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ねむりひめ

 旅館に着くとすぐに眠り込んでしまった君を残して、散歩にでかけた。東シナ海のマグロのように二百キロ近くも運転したのだから、君が疲れてしまったのも当然だ。

 夕暮れの空が遠くまで赤い。空の焦点がどこにあるのか、瞳はさまよう。海辺の街に特有の香りを運ぶ風が、大急ぎで駆け抜けていった。硬質の砂塵が後を追った。防波堤の上を歩けばセンシティブな舟虫達が敏速に逃げまどう。足の下に広がる浜辺には、もう誰もいない。所々黒くなった砂が波の足跡をうつしている。打ち上げられた海草。テトラポットの向こうでは、烏賊が一斉に墨を吐いたような色の水が、ゆっくりとうねっていた。コンクリートの壁からポン、と飛び下りると、海岸沿いの狭い道を横切って路地に入った。お土産物屋さんの店先で、貝殻のモビールがマリンスノーみたいに輝いていた。隣には帽子を被ったフグの剥製。紙箱に入った珊瑚。海の薫りのネックレスや髪止めもある。買って帰ろうかと思ったが、君の好みがウルサイのは蛸の足が八本あることよりも明らかなので、止めておいた。お店の前の自動販売機でレモンの飲料を買った。アルミ缶の冷たさが掌に心地いい。

 しばらく歩いて旅館の裏庭にたどりついた。古い木造で、白く削れた戸板が軋む、年老いた鯨。シロナガス鯨の歯を編んで作った扉を開けて中に入る。と思ったが、竹を編んだものだった。葉ばかりのツツジと盆栽のマツの間を通って進んだ。
「一つ、二つ。三つ」
 記憶を頼りに部屋を探した。二階の端から三つ目。君の姿は見えなかった。そこだけ明かりが消えていた。君は未だ眠っているのかしらん。夕暮れは空の隅に追いやられて、もう夜が来ていた。

 部屋に戻ると、君は未だ眠っていた。電気をつけたが起きなかった。軽い寝息をたてて、ラッコのようにまどろみまどろみ。座蒲団を器用に折り畳んで首の下に入れ、枕にしていた。シニョンを解いた髪が、緩い曲線を描いてケルプのように拡がっている。目覚めていたら進呈しようと思っていた清涼飲料の缶を開け、ちゃぶ台の上にあった陶器の湯飲みに注いだ。
「益子焼きかな」
 なんて独りごちてみるけれどホントはよく判っていない。飲料にはガスが入っているらしく、透明な液体の粒子が、ニュートリノにぶつかった水のようにざわめいた。

 飲み終わった缶をごみ箱に捨てた。君は未だ眠っている。龍宮城の主の一人娘といった感じで、起こすのが躊躇われた。枕元の鼈甲風の髪止めを拾って、湯飲みの側に置いた。部屋の隅に置かれていた新聞を取ってきて床に広げた。水は相変わらず不足していた。スリランカで女性の首相が生まれた。眉毛の長い老人が何か仕出かそうとしている。

 窓の外、星が光っている。瞬くなんて繊細な感じはなくて、一つひとつがホタルイカのように輝いている。星の光を背に受けながら、新聞を読み終えた。殆ど全ての記事に目を通した。映画の広告の宣伝文も、しっかり読んだ。こう見えても映画にはなかなかうるさい。目を向けると、君は未だ眠っている。新聞を丁寧に折り、ちゃぶ台の隅に置いた。新聞の角とちゃぶ台の角が平行になるようにした。湯飲みの側の髪止めをパチンパチンと玩んだ。聞こえてくる君の寝息は、カリブ海の浜辺のようにとても安らかだった。何の気は無く試みに、丸い額に手を置いてみた。うーん、熱はない。別に検温する必然性はないのだけど、無防備に露出された額を見ると思わず手をあててみたくなる。でも、君が眉間に皺を寄せて苦しそうな顔をしたので慌てて手を離した。君の顔に安らぎが戻った。薄く微笑んでいるようにさえ見える。鞄を探って着替えを取り出すと風呂を浴びに出た。

