合衆国への法王ヨハネ・パウロ2世の訪問についてディスカッシ
ョンした時に、こう言った。
「私は、アメリカの国民は指導者を、何かを信じている道徳的精神的
指導者を求めていると思います。そして法王はそうです。私は神に感
謝します。今私が、実際の権威をもって言及できる人を得ていること
を。」
グラハムは別の場所でこう言った。
「法王ヨハネ・パウロ2世の合衆国への訪問は、ローマカトリックに
とってだけでなく、アメリカ人すべてと世界にとって重大な意義を持
つ出来事である。ヨハネ・パウロ2世が法王だった短い間に、“彼は
世界の道徳的指導者になった”。私の祈りと、数え切れない他のプロ
テスタント教徒たちの祈りは、法王が旅をする時は彼と共にあるだろ
う。」(79/9/27宗教ニューサービス・特報;「新中立主義U」の中
で引用)(強調は追加)
【1980年】
「法王ヨハネ・パウロ2世が選出されてから、彼は現代世界で最も偉
大な宗教的指導者として登場し、今世紀の最も偉大な道徳的・精神的
指導者の一人として登場した。法王はアメリカに、政治家であって牧
師として来られた。しかし私は、彼は自分自身を、福音伝道者として
来たと理解されていると信じる。法王は、私たちの世代の精神的飢餓
に対して、この国中のキリスト教徒が、キリストに心が向いているあ
らゆる世代の人々の精神的渇望に対して語りかけているのと同じ方法
で、語りかけようとされていた。(「サタデー・イブニングポスト」
1980年1-2月)
[この記事の中で、グラハムは、次のように言ったとして引用されて
いる。
「最近、私は“教皇”という言葉が、元来は“橋を架ける人”を意味
するラテン語から来ていることを知った。法王ヨハネ・パウロ2世
は、実際に橋を架ける人であり、分断された私たちの世界が絶対的に
必要とするものである。」
歴史的には、“教皇(pontiff)”は橋を架ける人を意味してはいない
が、“神官長(Pontifex Maximus)”という法王の称号(これは、ロ
ーマ帝国の古代異教宗教の高位聖職者から初期の法王に伝来するも
の)と関係している。イタリア語とラテン語の“教皇”は、“橋”を
意味し、明確に、法王自身が人間と神との橋であるという、法王の不
敬な主張を指す。]
【1981年】
グラハムは1月13日法王ヨハネ・パウロ2世に会い、次のように語
ったと「宗教ニュースサービス」で報道された。
「約2時間の集中的な会話は、“非常にプライベートで、親密なもの
だった。法王は極めて温かく、私たちの活動に興味を持たれてい
た。」(81/7/17「今日のキリスト教」)
法王がバンクーバーに滞在した後、1ヶ月たたないうちに、グラハ
ムがバンクーバーに行くに当たって、グラハムは法王のメッセージに
ついてコメントした。
「私はあなた方に、私が今まで聞いた中のどれにも劣らない率直な福
音伝道の言葉を伝えます。それはすさまじいものです。もちろん、私
は法王の大変な崇拝者です。法王は、方向を見失ったかのように見え
る世界に、道徳的なガイダンスを与えてくださっています。」
【1989年】
グラハムは法王ヨハネ・パウロ2世との会見について、次のように
語った。
「会話中に少しの沈黙があった。突然、法王の腕が伸びて、私のコー
トの襟をつかみ、法王の顔の数インチ以内に私を引っぱり寄せた。法
王は目を私に据えておっしゃった。
“聞きなさい、グラハム、私たちは兄弟だ。”」
(89/6/8「Today」)
グラハムは、人生の中で大きな出来事だったと言った。
【1990年】
法王との会見の後、グラハムは言った。
「法王の態度と決断は、“法王の偉大な個人的精神生活に基づいてい
る。法王は、ご自分の仕事とメッセージとビジョンを、聖書の原則に
基づかせていらっしゃる。”」(ユーイン「福音伝道者ビリー・グラ
ハムのローマカトリック教会への同化」1992)
【1993年】
7月12日、ABCテレビの“グッドモーニング、アメリカ”で、ジ
ョアン・ルンデンのインタビューで、グラハムは言った。
「私は、法王がデンバーに来られてうれしく思います。私は、たとえ
すべてにおいて彼に賛成できないとしても、法王を崇拝します。」
[この話題の中の法王は、この年に、法王は無謬の“キリストの代理
者”であると主張している。無謬の“キリストの代理者”であって、
唯一の本当の福音だと主張する人が、どうやったら何千もの若者を欺
く間違った福音を携えて偽キリストが来ることを“うれしく思”える
のだろうか?]
