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「瀟湘臥遊図巻」の幻想




 JR上野駅の前は雑然とした人混みだった。点滅する信号にも衰えることのない民衆の進行。横断歩道にのろのろと這い入ってくる車。動物園から漂ってくる腐敗した土の臭い。低く垂れ込めた空。クラクション――。かつていたことのある北京の大通りの様子が思い出された。絶え間なく鳴らされる自転車のベル。飛び交う声。喉に絡み付く痰を勢い良く吐き出そうとして思いとどまった。幻のように雑踏が遠のき、耳の奥で響いていた中国語がくっきりとした日本語に変わった。ここは東京だ。むせ返るような動物の臭いが立ち上ってくる。額に驚くほど大きな滴が落ちた。雨。あいにく傘は持っていない。東京国立博物館まで、駆けてゆけばそれほど濡れずにゆける距離だ。足元の舗装にはうっすらと土がかぶさっていて、雨粒の中で黒い泥に変わってゆく。また、あの街の音が立ち返ってきた。路は続く。街路樹の根元に痰を吐き、ゆっくりと歩きはじめた。


 目の前に湖が広がっている。江南の洞庭湖。瀟水と湘水、2つの河が注ぐ辺りである。視界の右隅には馬に乗って橋を渡ろうとしている人物と2人の従者が見える。細長い舟が何隻か、湖に浮かんでいる。なだらかに山が連なり、空とのあわいが曖昧に霞む。水面は山裾深くまで導かれ、谷の奥に消えてゆく。
 少し視線を左にやると、目の前に茂る木々が見える。叢の向こうには水面が広がり、霞む島影にはこぢんまりとした楼閣が点在している。山も湖も空も、かすんで区別をなくしている。ゆっくりと左へ視線をうつしてゆくと、眼下に樹木の茂る陸地が現われた。庵屋があり、細い橋がある。肩に荷を負う人物が左手へ向って歩いている。行く先には村がある。漁村だろうか。ここからでは、はっきりと見えないが、四手網らしきものを繕う人、竿を担いで家路につく人がいる。夕餉の支度のために水汲みをしてきたのか、軒先に瓶が置かれていて、傍に子供が立っている。漁が終わった気ぜわしい夕べの村。もう日が暮れる。村の左手から山の重なる辺り、奥へと侵食してゆく川で、置針をするのだろうか、1隻の小舟に乗った漁師が見える。川はさらに奥に源流を辿り、橋が見える。橋を渡って山道を登ると、寺院の影。さらに奥にはゆったりとした山影がかすんでいる。山の向こうは夕霞に沈んでいる。
 おぼろげな稜線を左手に下ると手前に重なった小さな丘が見え、大きな入江が広がっている。夕暮れの入江には数隻の舟が陸近くに浮かんでいるだけである。

 「ごめんなさい」
 肩にぶつかる人の声で目の前に広がっていた湖が霞んだ。ガラスの向こうに遠ざかって、変色した紙の上の墨になった。「瀟湘臥遊図巻」を見ていたのだ。縦30.0cm、横403.0cm。巨大な横長の画。南宋の乾道5・6(1169・70)年頃、舒城の李生という画家の手によるものである。南宋時代。北からの異民族の侵攻により、北の都、開封から、巡り巡って南の臨安へ移した時代である。李生が誰かということについては、舒城出身の北宗の名士李公麟だという説と、その子孫だという説がある。「舒城の李生、師のために瀟湘横看を作る」という乾道第一跋や、「李生」という呼び方が乾道あたりの時代では十分な敬意を表すものでないということから、李公麟の子孫の可能性が高い(鈴木敬『中國繪畫史』ー吉川弘文館ー)。だが、ここでは画家の素性は重要ではない。重要なのは画である。目の前に広がるこの眺めである。
 跋文には「雲谷師」が30年山河大地を行脚し、「心空及弟帰」、つまり隠遁したが、瀟湘に至らなかったことを残念に思い、依頼して描いてもらったのだと記されている(第七跋)。
 夢にまで見た瀟湘を画の中に作り出された仮想世界の中で訪れたのである。この画の英題は「Visit in Dream to Hsiao−Hsiang Sceneries」。「夢うつつの瀟湘の景色」とでも訳そうか。
 北宗の大画家、郭熙は『林泉高致』の中で、「今得妙手欝然出之。不下堂筵。座窮泉壑。猿聲鳥啼。依約在耳。山光水色。滉漾奪目。此豈不快人意。實獲我心哉。」、これが山水画を世人が貴ぶ本当のわけだと述べている。音を聞き、眺めることのできる景色が、名手によって幻出されるのが山水画の素晴らしさなのである。
 では、この幻想風景の中に再び戻ることにしよう。

 入江はまだ夕暮れである。彼方の山に沿って左に目を移してゆくと、島の影が見えてくる。夕暮れの鐘の音が聞こえる。桟橋が陸をつなぎ、人が集う村が見える。煙る山の奥には広大な空漠。手前には島とも半島ともつかない陸地が点在し、舟が浮かび、山の中には霞む寺院の影が見える。山の向こうにはまたしても空漠。左の方から靄が迫ってきている。そろそろ帰る時間だ。それにしても山の向こうに見えるのは何なのだろう。もう少しここに立って彼方を見続けることにすべきだろう。そうすればこの空漠、虚ろな空になにかが立ち現われてくるはずだ。