 大浴場は文字通り大きな浴場だった。展望窓硝子の向こうに、黒い海が見えた。夜になると、夏の海はアシカのような親しげな表情を隠し、俯いたトドのように不機嫌になる。漁火がはぐれた鰯みたいに頼り無く波間を漂う。湯は少し熱めで、皮膚の表面を激しく動き回った。シャンプーで髪を洗い、リンスもしっかりした。パール成分配合の、トリートメントもしっかりできる優れ物だ。洗髪が終わると、併設された小さな薬草風呂に体を沈め、歳の数だけ秒を刻んだ。十九秒フラット。そして、もう一度白湯に入った。風呂を出て体重を量ってみると普段よりも少し減っていた。べたつく簀の子の上で服を着替え、子供の浮輪程もある大きな扇風機の前で少し涼んだ。火照った頬に当たるパーム椰子の葉擦れが心地ち好かった。

 部屋の前でタオルをターバンにした。忍び寄るマンボウとなって、静かに戸を開けた。
「ナマステー」
 手を胸の前であわせ、インド風の挨拶をしながら部屋に入った。着物を着た女の人の背中が見えた。桜貝の色をした可愛いかんざしをしている。
「あ、あのぅ。お食事を、お持ちしました」
 仲居さんだった。山海の珍味を載せた盆を持っていた。
「はい、これは、その、インドなんです。ごめんなさい」
 返答につかえ、合掌したままわけの判らないことを口走ってしまった。
 仲居さんは袂で口を隠し、イルカの様に笑った。
「お連れ様、よくお休みですね」
 仲居さんの肩越しに見ると、君は未だ眠っていた。
「はい、車をずっと運転してくれてたから、疲れたみたいなんです」
「ほんとに、気持ち良さそうに眠ってらっしゃるから、お起こししようかどうしようかと」
 仲居さんは目を細めて青海亀のように君を見た。
「あ、そのままにしといたげてください」
 仲居さんは頷いて食事の支度を始めた。
「あの、お食事の方は……」
「しばらくしたら、目を覚ますと思いますから、並べといてくれます……」
 その時、ターバンをしていたことに気付いて、慌てて解いた。

 挨拶代わりに道中の話をしているうちに、仲居さんは蟹のように小気味よく、支度を済ませた。
「後は、お願いしてよろしいでしょうか」
「はい、どうもごくろうさま」
「では、ごゆっくり」
 襖がスタリと閉じられた。君は未だ眠っていた。いっそ起こしてしまおうか、とも思ったけれど、何人たりともこの眠りを覚ますを得べからずといった風情だったので、起こさなかった。胃の虫が、秋(とき)が来たよと、鳴き出した。

 海に棲む方々には余り詳しくないので、はっきりしたお名前は判らなかったが、赤身の魚のお刺身が美味しかった。君は未だ眠っていた。お吸物は薄味で、ほんのりと海の香りが漂った。これが風流というものかしらん。蛸の空揚げの紫蘇巻きを少し残してしまったけれど、全般的に見てよく食べた。

 食後の休憩ということで、未だ眠っている君の隣に寝転がって本をひろげた。古代日本語で書かれた本だ。三章ほど読んだ所で仲居さんがやって来た。慌てて起き上がって後片付けを少し手伝った。仲居さんは、ほんとによくお休みですねとしみじみと言いながら皿をまとめていった。
「彼女、ときどきこんな事があるんです」

 窓辺に腰を下ろして海を眺めていると、食事を運んできたのとは別の仲居さんがやって来た。蒲団を敷きにきたと言う。二人で蒲団を敷いた。君は未だ眠っていたので、仲居さんに手伝って貰って蒲団に寝かせた。眠っている人はどうしてこんなに重くなるのだろう。苦労して運んだ寝顔は、益々心地良さそうに見えた。カジキマグロのように運び甲斐のある荷物だった。
「お疲れになったんでしょうね。では、ごゆっくり」
 穏やかな笑みを浮かべて仲居さんは立ち去った。

 並べて敷かれた蒲団の一方で、君は未だ眠っている。もう一方の蒲団に寝転がって本を読んでいると、君の規則正しい寝息が聞こえる。遠くから波の囁きが聞こえる。二つのリズムは心地好い揺らぎを作り出しながら重なり合う。そして、眠気が柔らかな膜を作り始める。さてとばかりに起き上がり、髪をといたり、顔を洗ったり、寝る支度をした。部屋の明かりを落として、いつでも眠れる態勢を整え、枕元に明かりを引き寄せた。君が持ってきていた掌に収まるほどの目覚まし時計をセットした。本を開くと文字を追い始めた。

 もう、眠っている。君は未だ眠っている。深海の泡のような柔らかな闇に包まれている。潮風は波の音を載せる。鼈甲風の髪止めが月の光を浴びてアシカのように鎮座している。アシカのように鎮座して……