72年4月21日、グラハムは、“真のエキュメニズムへの貢献”と
グラハムの“誠実で信頼性のあるエキュメニズム”により、カトリッ
ク国際フランチェスコ会賞を受賞した。(72/4/22「ミネアポリス・
スター」)賞を受けるに当たって、グラハムは言った。
「私は聖フランチェスコの靴のひもに触れる価値もないのに、13世紀
にフランチェスコをお呼びになったこの同じキリストが、同様に20世
紀に、キリストのしもべの一人として私を呼ばれた。」(86/2「
ザ・ゴスペル・スタンダード」)
グラハムは、「レーガン大統領の、バチカン行きの大使を任命する
という決定と、バチカンとのきずな」のための道を敷くのに助けとな
った。(「カリスマ」1984.5 pp.101-102)
大統領はグラハムに、国家安全保障顧問ウィリアム・P・クラーク
が、法王庁との正式な外交関係を確立するための返事を集めるのを助
けるように頼んだ。グラハムがコンタクトをとったキリスト教の“指
導者たち”は、ジェリー・ファルウェル、パット・ロバートソン、ギ
リー・マービン(NAEの事務局長)、デイビッド・ハバード(当時
フラー神学校の校長)、ギルバート・ビーアズ(当時「今日のキリス
ト教」編集者)であった。クラーク氏に送られた、グラハム博士への
手紙は手に入れられ、グラハムが次のように言ったと引用してある。
「もしそれをすることができて、うまくやり遂げることができる人が
いるとすれば、それはレーガン氏である。」
79年12月9日、有名なカトリックの大司教フルトン・J・シーン
が亡くなった。シーンは、ローマの教理を支持したカトリックの伝統
主義者だった。彼は新約の信仰にとっては堅固な敵だった。しかし、
グラハムはシーンの死をこう呼んだ。
「国家と、カトリック・プロテスタント教会双方にとっての巨大な損
失。彼は、カトリックとプロテスタントの間にある偏見の壁を破壊し
た。私は彼の死を悼み、天国での私たちの再会を待ち望みます。」
(79/12/22「EPニュースサービス」)
しかし、シーンの願いは、キリストの完全なあがないではなくマリ
アにあった。もしシーンが死の床で悔い改めず、キリストに完全に向
かわなかったとしたら、シーンが天国に行くと信じる理由はない。
(デイビッド・クラウド「ローマとのたわむれVol.T:ビリー・グラ
ハム」p.31)
[もちろん、エルビスが天国に行くなら、フルトン・シーンが行かな
いということがあろうか? 92/4/16発行の「USA Today」の記事
で、グラハムは、「神と、偉人と、善を有しているエルビス・プレス
リーと永遠の時間を過ごしたい」と語っている。]
グラハムはこう言ったことがある。
「多くの人がやろうとしてきたように、“優雅さの育成”と“改宗の
優雅さ”を対比してはいけないというのが私の意見である。私は、両
方が存在することを確信するが、改宗の優雅さによって、優雅さの育
成にたどりついた人は幸福であると確信している。」
ローマカトリックに親しんでいる人は、“優雅さの育成”が、七つ
のサクラメントの優雅さに関係することを知っている。このように、
グラハムはその両方を身につけ、ローマのサクラメントの優雅さを受
け入れたのであった!
さて、グラハムも、洗礼による再生という、ローマの間違った福音
に帰依していることを知って驚くには当たらない! 以下の引用は、
グラハムが、当時「ルター派スタンダード」の提携編集者だった、ル
ター派の聖職者ウィルフレッド・ボックルマンのインタビューを受け
た後で、1961年10月に書かれた記事からのものである。
「私は、幼児の洗礼のとき、特に両親がキリスト教徒で、子供に対し
て幼児の時からキリスト教の真理を教える場合、何かが起こるという
ことを信じています。私たちは神の神秘を完全に理解することはでき
ません。しかし私は、その子供たちが再生するような、すなわち幼児
洗礼を通してキリスト教徒になるような奇跡が、その子供たちに起き
うることを信じています。もしそれを洗礼による再生と呼びたけれ
ば、私は全く同意します。」(61/10/10「ルター派スタンダー
ド」)
ボックルマンは、「人々は、洗礼者として、グラハム博士は、幼児
洗礼に反対するだろうと思いこんでいると思います」と言った。ボッ
クルマンは、これが真実ではないことを発見したでけではなく、グラ
ハムの妻ルースと、一番下の子を除いて子供たち全員が幼児の時に洗
礼を受けていることを発見したのだった。(1991年夏に報道
「Dorea」pp.9-10)
ミサのカトリックのサクラメントが、キリストの終了したわざに対
する最大の攻撃であるのは言うまでもないが(ヘブライ10:19-22参
照)、グラハムは、ミサが美しいだけでなく、福音の中で明らかであ
ると考えているのである!
「今週、私は大きなカトリック聖堂で、カトリック教徒だった私の親
しい友人のために葬式の説教をしました。そこには何人かの司教と大
司教が参加していました。私はそこに座って葬式のミサに参加してい
ましたが、それはとても美しいもので、間違いなく福音そのもので、
福音にあるものであることは明らかでした。感じのよい小柄な聖職者
がいて、私に、いつ立ち、いつひざまずき、何をすればよいか教えて
くれました。」(「おお、テモテ」Vol.10 第9版1993 pp.16-17)
さあ、おわかりになったでしょう。ひざまずいて、ミサの聖餅を崇
拝しているビリー・グラハム! ミサがキリストの贖罪についての聖
書の教えを破壊しており、それによって福音そのものも破壊している
ことは、明らかにグラハムにとっては全然重要ではないのである。
「ブックストア・ジャーナル」のインタビューで、グラハムは再
び、エキュメニズムについての彼の立場を非常に明快に語っており、
それをサポートするために、どれほど聖書をねじまげようとしている
かをまさに示している。
「50年代の初めの頃ボストンで、別の重要な出来事が起きました。カ
トリック枢機卿クッシングが、彼の雑誌の表紙に“ブラボー、ビリ
ー”と載せたのです。これは、国中のニュースになりました。彼と私
は親しい友人になりました。それが、私が実際に、プロテスタントと
カトリック全体の状況に真剣に取り組もうとした最初でした。私は、
キリスト教徒は至る所にいるのだと認識し始めました。彼らはモダニ
スト(現代主義者)と呼ばれているかもしれないし、カトリック教徒
と呼ばれているかもしれないし、その他であるかもしれない。しか
し、彼らはキリスト教徒なのです。イエスは教えました。
“これによって、すべての人々は、あなた方が私の弟子であることを
知るだろう。もしあなた方が互いに愛し合うならば。”
