《アルミ》の話
…建築の「素材」の話
きびしい建築、やさしい建築
…伊東豊雄「タクアン」と磯崎新「ラ・コルーニャ」の対比。
アートプラザ
…旧大分県立図書館の「転生」に伴なうリポート。
■≪アルミ≫の話他の工学分野や工芸も含めたもの作りの世界と同様、建築にしても、≪素材≫に対しての感覚というのは、実務を始めないと、なかなかわからないものなんだよね。逆にそれが分かってくると、建築の場合ならば例えば「矩計図(かなばかり=断面詳細図)」というのが、面白くなってくる。それは学生時代には訳の分からない図面なのだけれども、実務を始めると要するに、それが実際上のマテリアルと≪建築≫との1対1の対応関係を示している図面なのだということが、わかってくる。建築とは要するに…イマジナリーなそれを除いて考えるとき…、「実体としての各マテリアルを秩序だてていく」行為に他ならないわけ。デザインという言葉自体、その語源には「整理する、区画する」というような意味あいを含んでいるそうだし、その意味では渡辺誠が「建築家の基本は、片付けること」と語っていたことも、正しい。さらに言えば、その意味で建築とは完全に「ネゲントロピー」の系に属するものであって、自然界の法則に思いきり反しているものである。ただ、自然界において唯一≪生物系≫だけがネゲントロピックな系を自ら組み立てる能力があることを考えるならば、建築とは人工的にそれを追従しようとしている行為ではないかという想像力を持つことは自然なことで、それゆえ生物系とのアナロジーから建築的想像力を働かせるという行為は今も昔もポピュラーなことであるし、もしかしたらエコロジカルなそれも含めた意味で生物系との関係についてもう一度考えてみることは、来世紀の建築のひとつのキーワードになるかもしれないな、とも考えている。 ■きびしい建築、やさしい建築諏訪湖畔の伊東豊雄の「タクアン」(下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館)は、磯崎新氏のラ・コルーニャ(人間科学館)に構成が良く似ている。水に対して曲面壁を対峙させた点、その反対側にソリッドな壁を設けた点、周囲のGLよりも若干高い地盤に配置した点(ラ・コルーニャでは旧来の石切場跡、タクアンでは人工的盛り土のかたちで)、水側の右手前よりアプローチする点、等。 ■アートプラザ個人的に、60年代後半以降に大分に生まれ育った私のような場合には、磯崎さんの初期の作品は生まれたときからそこにあって我々の原風景を構成するものの一部でしたし、殊に旧大分県立図書館に関して言えば、その用途ゆえ最も頻繁に訪れた建物であったと同時に、それが優れた作品でもあったことから、自分の建築的体験の原初としても記憶されているものです。 レベルの細かな振り分けと大胆なトップサイドライトによって構成される中央ホールのダイナミックな空間は言うに及ばず、外部から数えれば都合4つもの階段やスロープを経由してようやく辿り着く一般閲覧室(現アートホール)の独特の「浮遊感」は、さながら本として抽象化されたミクロコスモスを抱えて飛び立とうとする宇宙船然としており、形容しがたい魅惑を持っていました。さしずめその宇宙船の操舵室であった3階の特別研究室(現建築展示室の北側の4室)も、閲覧室を見下ろしてさらに浮遊する感覚を与えると同時に隠れ家的な室でもあり、魅力的な場所でした。または、1階の書庫(現市民ギャラリー)からさらにペア・ウォールの間の階段を降りて行くときの恐ろしいまでの「暗さ」の感覚。それらは頭のなかに記憶の引き出しとして整理されるものではなく身体的な体験として刻まれるといった種類のもので、今回磯崎さんの原稿の中に第一次案を破棄して設計をやり直したきっかけが、ヨーロッパでの「全身体感覚が、その闇の空間へと溶解していく」啓示であったとの種明しがされていたこと、大きく頷くことしきりです。 今回この建物が「アートプラザ」に「転生」するにあたり、選択された方法は、新しい素材やテクニカルな要素の安易な使用等に陥りがちな改装計画に反して、この建物の本来の姿への《還元》を旨としているという点で、ごく一般の考え方からすれば特殊なものであったかも知れません。外壁のコンクリートはどこぞのようにおしろいを塗り直すことをせず洗いにとどめられ、細かな仕切りや階段が取り払われたあと目に留まる新たな変化としてはプレキャストの階段程度のものです。平面計画上使いにくいに違いない3階全フロアを彼の建築展示室として半ば強引に使った点は天晴れというべきですし、廊下や階段室の床のリノリウムや壁及び天井のヘッシャン・クロスが当初の設計通りの姿で再生し、彩度を回復したのを見ることは大きな喜びでした。 一方で耐震等の対策から壁等が新設されたことは、そのダイナミックな構造計画が意匠上の大きな特徴でもあったこの建物にとって若干残念なことではありますが、構造的に明らかに無理のあったこの建物を補強するのに、北部分の水平力も南側耐震壁に負担させるなどアクロバティックな計画が実行され、闇雲に柱が追加されたり、阪神大震災後の高架柱のように鉄板巻きにされなかったことは良しとしなければならないでしょう。 いまあらためて竣工当時と現在の写真を見比べて驚くのは、竣工時には明らかにその建物が60年代を内包している、少なくとも我々の世代が知りうる範囲で言えば70年代の北九州の図書館などに受け継がれてゆくことになる暗く荘重な空間を持っているのに対して、現在の写真には明らかに現在がそこにあることです。付属物を取り払われ、床はモルタル金鏝押えで統一された空間は凛としており、新しい時代にも十分な受容力があるように見えます。恐ろしいほどの力をもった建築であると、取りあえずはまとめておきたいと思います。 |
最終更新日00/11/09