       ↓

     奇妙な夢……

 同船ノ老夫ノ談話ニ曰ク         船に乗り合わせたお爺さんの話
 泝艟薐南ニ漁夫トシテ有リ        −泝艟という漁師が薐南にいた
 或日独リ舟ヲ漕ギテ沖ニ至ル       ある日一人で船出して沖に行った
 三刻竿ヲ降スモ微魚ダニ懸ラズ      待てど暮らせど小魚一匹釣れない
 白陽天中ニ昇リテ波影緩緩ト凪グ     お日様は頭の上にきて波は静かだ
 艟ノ微揺ノ舟中ニ睡朦トシテ在ルニ    ついウトウトとしていると
 忽然トシテ眼前ノ波間ニ五色ノ霧生ズ   突然目の前の海面に虹が出た
 唖驚シテ見ルニ優ナル娥仙微笑シ招聘ス  綺麗な女の人が手招きしている
 其ノ豈ニ嬌ニ非ズヤ何ヲ以テカ是ヲ譬ヘン その美しさはたとえようもない
 娥仙ノ容ノ美ナルハ艟ヲシテ酔魅セシム  泝艟はウットリとなって
 艟ノ茫失シテ舟外ニ脚ヲ踏ミ出セルモ   船の外に足を踏み出した
 忽チ揺波ハ其ノ脚ヲ支ズシテ溜呑ス    当然沈みます
 恐怖シ噫声ヲ上ゲ覚醒シ夢ト知ル     怖くなって叫ぶと目が覚めた
 安堵シ竿ヲ矯メ将ニ帰ラントス      ほっとして竿を仕舞って帰る
 海路半バ果然波間ニ鮮霧生ズ       途中で果たして波間に虹が出た
 娥仙例ノ如ク招スガ行カズ        女の人が招くが行かなかった
 夢ニ見テ果ヲ知レル故也         夢に見てどうなるか知っていたから

       ↓
 頬に冷たいものがあてられるのに気付いて、目を覚ました。君の顔が笑っている。右手に缶入りの清涼飲料水を持っている。
「ナマステー。んふふふ」
 君の風呂上がりのつるりとした顔。頭にはターバンのようにタオルが巻かれている。
「ふぁ。おはよう。ユミちゃん。朝風呂……」
 寝惚けた頭で聞いたあたしの声に、君が答える。
「なにいってんの、アキちゃん。まだ夕方よ」
「……へ、夕方」
 起き上がって窓の外を見ると空が赤くて、綺麗…… いやいや、ここで綺麗だなんて感動している場合ではない。
「そうよぉ、アキちゃんここについたらすぐに寝ちゃって」
「君が何をいっているのか、あたしにはさっぱりわからない」
 思わず頭を抱えてしまう。あ、寝癖。いやだあ。
「やあねぇ、アキちゃんきっと寝惚けてんだわ。ほら、これでも飲んでしゃきっとしなさい」
 君が差し出したのは檸檬の飲物。
「うん……」とあたしは納得行かぬまま受け取る。
 パスッとプルトップを捻ると炭酸の音。
「お湯飲み取って」
 君が細長い手を伸ばすとちゃぶ台の上の焼き物を手渡してくれた。
「ども、ども」
 ゆっくりと注ぎ、缶をちょっと脇に置くと、両手でお湯飲みを持ってジュースを飲んだ。
「ねえ、アキちゃん」
 ちゃぶ台の上に方肘を突き、顎を支えながらあたしの様子を見ていた君が言う。
「ん……なあに」あたしは飲みながらもこもこと答える。
「どおしていつも缶ジュースをお湯飲みとかに移して飲むの」
「あたし、茶人だから」
「茶人……」
「風流でしょ」
「まあねぇ」
 君は、さあどうだかって顔をしてちゃぶ台の上を見ている。インド風タオル巻き上げをまだ頭につけている。几帳面に折り畳まれた新聞と、あたしの鼈甲風の髪止めが置いてある。お腹が鳴った。長時間ハンドルを握り続けてきたあたしの体には、未だ少し気だるさが残っているけど、もうすぐ御飯だと思うと嬉しくなってくる。
「晩御飯にはきっと蛸の紫蘇巻き揚げが出るよ」あたしは言った。

 (文中の漢文は『泙襍幻譚』五巻「漁夫泝艟」を参考にした)




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