そして、愛は他の何よりも重要であると教えました。私は、この認
識からそれたことがあるとは思いません。」(1991年9月「ブック
ストア・ジャーナル」)
1964年、グラハムの補佐ジョージ・エドストロームは書いてい
る。
「グラハム氏は、カトリック教会で一度も説教したことはなく、一つ
の教会にさえ参加することを同意したことはありません。もしあなた
がそういう話を聞いたなら、それはデマ以外の何物でもありませ
ん。」
しかし早くも1963年、上述の声明の一年前に、グラハムはノース
カロライナ州のカトリック大修道院カレッジで講演をしている。
1967年、グラハムは、再びベルモント大修道院カレッジの世界教
会運動対話研究所で講演をし、人文科学名誉博士号を授与された。そ
して次のように語った。
「10年前は不可能だったというのに、今このとき、プロテスタントと
カトリックが一緒に会合し、兄弟としてお互いにあいさつしまし
た。」
この同じスピーチの中で、グラハムは述べている。
「この学校を作った福音と、今夜私をここに来させた福音は、今もな
お救済の道です。」(67/11/22「ガストニア新聞」)
これと、グラハムが1957年に、カトリックの福音に“神の鼻の穴
の悪臭”という烙印を押した時の言葉を比べてください。(「名誉あ
る預言者」p.223)
1968年、グラハムはテキサス州のサン・アントニオでの会合に出
席した。グラハムは、今までローマ教会が、グラハムがクルースエイ
ドを開催した地区で、“驚異的な協力”をしてくれていると言った。
また、次のように付け加えた。
「今日、私たちへの援助の大部分はカトリックからのものである。私
たちは、聴衆の中に目立ってたくさんいらっしゃる僧侶と修道女なし
には、クルースエイドを開催することは“決して”できません。」
1985年、パウロ者国家カトリック福音伝道協会と、ティンダル・
ハウス出版社は、共同で、ビリー・グラハムによる一章を含む「成人
への福音伝道について、キリスト教徒はお互いから何を学べるか」を
出版した。その本は、プロテスタントとカトリックの、いわゆる福音
伝道における、もっと大きな協力を呼びかけており、ヨセフ・カーデ
ィナル・ベルナルダン、ロバート・シュラー、ビル・ブライト、ジャ
ック・ワイルツェン、他による記事も含んでいた。(「ローマとのた
わむれVol.T:ビリー・グラハム」p.31)
1991年9月22-29日、グラハムの提携者ラルフ・ベル博士の指導す
る「グラハム福音伝道協会セントルイス・クルースエイド」に、34の
ローマカトリック教会と300-400教区の希望者が参加した。クルース
エイドは、セントルイスの大司教区が共同スポンサーとなった。(
「ファンダメンタリスト・ダイジェスト」1992年3-4月号で報道)
その大司教区事務所のビンセント・ハイアーは、次のようにコメン
トした。
「ビリー・グラハムはいつも非常にエキュメニカル(世界教会運動
的)である。ビリー・グラハムは必ずしも人々を、何かの宗派に押し
込んだりはしないが、彼は何の宗派であろうと、協力を欲する宗派に
対しては励まそうとするのである。」
提携新聞記者デイビッド・ブリッグズは、91/9/22のビリー・グラ
ハム・ニューヨークシティ・クルースエイドについて、次のように書
いている。
「グラハムのクルースエイドの最後の呼びかけに応えた人たちの多く
が、‘キリストに帰依する人たちの大きなうねりがあるという印象を
与えるように、先導役を前に出させる’というテクニックによって動
かされている。」(ペンシルバニア州ハリスブルグ「愛国者ニュー
ス」91/9/20 p.1宗教欄で報道)
その大集会は、ローマカトリックの枢機卿ジョン・オコーナーに支
持されたが、彼は次のように言った。
「ビリー・グラハムの団体は、相談に乗る人を提供することと、カト
リックの信仰を実践したいという人たちを迎えるという点で、私たち
の助けを要請した。」
大集会で、グラハムはオコーナーと、地区大司教方の助けに対して
感謝した。グラハムは、ニューヨークでユダヤ教のラビたちに感謝を
表明した。
(グラハムはこう言った。「私を昼食に招待していただきまして、ユ
ダヤ教のラビ方に感謝したいと思います。200人ほどのラビが集まっ
て、私たちはパンを分かち合い、神のこととニューヨーク市のことに
ついて話しました。」)
メッセージの締めくくりに招待をするに当たって、グラハムは一人
一人に、あなた方の“洗礼誓約や堅信礼(※堅信礼=通例幼児洗礼を
受けた者が成人してその信仰を告白して教会員となる儀式)”を“新
たにする”ことによって、“主のもとに戻って来なさい”と招待し
た。(「ファンダメンタリスト・ダイジェスト」1992.3-4で報道)
[グラハムは“再確認する”ために、この同じアピールを、ローマカ
トリックの心臓部のノートルダム大学で1977年に開催されたクルー
スエイドで行った。
「あなた方の多くは、あなた方の堅信礼を再確認するために、今夜来
たいと思っています。あなた方は、あなた方が教会に入った時になし
た決心を再確認したいと思っています。」(学際的聖書研究研究所)
pp.75-76]
グラハムは、モスクワがまだソビエト連邦の一部だった1982年
に、モスクワで初めて説教をした。グラハムは
「92/10/23-92/10/25大集会」のために、ロシアに戻り、ロシア正
教のスポークスマンPatriarch AlexiUに会い、旧ソビエト連邦におい
て、人々を改宗させたことを“非難する”共同声明を発表した。(
「ファンダメンタリスト・ダイジェスト」1993.7-8)
グラハムとアレスキイは、モスクワの歴史的に有名なダニロフ修道
院での私的な会合での声明を発表した。グラハムは言った。
「私は彼に、私たちが人々を改宗させるためにここに来たのでないこ
とを保証し、また私が何度も正教会のゲストとしてここに来て、正教
会に滞在したことと、私が正教会を非常に愛していて、“人々が、自
分たちのルーツに戻ることを必要とし”ており、人々が聖書研究を非
常に重要視していることを信じていることを保証した。」(「バプテ
ィスト・チャレンジ」92/12で報道)(強調は追加)
道での説教、聖書の小冊子や他の福音文学の配布、外国の宣教師に
よる聖書関連物の出版は、ロシアではやはり禁止されている。その制
限は、グラハムが“非常に愛している”その同じロシア正教という宗
派が押しつけたものである。グラハムは、小冊子の分配が“不適切
な”活動であると述べている新しい法律に同意を表明したのである。
「今日のキリスト教」は、93/6/2-6に開催されたグラハムの3回
目のピッツバーグのクルースエイド(前回のクルースエイドは1952