 蜃気楼という現象がある。ミズチ(蜃)という大蛤が気を吐いて楼閣を描くと考えられて名づけられたものである。地面や水面に接した気温が、何らかの原因でとても高くなったり逆に低くなったりすると、その部分の空気の密度が変化し、屈折率が変化するので、遠くのものが別の位置に見えたりする現象。蜃気楼にはいわゆる「逃げ水」のように下方に屈折してみえる場合(モンジュの現象)と、富山湾などで対岸の街が海の上に浮かび上がるような、上方に屈折してみえる場合(ビンスの現象)がある。このほかには、垂直な崖などが熱せられた場合に光の偏移が水平となる場合がある。日本では大部分が海岸で観測されているが、琵琶湖で見られた例もある。洞庭湖は夏季増水の際には長さ120km、幅96kmに達する。琵琶湖に比べれば海といってもよいほどの大きさである。この広大な湖と山々。大気の状態が整えば、蜃気楼が生じる条件は満たしているはずである。

 またしても、夕暮れの洞庭湖を見ている。昔、李白はこんな詩をうたった。

 洞庭西望楚江分
 水盡南天不見雲
 日落長沙秋色遠
 不知何處弔湘君

 湖の西のはてに目をやれば、揚子江が分流して注ぎ込んでいるのが見える。湖水が尽きる南の空には雲も見えない。日が沈み、長沙の町の辺りに冷たい秋の気配。病没した舜帝の後を追い湘水に身を投げた娥皇と女英のかなしみをどう慰めようか。

 今は瀟水と湘水が注ぐあたり、南の方角に目を向けている。しかし、限りなく広がる湖水は李白の時代と同じものであるし、水の女神になった湘君伝説は、まだ残っている。空気と水が重なる。夕闇が迫ってきている。
 左手の方向、東には首都臨安がある。蜃気楼の条件が揃い、幻が山の向こうに浮かび上がる。幻想の首都。霞の中に街の影が浮かび上がる。開封。あの街が見える。
 李白は「秋浦歌(其一)」で「行上東大樓、正西望長安」と遥か彼方の長安を幻視した。――この夕暮れの山の向こうに開封を幻視しよう。

 まもなく閉館である。正面のガラスケースの奥に、長大な画が横たわっている。中墨と淡墨を中心として使いながら筆を繊細に重ねて湖畔の景色を描出している。緩やかな、蛾の触角のような山をいくつも重ね、画面右下から左上へ向うラインを作り出している。水も山も空気も柔らかく溶け合っている。塗り残された山の上方の空にはもちろん、一点の墨跡もない。いわゆる「留白」の手法である。「留白」の中に描き出されているのは、蜃気楼という自然現象によって立ち現われた首都臨安。むろん、よほどの条件が揃わない限り800km以上も離れた街の像が屈折して見えることはない。そんなことは皆無だといっても良いぐらいである。しかし「蜃気楼」を文字どおり「蜃」の「気」が作り出した「楼」と考えるならば「留白」の中に都市の影を見ることも可能だろう。ともあれ、もし仮に臨安が見えているにしろ、「蜃」が気を吐いているにせよ、幻視されるのはかつての都なのである。異民族によって南に追われた人々が夕闇のなかで想いを馳せるのはあの北にある京(みやこ)なのである。そして、この幻想をより明確なものにしているのが、漁村の様子などの鋭いまでの細部の描き込みである。このリアルが水墨の画面と現実との接点、異界への扉となっている。扉をくぐることで、我々は湖のほとりに導かれ、「留白」のなかに幻想を見ることが可能となるのである。よい風景画は画中を訪れたり、眺めたり、遊び、暮らすことのできるものだと郭熙はのべている。そして画は「意境」にしたがって描かれ、見られるべきだとも述べている。この「瀟湘臥遊図巻」は「留白」の中の「気」に幻の都市を含んでいる。この都市は画の外からではなく、画の中に入り込んでゆくことによって初めて見ることが可能なのである。


 博物館を出ると雨はさらにひどくなっていた。またゆっくりと歩いて駅へ向かった。歩きながらいま彫っている木版画のことを考えた。単色の木版画である。墨の色が好きなので最近は単色のものばかりを作っている。単色の木版画では彫り出された線は限りなく自足的で明確である。緩やかにかすんで空白のなかに消えてゆくことはない。空白と線ははっきりと区別される。もし線があるならば、その線の奥には版木が見える。しかし、空白の部分の奥に版木の姿を見ることは難しい。構図の巧みさだけが救いになる。もっとも、刷られて紙面に定着するのは墨だけである。しかし、墨の奥に版木の存在を感じさせたい。画面全てに版木の「気」を満たしたい。だから単色の木版画を作るといつも、隙間なく画面を埋めてしまう。そんなことでしか版木の「気」を転写することができないでいる。「留白」は画面に筆を触れることもなく空白のなかに「気」を宿らせている。不器用なために筆に「気」を込めることすらできないので、版木の「気」を借りてなんとか描いている身には超絶した、画家の「気力」が感じられる。「留白」なんてものはできそうもない。空白を作れば無残に切り刻まれた版木の断片が亡霊となって墨の奥でもがき出すのが関の山だろう。もがくこともない死んだ版木が横たわるだけか。いや、空白を作らなくてもいつもお前は版木を殺しているじゃないか。
 ――そんな取り留めもないことを考えながら帰宅した。何日か後、中川幸夫の展覧会を見に銀座に行った。日頃の運動不足を憾みながら階段をのぼるといくつもの死体が壁に貼り付けられていた。この人も殺してしまったのだなと思いながら階段を降りた。
 その日は何か祭りだったようで、露天商が通りの両脇に並んでにぎやかだった。







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