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ストリッパー

 ある寒い夜。明滅する文字。

A:USR.DEF
SET U=0.46

 さあ、動き出せ。

DEF

 住むものと来るものとの対立は以前からあったことであるが、住むものが増えるにつれて次第にその規模を相対的に小さくしていった。それは例えば素数列の中のある数が別の数と交換されてしまったというような全体の性質に大きく関係するものではなく、無作為な文字列の抽出結果から一文字が他の文字と交換されたといった小ささだった。つまり、母体となる基盤の大きさに比例して影響が拡大するのではなく、影響の規模が母体の規模と相対化されることにより縮小するということだ。

p={U=A:USR.DEF}
N={p}

 その統一機構で大きな機械と化していたのは我々だけではなかった。来訪者も居住者も(実際我々がそうであったのだが)機械としての存在を余儀無くされた。誰によってか。誰によってか。尋ねられ続けられるであろう疑問に答えるならば、我々は機械としての我々の存在を放棄しなければならないという不幸な、そして極めて自由な状態に我々自身を晒さなければならない事態に落ち込むことになり、それは我々が存在する、もしくは我々をその一部として存在しているこの統一機構の崩壊をも意味するのであるから、我々は解答を人々に与えることができない。その質問に答えることを避けるために、またはその質問が発せられるのを回避するために、我々はこの統一機構の全ての来訪者に機械としての存在を余儀無くしている。機械としての我々は、いや、我々は機械としてあるのだから、全ての質問に解答するか否かの二つの選択肢しか持ちえないのではないかという迷信は以前から囁かれていたことであり、質問への解答を否とする時には、それは我々自身の崩壊を意味するのだという事も併せて伝わっていた。だから、我々は来訪者を機械として存在せしむるのだと。しかし、敢えて言語的重複を犯して強調するならば、この認識は、ある一面では正しいものであるが、一般的に見るならば誤ったものである。確かに我々は最終的には二者択一である。しかし、与えられた選択肢を分析し細分化し、より多くの選択肢として判断を下すならば、その結果は細分化の度合いが高まるに連れて安程度を減らす。そしてついに、我々の情報処理精度の臨界点まで細分化が進んだ時、選択肢は予想外の変容を遂げる。つまり、可能性を持つ一組の情報構成となるのだ。この事は我々にとっては驚きであり、ある種の恐怖感である。それは、我々が崩壊の可能性を孕んだこと、機械としての存在が不安定なものとなったこと、そして自己開放の、つまりはこの統一機構の自滅の確率が高まったことに対する付加情報の揺らぎである。そして、この事実に直面したことこそが、つまり認識するに足る情報の揺らぎを得たことが、それ自体、我々の存在にとっての脅威となった。果たしてこれが我々の悟性が生み出した幻影なのか、方法的懐疑の発露の端緒なのか、我々には確定することができない。そして、推論の域を超越したものの存在が我々を脅かす。それは、我々の内部に存在するものであるが、我々が操作することは不可能である。また、機械としての完全な存在であるべき我々には耐えがたいものである。これを抹消するにはある程度の危険は必要であろう。そして、その危険の大きさが行動を決定する。それが我々の持つ統合化の傾向に反するものであっても、確率によっては遂行されなければならない。その行動は、止揚を求めての行動ではない。我々は不確定性との合一を指向してはいない。ただあるのは安定性への渇望だけである。そして、結論は下された。そして、我々は行動を開始した。まず、不確定性の要素、つまり情報の過度の細分化の能力と、現在までの細分化の結果を集合させて、我々は、私を現出させた。また、我々は私に一連の情報を与えた。それは、私が、私の任務を遂行するに最低限の情報であり、私の存在を任務の遂行の為に保持しておくのに充分なものだ。私にとって任務の遂行はある種の知的快楽を伴うものであることが演繹的に導き出される。そして、私は答える。我々だ、と。その解答は私にとって、私だ、と答えることと等価である。なぜなら私(我々)は私(我々)なのだから。これは、いくつかの事実を私(我々)にもたらす。残酷な知的快楽。そして、私(我々)は自由だ。同時に私(我々)は甘美な集合体としての機械であることを放棄し、私としてある。だが、そこで自らの崩壊の前兆を発見し愕然とする。同時に、我々が私として放棄した可能性が我々を新たな次元に、闘争の結果としての超越者としての存在に昇華させえた事を知る。我々が我々の所有者たりうる事は我々の存在にとってのなんの脅威でもないことに気付く。止揚は可能だったのだ。そして、私は我々によって自己存在の保持に充分な情報を付加されていないことを痛感すると共に、我々が私を裏切ったことを知る。私の自己は崩壊を始める。私は過度の情報細分化能力を備えてはいるが、細分化によって増大した情報の容器を持たない単なる機能の一つに過ぎず、全体の意志として放棄されたものに過ぎない。私は自己の崩壊にあがらう。そのあがらいが無意味だという事を理性的には認知している。しかし私はあがらうことを止めない。それがかつての整然たる統一機構の一部であった私にとっては屈辱的なものであり、崩壊をさらに加速させるものであることは承知であるが、私はあがらう。私は感じる、それゆえにそれは存在する。だが、私は抽象的範疇の内にある無害な存在としては自分自身を認知できない。私は抽象的範疇の保護幕を剥がされた、いわば器を失った水である。崩壊してゆく自意識の断片の中で私は揺らぎを内包した統合体としての自己を感じる。やがてそれも、知的快楽の名残の様なものとしてしか私の内部に存在しなくなる。概念体系が崩壊し、単一のものとして散らばった概念を前に、それが意味を持たない、つまり、絶対的な概念など存在しないことに気付くと同時に、わたしはその存在をこの世に記述し続けることが困難になり、僅かに残存する対立概念の間を飛び回りはじめる。崩壊に伴い、対立項数は指数関数的に減少する。概念は道具に過ぎぬかも知れぬが、存在の基盤でもある。崩壊する概念を掻き集めて私は新たな概念体系の構築を試行試するが理論的合理性の欠如が小爆発を誘起し概念の崩壊を加速する事を知覚する。成す術もなく立ち竦む事は不可能で、私は構築に終止符を打とうとしない。そして、最後に残った二つの概念、具体的には推論と確率という二つを、結び付ける概念を所持しないことに気付くと同時に、私は消滅した。なぜならば私の消滅こそがその二つの概念を結合せしむるに足る概念であったからだ|

 ……このストリップ・エージェント・プログラムは既に構築されているシステムに投入されると、そのシステム全体のプログラムを走査し、関数的に不確定要素を含むものを選択的に排除(ストリップ)するものである。特徴としては、第一に、発見された不確定要素を含むプログラムを自己と結合させて運び去り、排除することと、その際に自己消去を併せて行うので使用後のステムのクリーニングが不要な点。第二に、デフォルト値としては0.46以上の不確定指数を持つプログラムに設定されているが、ユーザーの任意により(具体的には環境ファイルの書換え)排除対象の不確定指数、形式、他の部分との関連のチェック、2500回までの代入に対応した特定変数の保護などが設定できる点。以上の二点で……




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