年と1968年)について報道した。
「この努力は、1050の教会と65の宗派が集まったという、世界教会
運動的な協力によって特徴づけられる。参加者17万1500人、キリス
トに帰依をしたのはそのうちの1万2515人。寄付金が、145万ドルの
予算を18万ドル上回った。大部分がローマカトリック教徒のピッツバ
ーグでのクルースエイドは、クルースエイドの実行委員会に、6人の
カトリック教徒が入っていた。初期の頃のクルースエイドは、ピッツ
バーグのカトリック司教管区の役員たちは、招待に入れていなかっ
た。今回グラハムは、カトリックとプロテスタントの団体からの、8
人の司教・監督と役員に会った。」(「今日のキリスト教」
93/7/19)
93年9月、グラハムはオハイオ州コロンバスでクルースエイドを開
催した。クルースエイド前のテレビインタビューで、グラハムは語っ
た。
「(オハイオ州のコロンバスの人々について)あなた方は非常に善な
る人たちです。福音伝道はあなた方に必要ありません。実際、これほ
ど長い間、私たちがコロンバスに来なかったのはそのためです。」
TVニュースレポーターは、「グラハムは、あなた方が、どの信仰
から来たかは問題にしていません。考えていることは、それが何であ
ろうとも、あなた方をあなた方の信仰に連れ戻すことであり、あなた
方をその信仰に連れ戻す触媒として、クルースエイドを使うことなの
です」と言った。
他のレポーターは、「カトリック教会は、積極的な役割を果たして
おり、教区民をクルースエイドに参加するように誘っています」と言
った。(「コロンバス特報」93/9/19)
グラハムは、4万4000人に対する9/26の最後の説教で、質問をし
た。
「エイズは神からの天罰だろうか? 確信を持って言うことはできな
いが、私はそう思っている。」
2週間後、彼は、そうは言う気はないと言った。
「神が人々に、エイズによって天罰を与えたと言うことは大変間違っ
ていて、大変冷酷である。」
そして言った。
「私が言ったことに対して、非常に申し訳なかったと言いたい。」
(「ブルーミントン・ヘラルド・タイムス」93/10/10)
グラハムは、また、「クレーブランド・プレイン・ディーラー」
に、「私はそれは信じていません。また、なぜ私がそう言ったのかわ
かりません」と語ったのである。
92年3月の北朝鮮への5日間の訪問で、グラハムは一つのプロテス
タントの教会と、一つのカトリックの教会で説教した(北朝鮮に入る
のを許されたのは、たった二つの教会だけ!)。
彼は法王からのメッセージを伝え、政府の承認を得て語った。グラ
ハムは北朝鮮のマルクス主義者金日成の“和解と平和”への呼びかけ
を称賛し、金日成は「国家主権を守ろうとする韓国の長い戦いを評価
するようになった」と言った。
ABCの“グッドモーニング、アメリカ”(92/4/6)で、グラハム
の旅について話したとき、グラハムは、北朝鮮の人々は“リラックス
していて幸せ”に見えると語り、彼らが金日成の80歳の誕生日の準備
をしていることについて特に言及し、金日成についてグラハムは、ほ
とんど国民の“おじいさん”のようだと言ったのである! 金日成は
グラハムの一行に“大変豪華な昼食”を用意してくれ、昼食の間、金
日成は“とても温かく親しげ”だった、とグラハムは語った。しか
し、グラハムは言った。
「なぜ北朝鮮に招かれたのか全然わからない」と。
「私には考えがあります。」
と、「ザ・ロフトン・レター」のジョン・ロフトンは言う。
「グラハムが、北朝鮮と当時共産主義のソビエト連邦のような所に招
かれたのは、彼が、現実通りに語らないことが期待できる、レーニン
が“便利なばか”と呼んだ“かも”だからである。」
グラハムの旅は、最近国連に加わり、現在イランに対して強力な
“テロ兵器”を売る契約をしている無神論者の北朝鮮にとって、明ら
かに莫大な宣伝価値があるものだった。(「カルバリー・コンテンダ
ー(ゴルゴダの競争者)」92/5/1と「クリスチャン・ニュース」
93/2/22)
[グラハムはいつも、聖書よりも、共産主義を高く評価しているよう
に見える。かなり前、グラハムは次のように言った。
「毛沢東の八つの訓戒は、基本的に十戒と同じである。事実、もし学
校で十戒を読めないとしたら、私は毛沢東の訓戒を据えるだろう。」
(「Gothardism Evaluated」)1988,p.16]
グラハムは、偽キリスト教徒、ヒューマニスト、無神論者、ニュー
エイジャー、東洋のえせ宗教家などの混合である、ウィリアムズバー
グ・チャーター財団(WCF)の後援者である(グラハムは88/6/25
の署名式で基調演説をした)。その団体の明言されている目的は、教
育における宗教的寛容さである。
他の“福音伝道的”署名者であるグラハムの後援者は、ジェーム
ズ・ドブソン、ビバリー・ラハイェ、チャック・コルソンである。
[WCFはもはや存在しない。しかし、カリキュラムは“新しい”団
体、ニューエイジャーのチャールズ・C・ヘインズ博士率いる“ザ・
ファースト・リバティー・インスティテュート”に渡された。(ファ
ースト・リバティーは、もともと、ウィリアムズバーグ・チャーター
財団のための、“国家の教師養成と至れり尽くせりの福祉センター”
として計画されたジョージ・メイソン大学にある。そのニューエイジ
とワンワールドカリキュラム“私たちの深淵な違いと共に生きる:他
民族社会の中の宗教的自由”は、宗教と公立教育に関する国家協議
会、リバティー・インスティテュート・オーガニゼーションによって
国の公立学校に提出されており、カリフォルニア州教育委員会に受理
されている。)]
「ヒューストン・クロニクル」の1993年の論文で、ビリー・グラ
ハムは、左翼のリベラルな大統領夫妻であるビル・クリントンとヒラ
リー・クリントンに対して、好意的なコメントを寄せている。
「大統領ビル・クリントンは偉大な福音伝道師になるでしょう。」
と、ビリー・グラハム師は「USニュース&ワールド・レポート」
に、最近のインタビューで語った。グラハムは、クリントンのカリス
マと、信じられる何かに感銘を受けたと言った。聖書の観点から、私
たちは、罪と不道徳を離れ、善と正義の方向に向かうべきである。グ
ラハムは言った。
「私たちは、隣人にとって必要とされるようにならなければならな
い。私は、クリントン大統領とヒラリーが、そのことに重要性を置い
ていることで、勇気づけられます。」
どのように? 軍隊の中に同性愛を流行らせることや、あなたの隣
人の赤ちゃんを堕胎するのを手伝うことか? それとも、クリントン
のニューワールドオーダーに対する熱意のことじゃないか?
グラハムが、聖書の“善”“正義”“道徳性”の正反対を代表する
夫婦に何かの言葉をかけるだけでも十分悪い。しかし、グラハムが、
クリントンがこれらの徳を強調していると考えることは、グラハムの
側の、今までの無知と自己欺瞞をさらしている。
グラハムは、クリントンが参加した最近の朝食祈祷会に出席した。
上院議員ケリーが、ヨハネ3章1-21節を(16節を飛ばして)読ん
で、「キリストは、“精神的な新生”についておっしゃっている」と
言い、そして、「“キリストの精神の中に、ヒンドゥー教徒、仏教
徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒”が会合し、“新しい
大統領と副大統領と共に新生がある”」と言った。ビリー・グラハム
は付け加えた。
「いつ私たちが、今日以上に精神的な時を持てるのか、私にはわかり
ません。」
グラハムの世界教会運動の、また別の証拠は、「USニュース&ワ
ールド・レポート」(88/12/19)での以下の陳述である。
「世界旅行と、すべての宗派の聖職者を知るようになったことが、私
を世界教会運動的な存在に形成するのに役立った。私たちは神学によ
って切り離されている。ある場合には文化と人種によって切り離され
ている。しかしそのすべては、私にとってそれ以上の意味はない。」
これは、グラハムが早くも1958年、言葉の無謬についての教義
を、単なる“理論”にまで引き下げ、“霊感についてのこの特別な理
論”が、キリスト教の正統派的信仰にとって本質的でさえあることを
否定した事実に照らして見れば、驚くに当たらない。(編集者へのビ
リー・グラハムの手紙58/11「エターニティ」誌pp.18-19)
1990年9月22日、ロングアイランドのナッソー・コロセウムでの
ビリー・グラハムのクルースエイドに参加した神父は、自分の経験を
次のように報告している。
「私は、ビリー・グラハムの妥協についてしばしば読みました。しか
し、その話のいくらかは誇張されているのではないかと思っていまし
た。今や、私の目の前でそれらは証明されました。報道されているよ
りももっと悪く……。私の結論は、ビリー・グラハムは人々を、さら
に2倍も、悪魔の子にしてしまっているということです。……重要性
は、神を信じることにあります。イエスについての若干の解説と共
に。しかしほんの少しです。……私たちは、罪の問題を扱う方法は、
“キリストを受け入れ、人生を改めて捧げ、堅信礼の誓い(またはあ
なたの教会でそう呼ぶもの)を新たにすること”であると知らされて
いる。私は私の目がほとんど信じられない。堅信礼の誓いが救済と何
の関係があるのか?……私自身の体験以上に、ビリー・グラハムの背
教について、私に確信させられた人は誰もいなかった。ビリー・グラ
ハムは、諸宗教の統一を示すために、彼の陣営にラビまで加えた。有
能な相談者がいないのが良くない。しかし、だとしても、教会での経
験が、再び生まれることと同じだと人々が信じるように導くのは、背
教の極みである。ビリーは妥協したのではない。彼はいかれているの
だ!」(「洗礼者の光の家」より。「危険な時」と題して再版
1991.3)
1991年初頭のイラクとの湾岸戦争の間に、ビリー・グラハムは、
ジョージ・ブッシュ大統領と一緒に、ブッシュ大統領のために祈るよ
うにホワイトハウスに召喚された。グラハムは、自分のスタッフ以外
で、ブッシュは世界中で最高の友人だと言った。また、戦争からおそ
らく「新しい平和がやって来る。そして、大統領が声明したように、
“ニューワールド・オーダー”がやって来る」と言った。(「クリス
チャン・ニュース91/2/4」)(強調は追加)
グラハムが俗世に合わせていることのさらなる証拠は、グラハムの
聖職者たちが、映画にPG(※親の許可が必要な成人向け映画)のラ
ンクづけをすることを求めたことである。(「ザ・プラディガル」)
この要求は、“よい子の‘宗教的’映画には見えないようなもの”だ
った。(「家族への焦点」誌90/4)
「現世的な画像に対する、このような第一次的で実際的な関心は、映
画が与えるかもしれなかった二次的な精神的利益もだめにする」。
(「カルバリー・コンテンダー(ゴルゴダの競争者)」91/2/15)
1986年アムステルダムで、ビリー・グラハム福音伝道クルースエ
イドのスポンサーにより、2100万ドルの費用をかけて、1万2000人
以上のキリスト教の指導者たちが、世界に福音を伝道する戦略を立て
るために集まった。グラハムは終わりの記者会見で、世界の福音伝道
を達成する唯一の方法は、キリスト教各派の世界的連帯(エキュメニ
シティ)の傘の下であることを公然と認めた。そんなに多くの参加団
体が、信仰の同一の基本原理を持つことすらできず、福音の定義につ
いて意見が一致しなかったら、グラハムはどうやって会議を指揮する
のかと質問されたとき、グラハムは答えた。
「福音伝道は、私たちがそれによって統合できるほぼ唯一の言葉で
す。……私たちの方法は違いがあるでしょうし、単なるメッセージで
さえ時々それについて論争になります。しかし、私たちが福音伝道の
必要があるという事実については何の論争もありません。……私は、
どの他の傘の下にも入れないキリスト教各派の世界的連帯があると思
います。」
このようにグラハムは、福音の内容そのものについて論争するであ
ろう人たちと一緒に、福音伝道に加わることを選んだのである!(
「CIB会報」1991.7と「ファウンデーション」1991.3-5で報道)
「A.D.2000福音伝道機関」からの最近のニュースは、ビリー・グ
ラハムが、新しい4人の名誉共同議長に任命されたということである
(他の3名は、ルイス・パラオ、キャンパス・クルースエイドのビ
ル・ブライト、韓国のKyun Chik Hanである。福音伝道自由教会の
ポール・シーダーが、様々な宗派・国家教会・地方教会からの200人
の中心的指導者たちから構成されるA.D.2000キリスト教指導者国際
連盟の議長を務める)。
「A.D.2000福音伝道機関」は世界教会運動的で、骨の髄まで妥協
しており、それどころかメンバーに何人かのニューエイジャーが入っ
ている(例えば、ジェイ・ゲーリーとロバート・マラー)。まだその
うえに、洞察力がなく十分な知識のない多くの信者がそれを支持し、
賛嘆し、参加している。この聖書に基づかない福音伝道運動は、ロー
マカトリック、正教会、カリスマ派、ペンテコステ派、全種類のプロ
テスタントを含む。多くの人は、その努力に参加している人たちの幾
百万人が間違った福音を説いたとしても、世界に福音を伝道すること
は不可能だということにまだ気づいていない。これは「A.D.2000福
音伝道プログラム」にとっては呪いとなり、祝福にはならない。
「ミッション・フロンティア会報」1993年7-8号はいう。
「この国際連盟の指導者たちは、A.D.2000と「超越運動」のビジョ
ンを共有している。[“あらゆる国民のための教会と、A.D.2000ま
でのあらゆる人のための福音”が彼らのスローガンである。]
彼らは、世界福音伝道キリスト教化省の“前線”の指導者・履行
者・活動家・用意者・動員者である。連盟のメンバーは、自分たちの
区民の関係者にリーダーシップを与え、様々なA.D.2000役員会、委
員会、(人的物的)資源ネットワークリーダーたちと精神的な相談をし
合う。彼らは、運動の目的の達成を見るためにあらゆる種類の支援と
資源を結集しようとする。」(強調は追加)
“あらゆる種類の”支援を求めるというのは、単に、グローバルな
福音伝道キリスト教化の“目的”に賛成すると主張するどんな団体で
も利用するという意味である。しかしこのような包括主義者的方針の
問題は、彼らが支援を得ようとする団体のうちあるものは、多くの非
聖書的信仰とおかしな福音を持っているということである。(「ファ
ウンデーション」誌1993.9-10号)
1993年3月、ドイツで行われた世界教会運動福音伝道クルースエ
イドの準備に当たり、グラハムは主要なドイツ政府の役人と高位聖職
者と会った。グラハムが会った人の中に、“国で最高位のローマカト
リック聖職者”カール・リーマン司教がいた。その会見の目的は、
“地方の司教管区に、クルースエイドの出張開催に参加する機会を広
げる”ことだった。報道ではこういう。
「リーマン司教はグラハム氏を温かく迎え、“今日、正教会、プロテ
スタント、カトリックをも含めて私たちを結ぶキーワードの一つは、
福音伝道である。”と言った。」(「ディシジョン」誌 93/1 p.19)
[ローマカトリック教と友好関係を結ぶ人たちは、多分めくら判を押
しているのだろう。しかし確実に、自らの友人であるローマカトリッ
クによって説かれた間違った福音にもめくら判を押すことになる。ビ
リー・グラハムが自分の福音伝道クルースエイドにカトリック教徒を
含め、カトリック教会に質問者を送ったとき、傍観している人たち
は、ローマカトリックは真のキリスト教に違いないと思わされてしま
った。福音伝道の指導者たちがローマと親交を結ぶときは、「カトリ
ック教徒は救済される必要があり、カトリック教徒は背信をやめるべ
きだ」という説教をすることが困難である雰囲気が作り出される。世
界教会運動の福音主義者たちは、真実と誤りの壁を破壊して、福音の
仕事の水を濁したのである。(「カルバリー・コンテンダー」
93/7/1で報道)]
「クリスチャン・ニュース」の編集者から、「グラハムがフリーメ
ーソンに加入しているのではないか」と言われていることについて質
問している大量の手紙を受け取った後、グラハムの聖職者集団のスタ
ッフメンバーが、グラハムはフリーメーソンのメンバーだったことは
ないと主張した(弱い調子の発表で、ビリー・グラハム福音伝道協会
は、フリーメーソンリーを、次のような理由で“非難した”。すなわ
ち、誰かがロッジに参加することで満たそうとしている欲求を教会が
満たさねばならず、もし夫と妻が、夫がロッジ会員であることや、誓
いを立てる必要性についてお互いに同意していなければ、ロッジに参
加することは夫婦間の亀裂を引き起こすので、それは聖書に違反する
ことになるという理由であった)。
しかし、グラハムの聖職者集団は、グラハムが1966年、33階級の
イニシエーション儀式に参加したことを認めた。グラハムの弁護者た
ちは、それが、グラハムがフリーメーソンリーの危険性について注意
するようになった理由だと主張した。
しかし、メーソンたちが、自分たちの儀式にあやしい人間を招待す
る習慣はない! だとすると、それはグラハム自身のイニシエーショ
ン儀式だったと推測できないか?
グラハムの著作「フリーメーソンリーの起源と教え」について最初
の調査をしているとき(ワシントンD.C.のHouse of the Temple
で)、ロバート・A・モーレイ博士は、そこに33階級のメーソン全員
のファイルがあると言われた。モーレイは、ビリー・グラハムについ
てのファイルはあるか尋ねた。図書館員は言った。
「あります。ご覧になりたいですか?」
しかしモーレイは、それが本物だという感じがしなかったので、
「今回は結構です」と言った。(編集者へのロバート・モーレイの手
紙「クリスチャン・ニュース」92/9/14)
オレゴン州ポートランドのフリッツ・スプリングマイヤーは、「ビ
リー・グラハムと聖書」という小冊子を書いた。彼はビリー・グラハ
ムが、血の誓いを立てた33階級のメーソンであるという証拠を載せ
た。この小冊子で、スプリングマイヤーは次のように述べている。
「ビリー・グラハムは、33階級メーソンである聖職者ジム・ショーの
イニシエーション儀式に参加した。これはショーが、キリストへの服
従により、フリーメーソンリーを去る前のことである。」(クリスチ
ャン・ニュース92/9/14)
ライス大学社会学者のウィリアム・マーティンは、5年間グラハム
の公認の伝記(「名誉ある預言者――ビリー・グラハム物語」
1991:これはグラハムの公認の伝記の2冊目で、もう1冊は、1966
年ジョン・ポロックによるもの)を調査した。マーティンはグラハム
を“リンドン・ジョンソンと裸で泳いだり、気後れなしに「プレイボ
ーイ」を床屋でめくったりできる普通の男。しかし彼は清潔な生き方
の見本でもある”と、性格描写をしている。
マーティンによる他の観察には、次のようなものがある。
(a)グラハムのキリスト教の形は、改心を得るための大量生産的ア
プローチを好み、感情と、極端に単純化した聖書に関する見解に頼っ
ている。
(b)グラハムは、金持ちで権力のある人たちに近づくことと引き換
えに、不注意に、宗教と政治を切り離す方向に歩みたがっている。
(c)研究によってわかったことは、グラハムの大集会で説教を聴い
て改心したという人のほとんどは偽の改心で、グラハムのクルースエ
イドの最後の呼びかけに応えた人たちの多くが、‘キリストに帰依す
る人たちの大きなうねりがあるという印象を与えるように、先導役を
前に出させる’というテクニックによって動かされている。
(d)グラハムは、主流派のプロテスタント、カトリック、他の疑わ
しい信仰と協力して活動しようという意欲について批判されている。
(e)グラハムは、マーティン・ルーサー・キング牧師と、周知のニ
ューハーフと、マルクス主義の賛同者を公的に支持した。
(f)グラハムの世界教会運動の達成目標は、新しい福音伝道雑誌
「今日のキリスト教」の創設と、全米福音主義者連盟(NAE)の初
期の頃からの重要な歯車であることに加えて、世界教会運動の青年組
織「キリストのための若者」の創設を含む。
グラハムは、91年8月27日にニューヨークにあるNCC(全米教会
会議)の本部を訪れ、NCCを以下のように称賛した。
「世界中で、あなた方以上に、私が今すぐ入った方が良いと思われる
団体はありません。なぜなら、私はあなた方について、私はあなた方
のために祈りますが、私たちは非常な興味を持って、あなた方が行っ
ていることに倣います。……私は自分がすべての教会に属していると
みなしているので、私はもうそんなに多くの教会の会衆に対して話し
ません。そして私はすべての人々を平等に愛していて、イエス・キリ
ストが主だと言う誰とでも友情関係を結ぶことに何の問題もありませ
ん。二十数年ほど前にその結論に達したことは、私にとって、大きな
救いでありました。」(「ファウンデーション」1991.6-8 p.34で報
道)
ビリー・グラハムは何十年間もカリスマ派の運動を愛しており、支
援をしてきた。1962年に、シアトルで彼らの会議で話をした後、彼
の写真が、“完全な福音・ビジネスマンの友愛”雑誌「ボイス」
(1962.10)の表紙に載っている。オーラル・ロバーツを福音主義運
動の共鳴者の主流に連れてくる役割を果たした人物は、ビリー・グラ
ハムだった。グラハムはオーラルを、1966年の終わり頃、「今日の
キリスト教」誌がスポンサーとなったベルリンでの福音主義世界会議
に招待し、そして1967年4月にオーラル・ロバーツ大学の開校式に話
をしました。
また、グラハムはオーラル・ロバーツとテレビの特別番組に出演し
た。ロバーツの粗野なビジョン、信仰治療、恥知らずな金集め計画に
ついては、何の抗議や警告の言葉もなかった。グラハムの「アムステ
ルダム'83」で、メインとなる二人の弁士は、韓国のポール(デイビ
ッド)・ヨンギ・チョーと合衆国のパット・ロバートソンだった。も
ちろん二人とも言葉に遠慮のないカリスマ派の信者である。(「新中
立主義U」p.30)
カリスマ派運動へのビリー・グラハムの恋愛関係は、今日も続いて
いる。グラハムは、“聖なる魂と世界福音伝道についてのニューオー
リンズ'87北アメリカ会議”での超カリスマ的な集まりに対して、短
いビデオであいさつと祝福の言葉を贈ったが、それは大変なファンフ
ァーレと共に紹介され、大きなスクリーンで見せられた。あいさつを
贈るように頼まれたとき、グラハムは正直にこう言うべきだった。
「いったいどうやって神がその混乱を祝福できるだろうか?」と!
しかし、その代わりに、彼はこう言った。(「おお、ティモシー」
特別号“インディアナポリスでのカリスマ派の混乱”)
「主に誓ってあいさつします! 今日、あなた方の偉大な会議に私も
出席できたら、どんなに素晴らしいことでしょう。しかし、ここコロ
ラド州デンバーで、私たちはクルースエイドに携わっています。私
は、あなた方の会議の目的について、あなた方と共に喜びます。そし
て、私は、あなた方の運動が、この国に精神的な覚醒をもたらすこと
にきわめて重大な役割を持っていることを神に感謝します。あなた方
の会議が神に大いに祝福され、私たちの主と救世主イエス・キリスト
の良き便りを広めるために、聖なる魂によって使われますように、と
いう私の祈りは、あなた方と共にあります。神があなた方すべてを祝
福されますように。」[!!!]
カリスマ派の“神の顕れの息子たち”という教義を広めている、非
常に影響力のある著作は、ポール・E・ビルハイマーの「王座への運
命」である。神性の拡大に関する“教会への神の目的”と題された章
で、ビルハイマーは書いている。
「この連合体は、単なる形式的・機能的・理想主義的な調和や関係を
超える。それは‘人格を持った諸個人の有機的な関係’である。私た
ちは新しい誕生を通して、原初の、宇宙的な家族の真実の一員にな
る。……」
ビルハイマーは、“聖なる魂”への個人的な奉仕によって“洞察
力”をいただいたと主張している。彼は結論づける。
「このように、新しい誕生を通して――つつしんで述べるが、――私
たちは、神性の“拡大”の一種である、三位一体の“血族の次”のも
のになる。」
TBNのジャン&ポール・クラウチは、1985年と1986年にこの本を
数千の数百倍冊発送した。彼らは今でも資金集めに発送している。こ
の本のはしがきは、ビリー・グラハムによって書かれたものである。
(「勇敢な真実のニュース」で報道)
ビリー・グラハムも、今日の指導的な“福音主義者”の非常に多く
の人によって信奉されているポップ心理的な福音に関して、“卑怯な
やり口”をとってきた。以下はその二つの例である。
(a)グラハムは、自己愛と他の人文主義的な概念を支持している研
究注釈(例えば、ロマ書12:3への研究注釈では「私たちの中には、自
分自身を低く考えすぎている人がいるので、健全な自己尊敬は重要で
ある。正直で正確な評価は、キリストにおいて、私たちの自己評価・
私たちのアイデンティティの基礎を知ることである」;創世記1:26
「私たちが神の似姿に造られ、それゆえ神の性質の多くを共有してい
ることを知ることは、自己評価のための堅固な基礎となる」)のつい
たスタディ・バイブル「人生適用聖書」を保証宣伝した(チャール
ズ・スタンレー、ハワード・ヘンドリクス、D・ジェームズ・ケネデ
ィと共に)。グラハムは「“人生適用聖書”は、キリスト教徒が、人
生を変える聖書のメッセージを自らの人生に当てはめるのを助ける偉
大な一歩である」と言ったとして引用されている。
(b)グラハムは彼の著作「人生の悩みへの回答」でこう述べてい
る。
「神への信仰は非常に非常に重要である。」
しかし、どうも不十分である。
「神はあなたが直面している問題のうちのあるものについては、あな
たを助けるために、有能な精神科医を使うことを選択されているよう
だ。……だから、もし根深い感情の悩みを扱うのに役立つなら、あな
たが精神科医や、訓練された心理学者の助けを求めることは間違って
いない。神へのあなたの信仰を止めないような人を捜しなさい。あな
たの牧師は、あなたの地区のキリスト教徒である精神科医を提案して
くれるでしょう。」
「ファウンデーション」誌は、適切に、ビリー・グラハムに反論す
る事例の概要を述べているようである。
「妥協の50年は、ビリー・グラハムの人気を増大させたが、精神的な
識別力と聖書についての確信の深刻な喪失の結果となった。妥協の50
年によって、ビリー・グラハムは間違った福音を説き、危険で非聖書
的な教義を教える何百万もの人たちとの親密な親交と協力をするよう
になった。ローマカトリック教会、正教会、プロテスタント教会が説
く間違った福音について警告することを彼が拒否していることは、許
せず、擁護できない。カリスマ派指導者のなかなか消えない火のよう
な教えの危険性について警告しなかったことは、何百万もの信仰者が
だまされることへのドアを開いた。妥協の50年は、ビリー・グラハム
を、世界平和を相互に求めるという基礎の上に、異教の指導者たちと
手を結ばせることにさえ導いたのである。」(「ファウンデーショ
ン」誌、1991年3-5月号、p.16)
これと違うようには書いてないとしても、ビリー・グラハムに関す
る、このレポート中の情報と、事実に基づいたその他の証拠は、以下
の情報源で見つけることができる。
(a)アメリカ教会連盟「ビリー・グラハム」:パフォーマー、政治
家、説教師、預言者
(b)クラウド,デイビッド「ローマとのたわむれ」Vol.1:ビリー・
グラハム 1992,48ページ
(c)ドゥレア,チャールズ「あるカトリック教徒がビリー・グラハ
ムを見ている」1967
(d)ダナム,ウィリアム・E“ビリー・グラハムの妥協”「ニュー
ス批評」74/5/8
(e)ユーイン,ウィルソン「ローマカトリック教会へのビリー・グ
ラハムの同化」1992,23ページ
(f)ハルス,エロル「ビリー・グラハム:牧師のジレンマ」1966
(g)パスレイ,イアン「ビリー・グラハムとローマ教会」19??
(h)ピーターソン,F・ポール「ビリー・グラハムとウォーターゲ
ート」1974
(i)ピカリング,アーネスト「聖書の分離」1979
(j)レイノルズ,M.H.「ビリー・グラハムと法王と聖書」
(k)ウェイト,D.A.“ビリー・グラハムの原則の素早いチェン
ジ”「今日のための聖書」6ページ
(l)「聖書の識別の聖務」改訂版94/1